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『ねぇ……のしゃし……ど……したら……と……ます』
ジジ、とノイズの混じったイヤホンを耳から外し、ポケットにしまった。中古屋で購入した型落ちのイヤホンで、時々前触れ無く音声が乱れて使い物にならなくなる。やはりそろそろ新しいものを買うべきか。
わたしは視線を上げて周囲を見渡す。
かつては美しく組まれていた木造の建物は、今や崩れ壊れて豊かな緑に侵食され、裂けて幾つも穴の開いた天井からは陽光が差し込んできている。
歪んで傾いた木製の廊下を進めば、ギィとイヤな音が鳴り、蔓延る背の高い草がゆらゆらと揺れた。
ほんの少し前まで、この廃墟は旅館として営業されていた。
けして有名ではなかったが長く確かな歴史を持ち、隠れ屋的な人気のある旅館で、繁盛こそしていなかったが客が途切れることもなかった、というのが当時の女将の言である。
その女将は今どうしているのだろうか。老齢ながらしゃんとした立ち姿で、凜としていながらも柔らかな礼の姿勢と、頭を下げたその時、つむじに見えた白髪が妙に印象に残っている。
ここに赴く前、地域の図書館で確認した新聞では、「地盤沈下」と説明されていた。前触れのない急な地盤沈下とそれに伴う崩落。たった一夜にしてこの建物は廃墟となったのだ。
わたしがこの旅館に泊まったのは、まさにその地盤沈下が起きる二ヶ月ほど前の事だった。三流雑誌で細々と筆を執るオカルトライターだったわたしは、この旅館に伝わる「曰く」を取材する為にこの場所を訪れていた。
それは、知る人ぞ知る密やかな噂。
この旅館には「座敷童」が出没するのだという。
とはいえ、この旅館に伝わる座敷童は見かけたものに幸運をもたらす、だとか縁起が良いだとか、そういった存在ではないらしい。それでは何か禍いをもたらすのかと言えば、そういうわけでもない。ただ「座敷童が出る」という噂だけが、一部の好事家達の間でまことしやかに流れていた。
一説によれば、この地に住んでいた一族は憑物筋の系譜なのだそうだ。一族の封印する「なにものか」が一族を富ませ、繁栄させたのだという。
とはいえこういった「噂」があること事態はなんとなく想定がついていた。憑物筋や座敷童など、家に憑く怪異の存在は閉鎖地域に於ける裕福な一族には必ずと言っていいほどついて回るものだ。その財力へのやっかみ、ひがみ、疑念、その他あまり表には出せぬ暗い感情。そういったモノのが怪異の語りとして発露される、というのは座敷童や憑物筋の一つの側面だと言える。
この旅館に関しても、恐らく元々あった憑物筋の噂が紆余曲折の末に座敷童の噂へと変容したものなのだろう、とわたしは結論づけた。
当時の取材メモをまくりながら私は廃墟の奥へと歩を進める。腐った柱を踏みつけると、ぐじゅ、と嫌な音がして腐った水が染み出した。
女将は座敷童の噂を否定も肯定もせず、ただ、ここは古い建物ですから、と鷹揚に笑った。流石長年旅館を切り盛りしてきただけあって、わたしの様な青二才では到底情報を引き出すことが出来ず、わたしは落胆しながらも宿の客に取材を申し込むことにした。
その中で出会ったのが、あのインタビューを録らせてくれた男性だった。格式ある旅館にそぐわぬ、まさに着の身着のまま飛び出してきました、とでも言うような格好に、充血した目に隈を浮かべ、何かに怯えるように旅館の廊下を彷徨いていたのだ。
男はわたしの「オカルトライター」という名乗りを聞いた瞬間、目の色を変えてわたしに迫ってきた。どこか異様な迫力に怯えながら、わたしは内心「良い取材対象に巡り会えた」と胸の躍る気持ちだった。
そこで男から聞き出したのが「夢の中で撮影した心霊写真」の話である。夢の中で撮影した心霊写真が、夢で見た場所に訪れたとき顕在化する、という話。
