哀愁で走る車
高丘真介
1
日本に空の道を張り巡らせ、飛ぶ車を自由に走らせる。
いつでも、誰でも、どこにでも。
そんな未来は〈哀愁〉で実現できる。
地下鉄の改札を出てすぐの登りの階段。顔を上げると嫌でも目につく宣伝のパネルだ。そこには、数年前から聞くようになったある企業のキャッチフレーズが踊る。当時はただ聞き流していたが、これだけ〈哀愁〉が普及してくるとただの煽り文句だとは思えなくなってくる。
隣を歩く先輩の半田陸もパネルに目を向けている。
「飛行石じゃないんだし。誤解を招きますよね、あれ」
地上出口から差し込んでくる陽光に目を細めながら、亜沙香は呟く。
それに二度ほど頷いた陸が、応じる。
「まったくだね。いまだに〈哀愁〉を魔法か何かと勘違いしてるような表現だ」
「ほんの数年前の看板なんですけど。時代は変わりましたね」
一時期、〈哀愁〉をポケットに入れて念じたら空を飛べる、という説が一世を風靡した。理屈としては、乾電池を握ったら目から発光する、と言うに等しい。つまり、荒唐無稽なデマにすぎないということだ。義務教育でも〈哀愁〉の社会的な利用を教えるようになった現代の日本では、もはや信じる人はいない。
「〈竹の平〉程度の〈哀愁〉で車を走らせる技術が生まれたことがターニングポイントだったね。今では次世代クリーンエネルギーの最有力候補だと言う人もいるくらい」
じりじりと肌を焼く日差しを避けるように額あたりに手をかざしながら、半田陸が続ける。
「だからこそ、今回の問題は由々しきことなんだ」
目的のライブハウスまでは駅から徒歩20分程度。タクシーを使うかどうか微妙な距離だが、陸は徒歩を選んだようだ。
先輩の判断なら従わざるを得ない。そう納得しつつも、自分ならタクシーだなと亜沙香は思う。
最近の〈哀愁〉高騰の理由を調査してくれ――。
つい先日の部署内の会議で部長から指示が出て、半田陸がその担当に任命された。ついでのように亜沙香も指名されたが、入社2年目の自分がどの程度戦力にカウントされているかは分からない。
その後数日、インターネット調査も一通り行ったが、情報が多すぎて逆に何の参考にもならない。結局は足で稼ぐしかないという結論で、連日〈哀愁〉が産出されるイベント会場やライブハウスに通っている。
「にしても、zipハウスは空振りでしたね」
亜沙香の勤務する会社〈英久〉は中堅規模の総合商社だ。イベントホールや在野の〈回収員〉とも契約を結び、発生した〈哀愁〉の買取も行なっている。
zipハウスは、音楽以外にもお笑いライブや企業のイベントなど、幅広い用途で使われる会場だ。午前中に訪問してヒアリングを行ったが、目ぼしい情報は得られなかった。
「理由が分からないことが分かっただけでも収穫じゃないかな」
分かるようで分からない禅問答のようなことを口にする先輩を促し、次の施設の話題に移る。
今から訪問するのは〈モンスターロック〉という老舗のライブハウスだ。キャパは最大300人程度だが30年以上の歴史を持ち、主に日本国内の中堅ロックバンドのツアーに組み込まれることが多いという。〈英久〉は〈モンスターロック〉とは施設単位で回収の契約を結んでいる。
今回は半田陸の個人的な知り合いのスタッフとアポを取っているようだ。おそらく、過去のバンド活動の繋がりなのだろう。彼自身は曖昧なことしか話してくれないが、もともと半田陸はプロ志望で、かなり本格的に音楽活動に身を投じていたと聞く。その経験は今、この〈哀愁〉業界で遺憾なく発揮されている。
「でも高騰の原因って言ったって、価格なんて変動するもんですよね。需要と供給で決まるんだし」
「そうだね。車載用の需要が伸びているのは事実だね。それも一因なのは間違いないけど」
