第10話 川の向こう



 二人はそれから数日かけて森林を進んでいった。

 リュミエレは怖がりではあったが、少しでも知識を得れば好奇心がそれを上回った。

 まったくの未知は、自分の傍に迫る限り恐怖でしかないのだ。だからリュミエレは一つずつそれらを克服していった。虫や、獣や、毒や、木々や草々も、好き嫌いは残ったが、恐れは押さえこんだ。何が命に係わるものなのか、優先順位についても彼女は理解した。子供が瞬く間に成長するように、彼女の変化はディノにとって郷愁に似た感情を呼び起こした。


「鳥の声が聞こえるわ」


 テペマに揺られながら、リュミエレは頭上を見上げる。

 森の深くに入ってからずっと鳥の声は届かくなっていたのだ。


「もうすぐ森を抜けるんだろう。川が近いんだ」

「本当に⁉」


 リュミエレは弾む声になったのは、慣れたとは言え森の中に苦手なものが多いからだろう。


「地図上であの広さの川なら、さぞ大きいんでしょう?」

「そうだな。場所によっては対岸が見えない」

「すごい!」


 彼女は両手を叩くと、首に提げた笛を取る。もうすっかり習慣になっている確認だ。笛がひゅんひゅんと軽い音を立てる。

 しかしそこで彼女はいつもと違う反応を見せた。考えこむように口元を押さえる。


「……反応があったわ」

「本当か!」

「それも、領域ではなく神獣の」


 二人は顔を見合わせる。

 神獣だけが見つかるということ、それはつまり領域からはみ出ているものがいるということだ。ディノは緊張を覚えつつ女に確認する。


「方角と距離は?」

「こっち。範囲ぎりぎりのところ」


 彼女が指差すのは南東だ。そして範囲ぎりぎりの距離ということは――


「……対岸だな」


 いささか面倒な状況だ。リュミエレが無邪気に首を傾げる。


「川を渡れる? 橋とかはなかった気がするけど」

「ない。橋をかけられる川幅じゃないからな」


 そんな会話をしてしばらく、ようやく森の終わりが見えてくる。木々がまばらになり、低木と草がそれに取って代わった。見えてきた水面にリュミエレが感嘆の声を上げる。


「すごいわ……」


 広がる川は、地図を知らなければ外海のようにも見える。

 少し白みがかって見える青色の流れが、どこまでも続く景色は壮観だ。低木を抜けるとディノはテペマを停止させた。リュミエレが座席から急いで降りて、川岸へと駆けていく。


「危ないぞ、君」

「水に落ちたりはしないわ。少し手をすすぎたいだけ」


 リュミエレはここまでの間、汚れることに嫌悪感を見せなかった。体に入るものや傷口の清潔さは注意深かったが、何日も森で暮らしていて当然積み重なっていく不自由さに嫌な顔一つしない。それでも久しぶりに大量の水を見たとあってか興奮気味だ。


「別に落ちることは心配してない。そうじゃなくて――」


 リュミエレは川縁まで辿りつくと水面を覗きこむ。彼女の姿を映すように、ゆらりと水面に影が差す。


「その川には、人を食う大魚がいる」

「え?」


 ばしゃり、と水面が跳ねる。

 身を屈めていたリュミエレの体を、走ってきたディノの手が引いた。

 彼女の細い体が尻餅をつくようにディノに倒れかかった直後、水面から現れた大きな口が、二人の目の前を通り過ぎていく。

 青い鱗に覆われた体は丸太に見まがうほど太く、ぽっかりと開いた口にはぎざぎざと鋸のような歯がついていた。

 唖然とした顔でそれを見送ったリュミエレは、遅れて悲鳴を上げる。


「い、い、今の!」

「嚙み千切る力は強くないんだ。ただ水中に引きずりこまれる。水を飲みにきた動物をそうやって食べるんだ」

「あんなのがいるの⁉」

「いる。たくさん」

「だから橋がないの⁉」

「そういうわけじゃないんだが……」


 ディノは一面に広がる川を見回したものの、目的とするものはない。諦めて彼女に言う。


「どの道、神獣の反応は対岸なんだろう? ここを渡らないとな」


 それを聞いたリュミエレの顔は、これ以上ないくらい絶望のものだった。




 二人は森の木々がある場所まで戻って、野営の準備をした。

 今までは山火事にならぬよう焚火にも細心の注意を払って来たが、森が終わる箇所とあって少し大きな篝火にもできる。リュミエレは木と木の間に挟まって休むテペマの体から、くっついた葉を取っていった。


