第三話 巡る生命の輪 (後編)

フミの息子の服装は、忘れもしない。

あの廃工場を破壊した人間達が着ていた作業着だ。


あの日、廃工場にやって来た人間の中にこの男がいたのかまでは分からないのに、イタチの言葉が、雌カラスの頭の中で反芻される。


カラス達あんたらの子を殺した奴だよ』


アタシ達の

もうすぐ、触れるはずだった新しい生命……。

……全部、全部奪われた。


あの男に!


ブルブルと震える雌カラスの周りで、黒い小さな靄が滲み出る。



「復讐しちゃいなよぉ」



ざわり、と空気が揺れた。

イタチの声はザラリと不快な音であるのに、なぜかとても甘く響く。


〔復讐……?〕

「そうさぁ。奪われた生命の代わりに、生命を奪い返して思い知らせてやればいいのさぁ」

〔奪い返す……〕


甘く響く言葉を呆然と繰り返す雌カラスは、徐々に視界が暗く狭まっていることに気付かなかった。


「呪ってやりなよぉ、殺しておやりよぉ」

〔殺して……?〕


イタチは小さな手を窓硝子に当てる。

動物では重くて動かせないはずの掃き出し窓が、音もなく開く。

イタチはスルリと滑るように中に入り、雌カラスの周りをゆっくりと一周回った。


「そうさぁ。その力を、アンタはもう持ってる。あの男を殺す? それとも、母親を殺して、あの男にあんたらと同じ思いをさせてやるかぁい?」


同じ、思い?


大切な生命を奪われて、どれ程辛く苦しく、悲しかったか。

……フミを殺せば、あの男にもそれを味あわせてやれるということ?


雌カラスの黒々とした瞳が、暗く暗く、淀んでいく……。




ふと目を覚ましたイチが、周りの様子に驚いて跳び起きた。

側にいたはずの雌カラスの姿がない。

それどころか、周囲には黒い綿埃のような靄が溢れていて、ほとんど何も見えなかった。


ネェ! ネェ、どこ!?〕




〔イ、チ……〕


イチの声が微かに聞こえて、雌カラスはゆるく首を振る。

しかし、その首元にイタチが鼻先を寄せて囁いた。


「よそ見するんじゃない」


イタチは太い尻尾で窓の外を指す。

フミ達は会話を終えたようで、息子は門の所に停めてあった軽トラックに向かっていた。


「ほらぁ、行っちまうよぉ? 折角力を手に入れたんだ、おやりよ。さあぁ!」

「やめろっ!」


バサリと大きな羽音と共に、開いた窓からブワッと突風が吹き込んだ。

鋭く風に押されたイタチが飛び退くと、風と共に飛び込んできた男が、雌カラスを抱き上げた。

雄カラスだ。



イタチはチッと舌打ちして、低い体勢からめ上げる。

深く穴を穿たれたような瞳が、ギラリと一度光った。


「折角良いところだったのにぃ、邪魔をするなよぉ」

「やかましい、鬼め! 彼女に手を出すな!」

「手を出すぅ? とぉんでもない、カノジョの願いを引き出してやっただけなのにさぁ」


イタチの言葉に合わせるように、男の腕の中の雌カラスがズルリと落ちるようにして人間の女の姿に変わる。


「……そうだわ、殺せば良かった……」


ポツリと呟いた女は、白い肌に黒灰のシミがある。

そしてそのシミは、身体を侵食するようにじわりと広がり始めた。

男は彼女の頬を両手で挟み込み、顔を覗き込んだ。


「よせ! キミはそんなことを望んだことなどなかったはずだ!」

「どうして? どうして望んではいけないの? だって憎いわ! アナタだって、卵を奪った人間達が憎いでしょう!?」

「憎い、憎いさ。だが、だからといって我等はそれだけに囚われてはならない」

「どうしてさぁ。これは因果応報さぁ。生命を奪った報いだよぉ?」


クククと楽しそうに笑って、イタチが口を挟んだ。

彼は彼女を離さないまま、イタチを睨む。


「我等は生きているから……、生き物だからだ。我等生き物は、己が生きる為に他の生命を奪って生きている。生命を食い、自分の生命にして生きながらえている。他の生命を奪った報いが返るというなら、それはどの生命にも等しく死が訪れるということだけだ」

「あぁ? そんなもんはきれい事だねぇ。どんな理由だって、生命を奪えばそれはただの“死”だ」

「違う。殺すだけの目的で生命を奪えば、それはただの“死の連鎖”だ。だが生きる為に生命を奪うのは“生命の循環”。死があるから、生きている生命を尊ぶ。我等は生命を、仲間を愛し、守る。それが我等の“せい”だ!」


イタチの穴のような瞳が大きく開き、穴の底から、おどろおどろしく靄が溢れ出る。


「カラスヤロウが理屈ばかり捏ねやがってぇ! 奪われたら奪い返す、それが当然だ。世界はそうやって変わってキタ。ニンゲンを見ろヨォ。憎シみ合っテ、生命ヲ奪い合ってイルじゃないカ!」

