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「ヒアリング対象を、うちの苦手としてる演劇ホールの方にも広げてみたらどうだろう? ついでに施設との回収契約につながれば一石二鳥だしね」
定期報告会の場で課長の川島が言う。部長も賛成したため、その方針には従わざるを得ない状況になった。
分かりました、と感情のこもらない声で応じる陸は、明らかに乗り気ではなさそうだ。
気が乗らない理由は、亜沙香にも分かる。今聞き取りをしたいのは〈哀愁〉業界の実情、本音の部分だ。そもそもの関係性がない人間に打ち明けるとは思えない。
「先程も申しましたが、調査対象は〈竹〉以上のものに一旦絞りたいと思います」
「〈くず哀愁〉の価格はそれほど上がってないという話だったな。需給面にも大きな変動はない、と」
陸の視線を受けた部長がそう応じて、さらに続ける。
「ハイクラスの〈哀愁〉は、確かに需要が伸びている傾向がある。これが影響しているのは間違いない。しかし、今の価格変動の推移と完全に一致するとは言い難い。さっきのデータだと、そういう結果なんだな?」
「ええ。なにか別の因子も絡んでいる可能性が高いと考えています。そのあたりの仮説検証を続けたいと思います」
別の因子、というワードが、亜沙香の脳内でファクターXと変換される。どうしても、最近〈くず哀愁〉が増えている、と音楽業界を嘆いたカナの言葉が蘇ってくる。
川島が、そろそろ時間もありますので、と会議のまとめのようなことを進め始める。その内容は聞き流しながら、ファクターXについての考えを巡らせる。
「演劇ホール、予想通りダメダメじゃないですか」
課長の提案に従いアポが取れた大小10件近くの施設に一週間ほどかけて訪問したものの、意味があったとは言い難い結果だった。
「まあ。僕らの話術が無いだけかもしれないし」
「っていうか、言い出しっぺが自分で行けばいいんですよ」
事務所が入っているビルの別階フロアを借りきった倉庫で、月に一度の〈哀愁〉の在庫確認に勤しんでいる。作業しながらも、愚痴が溢れてしまう。
亜沙香の所属するのは調達部門だ。出張が多くなってくるとルーティンの事務作業が滞る。必然的に残業が増え、つい口調も荒くなる。
「課長だからね。マネジメント業務が忙しいんじゃないの」
合計5名の課員の管理というのがどれほどの負荷なのか、亜沙香には想像ができない。
「でも〈株式会社AISYU〉の窓口だけは全然譲らないですよね。毎週ぐらい行ってないですか?」
「それは会社の方針なんだ。〈株式会社AISYU〉との関係は、ある意味この部門の生命線だから」
〈哀愁〉を初めて産業化したのが、〈株式会社AISYU〉だ。創業者のミツルはもともとは有名なロックバンドのボーカリストという変わり種の人物。今では身を引き、その消息は誰にも分からないと言う。
当初、基礎研究、デバイスへ組み込むための開発、回収された〈哀愁〉の流通等、関連業務すべてを自社で担っていた〈株式会社AISYU〉。しかし、車を走らせる次世代エネルギーとしての活用が現実味をおび始めたタイミングで、他社の参入を認める意思を表明する。これが〈哀愁の自由化宣言〉だ。
「ファクターXはやっぱり、最近のアーティストの質が悪くなった、ってことですかね。カナさんが言うように」
首を傾げる陸の視線で、ファクターXという勝手な用語を口に出してしまったことに気づいた。慌てて訂正しようとすると、その前に、ああなるほど、と珍しく軽やかに返してきた陸が続けて言った。
「いいね、ファクターX。次からそれでいこう。でも現実問題、特定するのは難しいだろうね。ファクターXはひとつとは限らないし」
「複数犯の可能性もある、と。なるほど」
夜19時が近づき頭が重くなってくるが、ラストスパートだ。棚には大小様々で、色とりどりの〈哀愁〉が陳列されている。その整合を取るのが仕事だ。膨大な数になるので、月ごとにカウントする棚は決められており、年間を通して全ての棚が一度は確認されることになる。
この倉庫にあるのは〈鑑定員〉により正式にクラス分けされた〈哀愁〉。〈松〉はほとんどなく大部分が〈梅〉クラスに分類されている。こうみると、カナの言う〈くず哀愁〉が増えた、という説もあながち間違っていないのではないか、とも思ってしまう。実際の入荷履歴のデータでは他の要素によるバラつきに埋もれてよく分からなかったのだが。
「また数が合わないです――」
「ああ。仕方がないね」
ぴったり一致することの方が稀だ。良くないのかもしれないが、合わないことに慣れてしまった。いつも通り現物に合わせて台帳の修正を行う。全て完了したと同時に目の乾きが気になり、視線を外して何度か瞬きをする。
