6
連日、判で押したように行き先を告げずに出ていく陸。その後を追って、亜沙香も出張に出る。さすがに、毎日はやめておくことにした。時間帯も昼過ぎのこともあれば、かなり遅い時間になってから出たりと、不審がられない工夫をこらす。
そんなある日。夕刻に〈モンスターロック〉を俯瞰で見られる場所に到着した。しかしいつもとは違い、陸がいない。今となってはライブハウス入口とセットになっていたので、逆に不自然に感じる。
ライブがある気配は無いが、なぜか入口は開いているようだ。ひょっとすると、陸が中にいるのかもしれない。そんな思いとも相まって、亜沙香は吸い寄せられるように〈モンスターロック〉へ向かっていた。
入口付近で一度立ち止まり、中の気配を伺う。人の話し声が、冷房の空気と共に漂ってくる。聞き覚えのある落ち着いた音程。カナの声だ。もう一人は誰だろう。少なくとも陸ではない。興味が理性を上回り、足が前に進む。入り組んだ通路をゆっくりと歩く。内容が聞き取れる場所で立ち止まる。向こうからは見えない位置に陣取り、壁に背中を預けた。ちらとだけ中の様子を伺う。痩せ型で小柄な、割と若い男だ。
聞き耳を立ててみるが、聞いたことのない固有名詞が飛び交っていて、内容は入ってこない。音楽関係者だろうか、と推測した矢先、〈哀愁〉というワードが耳に届く。ぐっと集中度を上げる。じり、と少し移動して、ふたりの姿を視界の端にとらえる。
その時、動きがあった。カナが差し出しているのは〈哀愁〉だ。しかも、一緒に参加したライブで回収した、あの深いシルバーの〈哀愁〉だ。そう気づいて思わず声を上げそうになった、その刹那。
口元を何かが覆う。一瞬、息ができなくなる。払い除けようとする手も、強い力で押さえられる。身動きが出来ず、冷や汗が出る。いよいよ全力で抗うべく腕に力をこめる、その直前。耳元で、静かに、の一言。いつもの声だ。それが分かって、ギリギリで理性を保つ。おとなしく動きを止めた。
口元を覆っていた布状のもの、おそらくハンドタオルが取り去られた。大きく息を吸い込み、振り返る。目と鼻の先に陸がいた。静かにしてて、ともう一度耳元で囁かれる。その手元には、スマホが握られていた。動画モードを示す赤いランプが灯っている。そのカメラの先は、カナと男に向けられている。
聞こえて来たのは〈哀愁〉、〈松〉クラス、高額買取の対象、裏価格表の三倍、などの断片的な言葉ではあったが、何が行われているかを推理するのには十分すぎる情報だ。亜沙香の脳裏にファクターXというワードがちらつく。
ここで、今まで息遣いすら聞こえなかった陸が動いた。
〈哀愁〉を手にした男と、数枚の紙幣を手にしたカナのいる室内へと躊躇なく入っていく。亜沙香もすぐに後を追う。普段客が足を踏み入れることのないスタッフルームだ。簡素な6畳ほどのスペースには、ノートパソコンが載った机と、パイプ椅子が2脚。
予想外の闖入者だったのだろう。最初はただ呆気に取られていたふたりだったが、すぐにカナの方は鼻で笑うように息をついて、口元だけ笑みの形に曲げる。
「で、どうするつもり?」
もうすでに諦めているカナ。その隣で、一言も発さずに様子を伺っている男は、まだ慎重に機会を伺っているように見える。亜沙香はそちらにも注意を切らさず、カナの方に視線を向けた。その憂いのある目には、闇取引の現場が見つかったというのとはまた別の感情が滲んでいるように見えた。考えすぎかもしれない。でも、そう捉えないと説明がつかない深い憂鬱の色だ。
ふと、あの丸い瞳が〈哀愁〉だとしたら、と、場違いなことも考えてしまう。そうだとしたら、間違いなく最上級クラスだろう。
「どうもしないよ。どのみち近いうちに〈哀愁〉は完全に自由化される。そうなると、こういう在野での取引も違法なものではなくなるんだ」
「だからと言って、今これが許されるわけではない‥‥よね?」
この言葉は、なぜかカナの口から出た。どうも立場が逆のように錯覚してしまう。隣の男もカナを振り返り、不安そうに見つめている。
「いや、どうだろう。実際、法的に罰があるわけではないんだ。知ってるかもしれないけどね」
この言葉に、男は目を見開き、今度は陸の方へ視線を移した。その様子から、罰則がないことを知らなかったのだろう、と推測できる。勉強不足だ。