話を最初に聞いた時にわたしの抱いた感想は、あまりにも筋道が立ちすぎているな、というものだった。「一般人」のインタビューとして掲載するには出来が良すぎてどうにも嘘臭い。かといって一つの怪談とするには物足りない。写真だって本当に夢の中で撮ったのか、証明する術などあるわけもなく。わたしは落胆しながら、不安げに縋る男にやんわりお祓いを勧めて話を切り上げた。他の宿泊客や従業員にも話を聞きに行ったが捗々しい成果は得られず、結局当初の予定通り二泊の後わたしは取材を切り上げて宿を後にした。
何のために宿泊代を経費にしてやったんだ、と編集長にどやされながら、旅館内でにインタビューや周辺地域での調査で仕入れた可も無く不可も無い――というにはあまりに薄味な話を更に薄めてなんとか空白を埋めるだけの記事を書き上げた。
それからまた別の執筆や雑務に忙殺される日々の中で、旅館のことなどすっかり忘却の彼方に追いやっていた。そんな中、急に編集長に呼び出され、渡された新聞記事には旅館の倒壊記事が載っていた。
記事の続編を書け、と編集長直々に命令されてしまえば、一ライターのわたしに断る権利などあろう筈もない。命ぜられるがまま旅館――二ヶ月前までは旅館だった廃墟に足を運んだ。
取材用カメラを構え、パシャパシャとあちこちの写真を撮って回る。撮れた写真は何の変哲も無い廃墟の写真だ。もう少し暗ければ廃墟らしさも出るというのに、天井の大穴から降り注ぐ陽光が気の抜けるほど柔らかで眩しく廃墟と茂る草木を照らしている。こんな写真はとてもオカルト雑誌に載せられない。明るさを弄ればそれっぽい雰囲気は出るだろうか。
ふーっと溜息をついて、傍らの崩れかけて傾いた扉を何の気なしに引いてみた。ギ、と嫌な音を立てた扉は、そのまま傾き、腐った木の軋み歪む音と共に倒れて崩れた。
覗き込んだ先は客室の並ぶ廊下で、かなり元型を保っているそこも一応写真に収め、廊下へと足を踏み入れた。板間に土足で踏み込むのは気が引けるが、廃墟に靴下で乗り込むのは危険である。艶やかな廊下を踏み締めれば、靴底が擦れてきゅっと音を鳴らした。
客室のプレートに目を向ける。桔梗の間、桜の間と続き、おや、とわたしは廊下の先へと視線をやった。桜の間の二つ先、白百合の間はわたしの以前宿泊した部屋である。と、言うことはその斜め右前、菖蒲の間が夢の話をしてくれた男の部屋である。
興味本位で菖蒲の間を覗き込む。扉は歪んで開いていたが、中は部屋の形を保ったまま比較的綺麗に残っていた。割れた窓から伸びた蔦が畳に蔓延り、押し入れの襖が外れ、破れた紙が湿気と黴で変色していたが精々その程度である。わたしは菖蒲の間へ足を踏み入れ、そして机の上に一枚の写真が置かれているのに気がついた。
それは、わたしの記憶が確かならば男が「夢の中で撮影した」といって見せてきた写真と同じものに見えた。それは旅館の廊下、丁度さっき私が通ってきたその場所を映したもので、その隅には巨大な黒い靄が淀んでいる。
何故、廃墟となったここにこの写真が、あの男の部屋にそのままのこされているのだろうか。すうと背中が冷えた気がした。
写真を取り上げると、黒い煤がパラパラと落ちて写真に穴が開いた。穴の開いた場所は写真に淀む黒い靄のまさにその場所で、丁度黒い靄の在った場所に火を点けて焼いたような、そんな雰囲気だった。
もしかしたらこの写真を現像した男は怖くなって靄の部分に煙草の火を押しつけたのかもしれない。それでこんな風になっているのかも。
そう、自分に言い聞かせながらわたし持ち上げた写真にカメラを向ける。こんなわざとらしい写真は記事には使えないだろうが、それでも何故かシャッターを切る手を止められなかった。
写真をテーブルに戻し、わたしは視線を割れた窓の外に向けた。窓の外は旅館の中庭。形良い石や古めかしい灯籠が並び、うねった松、季節の花、楓などが植えられ、美しく整えられていた庭は、地盤沈下による甚大なダメージを受けている様だった。
割れた地面の断面が空に突き出し、あるいは沈み、乱れた石や崩れた灯籠が見るも無惨な様相を呈している。反対に木々は庭園として整えられていたのが嘘のように好き勝手枝を伸ばし、葉を茂らせ、そして砂利の敷き詰められていた筈の地面は青々と繁茂する雑草に覆い隠されていた。