ここ数年の需要増へ対応するため、〈英久〉でも〈哀愁〉を扱う部門は増員が続いている。つまり会社からの期待に応える必要があるということだ。昨今の価格高騰に対する部長の焦る気持ちは、分からないわけではない。
「供給が追いついていない、っていうだけなんじゃないですかね。実施されるイベントの数には限りがあるわけだし」
公的なマーケティング機関の直近の調査結果によると、在野の〈回収員〉の数はこの数年飛躍的に増えている。傾きは少し緩くなったものの、まだ右肩上がりと言って良いレベルだ。施設単位での契約も傾向は同じだ。今まで回収されずに消滅してしまっていた〈哀愁〉の回収率は大幅に上がっているだろう。しかし〈哀愁〉の発生数自体には限りがある。いくら人を増やしても無いものは回収できない。
「イベントで発生した〈哀愁〉が狩り尽くされている状況かどうか。これ以上、いくら〈回収員〉が増えても頭打ちなのかどうか。そこが分からないんだよね」
そうですよね、という亜沙香の相槌を聞いているのかは定かではないが、半田陸は続けて言った。
「だからこそ現場の生の声を聞かないと――」
思っていたよりもこじんまりしている。
ライブハウスの外観に関しては、そんな第一印象を持った。すぐに、意外とそういうものなのかもしれない、と思い直す。
国道沿いで周りに建築物が林立する状況でもない。ライブハウスの建屋だけが唐突に現れる。だから余計にそう感じただけなのかもしれない。
半田陸の後について入口をくぐると、記憶にあるライブハウスのイメージ通りで、違和感は消えた。
と、現れた女性に目を奪われる。
ホットパンツからすらりと伸びる細い足、谷間が見えそうなほど開かれた胸。露出は多いが、あざとさはない。実に自然だ。それでいて美しく均整がとれている。赤いメッシュの入った艶のある黒髪も含め、まるで美術品を鑑賞しているような錯覚に陥る。
「はじめまして、カナです。リクには昔から色々とお世話になってます」
予想外の弱々しい口調で、ちらとだけこちらを見てくれた。視線が絡んだのは一瞬だったが、主張しすぎない二重と分厚い唇が強く印象に焼きつく。
「奥に座れる場所あるけど」
「どっちかというとホールの観客席で話したいな。もし〈モンスターロック〉さんが良ければだけど」
にこり、と頬を緩め、オーケーと口にするカナ。それに対し、いつもは見せない種類の柔らかい笑みで応じる陸。
入口を抜けてライブ会場の現場に向かうふたりに続いて歩いていると、もやもやと種類の分からない感情が湧いてくる。自分にはない繋がりを持つふたりへの、ちょっとした嫉妬心だろう。そう結論して、いったん心に蓋をする。
「〈哀愁〉の数は、ずっと変わらないかなあ」
「大きさも相変わらず?」
「うん。でも〈回収員〉は増えてるよ。だから、ホール側に残る〈哀愁〉が減っちゃってるんだよね」
「それは由々しき問題だ」
イベントで発生した〈哀愁〉を〈回収員〉が安定化処理して持ち帰るのを、施設側が妨げることはできない。そう法で定められている。結果的に、回収率が上がるほど店側の利益は下がることになる。ライブハウスが〈哀愁〉で儲けようと考えるなら、ではあるが。
客席にぽつぽつと並べられたパイプ椅子に、3人だけが座っている。それだけの空間だ。なんとなく物寂しさが感じられる。今日は特にイベントの予定されていない日のようで、ステージ上には常設のアンプ類、ドラムセットだけが置かれている。
ホール内の空調は切られている。が、少しだけ冷たい空気が滞っている。昨晩は亜沙香も名前を知っている程度には有名なバンドのライブだったようだ。午前中は、その片付けかなにか作業をしていたのかもしれない。
陸とカナは、亜沙香には分からないワードも交えながら、途絶えることなく会話を続けている。
ふたりは旧知の仲だというが、会うのは久しぶりなのだろうか。なんとなくそんな予想をしながら、話の流れに身を委ねる。
