ホルマリン漬けの愛
揺 赤紫
―本文―
私は腕の中の彼に笑いかける。ソファに座って読書していた彼が気づいて顔を上げた。同い年なのに少し童顔っぽい。私よりも目が丸くてまつげが長いの。キョトンとする表情に抑えきれなくなって顔が崩れた。
「どうしたの?」
「幸せだなって噛み締めていたところ」
耳を噛んで親愛を表現するとくすぐったそうに「やめてって」という声が聞こえる。だって好きなんだもん、仕方ないよ。いつもそう教えているからそれ以上は言わない。癖のない、さらさらな黒髪をすきながら本に視線を落とす。
喪服の男性と棺桶の写真がすぐに目に入った。
「葬儀の話を読んでるの?」
「うん。エンバーミングの勉強だけじゃ飽きるというか」
仕事に戻れるかな、と冗談まぎれの口調でサイドテーブルのコーヒーを飲んだ。彼は葬儀屋で働いていたんだけど、キャリアアップのために専門学校に通っている。その間は主夫をしてもらえるし、私の稼ぎで養うのに問題なかったから諸手を上げて喜んだよ。
勉強だって学生時代から優秀だからただの謙遜って分かる。こういうところがお茶目って思うところ。理想の旦那さまだ。
「
「そうだよ。患者さんも容態が落ち着いているから、ピッチの呼び出しもないと思う」
「大変だよね、医者って。俺は精神力が保たないかも」
そうかな、あまり苦に思ったことはない。でも、よくよく思い返したら医学生時代に血を見て倒れる子がいた。注射で吸い上げられる血で、だよ。
でも、彼はご遺体を扱っているからそんなことは気にしないだろうし、生物の授業で楽しく解剖をやってたはずだから、適性はありそう。
「意外と仕事に慣れそうだよ、
「うーん、人の治療には興味ないな。死体なら興味あるけど」
くすりと笑う彼は本当に楽しそう。そうだよね、ずっと一緒にいたから気持ちは分かるよ。大好きな私の旦那さまは世間から見たらちょっと変わってるかもしれない。
そんな彼に近づきたくて。私も頑張って努力したんだ。時計の針はそろそろお昼。まだお腹は空かない。
彼は立ち上がってキッチンに行く。
「ご飯は何がいい?」
「軽めがいい。手で摘まめるくらいの」
「もう少し食べないと痩せるよ」
「動けるから大丈夫だよ」
別にガリガリな訳じゃない。標準体重の範囲内だから彼の心配は杞憂だもん。
あ、気にしているのは胸のサイズが落ちたからかな。真っ先に減る部位だから仕方ないよね。
特に言い合いにもならずサンドイッチを食べて出勤時間になった。
地下鉄に揺られている間、スマホでGPSを確認する。彼は途中で近くのスーパーへ買い出しをしてるみたい。LINEの通知で『夕ごはんはだし巻き玉子を作るね』って文字が見えた。
すぐにアプリを開いて『大根おろしもよろしく!』と返事をする。
停車駅に着いたからスマホはしまって眼鏡を掛けた。度は入っていない。UVカットレンズなんだ。紫外線で老化してしまうから、目のケアには気を遣っている。
病院内は忙しない。ロッカーの白衣を羽織りながら彼のことを思い浮かべる。ちゃんと家まで帰ったかな。魅力的な旦那さまだから、誰か他の女性に声をかけられたらどうしよう。プロポーズの時に『絶対君だけを見つめているよ』と言われたけど、それがウソになっちゃったら?
発作的にスマホを触りそうになって手を抑えた。ここは職場、素を見せる場所じゃない。
それに約束は守る人だもん。私の旦那さまを、信じなきゃ。
「安部先生、ケースカンファレンスお願いします」
「ええ、分かったわ」
看護師に声をかけられて切り替える。柔らかい私を閉じ込めて、医師としての仮面を被った。
* * *
徹夜明けの空は目に染みる。カロリーメイトが口の中でまだ踊っているから飲み込んだ。エナドリ飲めればよかったんだけど、今はカフェインは厳禁だ。
今日は定時まで診察をして、それで退勤か。あくびをかみ殺してスマホを起動する。
GPSは切られていた。
え、どうして?
どうしたの旦那さま?
私のことが嫌いになったの? なんで?