と、同じように顔を上げていた半田陸と、目が合った。なぜか視線を逸らさない陸に、何ですか、と促す。
「今日の晩、ヒマ?」
「えっ。先輩‥‥急にどうしたんですか?」
「ご飯でもどうかと思って。もちろん奢るから」
光の反射のせいだろうか。視界の隅にあるグレーの〈くず哀愁〉が、なぜだか少しピンクに色付いて見えた。
明滅する視界と共に、ぼんやりと意識が戻ってくる。
ガラス越しの景色が勢いよく動いている。それで車中にいることが分かった。音はほとんどない。おそらく〈哀愁〉で走るタクシーだ。最近急速に増えてきたと聞く。
〈哀愁自動車〉は、燃料や電気で走る車とは根本的に機構が異なり、部品点数が劇的に少ないという。まず、車体の〈哀愁〉ボックスに、専用の加工をされた〈哀愁〉のデバイスを取り付ける。そこからダイレクトにタイヤが回転するエネルギーが発生するため、動力の変換機構が不要だ。排気も排熱もなく、そのための配管や冷却機構なども必要としない。〈哀愁〉が消費されて消滅したらデバイス交換をする。それだけで良いという夢のエネルギー物質だ。
しかし、そもそも〈哀愁〉がいったい何で出来ていて、なぜエネルギーになるのか、実はまだ学術的な理論が構築されていない。なぜ〈哀愁〉で車が走るのか。それは誰にも説明ができない。理屈が不明瞭のまま、活用方法の開発だけが進んでいるのが、今の〈哀愁〉業界の姿だ。
徐々に明瞭になってくる頭で色々と考えていると、うっすらとした恐怖が芽生えてきた。
「起きた? もうすぐ着くからね」
あれ、ここどこですか、だけの言葉でも驚くほど呂律が回らない。
「覚えてないの?」
一緒に乗っているのはカナだ。
陸に誘われ向かった居酒屋にはカナが待っていた。最初は少し構えてしまったが、意外にも会話が弾んだことが嬉しくて、矢継ぎ早にワインや日本酒を干していったところまでは覚えている。
アルコールの全く抜けていない頭で、ここまでの流れを必死に思い返す。
陸とカナは、たまに連絡は取り合うものの、ほとんど会うことはなかったようだ。まして個人的に食事に行くような関係性ではなかったとのこと。だからこそ、今日は亜沙香が呼ばれたのだ。緩衝材の役割だろう。
ふたりの昔話から始まったが、すぐに近況報告になった。職種は全く違うが〈哀愁〉という共通点はある。お互い自然と話題はそちらへ向かう。どちらかというと陸は聞き役に回っていた。ひょっとすると、この会もヒアリングの一環という意識だったのかもしれない。
「狭いとこだけど、ゆっくりしてね」
比較的新しいワンルームマンションの5階。カナはちょっと失礼、と、上着を脱いで、バスルームに向かう。すぐにシャワーの音が聞こえてきた。
店で潰れて寝てしまったわけではないようだが、記憶が途絶えている。その間に陸は帰路につき、なぜか亜沙香はカナの家に泊まることに決まったようだ。確かに亜沙香のアパートは、タクシーで帰るのを躊躇する程度には距離がある。
ひとり残された部屋で、ベッドに座るのもためらわれ、カーペットに腰を下ろした。
と、ベッド脇の引き出しがうっすらと開いているのが目に留まった。白とグレーでまとめられたインテリアの中で、その隙間から見えるカラフルな色味がやけに目立つ。酔いも手伝って、興味に任せて引き出しに手をかけた。
それは〈哀愁〉だった。パープルやエメラルドグリーンなど、どれも亜沙香の見た中でもかなり美しい部類の色合いだ。そういえば、宝飾品として集めている好事家も一部にはいる、と聞いたことがある。つい見入っていると、浴室の方から扉を開ける音がして、顔を上げた。
湯気とともに現れたカナ。高級な猫を思わせる神秘的な瞳に、濡れた髪が無造作に被さっている。ノーメイクのカナもまた違った造形美だ。思わず嘆息してしまう。大きめのTシャツだけを羽織り、あとは下着だけなのだろう。肌の白さに惚れ惚れとする。
「それ。いいでしょ」
それ、が何を指しているか一瞬だけ分からなかったが、その視線を追うと分かった。
「知り合いの〈回収員〉に貰ったんだ。どうせ〈くず哀愁〉で、売っても二束三文だしってことで」
「でも、これだけ揃うとキレイですよね」
そうでしょ、と言い残し、カナが脱衣所に戻っていく。すぐにブローの音が聞こえてきた。
この後、眠りに落ちるまでとりとめもない話題で盛り上がり、名前すら聞いたことがない古いバンドのCDを何枚か借りることになった。そして、そのCDの返却という口実で、また飲みに行く約束を交わした。
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