②

 草原の向こう、朝靄だか砂埃だかにかすんだ壁のところどころから、塔が頭を出しているのが見えた。

 幼い頃、マナルは壁の向こうから覗くあの塔を、神さまへ祈る時間を知らせてくれるミナレットだと思っていた。足元にはモスクがあり、敬虔な同朋たちが集っているのだと信じ、疑いもしていなかった。

 でも今は違う。

 あれはイスラエル側の監視塔だ。ときどき遊び半分に、あそこから銃弾や砲弾が撃ち込まれる。だから壁の影に覆われた畑は耕されることもなく、草原になってしまったのだ。

 そんなことを考えていたとき。

扉を開けろアフタフ・エル・バーブ!」

 甲走ったアラビア語の叫びが、すぐ背後でした。わずかにヘブロン訛が感じとれた。ほとんど同時に背中に固いものが──たぶん銃口が、突きつけられた。

軍だジャァイシュ!」

 マナルは文字通り飛び上がる。身を硬くして両手を胸の前で握りしめたせいで、ポリタンクが倒れて水がこぼれる。ワンピースの裾とジーンズ、さらにスニーカの中にまで水が入ってきた、はずなのに、あまりの恐怖で水の冷たさすら感じない。

 そんなマナルの怯えようを、はは、と幼い声が笑った。聞き慣れた、アフマドの声だ。

 振り返れば、丈の長い上着トープ姿のアフマドがいた。もとは白だった長袖は、あちこちが汚れた灰色になっている。その手が、ひしゃげた金属棒を腰だめに構えていた。金属棒の先がマナルに触れている。

 カッして、金属棒を叩き払う。本当は脱いだスニーカで引っぱたいてやりたかったけれど我慢して、倒れたポリタンクを抱え直す。ぽこぽこと音を立てて、再び水が溜まっていく。

 マナルの驚き方が余程面白かったのか、アフマドはまだヘラヘラと笑っていた。

「両手を挙げろ」アフマドはひしゃげた金属棒の先端を自分の肩に当てて、水平に構えた。「ゆっくりと家から出るんだ」

 たぶん彼の頭の中では、あの金属棒はアサルトライフルなのだ。彼は、ずっと昔に自分を逮捕し虐待したイスラエル軍の兵士になりきっている。

 そして今、彼のごっこ遊びで逮捕されるのはマナルだった。

「どうして笑ってるの」マナルは落ち着いた声音で、わざとアフマドを振り返らずに言う。「全然、なにも、面白くないよ」

「生意気な女だな」アフマドは金属棒の先でマナルの肩や腰を突く。「カラッチで蜂の巣になりたいのか」

 カラッチ、とはAK-47アサルトライフルのことだ。「イスラエルユダヤ人はアレをカラッチって呼ぶんだ」と教えてくれたのは、他ならぬアフマドだった。

 マナルは苛立ちを覚えて、乱暴に金属棒を払いのける。

「アフマドはパレスチナ人のくせに、ユダヤ人のフリをして、わたしを脅すの?」

 イスラエル人と同じじゃない、と続けるマナルの声は、たぶんアフマドには届いていない。いや、届いていても理解できないのだ。

 アフマドは、どうしてマナルが怯えてくれないのか理解出来ないという顔をして、でもすぐに瓦礫のどこかに気をとられて、壊れた台所から飛び出ていく。金属棒を、今度は剣のように振り回している。もうマナルの存在すら忘れているのだろう。

 二年と少し前、彼はイスラエル軍に逮捕され、収容所に入れられた。

 解放された今も、アフマドは当時の記憶を鮮明に思い出して、再現する。両腕を振り回して大暴れして、壁やその辺の人を殴りつけることもある。

 今日の明け方にも、昨日の夜遅くにも、三日前の深夜にも、アフマドはを起こしていた。お陰で、同じアパートの隣の部屋に住むマナルはちょっとした寝不足だ。

 それも仕方がないことだと、マナルの父は言う。そうしなければ心が壊れてしまうのだから仕方がない、と不満顔のマナルや母を説得する。親族としてそんな子供を放ってはおけないだろう、と続ける。

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