「……そうだ。そして世界はお前達の方へ傾いている。生命の輪から出れば、へ行く。そんなもの我等は御免だ! 我等は生きる! 奪われても! 新しい生命を守る為に!」



「生命を、守る為に……」


彼女の口から、ポツリと言葉が溢れた。


あの日、失われた生命

それでもアタシ達は生きた。

守るべき小さな生命を見つけたから。

小さな小さな光。

たったひとつだけの、生命。



イチ……。



生命は巡る。

死に、また生まれ、守り、守られ、そしてまた死ぬ。

だからこそ、出会う生命の縁を見失わず、繋ぐ生命を尊いものとして、生きる。


生き続ける。

生命を失うその日まで、精一杯に。




「グダらない! クダラナイネッ! ドチラにしても手遅レダ! モウその女はに落チル。俺等のナカマイリサァ!」


「あ……あああ……」


女は涙を流し、己の身体を抱きしめて腕に爪を立てる。

シミのようなものが身体中に広がり、周りをどんどん黒い靄が覆っていく。


「呑まれるな! しっかりしろ!」

「あ……ああっ」




ニィ! ネェネェは!? そこにいるの!?〕


見通しの利かない靄の中で迷っていたイチは、靄の向こうにニィの影を見付けた。

纏わりつく靄を必死に払いながら近付く。

怪我をした翼が痛んだが、そんなことよりも目の前の光景に焦り、無我夢中だった。


人間の姿のニィが抱き抱えているのは、真っ黒な塊。

それはカラス達の羽根の色だが、姿形は歪で禍々しい。


しかし近付くと、イチにはそれが大好きなネェだと分かった。


周りには小さな黒い靄黒い小鬼が嬉々として跳ね回り、ネェは苦しそうに身体を折る。

籠もった声が、辺りに響いた。

ただの黒い塊にしか見えていないのに、ネェが泣きながら藻掻いている姿がありありと脳裏に浮かび、イチは堪らず掻き付いた。


〔やめろ! ネェをいじめるなっ!〕

「イチ、よせっ、離れていろ!」


ニィは言ったが、イチは聞かなかった。

目の前で、ネェが苦しんでいる。

放ってなんておけるはずがない。


〔やめろ、やめろ! あっちいけ!〕


イチは必死で小鬼を払ったが、払っても払ってもネェに群がる小鬼に、とうとう業を煮やし、側を跳ねた小鬼を咥えた。



目の前でイチが小鬼を払うのを見ながらも、靄に絡め取られて藻掻いていたネェは、イチが小鬼を咥えたその瞬間、叫んだ。



「だめっ!!」



卵が失われて悲しかったことも、人間が憎かったことも、靄に絡め取られて苦しいことも全て、何もかも頭から吹き飛び、全身全霊で飛び出してイチを抱きしめた。


「喰わないで! ダメよイチ! イチ、イチ、アタシ達の子!」



たったひとつの、アタシ達が守った生命。



「去れ! 行ってしまえ! アタシ達にお前等の力なんて必要ない! アタシ達は生命を繋いでいく!」


ネェが強く鋭く叫ぶ。

ブワッと空気が渦を巻き、周囲の靄が吹き飛んだ。

イチを抱きしめたネェに覆い被さるように、ニィがふたりを抱きしめる。



〔……ネェニィ……母、さん……父さん……〕


抱きしめられたイチの嘴から、小鬼は滑り落ちた。

落ちた瞬間にイタチの前に飛んだ小鬼を、イタチはクワと口を開いてひと飲みにすると、忌々しそうに舌打ちする。


「ざぁんねん。お仲間が増えると思ったのにねぇ……。まあいいや、生きている内は、何度だって会えるだろうよぉ」

「何度会っても同じだ。我等はカラス。お前等とは共に行かない!」




溶けるように消えるイタチを男が睨んだ瞬間、居間の扉が開き、入って来たフミが驚いて立ち止まった。

そこには、見知らぬ男が二羽のカラスを抱き抱えて立っていた。


居間は幾つかの小物が床に落ちていたが、それ以外に変わりはなかった。



「……世話になった」


フミが何かを言う前に、男はそう言って掃き出し窓から外へ出た。


「あ、待って……!」


フミが追い掛けて窓際まで来た時、ヒラリと塀を乗り越える男の腕の中で、雌カラスが小さく頭を下げたのが見えた。




○ ○




一年後。



町外れのねぐらに作られた巣の中に、一つの卵があった。


〔もうすぐ、孵るね〕


覗き込んだイチが言うと、餌を食べて帰って来た雌カラスが、ふわりとその上に身体を下ろす。


〔そうね、明日かしら、それとも今夜?〕

〔今夜じゃないか?〕


雌カラスが戻るまで温めていた雄カラスは、どこかソワソワとした様子で答えた。



あれから一年、つがいの二羽は、一度も人間の姿にならなかった。

イタチは何度か姿を見せたが、彼等は応えず、カラスとしての生活を続けた。


そうする内に、雌カラスは一つだけ卵を産んだ。


三羽は寄り添って、心から喜んだ。




〔オレ、いい兄ちゃんになるよ!〕


柔らかな胸を張って言ったイチは、既に雄カラスと並んでも見劣りしない、立派な体躯を持った成鳥だ。

二羽は顔を見合わせた。


〔イチがいい兄になるのは分かってるけど……〕

〔それよりも、そろそろつがいの雌を見つけたらどうだ〕


二羽に言われて、イチはモゾモゾと足踏みした。


〔あ〜、それなんだけど、紹介したいがいるんだよね〜……〕

〔そうなの?〕

〔それなら、早く連れておいで〕

〔うん、それでさ……〕


イチは二羽の顔を順に見た。


二羽ふたりのこと、自慢の父さんと母さんだって、紹介してもいい?〕


二羽は再び顔を見合わせて、一緒に頷いた。


〔もちろんよ、イチ〕


イチは近寄り、二羽に嘴を擦り付けた。




雌カラスは羽根を膨らませ、腹の下の卵に柔らかな熱を贈る。

この卵が無事に孵るか、それは誰にも分からない。

それでも、彼等は卵を温める。


それは、生命の始まり。

ひとつの光、希望だ。


生きて、死に、また巡る。


この光を失わず、生き物は皆、生きて行く。

いつか死を迎える、その日まで―――。




《 第三話 巡る生命の輪 終 》



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《 慈鳥の翼は柔を孕む 終 》

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慈鳥の翼は柔を孕む 幸まる @karamitu

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