第一話
〈1〉 ①
一面の瓦礫の中、マナルは身を屈めて一抱えもあるコンクリートブロックをどかす。頭から首に巻いた
ワンピースの裾で掌の砂を拭ってから、地面にへばりつく鉄の蓋に手を掛けた。細身のパンツに包まれた脚に力を入れて重たい蓋を持ち上げると、丸いハンドル型のバルブが現れた。
水道のバルブだ。硬いそれを苦心して捻ると、少し離れたところで、ごぼん、空気混じりの水音がした。
海水の混じっていない飲料水が出る音だ。
この水のためにマナルは毎朝、アパートから片道二十分も歩いてこの瓦礫へと通っている。
サイズの大きなスニーカが脱げないように、慎重な足取りで瓦礫を踏み越える。タイル張りの台所の床に、空っぽのポリタンクが三つ置かれていた。家から台車を引いて、運んできたものだ。
今、マナルが両親や弟たちと住んでいるアパートの蛇口からは、茶色い鉄さび混じりの海水しか出ない。いくつかある井戸も同じだ。
アパートの屋上には隙間なく雨水を貯めるタンクが並んでいるけれど、いつだって刺激臭がする。イスラエル軍が──マナルたちパレスチナ人をガザへと閉じ込めている連中が──気安く投げ込む催涙ガスのせいだと、大人たちは言う。
この町で飲み水を得ることは命がけの、とても重要な仕事だ。それなのに。
「アフマド?」
ポリタンクの番を頼んでいた従兄弟の姿がなかった。
もう十二歳なのに、とマナルは自分と同じ歳のアフマドの妙に落ち着きのなさに嘆息する。焼け落ちて骨組みだけになってしまった車や野犬の親子、崩れ落ちた壁に描かれたスプレーアートの数々。点在するそれらに惹かれるまま走り回っているのだろう。
「男の子は勝手でいいなぁ」
喉の奥で愚痴をこぼしつつ、マナルはポリタンクの蓋を開ける。半ばまで崩れた流し台と自分の膝とでタンクを支えて、蛇口からとろとろと流れ出る水を受け止める。
垂れ流される水がタンクに溜まっていくのを確認しながら、マナルは首を巡らせる。
台所は、西側の壁だけを残して瓦礫と化している。辺りには、崩れた家々のコンクリート片やレンガが積もっているばかりだ。ひん曲がった黒い鉄骨と灰色の瓦礫と砂塵。所々から顔を出す草花ばかりが鮮やかだ。痩せた野犬がひょこひょこと歩いているくらいで人気はない。
その先はガザを封じる高い壁までずっと草原が広がっている。
元は畑だったらしい。今は立入禁止地帯と立入危険地帯とに指定され、小麦やトウモロコシの名残が貧弱な雑草に沈んでいるばかりだ。
週に一度か二度、マナルは父や兄たちとこの草原へ身を潜める。壁の上からコチラを見張るイスラエル軍人に見つからないように注意しつつ、食べられそうな草や実をかき集める。
そうしなければきっと、マナルや兄たちはともかく、身重の母や弟は死んでしまうだろう。
マナルたちの住むガザ地区は、三方を壁に囲まれている。唯一壁のない西側は地中海だ。検問所は存在するが、封鎖されて久しいときく。
誰も、壁の外には出られない。壁の外から入ってくる物資も、ほとんどない。外国人の団体が乗り付けるトラック十数台分がせいぜいだ。この壁の中には一九〇万人以上のアラブ人が暮らしているというのに、だ。
そも、台所しか残っていないこの家は、母がマナルをお腹に宿したときにはすでに瓦礫だった。それでも毎月律儀に家賃を払ってこの家を手放さないのは、この蛇口から出る水のために他ならない。
この家を壊したのは、壁の向こうのイスラエル人たちだ。
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