一方で、ええ、そうね、と小さく口にしたカナは、続けた。
「だから、どうするつもり、と訊いた。あなた達の意思に委ねるしかないから。私にはもう、どうすることもできない」
確かに法的な罰はない。が、正確にいうと、この業界での信用を失う、という代償がある。〈回収員〉だった場合は、商社から契約解除されると、〈安定化薬〉の入手が出来なくなる。〈株式会社AISYU〉に伝わればブラックリストに載るため、他の商社と契約することもできない。つまり、この業界で生きていくことは出来なくなる。
あなた達の意思に委ねるしかない。
カナはこう言った。
価格高騰の理由――ファクターXがこれら闇取引だけだと断言はできない。が、大なり小なりは影響している。会社や業界にとって不利益なのは間違いない。
「ヒアリングに来たあの日に、ちょっとした違和感は覚えていたんだ」
「そう‥‥私的には、うまく隠し通せたと思っていたけれど」
自嘲の作り笑いを含んだ口調で、ぽつぽつ話すカナを陸が制して、
「決定的だったのは、多分、それだよ」
小柄な男の手にある深いシルバーの〈哀愁〉を指差しながら言うと、亜沙香の方を見た。同時に、カナもこちらに視線を向けてきた。
「それ、一緒に行ったライブで回収したやつですよね?」
「え? あ‥‥うん。でも、なんで‥‥」
戸惑うカナに、亜沙香が答える前に陸が口を挟み、
「前に見たカナのシルバーより深い色味だった、と、言ったんだ。彼女の中では、あくまでも上級のクラスだからだ、と納得していたけれど。でも、そんなわけがない」
「見分けつかないと、思ったんだけどね。ちょっとみくびってたかな」と、カナ。
「そうだね。彼女、意外と繊細な感覚を持っているのかも知れない」
そう言うと、陸が亜沙香に目を向け、クラスの違いで色は変わらない、と断じる。その意味がすぐには理解できない。
「少なくとも人間に識別できる差はない。だから、もし違う色に見えたなら、本当に違う色だったんだ」
「あ‥‥て、ことは‥‥」
〈安定化薬〉は〈回収員〉ごとに異なる色が割り当てられ、それが個人ナンバーの役割を担っている。その識別には、闇取引防止の役割もある。わざわざ自分の個人ナンバーを闇に流すリスクを冒す理由がない。
カナの家で見た、ベット脇の引き出しにあった色とりどりの〈哀愁〉が、脳裏に蘇ってきた。
「そこまで分かっているなら、もう言うことは何もない。もう私にはどうにもできない。好きにしてもらえれば」
何もかもどうでもいい、と亜沙香の耳には響き、その反響の渦が胸の奥を深くえぐる。そんな言い方しないで、という溢れそうな感情をどうにか飲み込む。
ふと、ふたりで訪れた居酒屋で、私だけ取り残されちゃった、と呟くカナの横顔が、脳裏に蘇ってくる。枯れた唇。諦めの滲む胡乱げな瞳。
こつん、と〈哀愁〉が机に置かれた音が室内に響いた。カナの隣でただ立ち尽くしていた男が、両手のひらを広げてこちらに見せてくる。まるでその権利を放棄することをアピールするような仕草だ。ふと、最近見た洋画のワンシーンを思い出した。前半の何でもないシーンだ。そこで同じように手のひらを見せた小悪党は、あっさりと撃ち殺されている。
「業界人である以前に、僕もひとりの人間だから」
どうやら陸は小悪党などには興味がない様子だ。淡々と変わらない調子で語られる言葉は、カナだけに向けられている。
「損得は慎重に天秤にかける方なんだ」
小さく首を傾げるカナ。何度か瞬きをしたその目でじっと陸を見ている。
「こんなことで、友人を失うのは割に合わない。正義か悪かはどっちでもいい。それが、僕の結論だ」
分かった、と、なぜか予想通りかのようなリアクションをしたカナが、
「じゃあ、どうして?」
それでもここに来たことには、理由があるはずだ。
じゃあ、どうして、は亜沙香の言葉でもある。
「会社員としての損得計算でね、どうしてもやらなきゃいけないことがある。だから、今日はカナには協力のお願いに来たんだ」
彼が何のことを言っているのか、にわかには分からない。もっとも、理解できないのが彼のデフォルト仕様だ。
一方のカナはすぐに意図に気付いたようだ。オーケーと唇の形だけで表現して、口元だけの笑みを見せた。
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