第三話 巡る生命の輪 (中編)

雌カラスがぼんやりと目を覚ました時、身体は柔らかく温かいものに包まれていた。

どこか安心する匂いと気配……。

ほ、と息を吐いた時、呼ばれてハッとした。


ネェ! 目が覚めたの!?〕

〔……イチ……? イチ!〕


ガバリと起き上がり、直ぐ側で顔を覗き込んでいたイチに頭を擦り寄せた。

安心する気配はイチであったのだと分かり、側にいることに安堵する。


イチは生きている。



しかし、突然近くでワフッと犬の声がして、雌カラスは驚いて下がった。


〔な、なに……〕


細い金属の柵越しに、大きな長毛の老犬がこちらを見ていた。

そこで初めて、ここがさっきの家の中、ケージの中であることに気付いた。

そして、自分の姿がカラスのそれに戻っていることも。


〔アタシ……戻ってる? 捕まったのっ!?〕


イチを助けようとしたのに、まさか一緒に捕まったのだろうか。

混乱した雌カラスを落ち着かせるように、イチが嘴で首筋を撫でる。


ネェ、大丈夫だよ、落ち着いて。あの人間ばあちゃん、悪い奴じゃないよ。この犬ゴン太もそう言ってる。オレ、助けてもらったんだよ〕

〔……助けてもらった? どういうこと?〕

〔ごめん、オレ、失敗しちゃって……〕


イチは、イチヂクの木で起こったことから順にゆっくりと説明した。




イチが庭に落ちているのを見つけたのは、この家で老犬ゴン太と住んでいる老女だった。

老女は、翼に怪我をして飛べなかったイチを保護し、家の中で手当てしてくれた。

飛べるようになるまでここにいても良いと言って、懐っこいゴン太が近付きすぎると怖いだろうとケージに入れたのだという。


〔そんな! 人間を簡単に信用してはダメよ!〕

〔でも、でもね、本当に手当以外何もされてないし、ゴン太は「ばあちゃんは家族だ」って言うし。それに、あのばあちゃん、ネェが倒れてカラスに戻っても、驚いただけで気味悪がらずに世話してくれたんだよ〕