「個人でも〈回収員〉やり始めたんだよね?」
「まあホントに小遣い稼ぎ程度だけどね。このハコ以外でも〈哀愁〉を見ることも増えてきたから」
と、囁くようなカナの声が途切れる。その視線が、ちょうど亜沙香の右手後ろに固定される。振り返るが、何も見当たらない。ちょうど柱の角になる部分だ。
あるね、と席を立つ半田陸につられて、亜沙香も立ち上がる。陸の視線も、カナと同じ場所に注がれている。もう一度そちらに目を向けるが、何もない。何もないことで逆に合点がいく。亜沙香だけが見えない何か――つまり〈哀愁〉がそこにあるのだ。
カナが柱の角に近づいていく。いつの間にかその手には〈安定化薬〉が握られている。注射器に似たフォルムも、この仕事をしていると見慣れてくる。
何もない空間に、その注射器の切先を刺す仕草をするカナ。一瞬、注射器が宙に浮いているような不自然な状態になるが、すぐに空間が白に染まる。手のひらサイズの直方体が象られていく。こうした安定化処理がされない〈哀愁〉は、個体差はあるが数分から数時間後には自然消滅すると聞く。
「〈くず哀愁〉だね。きっと」
感情のこもらない口調で言いながらも、しっかり回収を済ませるカナ。
「雰囲気だと〈梅の上〉と言ったところ?」
〈哀愁〉の価格は大きさだけでなく質によっても左右される。質とは一言でいうと〈哀愁〉の純度と言われるが、それ以上の学術的なことは亜沙香には理解できない。
とにかく、松、竹、梅、のランクがあり、それぞれのランクのなかで特上、上、平のクラス分けがされる。いわゆる〈くず哀愁〉とは通例〈梅の上〉以下の物を指す。正式な鑑定をするまではランクの判断はできないが、見ただけで分かる人には分かる、という。
そもそも〈回収員〉になれるのは、〈哀愁〉が見える一部の選ばれた人間だけだ。半田陸とカナは、その生まれついての能力者だろう。日本人のうちの1%未満とも言われる。
「キレイなシルバーですね」
〈安定化薬〉の色は〈回収員〉の数だけ存在する。当然、人間には見分けがつかない微々たる違いになるが、個人ナンバーとしての機能を果たしている。
「ホワイトシルバーです」
ずいぶんと年下の亜沙香に対して敬語で話すカナ。ビジネス的には自然だが、そう思うと、陸へのタメ口が浮いている。が、その後の、「髪の色も合わせようかと思ったけどやめた、さすがにね」というセリフは少し自嘲が滲む砕けた調子だった。
「やめてよかったと思います。その黒髪、とても綺麗なので」
この言葉は、つい口をついて出た。
と、口元を音の無い「え」の形に開いたカナはしばらく動きを止めた後、その唇をゆっくりと笑みの形に変える。ありがとう、お世辞でもうれしいよ、と初めて素に近い言葉をかけてもらえた。
お世辞ではなくて、を声に出せないまま、会話は別の方向に進んでいく。諦めた亜沙香は、もう一度、流れに身を任せる。
「数は変わらない。けど〈くず哀愁〉の割合が増えたと思う。とくにここ最近は」
「ネット上でも一部、そういう説も挙がってるね。そうだとしたら、なぜなんだろう?」
そうだ。今日はその話をしにきたのだ。いつの間にか、話し始めてから1時間以上経っていた。
なんの根拠もないけど、と前置きしたカナが、
「音楽業界の変化だと思ってる。今は、色んな知識と技術があって達者なアーティストは多いよ。でもみんな、音楽らしきモノの上辺をなぞっているだけ」
前置きとは裏腹に力のある口調で、続ける。
「最近のライブはとにかく底が浅い。だから質の高い〈哀愁〉も生まれないんだ」
今日一番確信の滲む、はっきりした口調だった。対して、そうか、とだけ応じる半田陸の本音は読み取れなかった。
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