第9話 欺瞞
夢は見なかった。
目を覚ました時、空は既に明るかった。
彼は辺りを見回す。もたれかかっているのは大きな木のうろの中だ。うろはちょうど前に苔むした岩があり、外から中が窺いにくいようになっている。わずかな隙間の向こうにはテペマののっそりとした体が見えた。
ディノは隣を見る。そこにはリュミエレが彼に寄りかかって眠っている。彼女一人でここに彼を運ぶのはさぞ大変だっただろう。ディノは、自分の顔や首に触れて、血が固まりかけているのを確認した。
彼女を起こさないように動こうにも、うろの中はそう広くはないし、リュミエレは完全に半分以上彼の上で寝ている。夜をやりすごしたということは、しばらくこのままでもいいのかもしれない。彼は自分にかけられている毛布が、リュミエレの肩までかかるように引き上げた。
「ん……」
身じろぎをして彼女は目を開ける。
永い睫毛の下から朱色の瞳が覗いた。彼女は二、三度まばたきして、じっと彼を見つめる。
「ディノ……無事?」
「ああ」
軽い痺れは残っているが、しばらくすればそれも消えるはずだ。
リュミエレはそれを聞いて体を起こすと、盛大に安堵の息を吐き出した。
「よかった……何が起きたか何も分からなくて、あなたを見たら血まみれで」
「あれは虫の群れだ。巣の下に入ってしまったんだろう」
ディノも出くわしたのは初めてだが、「黒い布が落ちてくると思ったら虫の群れだった」という話は、大森林においてよく聞く話だ。指先ほどのほんの小さい羽虫が大量に、隙間なくまとわりついてくる。
「虫って……毒とかは?」
「あるが、死ぬようなものじゃない。体が少しの間動かなくなるだけだ」
まだ軽く痺れの残る左手を、ディノは開いたり閉じたりしてみる。
「それだけ? 本当に?」
「あの虫は死肉しか食べないんだ。だから獲物が死ぬまで噛んで毒で麻痺させ続ける」
テペマは皮が厚くて噛まれても毒は効かない。それもあって森での移動によく使われるのだ。そしてテペマに乗ってさえいれば、いつかは虫の領域から離れられる。深い森の中では時折聞く話で、対策も移動と煙だと周知されている。
だがリュミエレは一層慄いた顔になった。
「死ぬまでって……そんな生き物がいるの?」
「森だからな。他にも色々いる」
リュミエレは真っ青になる。その様子を見ると本当に何も知らないのだろう。
ディノは頭をぶつけないよう身を屈めながらうろをでる。テペマは岩の前で足を畳んで眠っていた。頑丈で短命がこの種の特色だ。その在り方は植物に近いと言われることもある。
「まだ朝だな。食事を取ったら出発するか」
テペマは、夜はたっぷりと寝かさなければならない。移動は原則日が出ているうちだ。そうして森を踏破したこともディノは何度もある。
だがそこで彼は、今は一人旅ではないことを思い出した。忘れていたわけではなかったが、意識から抜け落ちかけていたのだ。彼はリュミエレを振り返る。
「疲れているなら、ここで一日野営をしても――」
「だ、大丈夫! 出発しましょう、できるだけ早く!」
彼女はあわてて腰を浮かせるとうろを出てくる。きょろきょろと辺りを見回す顔には怯えがあった。どうやらすっかり森が怖くなってしまったらしい。何度も服についた土を払っているのは、その中に目に見えない虫がいるかもと思っているからだろうか。
リュミエレは彼を見上げると、目をとがらせる。
「今、笑っていなかった⁉」
「笑ってない」
「ほんとにほんとに怖かったのよ⁉ もう起きないのかもって不安になったのよ⁉」
「悪かった。笑ってない」
微笑ましいとは思ったが、面白いと思ったわけではないし心配させたのは事実だ。ディノは食事の支度をするために、テペマが背負ったままの荷物を解き始める。
「ディノ⁉ ちゃんと聞いてる⁉ ここでご飯食べても平気なの? 虫はいない⁉」
「虫はどこにでもいるから諦めて食事を取る」
第一、一日やそこらで抜けられるような広さの森ではない。リュミエレもそれは分かっているのか、泣きそうになったのをぐっと堪えると支度を手伝い始めた。お湯を沸かし、塩漬けの肉を入れてスープにすると、干した果物と保存用のパンで食事にする。
