〈2〉 ①

 アフマドがイスラエル軍に逮捕拉致されたのは、彼がまだ彼の両親とふたりの兄と祖父母とで、ヨルダン川西岸地区と呼ばれる地域のナビ・サミュエルに住んでいたころだという。

 ナビ・サミュエルを囲むのは壁ではなく、有刺鉄線を冠したフェンスらしい。銃を携えたイスラエル兵が睨みを利かせる検問所を通って、イスラエルが占領した地のど真ん中にぽつんと残されたパレスチナ人学校へ通うこともできるのだと聞く。

 パレスチナ人が検問所を通って他所へ行けるということは、イスラエル軍もパレスチナ側へと入って来られるということだ。

 もっとも連中はスクールバスではなく、アメリカのキャタピラ社製大型重機に乗って来る。「俺たちの土地に勝手に家を建てやがって」と怒鳴ったりあざ笑ったりしながら、中にいる人ごと履帯で轢き潰す。

 アフマドの小さな妹も──彼は決して妹の年齢も名前も口にせず、頑なに小さな妹と呼んでいる──家ごと潰されて手の先しか残っていなかったのだという。

 それだけじゃない。

 連中はわざわざひげを生やし、下手くそなアラビア語を話し、白いガラビーヤと伝統的な模様が刺繍されたカフィーヤを身に着けて、アラブ人になりすまして『潜入』してくるのだ。

 ユダヤ教徒であるくせに、わざわざ「アラブ人のようにヒゲを伸ばす許可証」を取得してパレスチナ人に扮し、有刺鉄線に囲まれたパレスチナ人の町に入り込む。そうして夜の闇に紛れて、連中が「テロリスト」だと判断した人たちに銃を突きつけ、頭に麻袋を被せて拉致していくのだ。

 当時、まだ十歳にもなっていなかったアフマドも、彼の父やふたりの兄ともどもそういう偽パレスチナ人に「テロリスト」として連行された。

 説明も取り調べも裁判もなく、そのままイスラエルの収容所に入れられていたのだという。大人たちは詳しく教えてくれないけれど、収容所では毎日、飢えと屈辱と暴力を与えられていたらしい。

 それが二年間だ。ある日、これまたなんの説明もなくアフマドひとりが解放された。

 ともに捕えられた父や兄が気になったものの、アフマドはひとりで家に帰った。

 ──家に、帰ったと思ったんだけど。

 といつか、アフマドが言ったのを覚えている。

「本当は全然別の場所に帰っちゃったのかもしれない。だって変だろ? 誰もいないなんてさ。なにもなかったんだ。俺の小さな妹の小さな手だけが、あったんだ。でもさ、本当は全然別の、知らない子の手だったのかもしれない」

 それも置いて来ちゃった。

 そう語ったアフマドがあまりにもぼんやりと、心の全部を灰色の瓦礫の中に置いて来てしまった様子で語っていたから、マナルはアフマドの笑えない悪ふざけや発作を強く咎められない。

 夜の彼は夢の中で、拉致されてから二年間絶え間なく続いた恐怖を追体験している。そして昼の日差しの中では、その恐怖を克服するために、当時の記憶を冗談として笑い飛ばそうとしているのだ。

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