彼女とカレーライスと
どんぐり男爵
彼女とカレーライスと
たんたんたんと、リズムの良い音が聞こえてくる。一室六畳一間の台所には彼女が、玉ねぎやニンジンなどを刻んでいる。
「ほんとうに、俺に手伝えることはないのか?」
「大丈夫ー。そこで座ってなさいって」
いつも、こう。たまには僕にも手伝わせてくれないものだろうか。
まあ、どう頑張ったところで彼女には言い包められるに決まっているのでおとなしく本でも読んでいることにする。男は生まれながらにして女性に負けているだと……なかなかうまいこと言うな、この筆者。
やがて――具体的には僕が一章節を読み終えるころ、台所から違う音が聞こえてきた。じゃー、と炒める音。じゅーではないあたり、火はあんまり強くないのかもしれなかった。
「なにしてんの?」
「炒めてるの」
いや、わかるけど。
聞くよりも見た方が早いと思い、移動する。百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。
「うわ、すごい量。玉ねぎとニンジンと……なんなの、これ」
「それにニンニク、セロリ、しめじをみじん切りにして炒めてるの。結構量があるように見えるけど——お野菜って水分の塊みたいなもんでしょ。減っちゃうんだよ」
へぇ。僕なら肉とか、ぶつ切りの野菜を軽く炒めてから煮ちゃうけどな。
どっちにしても、火が通れば同じように思う。
「こうしておくと、甘味が出ておいしいの」
ふぅん、とだけ洩らす。彼女はそれがあまり気に入らなかったのか、じとーと半眼になって睨んでくる。
「なんだよ」
「ふーんだ。コックさんを怒らせたら、晩ごはんがどうなっても知りませんから」
それは怖い。ので、機嫌をとることにした。細い髪の毛を片手で梳きながら、もう片手で頭を撫でる。
「悪かったって」
「むぅ。まぁ、許してやりましょう」
そう言って、へへと笑う。単純なもんだと思うけど、これが単純でなくなってしまったら僕はどうなってしまうんだろうか。
「髪、伸びてきたんじゃない?」
「そうかな?」
「そうだよ。ほら、肩まである」
彼女の髪の毛はきれいなストレートだ。だから、それはとても似合っているのだが、僕は出会ったころのショートカットの彼女がすごく好きだった。活発な様子が、よかった。
……白いうなじが好きだったと言い換えても、間違いとは言えないけれど。
「切ろうかな」
「うん。その方がいいと思う」
「前の方がかわいかった?」
「どうともいえない。ただ、僕は前の方が好きだよ」
なら切ろう、と彼女は笑いながら言った。僕も笑いながらそうしようと返した。キミも切りなよ。僕はいいよ。切ろうよ、一緒に。いいよ、恥ずかしいし。そんなことないよ。
そんな問答を繰り返しながら、僕たちは一度も目はあわせなかった。彼女は鍋の中身が焦げたりしないように炒めることに集中していたし、僕は彼女の髪の毛をいじりながら、彼女が作業しているのを見ていた。
鍋の中にある野菜は少しずつ色を変えていく。特に、玉ねぎ。いい感じのきつね色になっても彼女は炒め続けているので僕は訊ねた。
「もういいんじゃないの?」
「まだまだ。真っ黒に近づくまでやるよ」
「それ、焦げてるんじゃない?」
「焦げないように、そこまでやるの。そうしたらすごく甘くなるんだよ。ふふ、玉ねぎくんはヤル子なんだよ。彼を甘く見てはいけませんぜ」
「どっちだよ」
鍋から湧き上がってくる熱気が、僕らをじんわりとやわらかく包んでいた。彼女の髪からやってくる良い匂いと、熱気とともに押し寄せる野菜の甘い香り。ときどき食欲をそそる香りはニンニクだろうか。今日は寒いらしいけど、暖かかった。身体も、こころも。
ふと目をやると窓ガラスがくもっていた。なんとなく気になって、彼女から離れるついでに手で拭いてみた。窓の外では雪が降っている。どうりで静かなはずだ、と納得する。
雪は音を吸収する。この様子だと、夜が明けると積もっていそうだ。彼女も振り返って見た様子で、「うわぁ。明日は雪だるまのお出ましだね。 ニンジンはまだあるから、今から眉毛と目玉買いに行こっか」などと
「そんなことより、手元が留守」
「おおう。しまった」
まったく、とつぶやく。頬は、緩い。
また本を読み始める。彼女は鍋の中身をかき混ぜる。
時計が、こちこちと一定のリズムで歌う。ページをめくると、紙と紙がこすれる音が立つ。遠くから車が走る音が聞こえてきた。近づいて、離れて。深呼吸をすると、多少値が張ったソファが沈んだ。
彼女が野菜を炒める音は大きいはずなのに、耳を澄ませば、こんな にいろんなものが息づいていた。
冬が静かだなんて、嘘だ。日ごろ見落としているものをきちんと見直すことができるように、神様は冬って季節を創ったんだろう。
「ねぇ、みかん食べていい?」
「だめー。おなか空かせてないとだめでしょ?」
「それはあれですね。おなかが空いてればなんでもおいしいって精神と同じですね」
「殴られたいの?」
「ごめんなさい」
みかんに伸ばしかけた手は結局それに触れることはできず、仕方がないのでそのまま本の紙幅を奏でることとなった。
「それにしても、どれくらい炒める気?」
