②

 けれど、本当のことを言えば、マナルはアフマドの経歴を疑っている。だって一度も、彼の身分証明書を見たことがない。

 彼が本当にヨルダン川西岸地区で生まれたのなら、彼の身分証明書は緑色のパスケースに入っているはずだ。マナルの青色の身分証明書とは違う、エルサレム以外ならどこへでも自由に行ける色だ。

 アフマドは、逮捕されたときに没収されてしまったのだと言っていた。確かに、それはあり得ることだ。イスラエル軍はいとも簡単にパレスチナ人の身分証明書を取り上げる。でも、いくら親族がマナルの父だけになってしまったからといって、好き好んでガザに移り住んでくるのかといえば、それも考えづらい。

 なにしろガザの壁からは誰も出られない。検問所は外国国籍の人の出入りは許容しているものの、パレスチナ人は誰ひとりとして出しはしない。銃を持ったイスラエル軍人が二十四時間張り付き、封鎖している。

マナルが生まれるずっと前から、この壁は永遠の牢獄だ。

 だから、ひょっとしたら、アフマドは最初からこの壁の中にいて、壁の外から来たという記憶そのものが、彼の妄想なのかもしれない。彼は妄想の中で経験した屈辱に怯えるフリをして、驚き取り乱すマナルを嗤っているのかもしれない。

 どれも妄想だ。アフマドを咎められやしない、とマナルはタンクに落ちていく水流へと視線を落とす。

「ねえ」

 耳元でアフマドの声がして、マナルはまた、ひゅうと喉を鳴らして身を竦める。

 すぐ後ろに、アフマドの無表情があった。アサルトライフルのように扱っていた金属棒は、今や脚の悪い老人が縋る杖のようにアフマドの傍らに寄り添っている。表情だって、イスラエル軍に家族を奪われた彼に相応しく、萎びた微笑だ。

「来て。いいものを見つけたんだ」

 来て、と再び囁き、アフマドはのろのろと台所を出ていく。途中、瓦礫に足をとられてクロッグサンダルの片方を明後日の方向へ飛ばしていた。杖のようだと思った金属棒は、まるで役立たずのようだ。

「……どこに行くの?」

 サンダルを拾うアフマドの背中がなにかを答えたけれど、聞き取れなかった。

「ねえ、どこに行くの? 水はどうするの?」

 アフマドは答えない。答えたのかもしれないけれど、聞こえない。彼の足の下で踏み砕かれる瓦礫の音ばかりがする。

 仕方なく、マナルは半分ほど水の溜まったタンクをタイル張りの床に下ろす。蛇口からたらたらと垂れる水をそのままに、アフマドを追いかける。

 ふたりして壁しか残っていない家を回り込む。

 家が残っていれば居間だか寝室であった場所に、一枚の扉が立っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る