〈3〉

 ガラガラと、マナルの牽く台車の音が道路の左右にそびえたアパートに反響している。

 マナルは視線を落とし、重たいポリタンクを載せた台車を牽いて黙々と歩く。道は舗装されているものの、瓦礫から際限なく寄越される砂埃や破片のせいで台車がひどくがたつくのだ。

 いくらか行くと、白壁に無数のスプレーアートが描かれた場所に出る。

 どれも、ついさっき見たひまわりのバンクシーと変わらない。少なくとも、マナルには違いがわからない。

『ハマースに忠誠を示す者は、車のヘッドライトを点灯しろ ここから→』と書かれている壁の前を抜ける。

 もっとも、ヘッドライトを点して通る車などいない。区間を示すもう片方の『ここから←』を記していたアパートが瓦礫と化してしまっているためだ。それに最近は、車よりも馬やロバに牽かせた馬車の方が多い。よしんば車に乗っていたとしても、ライトを点すだけのガソリンの余裕がないのだろう。

 道路の脇に寄せた瓦礫に台車が引っかかる。そもそも木の板に小さな、それもそれぞれ規格の違うキャスターを無理矢理つけただけの代物だ。台車の板に結んだロープを引いて動かす造りのせいでバランスが悪く、ちょっとしたことでタンクが落ちそうになる。

 立ち止まってタンクを支えるマナルの横を、ボロボロと気の抜けたエンジン音を響かせたロードバイクが走り抜ける。ハンドルを握るのは、ひげ面の痩せた男だ。白地に黒い幾何学模様の刺繍が入ったカフィーヤを巻いている。

 ロードバイクが巻き上げる砂埃の向こうから、小さな叫び声が届いた、気がした。たぶんアフマドだ。バイクの運転手の背にしがみついていたのだろう。ならばすれ違ったバイクの運転手は同じアパートの上の階に住む叔父だろうか。

 マナルは今日何度目になるかも知れぬ嘆息を落として、再び台車を牽く。

 いつもなら人気のない道に、今日はぽつぽつと人の姿があった。朝から配給の列に並ぶ人や仕事へ向かう人たちだ。ロバをつないだ馬車に家財道具を積んでいる家族もいる。

 ずいぶんを廃墟で手間取ってしまった、とマナルは足を速め、倒れそうになる水のタンクを支えるために慌てて足を止める。それの繰り返しだ。

 ときおり元気に走る男の子たちとすれ違った。いつもなら見掛けない子だ。おおかたアフマドが「バンクシーを見つけた」と騒いでいるのを聞きつけて見物に向かうのだろう。

 マナルはそんな男の子たちを横目にアパートへと辿り着く。五階建ての白い建物だ。飾り格子のはまった窓のあちこちからカーテン代りの鮮やかな布が覗いていた。

 ひとつずつタンクを抱えては、鉄製の外階段を三階まで登る。自分の家の玄関先に二つ、通路を挟んだアフマドの家の前にひとつ。重たいタンクを抱えて階段を往復し終えるころには腕も膝も震えるほど疲れ果てていた。

 と、ぱぱ、と短いクラクションの音がした。見下ろせば鉄階段の下、瓦礫を縫う細道にワンボックスカーが停まっていた。朝に夕に、町中の女性たちを拾い集めては集会場へと連れて行ってくれる、マナルの勤め先の送迎車だ。

 大慌てで玄関脇に置いてあった巾着袋をひっつかみ、部屋の奥へ「行ってくるね」と叫ぶ。留守番をしているはずの母も、仕事もなく家にいるはずの父も、姿を見せなかった。マナルの挨拶に返事すら返さない。いつものことだ。

 ひょっとしたら父は、アフマドの言葉を真に受けてスプレーアートを見に行っているのかもしれない。

 マナルは鉄階段を駆け下りながら乱れていたスカーフを整え、髪を覆う。はしたない、と叱る母の声はない。もう一年以上、マナルの母は部屋に引きこもったままだ。

 最後の一段を飛び降り、その勢いのままワンボックスカーのスライドドアに両手を突く。砂埃で茶色くなった窓越しに、中年女性たちが豪快に笑い合っているのが見えた。

 それもマナルがスライドドアを開けた瞬間には、慎み深く口を噤んでいる。

 車内には七人ほどが身を寄せ合うように座っていた。鮮やかな色合いのスカーフや伝統模様が刺繍されたカフィーヤを頭や首に巻いただけの女性から、暗色のマントで全身を覆っている女性など、装いはそれぞれだ。空っぽの両手を強く握り合わせている人もいれば、通話専用の携帯電話をお守りみたいに胸に抱いている人もいる。

 一番後ろの座席に座っているのは、ダリアだった。女性にしては珍しくインターネットに接続できるスマートフォンを保っている彼女の周りには、いつだって人が集まっている。ダリアが操作するスマートフォンの画面を覗き込んで、少しでも情報を──イスラエル軍がどこそこに爆弾を放つらしいという警告から、海辺の漁師たちが町まで魚を売りに出てくるかどうか、外国の支援団体の援助物資がどこで配られるのか、など──得ようとしている。

おはようサバーッフル ヘイリィ、マナル」とダリアがスマートフォンの画面を向けてくる。「見たかい? バンクシーだって」

 SNSが表示されていた。画面の中でアフマドが笑っていた。マナルの父が家賃を払っている瓦礫の真ん中に出現した、あの扉とのツーショットだ。扉に描かれた少女が両手で握るひまわりと同じ角度で、金属棒を肩に掛けている。

 戦争ごっこのときは自動小銃としてマナルに突きつけられていた棒は、今や明るい大輪の花なのだ。

 マナルは「おはようサバーッフル ヌール」と返事をしてから、「……勝手なんだから」と唇を引き結ぶ。

 水汲みで疲弊した両腕が、ひどく痺れていた。マナルは誰も労ってくれない両腕を、自らの掌で撫でる。

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灰色とひまわり 藍内 友紀 @s_skula

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