「玉ねぎくんが本領発揮するまで」
「いつまでだよ……」
彼女は少し思案した後、あともう二〇分くらいかなぁと言ってきた。合計で四〇分以上だ。
「そんなに?」
「おいしい料理を作るには二通りの方法があります」
得意げな横顔を見せながら彼女は言った。僕に見せた木べらの先端が真っ黒く染まっていて、それが彼女の白い肌とよく映えている。
「それは、高くて良い材料を使うか、時間をかけるかです」
その得意げな顔をひしゃげてみたくて、意地悪を言ってみることにした。
「愛情は?」
「レストランではそんなもの入ってないけど、おいしいでしょ?」
ごもっとも。
「それに、あたしがキミのために作るごはんに愛情が入らないわけないでしょう。愚問だよ」
「愚問ですか」
「そのとおりなのです」
「言ってて、恥ずかしくない?」
「聞いてるのキミだけだから、別に」
そうですか、と呟いて、またそれぞれの作業に集中する。やっぱり、男は女性には勝てませんとつくづく思った。
それから暫らくして、彼女がこちらにやってきた。僕の隣に座り、もたれかかってくる。
「ねぇ、何読んでるの?」
本を持ち上げ、表紙を見せる。百聞は一見に如かず。僕が今日学んだことだ。
「普通に口で言えばいいでしょ」
痛くはないけど、チョップをもらった。あれー? おかしいなぁ。
「『緑色の教室』? またなんか難しそうな本だねぇ」
別に難しくもなんともないけど。推理小説ですらないし。
「ところで、鍋の方はいいの?」
「もう煮込んでるから大丈夫」
「でも、みじん切りのやつも沈むんじゃないの?」
「沈むけど、焦げる前には混ぜにいくよ。そんな、すぐ焦げるわけじゃあるまいし」
確かに。水もあるしね。
大丈夫そうなので僕は本を閉じて彼女の相手をしようと思ったのだが、彼女は読んでていいと言ってくれた。好意に甘え、僕はつらつらと文字を追っていた。
彼女は持参したバックの中から編み物の本やオレンジ色の毛糸などを取り出し、なにかを編み始めた。
「なに作ってるの?」
「マフラー。簡単だから」
全然簡単そうには見えないけど、まあ、簡単なんだろう。彼女にとっては。手先が器用みたいだし。この本が彼女にとって難しく見えるようなものだろうか。
それからまた穏やかな時間が流れだす。今までの音の中からじゃーという音が消えた。代わりにことことと野菜が煮込まれる音が追加される。これは僕の主観なんだけれど、この音はかなりやさしく聞こえる。どうしてなんだろう。
「混ぜにいくね」
「うん」
たまにこうやって彼女が席を立ち、少ししてまた戻ってきて。その繰り返しに慣れ、飽きて、彼女が席を立ったりするたびに少し角度を変えるのが面倒くさくなり始めたころ、ようやくカレーが完成した。いつの間にかアク取りやルーを入れてしまったようだった。
「じゃあ、食べよっか」
「うん」
目の前のテーブルに水とスプーンを用意するのは僕の仕事。彼女は大きめの深皿に僕の分を、心持ち小さめの深皿に彼女の分をよそって持ってくる。おいしそうな、スパイシーな香りがふわりと部屋に広がった。
「お待たせ」
「うん。ずいぶんと待った」
「いらないの?」
「大丈夫。おなかがすごく減ってるんだ」
答えになってないけど、答えになってるような、そんな答え。
彼女が皿を置き、具を見てみると、少し意外なものがあった。
「チキンカレー?」
「そうだよ」
骨付きの鶏もも肉をそのまま入れたらしい。なかなかに、普通のカレーライスよりも食欲をそそられた。
「それじゃあ」
「うん」
「いただきます」
「いただきます」
ちょっと、気になって隣を見ると、彼女はきちんと両手を合わせていた。僕は、スプーンを手にしながらだった。
「きちんとしてるんだね」
「大切だよ?」
「うん。僕もそう思う」
だから、もう一回やり直そう。スプーンはあった位置に置きなおす。両手を胸の前で合わせる。
「いただきます」
「めしあがれ」
笑いながら、おいしいものを食べる。なんてありふれた、ぜいたくな幸せ。
気がつくと、二人とも何も話していなかった。同時に、音が耳に侵入してくる。その中にはさっきまでなかった音があった。
「……雨だ」
「え? あ、ほんとだ」
断裂的に続く雨の音。彼女はそれを聞いて頬を膨らませた。
「あーあ。明日雪だるま作ろうと思ってたのに」
「まあ、いいじゃん」
雨なら雨で、それなりに楽しめる。
「それもそうだね」
また笑いあって、食べることに集中を再開した。
やがて食べ終わり、二人して両手を合わせてごちそうさまをした。
「ねぇ」
「ん?」
彼女が僕に問いかけてくる。
「言い忘れたこと、ない?」
「言い忘れたこと?」
考えて、すぐに思いつく。
ああ、こんな簡単に思い当たることにも気づけていなかったなんて。
やっぱり、冬は大切な季節だなあとしみじみ思いながら、僕は笑顔の彼女に笑顔でこう言った。
「おいしかったよ。とっても」
「お粗末さまでした」
彼女は一番良い顔をした。
彼女とカレーライスと どんぐり男爵 @maoh07
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