リュミエレはずっとびくびくと周囲を窺っていたが、温かいスープを飲むと人心地ついたのかようやく肩の力を抜く。
「……ごめんなさい」
「謝らなくても。俺があらかじめ言っておかなかったせいだ」
もっとも森での危険は山ほどあるので、命の危険がないものは優先度が低い。ディノを襲って来た虫もそうだ。木の器を両手で抱えたリュミエレはかぶりを振る。
「虫もだけど、それだけじゃなくて」
「あなたが眠っている間、色々考えたわ。どうして寄り道が嫌なのかなんて聞いてごめんなさい。踏みこみ過ぎだった」
リュミエレは軽くうなだれている。人付き合いに慣れていない彼女は、後から色々考えて反省に至ったのだろう。彼女は目だけでそろそろと彼を見上げる。
「また笑ってない?」
「笑っていたか? 悪い」
「もう! 私は謝ってるの!」
リュミエレが頬を膨らませる気持ちも分かるが、本当に微笑ましいと思ったのだ。
そして自分は、それに関しては怒っていない。まったくの他人に嘲られたのなら別だろうが、彼女は旅の同伴者だ。それくらいは疑問に思うだろうし、開示できるならその方がいいと思う。
ディノは乾いて固いパンをスープに浸す。
「俺も考えた。どうして問題を未然に防ぐことに割り切れなさを覚えるのかと」
自分以外が不幸になって欲しいわけではない。自分の喪失を声高に訴えたいわけでも。
自分と同じ目に誰かが遭って欲しいわけでもない。
ただ――
「自分が善人であろうとすることが許せない」
果たすべき責任を果たせなかった自分が、善人面をすることが耐え難い。自分はもう終わり果てている人間なのだ。なのに今更、何を、何故。
目先の相手に手を伸ばすのとは違う。「もうあんなことが起きないように」などと殊勝に言う自分が目の前にいたなら、殴り殺してしまうだろう。そしてそんな怒りを抱える自分を含めて愚かだと思っている。
「だから煮えきらない反応になった。君のせいじゃない」
己の感傷の一種だとは思う。彼は、苦笑になりきれぬ笑顔を見せる。
「他の《神遺領域》も回ろう。君がせっかく降りてきた機会だ」
それでいい。むしろそれ以外の選択肢はない。変に彼女に気を使わせる必要などなかった。
ディノは隣の女を見る。彼女は少女のような、泣き出しそうな目をしていた。
手元の器からじんわりとした温度が伝わってくる。
「いい機会だ。俺自身の感情は脇に置くべきだ」
「ディノ」
「ずっとそうだった。目を背けていただけだ」
そして自分ではない誰かを巻きこんだ以上、もう同じようにはいられない。のみこむべき時が来たのだ。
彼は、少し柔らかくなったパンを食べ始める。
リュミエレはしばらく無言でいたが、ぽつりと彼に言った。
「あなたは、あなたの思うように生きていいのよ。それがたとえ復讐であっても。蟠りを我慢しなくていい」
それをしていいのは、一人で生きる人間だけだ。
今はもうそうではない。けれどディノがそう言えば、リュミエレは己がついてきていることを気にしてしまうだろう。
やんわりと言いくるめようと考える彼に、女は続ける。
「でもあなたは多分、そうしたくないとも思ってる。だったらこう考えてみて。あなたは、あなたの主人がいない今でも、彼女が喜ぶであろうことをしたらいいんじゃないかって」
ディノは口に運びかけていた手を止める。
記憶の中で、少女が微笑む。
『ディノ、聞いて』
マイアスティであれば、きっと「行って、人を救え」と言うだろう。
考えるまでもない。そういう人間だった。
だからディノが自身のこれからを許せなくても、マイアスティなら許すだろう。
そう、思えばいいのだ。
彼は視線を伏せる。自分の手が軽く震えていることに気づくと、唇の両端を上げる。
「……そうか。そうだな」
いつか死ぬ日まではせめてそれで。
彼の主人は、本当にはもう何も命じてくれることはないのだから。
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