血の気が引いて動悸が激しくなる。
「先生? 大丈夫ですか?」
年上の看護師長に目を付けられて、慌てて笑顔を造る。
「大丈夫。少し立ち眩みがしただけだから」
「仮眠室で少し休憩されてはどうですか。体調には気を付けないといけない時期でしょう」
立場上は医師の指示に従う看護師だけども、古株の人たちには若者でしかない私はおとなしく頷いた。実際は彼女らの方が断然権力が強いんだ。
うとうとしていたら中学生の頃の旦那さまとの思い出が浮かんだ。
『どうして俺に引かないの?』
『好きだから』
彼は『ふーん』と興味なさげに釘を昆虫の胴体に刺している。周囲に散らばった同じ種類の虫達は無惨な姿でぐちゃぐちゃ。
小学校の時はただ見つめるだけだった。微妙に集団に馴染めない彼は、校庭の隅でアリの巣に酢を入れたりして教師に怒られていたっけ。
だから、進学したら校外の林で実験を繰り返すようになったんだ。成績はいいけど、周囲から浮き世離れしているって女子にもちょっと気持ち悪がられていたかな。蛙の解剖とかにこにこしながら参加していたのもあったかも。
でもね、私はずっとそれでも彼を見続けていた。綺麗だったから。私にとって彼はとても純真無垢で、綺麗だったから。理屈なんかない。そう、ただただ思ったから。
一時間くらいそうしていたら、彼は鬱陶しいと思ったのか釘を持って私に向ける。
『邪魔なんだけど。その目、これで潰そうか?』
ああ、それは素敵だな。彼に私の一部をあげることが出来るなんて、とっても素敵だな。
『いいよ』
そう答えたら不審な顔つきになって彼は私の体を上から下までじろじろと観察する。
『……顔は悪くないし、骨格もしっかりしてるよね』
そうなのかな。自分じゃ、よく分からない。勉強はできるだけの女だったからお洒落とはほど遠い。やりたいこともなりたい夢もない、冴えない人間だった。
でも、私はすぐに夢を見つけたんだ。彼の不意の笑顔は今でも鮮明に覚えてる。
『ねぇ、だったら、死んだら俺に体ちょうだい』
『え?』
『俺が好きなんでしょ? なら、ずっと標本としてそばに置いてやるよ』
目を見開いているとすぐ無表情になる彼。ああ、拒絶されたかと思ったのか。
私はそんな彼に抱きついて『いいよ』と伝えた。だってそれだけ大好きだから。私のすべてを捧げても構わないくらいに惹きつけられたから。
* * *
動悸が止まらないまま、私は自宅のドアを開ける。彼が既に帰っているのはスマホで確認したから、恐る恐る顔色をうかがう。
「お帰り……どうしたの、顔色が悪いけど」
何も分からない彼は首を傾げながらリクエスト通りな大根おろし付きの卵焼きを並べていたところだった。夢の中の少年だった彼は大人になっていて。私の想いは変わらなくても、もしかしたら変わってしまったかもしれないと思うとやっぱり不安は膨らんでいく。
「ねえ、今日、どこに行ってたの?」
「買い出しだけど」
「でも、GPS切ってたし……どうしたのかなって」
要領を得ない表情の彼は考え込んで「ああ」と納得した顔で笑う。
「学校で試験があったからスマホを切ったんだよ」
「それ……だけ?」
顔色を窺うと旦那さまは苦笑しながら私を抱きしめる。
「彩花以外には興味ないよ、今も昔も。それに、俺を愛してくれるのは彩花だけだよ」
頭を撫でられてようやく自分の心が納得するのを感じた。そうだ、だって今もあの時の彼の笑顔は変わらないんだから。
「死んだら俺にちょうだいね」
「うん。和也も、死んだらその目をくれるんだよね」
「もちろん、それが約束だからいいよ」
旦那さまの事を必死に理解しようとして、それで私も気が付いたの。私が彼に惹かれた理由は理屈じゃないけど、彼と同じような見方をしようって決めて。そうしたら、彼の目がとても魅力的に見えて。ずっと見つめてほしいと思ったの。先に彼が死んでしまっても、それだけで幸せだって。
だから医者になったの。合法的に死体に細工できそうな職業ってこのくらいしかないかなって。後で彼には詰めが甘いって駄目だしされたけど。
「それより、体調には気を付けてね、彩花。まだ初期なんだから」
「わかった。実感はまだないんだけど、ここにもう一人いるって不思議だよね」
ほっとして笑いながら私は彼の目を見つめ返した。
* * *
私は背伸びをした。初めての育児は大変だけど、娘はすごくかわいくて癒される。
すやすやと眠っているうちにベビー布団へ寝かせておかないとね。軽くおもちゃを片付けてトイレをすぐ済ませたらスマホを見る。
旦那さまは資格試験に合格して、再就職した。本当はとても心配なんだ。職場に女性がいたらって思うとブルーになる。
娘が「ふにぁあ」と欠伸をした。まだ言葉にならない声に少しだけ気分が上がる。かわいい。本当にかわいいな。
そうして夕方ごろに旦那さまは帰ってきた。スーツ姿でエコバックを提げている。そんな彼を見て、私が働けないのはちょっと心苦しくなった。
「
「うん、さっきまでは遊んでたよ。今は眠たくなったみたい」
微笑みながら娘を撫でる旦那さま。
「彩花に似てるね」
「そうかなぁ。顔の造りは和也譲りだよ」
「骨格の話。女の子だからね」
「この子も標本にしたいの?」
子どもの成長は早いからいつ頃が好きなのかな。確認しようとする私に彼は首を振る。
「まさか。俺は彩花のしか要らないよ」
そう告げる旦那さまに安心した。
――良かった、私が一番で。
ホルマリン漬けの愛 揺 赤紫 @yule-acashi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます