2
ハッと見開いた目に映るのは無機質な天井。大きく息をつきながら、手でシーツをまさぐった。いつものベッド。いつものシーツ。夢と現実の狭間で混乱していた脳味噌が、ゆっくりと覚醒していく。
ベッドに手をつき身を起こせば、そこは見慣れたいつもの六畳一間で、ソファベッドの下にタオルケットが丸まって落ちている。
「……夢、か」
呟き、安堵の溜息を漏らす。
「しかしまあ、なんて悪夢だよ」
そうだ。再度取材に行けと言われ、日程調整をして予定を決めて家に帰って眠りについた。そこで見たのがあの夢である。あの旅館、正確にはあの旅館で聞いた男の話なんて気にも留めていないつもりだったが、深層心理では随分と意識していたようである。時計を見れば深夜二時過ぎ。寝起きにありがちな口の中の粘つきに不快感を覚え、ベッドから出て口をゆすぎ、もう一眠りしようとタオルケットを身体に巻き付けてベッドに身を預けた。
目を閉じようとしたところで、ふと、机の上に置きっぱにしていたカメラのことを思い出した。
「……」
確かめてみよう、と思ったのは間違いなく夢の影響だろう。心霊話を信じている類の人種ではないが、それでも夢と聞いた話の奇妙な一致になんとなくカメラの中を確認してみたい気持ちになったのだ。
カメラの電源を入れ、画像一覧を開く。廃墟の写真がパッと映し出され一瞬ぎょっとしたものの、すぐにこれは前回取材に行った、旅館とはまた別の廃墟の写真だった事に思い至り、その程度の事に一瞬でも怯えた自分に乾いた笑いが漏れた。
「そんな都合良く心霊現象が起きるんなら、わたしはもっと大手でデカい記事書けてるよなぁ……」
ぽちぽちと写真を遡ると二ヶ月前の写真群に辿り着く。旅館の玄関口、廊下、個室、広間、中庭、そして男曰くの「夢の中で撮った心霊写真」の廊下。
この時一応その写真もカメラで撮らせてもらったんだよな、と何気なくその写真の写った一枚を拡大してみる。机の上に置かれた一枚の写真。その隅には黒い靄の塊が映り込んでいる。結局これは男による作り話だったのか、それとも何かの手違いか無意識で撮影した写真を夢で撮ったと思い込んだのか、どっちだったのだろう、と首を傾げたところで、わたしは写真の違和感に思わず身を強ばらせた。
男が見せてくれた写真は、現像されたものである。当然ながら現像された時に発生する縁部分の白い枠に黒い靄はかかっていない。当たり前の事だ。しかし、今手の中にあるカメラの映し出す写真は、黒い靄が写真の範囲を超えて白い縁部分にまで浸食している、そんな風に見えたのだ。
――それが、まるで夢の中で見た靄部分の焼け焦げた写真の様で。
わたしはカメラを弄り画面の明るさを調整する。見間違いだ、もしくは光の加減でそう見えているだけだ。自分に言い聞かせれば、そういう風に思えないこともない。その程度の些細な違和感だ。しかし、その違和感は気のせいで無視するにはあまりにも嫌な符号を伴いわたしの恐怖心を刺激する。
「そうだ、記事にもこの写真を載せていた筈……!」
慌てて部屋の本棚から旅館の記事を載せた雑誌を引っ張り出して中を大急ぎで確認する。
「……ああ、もう」
荒い白黒印刷の、大きくもない写真では細部を判別することは難しい。わたしは卓上ライトを引き寄せ、カメラの写真と記事の写真とを見比べた。
分からない。判別できない。……そう、言い切れたらどれだけ良かっただろう。
グレーに印刷された机の上に浮かぶ真っ白な四角の枠線、その内側も分かりにくいグレーの濃淡で構成されていて、その隅には黒い靄がはっきりと見て取れる。そして、白い四角の枠には、カメラの中の写真と同じような欠けは見て取れない――ように、見える。
「まさか……」
呟いて、雑誌を乱暴に机の上に放り投げてカメラをその上に置いた。
「まさかね。光の加減とか、印刷のミスでしょ」
自分に言い聞かせるように呟くが、腕に浮いた鳥肌は中々戻らない。タオルケットをきつく身体に巻き付けてベッドに飛び込むようにして横たわった。電気を豆電球にして目を閉じる。
恐らくわたしの気のせい、あるいは何らかのカメラの調子による異常。印刷ミス。ありったけの言い訳を脳内に呼び起こし、さっさと眠れるように意識して呼吸を深く、大きく吸った。
中々寝付けない、と思っていたが、いつの間にか寝入ってしまっていたらしい。そして、気がついたらわたしはまた夢の中に居た。目の前には、机の上に置かれた「心霊写真」がある。
今回の夢は明確に「夢を見ている」という自覚があった。気にしていることほど夢に見てしまう、ということなのだろう。
まるで映画のカメラワークのように視界がその「心霊写真」に固定される。黒い靄がゆるりと動き、膨らみ、そしてパン、と弾けた。
視界が黒く染まり、視点が切り替わる。
わたしは旅館を中空から見下ろしている。ふっと旅館の中央部が黒い靄に包まれ、次の瞬間、靄が膨らみ、確かな質量を持った。
蛇が鎌首をもたげ木に登るように、細長く伸びた靄がするすると旅館から吐き出され、上空にとぐろを巻くようにかたまり、凝った。
ああ、と夢の中のわたしは思う。
旅館の下が空洞になってしまった。これではすぐ沈んでしまう、と。
ふいに、黒い靄の頭がわたしにすっと視線を向けた。何故そこが頭だと分かったのか、視線がわたしを向いたと感じたのか、自分でも分からない。ただ、理屈を超えた本能とも言えるような部分で、そう感じてしまった。
ひたとわたしを見据えた影は、にこりと笑って、口を開いた。
「……う、わあ!」
叫んだ自分の声で目が覚める。跳ね起き、周囲に視線を巡らす。
……朝日の差し込む六畳一間。時計は、いつも目覚ましをかけるより少し早い時間を示している。
「夢、にしたって……」
ばくばくと激しく心臓が脈打っている。拍動に合わせて揺れる身体を両腕で抱き竦めるようにして、わたしは深呼吸を何度も繰り返した。
まったく、とんだ悪夢だ。それもこれもあの旅館で聞いた話のせいだ。
わたしは大きく溜息をつき、そして机の上に無造作に置かれたままの雑誌とカメラに怖々視線を向けた。
「……深夜に起きたのは、夢じゃなかったのか」
願わくばそれも夢であって欲しかった、と内心呟きつつ、雑誌を本棚に戻し、カメラを手に取り、少し迷って電源は入れず、定位置に戻すに留めた。
――とてもではないが、中をここで確認する気にはなれなかった。会社には大体カメラを持って行っているし、出社後、人の居るところで改めて確認してみよう。
なんなら夢のことも含めて編集長に話してみるのも良いかもしれない。曰く付きの旅館、心霊写真、取材スタッフのみに起きた怪奇現象。現地取材に行かずともこれ一本で記事になるかもしれない。
そういえば、と夢の内容を思いだしてわたしは内心で首を傾げる。
あの黒い靄のかたまり、目を覚ます直前に何かわたしに言ってはいなかっただろうか。口を開いて、何事かをわたしに。
ふうと意識が先程まで見ていた夢に引き寄せられる。
――黒い靄が裂け、その内に熾火のような暗いあかいろが。
あかいろの、さらに奥に闇が凝っている。闇が震えて、焔の舌を揺らして――。
バン、と自分の掌が机に叩きつけられる激しい音で我に返った。掌から骨に響く鈍う痛みが脳天に突き抜ける。我知らず肩で息をしながら、わたしは呆然と机に乗った自分の手を見つめていた。
あれは、ダメだ。聞いてはいけない。
理屈では言い表せない。ただ、意識の奥底にある、本能とも言えるような部分が悲鳴のような警戒音を鳴らしていた。
「……これ、ボツにしてくれるよう頼まなくちゃ」
恐らくこれは本当に触れてはいけないなにかなのだ。この業界に居れば嫌でもタブーや禁忌、触れてはいけない話の噂は耳にする。そんな言説を頭から信じていたわけではないが、それでもこの違和感を、恐怖を無視してこれ以上関わりに行く気にはなれなかった。
フーッと大きく息をつき、未だ動悸の収まらぬ心臓を抑えながらわたしはその場から立ち上がり、気持ちを落ち着けようと台所に向かい水を呷った。
朝食を食べる気にはなれず、通勤鞄にカメラや財布などを放り込み部屋を出た。曇天の空からはまばらに雨粒が滴っていた。この感じでは、駅に着く頃には雨は本降りになってしまっているだろう。
傘を開き、アパートを出て駅へと向かう。ふと空に視線を向けた。灰色の雲が空を一面覆い隠し、のし掛かるような圧迫感をもたらしている。
――陰鬱に立ちこめる雨雲の上に、自由を得た黒く凝る靄がとぐろを巻き、地上を見下ろしている。
ふとそんな図が脳裏を過った。全身が一気に粟立ち、心臓が早鐘を打つ。
わたしは空を見ないように視線を地面に落とした。この遮るもののない空の下がどうしようもなく恐ろしく思えて、傘の柄を握りしめながら逃げるように駅へと足早に駆けていった。
闇中夢 ウヅキサク @aprilfoool
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