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相変わらずヒアリングを続けているのか、陸は毎日午後になると出張に出てしまう。課長の川島からは何度か陸の居場所を訊かれ、知らない旨を伝える度に軽く小言を言われる日々だ。そんなに気になるなら本人を直接問い詰めれば良いのだが、それはしていないようだ。言いにくいのか、もしくは、打合せでの報告を待つつもりなのかもしれない。
亜沙香も最初は探りを入れていたのだが、もう諦めている。ちょっと詰められた程度で態度を変えるような人間ではない。そのぐらいは分かっている。
朝から仕事が手につかず、定時が過ぎようとしている。陸はいつものように出ていったきりだが、そんなことはどうでもいい。今日だけは。
チャイムと同時にパソコンをシャットダウンした亜沙香は、すぐに席を立った。
カナに誘われたライブを見に行くのだ。
〈モンスターロック〉までの移動時間を考えると、それほど余裕はない。ぐずぐずして誰かに止められるのは避けなければならない。
どうにか会社を出ることはできた。第一関門突破だ。一直線に駅に向かう。
〈モンスターロック〉の最寄駅で降りて、予定通り到着する旨、カナにメッセージを送る。そしてスマホをカバンにしまい顔を上げた、その時。
予想外のフォルムが視界の隅に映り、思考が止まる。なぜ、と思ってしまった分、行動が遅れた。慌てて振り返り、その姿を探す。
背中が見えた。そんな気がした。ただそれも一瞬で、すぐに見失ってしまった。立ち止まったまま冷静に思い返す。それでも間違いない、と思う。あのフォルム、そして一瞬見えた後ろ姿は、陸だ。彼がこの駅に来る理由は何か。今日だけなのか、それとも。
カナにぶつけてみる、というのも一案だ。しかし、陸が怪しい動きをしている、と飲みの席で伝えた時、彼女のリアクションは無かったのだ。
ぐるぐると思考を巡らせるが、一旦ここで打ち消す。これ以上考えても分からない。分からないことを考え続けるのは無駄だ。無駄なことはしたくない。それに今は、急いで〈モンスターロック〉へ向かわなければ。そう切り替える。
ライブハウスが見えてくる。以前ヒアリングで訪れた時とは違う賑わいだ。と、数十人の行列からカナが出て来た。小走りでこちらに向かって来る。
「今日はスタッフ扱いで入って貰うから。特等席だよ」
いつもより艶のある唇でリズミカルに話すカナ。口角も上がっているように感じられる。全身からは熱気が感じられ、キャミソールから覗く隆起した鎖骨に、汗が浮いている。ふと、その汗を舐めてみたい欲望に駆られ、慌てて視線を外した。
ライブはいつの間にか始まり、ぬるりと終わった。そんな印象だ。それでも2時間を超えていたのは意外だった。不思議なほど時間を感じなかった。別の物理法則が働く世界へいざなわれていた。そう言われても納得してしまうような体験だった。
カナは終始心地よさげに体を揺らしていた。能動的に動いているというより、ホールを包み込む音にただ身を委ねているように見えた。目は薄く開き、口元は自然な笑みの形だった。
亜沙香も真似をして音の波に乗ろうと試みた。最初はどうしても周りの人が気になりうまくいかなかった。ただ、それも数曲が終わる頃には無くなった。オールスタンディングでほぼ満員に埋まった客席。でも、全員がひとりだ。その思いに至ってからは、音の海に深く潜ることが出来た。
「今回のツアーでは、アクティブのピックアップ、使ってみた。みんな、ギターの音の違い、分かるかな」
途中で一度だけ、MCの時間があった。ぽつりぽつりと途切れながらの喋りは、お世辞にも饒舌とは言えない。でも、ここで達者な話術は不要だ。そのくらいは亜沙香にも分かる。
実はこれ、電池じゃなくて〈哀愁〉なんだ、とギターボーカルの男が続ける。
「〈哀愁〉で鳴ってるんだ、このギター。凄いよな、なんか。どこかで誰かが演奏して、そして産み出された〈哀愁〉で、またこうしてライブができて。また今日の〈哀愁〉で、誰かがどこかでライブして‥‥」
そしてもう一度、凄いよな、なんか、と囁くように言う。少しの沈黙のあと、すぐに曲が始まる。その後は一度も喋ることなく、最後まで曲だけが続いた。要所要所に変拍子と不協和音のようなノイズを織り交ぜた独特のサウンド。事前に何枚かアルバムを聴いて来たが、よく理解できていなかった。ライブで聴いて初めて、良さが分かる。これも〈哀愁〉で鳴るギターのおかげなのかもしれない。ふと、そんなことも思う。
ライブの翌日、陸がいつものように会社を出た後、しばらくして亜沙香も出張に出た。すでに陸の姿は無いが、行き先は予想ができている。
〈モンスターロック〉に着くと、予想通りその建物の前に陸が立っていた。昨日すれ違ったのも、やはり陸だったのだろう。そう確信する。カナに会いに来ているのか、とも思うが、ライブハウス内に入る様子はない。むしろ見つからないように身を潜めているような、そんな雰囲気だ。
1時間ほど経っただろうか。ライブハウス入り口付近に立ちつくして身動きしない陸に見つからないように身を潜める亜沙香。終わりのない時間に限界を感じ、一度駅前に退散することにした。チェーン店系のカフェでしばらく涼んで、英気を養う。こうしている間にも陸に動きがあるかもしれない。とはいえ、ずっと付き合ってあの場所に居るわけにもいかない。
持ち出していたパソコンでたまった仕事を適当に処理する。と、いつの間にか夕方になっていた。就業規則では退社すべき時刻だ。気づいた亜沙香は作業の手を止め、パソコンを閉じる。
そのまま帰宅しなかったのは、念のために寄っておこうという程度の気持ちだった。さすがにこの時間まで同じ場所に留まっているわけがない。そうたかをくくっていたので、〈モンスターロック〉の入り口で数時間前と同じ姿勢で立ちつくしている陸を目にした時には、驚きを通り越して若干の恐怖を感じた。
いったい何のつもりなんだろう。ひょっとすると、今日の昼過ぎに最初に見たタイミングなら、まだ声をかけて問い詰めることも出来たのかもしれない。今となってはその勇気がない。逆に亜沙香が今ここにいることの説明もできない。
日も沈みかけ、周囲を行き交う人の姿も少しずつ判別しにくくなってくる。そんな時間になって、石像のように生命の気配を消していた陸にようやく動きがあった。といっても、〈モンスターロック〉に立ち寄ることはしないようだ。駅の方向へ歩き始める。仕事帰りのスーツの群れの中に、何事もなかったかのように同化していく。実際何もなかったのだが。
陸の姿は駅の改札を通ったところまで確認して、この日の尾行は終える。視界からその背中が消えた瞬間に、思わず息が漏れた。
ファクターXへの道のりはまだ遠いようだ。なんとなくそう感じて、もう一度大きく息を吐き出した。
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