「川岸の方が休みやすそうなのに、ここでいいの?」

「さっきの魚は少しの距離なら陸にも上がれるんだ」

「もっと下がりましょう! もっと!」

「さすがにここまでは来ない。多分」

「多分ってなんで」

「死人は証言できないからな」

「もっと下がりましょう!」


 リュミエレの訴えは悲痛だが、事実は事実だ。ただ今は事情もある。

 ディノは火が安定した焚火の中に、白煙を上げる種の枝葉を入れていった。

 ちょうど風の日だ。白煙はもうもうと空へ立ち昇り始める。リュミエレはそれを不思議そうに見上げた。


「この焚火、いつもと違うわ」

「狼煙だからな。これで渡し舟を呼ぶ」

「舟……で渡るの? この河を?」

「皆そうしてる。それを生業にしてる者たちがいるんだ。四、五人が乗れる細長い船が行き来してる」


 リュミエレは軽い呻き声を上げる。よほど先程の大魚が嫌だったらしい。彼女はそこで、はっと気づいてテペマを見た。


「ルゥは乗れる?」

「……テペマが乗れる舟はほとんどない。ここに置いていくことになるだろう」

「そんなの駄目!」


 言わると思ったがなかなかに心が痛い。

 ディノは落ち着いて一つ一つ説明する。


「テペマは頑丈だし草食だ。辺りの草を食べて生き延びるだろう。それも二年くらいのことだ」

「水は? 川に飲みに行ってしまうでしょう」

「テペマは体が重いから引きこまれはしない」

「やっぱり噛みつかれるんじゃない!」


 当のテペマはお昼寝中だ。テペマを可愛がっているリュミエレはこう言い出すだろうと思ったが、なかなかにどちらかを立てればどちらかが立たない。


「テペマが乗れる舟が来るまで待つとなると、数日かかるだろう。それか、いったん森を出てオンジ峡谷まで迂回するかだ。あそこなら橋がある」


 どちらにしても時間はかかる。リュミエレはテペマを見た。

 彼女は顔を曇らせたまま首にかけた笛を外す。それを鳴らして場所を確かめた。

 見つかっているのは神獣だ。それを放置するのは危険だと彼女は考えているのだろう。迷う目を見せる。


「じゃあ――」


 彼女が出した答えは、明快なものだった。





 船を進めるのは人力だ。

 漕ぎ手たちが呼吸を合わせて櫂を漕いでいるのを、リュミエレは船の中央から心配そうに眺めていた。船縁に寄りつかないのは、大魚が近くを跳ねるのを一度見てしまったせいだろう。

 彼女はぴったりと座っているテペマの傍から動かない。船に乗ってからずっとそうだ。

 すっかり用心深くなってしまった女に、ディノはやや申し訳なさを抱く。


「心労をかけさせてしまったな」

「私が我儘言っただけだから。ありがとう」


 リュミエレは、狼煙を見つけてやってきた最初の舟に謝礼を渡し、「テペマが乗れる船を見つけて呼んで欲しい」とお願いしたのだ。その舟がもっと大きな船を呼んできてくれたのが翌日で、最速で渡河にかかれたと思う。その間彼女は、大魚に怯えながらも森際で野営をしていた。

 頭が回って、情が深い人間なのだと思う。

 ディノはそういう人間を他にも知っている。マイアスティだ。

 そのことが彼の心情に何かの変化をもたらすわけではないが……彼女の優しさを守るべきなのは、同伴者である自分だとも思う。

 ディノは、テペマに寄りかかって座っているリュミエレの隣に立つ。


「テペマは死ぬとまたテペマになるのだという。テペマ飼いの間では有名な話だ。テペマは教えずとも人と生きる決まり事を分かっている固体が多い。それは前もテペマだったから、という話だ」

「寿命が短いから、もしそれが本当だとしたら救われる気分になる人は多いでしょうね」

「君の考え方は?」


 水を向けると、女は苦笑する。


「私は、死んだものは次の世界へ行くんだと教えられたわ」

「死後の世界か」

「いいえ。次の、また別の生き物がいる世界に生まれる。そこで死んだらまた別の世界へ。今この世界で生きているものたちも、そうやって別の世界で死んでやってきたの。命は無数の世界を渡り歩いている――そう教わったわ」

「誰に?」

「誰にだったかしら」


 リュミエレは笑ったが、それは教えたくない笑顔だ。

 彼女は火が沈んでいく夜空を見上げる。星がいくつも動いている。


「神々も、そうしてもう次の世界に行ってしまった。……長く生きるものほど取り残されるわ」


 白い手がテペマの腹を撫でる。

 二人はそして日が落ちる前に、対岸へ辿りついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る