確かに、よく見れば二羽の下には毛布が敷かれ、部屋は温かな温度に保たれている。

ケージの中には入れられているが、上は半分開いていて、出ようと思えば出られるようになっていた。


ニィもさっき探しに来くれて、ゴン太が話してくれたよ〕


イチが外を示したので視線をやれば、もう薄暗くなった外の庭木に、雄カラスが止まってこちらを見下ろしていた。

あの様子では、一羽ひとりで勝手に行動した事を怒っているようだ。

心配してじっとしていろと言ってくれたのに、勝手に動いてこのザマなのだから当然か。


〔助けられたのは分かったけど、長居は無用よ。行きましょう〕

〔でも、オレ飛べないんだ〕

〔私が運ぶから、大丈夫〕


言って、雌カラスはケージの上部から飛び出し、人間の姿になった。


〔ダメだよ、ネェ! 調子悪いんでしょ!〕


イチが心配した通り、雌カラスは人間の姿になった途端、再び動けなくなってしまった。

視界が暗く、歪んでいる。

そこかしこに黒の小鬼のような靄が見えて、気分が悪くなった。




「まあ! またその姿になって、大丈夫なの!?」


居間の入り口から声がして、雌カラスはビクリと身体を揺らして振り返った。

小柄な老女が、スリッパをバタバタといわせながら走り寄って来て、腕に触れる。


「や、やめて!」


再び掴まると思い、思わずその手を払うが、払われた老女でなく自分がその場にへたり込んだ。


「ああ、驚かせてしまったわね? 何もしないわ、本当よ。でも、無理に動いてはいけないわ」


触れられるのを嫌がったからか、老女は手を出さず、心配そうに言った。


「鳥の姿の方が楽なんじゃないの? 何もしないから、休んだ方が良いわ。ほら、離れるから……」


老女がそろそろと後ろへ下がると、ゴン太が側に寄って尻尾を振る。

ゴン太の頭を老女が撫でると、嬉しそうにワフッと鳴き、更に尻尾を強く振った。

その様子から、老女と老犬の間の信頼関係が窺えて、確かにただ危険な人間というわけではないのだと分かり、ふっと力が抜けた。


ゴン太がチラリとこちらを見た。

ゆっくりと近付くと、大きな頭でそっと彼女の右手を押す。

ケージに寄せられた右手に、柵越しにイチが嘴を擦り付けた。

なぜだか涙が出そうになって、雌カラスはイチを両手でケージから出し、キュッと抱きしめたのだった。




餌にと食パンを刻んで持って来た老女は、言った通り自分からは近寄らず、ゴン太に皿を運ばせた。


「…………イチを助けてくれて、ありがとう」


皿を置かれ、毒なんて入ってないよとゴン太に示されて、鳥の姿に戻った雌カラスは、人の言葉でそう言った。


「イチ君というのね」


カラスが喋ったというのに、老女は驚いた様子もなく、嬉しそうに両手を合わせた。


「あなたは?」

「……え?」

「あなたのお名前はなんというの?」

「…………アタシは、名前なんてない」

「そう。私は、フミよ」


フミと名乗った老女は、足元に擦り寄るゴン太を当たり前のように撫で、話しかけている。


「フミは、なぜ驚かないの。アタシが気味悪くないの?」

「あら、とっても驚いたわよ」


フミは大きく目を見開いてから、ふふふと笑った。


「でも、気味悪くはないわね。私が山に住んでいた子供の頃なんて、タヌキは化けてしょっちゅう人間に悪戯していたし、夜は墓地に鬼火がたくさん飛んでいたものよ。最近はとんと見なくなったけど、この世界には知らない生き物なんて山のようにいるはずだもの」


タヌキが化けて?

鬼火が飛ぶ?

黒の小鬼みたいなものかしら……?


雌カラスは思わずポカンとしてしまった。




横から、イチが皿を見つめているのに気付いて、雌カラスは皿をイチに寄せた。

しかし、イチはパンの欠片を咥えると、雌カラスの嘴に寄せる。


ネェ、少しでいいから食べて〕

〔うん。……でも、先にお食べ〕

〔……ニィは何か食べたかなぁ〕


二羽は窓の外を見上げた。

すっかり暗くなって見え辛いが、木の上に雄カラスがいることは分かる。


ワフッとゴン太が鳴いて外を示すと、フミはその意味を汲み取って、もう一皿持って来て窓を開け、窓際に置いた。

雄カラスは警戒して降りてこないが、こちらをずっと見ていた。



「食べてくれるかしら? この辺りは野良猫が多いから、外に出さない方が良いの。イチ君を中に入れたのもその為だったんだけど、捕まったと思って怖かったでしょう。ごめんね」


イチと雌カラスは瞬いた。

カラスを気遣い、謝るような人間に出会ったのは初めてだった。


「そんな風に気遣うなんて、フミ、おかしいわ……」

「おかしい? どうして?」

「だって、アタシ達はカラスよ……」


どんな人間も、大概はカラスを不吉なものとして忌み嫌う。

そうでなくても、人間の領域を荒らす鳥として害鳥扱いされるのが常だ。


「ええ、カラスね。あなた達を見ていたら、カラスを“慈鳥じちょう”と呼ぶ意味がよく分かるわ」

「慈…鳥……?」

「そう。“慈しむ鳥”と書くの。慈しむって、大切にして愛おしむという意味よ」


フミはそっと近付いて、二羽の前に膝をついた。


「私の好きな言葉に、“慈烏反哺じうはんぽ”ということわざがあるわ。子がいつまでも親を大事にする、家族を思い遣る言葉よ。そんな素敵な言葉にカラスが例えで使われるなんて、素晴らしいことだと思わない? 人間はずっと昔からカラスをそんな風に見ていたはずなのに、生活が変わった今は悪い鳥みたいに言うなんて、それこそ人間の方がおかしいと私は思うわ」


思ってもみなかった事を聞き、雌カラスはただただ驚いていた。


自分達は、不吉なものなんかじゃない。

ずっとそう思っていたけれど、同族以外の誰かに、ましてや人間にそんな風に言ってもらえるなんて、想像もしたことがなかったのだ。



ネェ


側でイチが優しく呼ぶ。

雌カラスはイチに頭を寄せ、そっと窓の外を見遣る。

心配そうに見下ろす雄カラスを見て、カァーと小さく鳴いた。


アタシ達は、ただ家族を、仲間を大切にして生きているだけ。

一生懸命、一生懸命生きている。

ただ、それだけ……。


たったそれだけのことをこうして認められたことが、雌カラスは苦しい程に胸に沁みた。





翌朝、雌カラスは、外で会話する人間の男女の声で目を覚ました。


結局、イチが飛べないので、フミの家で一晩過ごしたのだ。

ねぐらでないことが落ち着かず、深夜まで起きていたのに、いつの間にかぐっすり眠っていたようだった。



「ええ〜? カラスを拾ったって、大丈夫なのかい、母さん」

「大丈夫よ。翼は折れてないみたいだから、すぐ元気になって飛んで行くでしょうし」

「全く、お人好しだなぁ」


雌カラスは、そっと窓硝子越しに外を覗いた。

玄関先に立つ大柄な男は、クリーム色の作業着を着て、黄色いヘルメットを持っていた。


雌カラスは、羽根を震わせた。


「それで、今朝はどうしたの?」

「いやぁ、現場がこの近くだったから、仕事前に顔見に寄っただけだよ。最近あんまり寄れなかったから……」



続く会話は、頭に入らない。

あの服装、忘れもしない……。



『覚えてる? あの男』


突然、ザラリとした声が雌カラスの身体を舐めた。

いつの間にか、掃き出し窓の外にイタチが座っていて、男を眺めてニィと口端を上げた。


カラス達あんたらの子を殺した奴だよ』



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