③
昨日まで、そんなところに扉はなかった。そもそも壁もなく床も割れ、ひん曲がった鉄骨とコンクリートの破片だらけの場所に、扉が一枚きりで立っていられるはずもない。
誰かがわざと立てたのだ。
「バンクシーだよ」アフマドは妙に厳かに言う。「マナル。バンクシーだ」
マナルの記憶違いでなければ、バンクシーとは芸術家の名前だ。人知れず壁の外からガザに入って来ては瓦礫にスプレーアートを残し、また壁の外に去って行く外国人アーティスト。その人の作品は馬鹿みたいな値段で売れると噂に聞いたことがあった。でも。
「そんなはずないじゃない」マナルは鼻を鳴らす。「そんな有名人が、どうしてウチの家に画なんか描くのよ。バンクシーはもっと南の、エジプトに近いところにしか出ないよ」
外国人支援団体とおんなじ、と言いながら、少しだけ期待も抱いていた。
もし本当に外国の芸術家が、壁に囲まれたガザの中央まで忍び入れるのならば、マナルだって壁の外に出られるかもしれない。毎朝の水汲みのついでに壁の外に出て、いつだって不足している缶詰や香辛料、お米や小麦粉、インスタントラーメンなんかを買って帰ることができるかもしれない。綺麗な布と鮮やかな刺繍糸だって手に入る。刺繍した布小物や地中海で獲れる魚を売りに行ける。そうすればもっと稼げる。家族みんなが好きなだけご飯を食べられる。
いや、そんなことは夢物語だ。
マナルは頭を振って、濡れた両手をワンピースの裾で拭う。わざと歩調を緩めて、扉を回り込む。
──黒焦げの人が立っていた。
違う、黒いスプレーで象られた、たぶん女の子だ。爆弾で焼かれたわけでも瓦礫の底で火事に巻き込まれたわけでもない。
黒い人影はマナルとさして背が変わらない。一本の花を傘のように握っている。大輪の、人影の頭より大きな、黄色い花だ。
「ひまわり、だよ」とアフマドが呟いた。
そう、ひまわりだ。マナルもタブレット端末で見たことがある。本物を見たことはないけれど、その特徴的な花を間違えるはずもない。
「ね」とアフマドは唐突に、年相応の得意顔になった。「バンクシーだろ? きっと高く売れる。そうだ、ここで外国人相手に競りをやろう。きっと客がどっさりくる」
「そんなわけ、ないじゃない」
「わからないだろ。だってバンクシーは何度もガザに入って来て画を描いているんだ。ここにだって……」
言い募るアフマドを置いて、マナルは踵を返す。立体的な瓦礫の山で転ばないように足元だけを見ながら、家を回り込む。
辛うじて原形を留めているキッチンに入って、半分ほど水の溜まったタンクを抱え直した。蛇口から流れ出す水を、再びタンクへ注ぐ作業に戻る。
遠くからアフマドのはしゃぐ声が聞こえていた。ひょっとしたら、また幻と遊び始めたのかもしれない。陰鬱な顔をしたかと思えば急に明るくはしゃぎ、かと思えば過去に囚われて暴れる。アフマドはいつも、そうだ。まともに取り合ってはいけない。
どぼどぼと水が溜まっていく音に意識を集中させて、アフマドの声をかき消す。
あれがバンクシーかどうかなんて、わからない。町中の壁に描かれたスプレーアートと同じように見える。だって、本物のバンクシーなんて見たことがない。本物のひまわりだって知らない。
マナルが知っているのは、壁の中のことだけだ。雑草だらけの荒れ地の向こうにそびえる壁と、瓦礫の町。坂道ばかりの入り組んだ町と暇を持て余した男たち。いつだって少ないご飯と水道から出てくる海水。
きっとあの画が本物だったとしても、マナルたちをこの生活から救ってはくれない。
期待してはいけない。そう理解しているのに、鼻の奥がツンとした。
「マナール!」と呼ぶ声に、渋々顔を向ける。瓦礫の低いところで、アフマドが金属棒を振り回していた。
「俺、大人を呼んでくるよ!」
「大人? なんで?」
マナルの疑問に答えることなく、アフマドは駆け出している。彼の首から、白地に黒い格子模様が刺繍されたカフィーヤが弛んで、ふわふわと尾を引いていた。
「ちょっと! 水……」
どうするの? と問うマナルの声は萎んで消えていく。アフマドの背はもう遠く、彼の樹脂製クロッグサンダルのだかだかという足音も小さくなっていた。
マナルは嘆息して、苛立ち任せにまだ水の入っていないタンクを蹴り飛ばす。ばこん、と音を立てて飛び上がったタンクが台所のタイルの切れ目から、瓦礫の中へと落ちていった。
マナルは「もう」と吐き捨てる。自分が蹴り飛ばしたタンクを拾うために瓦礫を下り、またタンクを引きずるようにして瓦礫を登る。
「もう」と再び小さく呟く。「男たちは勝手なんだから……」
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