たったの二ヶ月でここまで変わってしまうものか、と感嘆しながらわたしは中庭に向けてシャッターを切った。なんとも緑豊かな生命力に溢れる写真が撮れて、これも雑誌向きではないな、と苦笑してわたしは慎重に窓へと近寄った。
中庭だった部分は板チョコを叩き割って乱雑に配置したような様相を呈している。あまり庭に近いところへ行くのは危険かもしれない。そんなことを思いながら中庭を見ていると、一際深く沈み込んでいる部分が目にとまった。
まるでその部分だけ指で突いて沈めたような――いや、庭全体を見渡すと、その場所を中心に亀裂が走っているような、そんな雰囲気がある。
あの場所には確か――そうだ、井戸。使われていない井戸があったはずだ。色褪せた木の板が被せられて蓋となっていた筈だ。
それなら他の場所よりも深く崩れているのも納得である。中庭の写真をもっと撮りたかったが、あの有様では流石に危険だろう。
わたしはカメラをおろすと部屋を横切り外に出る。写真は机の上に置いたままにした。部屋を出て、ふとあの写真と同じ構図で写真を撮ってみようと思い至った。恐らくこの辺りだろう、と見当をつけカメラを構える。シャッターを切り、撮影した画像を確認したが、そこにはただ薄暗い廊下が映るだけで、怪しげな影などは確認できない。
落胆半分、安堵半分の気持ちでカメラから視線を外し、入ってきた扉から外へ出た。足を踏み入れて問題無さそうな場所で何枚か写真を撮り、旅館の外へと出ると少し離れて前傾が映るようにカメラを構えた。
崩れた旅館は中心が凹むように崩れている。どうやら旅館の建っていた土地の、よりによって中心部に原因不明の空洞が存在しており、そこが唐突に崩落して建物ごと地面を沈ませたのだ、と地元の新聞には載っていた。
旅館の駐車場に止めてある車に戻る前に撮れた写真を確認する。旅館の玄関口、廊下、個室、広間、中庭、そして件の廊下。どの写真も問題なく撮れている。――問題なさ過ぎるくらいだ。
本物の心霊写真は無理だとしても。せめてそれらしい写真の一枚でも紛れてくれれば良いものを、と思いながらカメラを仕舞い、見納めに、と旅館を振り仰いだ。
ふと、嫌な妄想が脳裏に去来する。旅館の下にあった謎の空洞。夢の中で撮った心霊写真。現地を訪れ見た夢の中で撮った写真が、現実に顕現する。
この旅館に憑いていた、封印されていたなにものかが、夢を通じてあの男を呼び寄せる。呼び寄せた男の写真を介し、封印から逃げ出す。そのなにものかがそれまで居た空間は空洞となり崩れ落ち、今や何も居ないこの場所では心霊写真が撮れるわけがない。
なんてね。
呟いた。
呟いた、つもりだった。
声が出ない。いや、出ている筈だ。喉が震えてそれが鼻や耳にぼんやり伝わるその感覚もあったのだから。
ざわりと草木の揺れる音がやけに鮮明に聞こえる。――耳が、おかしくなったわけではない。
なんで、と発した声も耳には届かなかった。背中を冷たい汗が伝う。ぞわりと全身が粟立つ。
早くこの場を離れようと踵を返したところで、車は旅館の駐車場にあることを思い出す。いや、それは、前回宿泊したときの話だ。旅館の敷地内にある駐車場は地盤沈下の影響をもろに受けて車など止められる状態ではないのだから。
ならば、わたしは、なにでここに。
ぐらりと地面が揺れた。いや、揺れたような気がしただけだ。正確にはわたしの足が踏鞴を踏み、よろけてそのまま地面に膝をついたのだ。
取材の命を受けたのは覚えている。カメラと取材ノートを整理して、さてなるべく早く取材に向かわないと、とそう、思って。
視界が休息に歪んでぼやける。まるでカメラのピント調整を間違ったときのようだな、などと場違いに呑気な感想を抱いた。
そこで、目が覚めた。
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