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 〈英久〉が〈哀愁〉の取り扱いを始めてから、約10年。その間、売上額は毎年順調に伸びている。しかし今年度は、それが足踏みになる見込みだ。当然、まず原因分析が行われた。売上は業界別、さらに各顧客別に過去からの経緯がまとめられた。またそれぞれ、松、竹、梅、のクラス別にも傾向分析が行われた。結果、関連性が指摘されたのが〈哀愁〉の価格高騰とそれに伴う販売数量の減少だった。

 今回部長から価格高騰調査の指示が出たのには、こういった背景があった。


「裏価格表、と呼ばれている一覧はご存知でしょうか?」


 一通りの報告を終えた半田陸が、付け加えるように皆に問いかける。

 部長、川島課長、課員5名が冷房の効いた会議室で、一堂に会している。報告自体は無難な内容に終始しており、部長も冴えない表情をして首をひねっていた。そして、何か発言をしかけた矢先、陸の方から先制ジャブを打った形だ。

 皆が牽制し合いざわついている間にパソコン操作していた陸が、映し出す画像を裏価格表に切り替えている。インターネットで入手したデータだろう。亜沙香も見覚えがある。

 部課長は口を閉ざしていたが、知っています、と、課員のひとりが声を上げる。


「先日も私の担当しているある〈回収員〉の方から、裏価格表を盾に買取価格の改定を要求されました。でも、正直あの額は受け入れられませんね」


「通常の価格表と何割ぐらいの差があるんだ」部長が訊く。


「何割、というレベルではないです。一番差がない種類でも倍以上の価格設定です」


 さらりと口にする課員に、そんなことになったら産業として成立しなくなる、と独り言のように吐き出す部長。


「そもそも、なんでそんな価格表がまかり通っているんだ。こんな値段で買う商社があるわけないだろう」


 特定の人に向けての言葉ではない。誰も答えを持っていないことを分かっているのだろう。席に座ったまま、じっとスクリーンに映し出された裏価格表を凝視したままだ。

 皆目を合わせずに押し黙ったまま、じっと前を見ている。そんななか、陸だけが全員の様子を伺うように、会議室内に視線を這わせている。


「これ以上の議論は難しそうですので、今日のところは。継続調査という事で、よろしいでしょうか」


 問いかける、というよりも報告の口調だ。誰も異を唱えようがない事が分かっているのだろう。

 と、そこで、ああ、とわざとらしく口に出す陸。さらに、そういえば、と慌てたような仕草でパソコンを叩き始める。

 席を立とうとしていた数人の課員も、もう一度着席して前方に目を向けた。


「もし価格高騰問題に関係あればと思いまして。つい先日のもので、編集もしてなくてすみませんが、少しだけお時間頂戴できれば」

 

 陸が立ち上げたのはある動画ファイルだった。この展開は亜沙香も聞いていない。

 狭い飲食店内が映し出されている。ジャズのようなBGMに、ときおり会話の音声が混ざる。画面は定点で、小さな空席のテーブルが中心に位置している。店員なのだろう。忙しない動作の女性が横切っていく。

 と、ひと組の男女が入ってきて、そのテーブルについた。画面は、ふたりの姿を横から撮る構図だ。

 女性の方はある意味で予想通り。これが「協力」の内容なのだろう。見慣れないパンツスーツ姿のカナだ。いつも通りの艶のある黒髪は、さっぱりと後ろにまとめられている。

 もう片方の男は、すぐにはその人物にピンとこなかった。いつもと違う私服姿だからだろうか。想定していないからかもしれない。会議室内のどこかから、課長、という声が漏れ聞こえてきて初めてそれと認識した。

 数十本の〈安定化薬〉と引き換えに、課長、川島の手元にかなりの枚数の紙幣が渡った様子が、はっきりと収められている。周囲の雑音に紛れて、会話の内容は途切れ途切れにしか聞き取れない。こちらは後から細かく修正を加えてやれば、もう少し明瞭になるはずだ。ただそんな作業が不要に思えるほど、視覚情報だけでも残酷なまでに明白な内容だ。

 動画は、時間にするとほんの10分程度のものだった。しかし、この場にいる全員が異なる体感時間を経験しただろう。


「最近、なぜこんなに闇取引が横行しているか、不思議には思いませんか?」


 いつもと変わらぬ淡々とした口調で、陸が口火を切る。


「いち会社員の立場で〈哀愁〉を横流しするのは、リスクが大きすぎて現実的ではない。だからきっと〈回収員〉が横流ししているんだろう。僕らはなんとなくそう思っています。でも〈回収員〉の立場で考えると、逆にそれは難しい。このことは容易に想像できると思います」


「〈安定化薬〉だな」と、部長が言葉を挟んで来て、話を続ける。


「納品した〈哀愁〉の個数分しか〈安定化薬〉は貰えないんだったな。それを闇に流したりしたら、すぐに〈安定化薬〉が底をついてしまう。そんなことは小学生でも分かる理屈だ」


「もうひとつ、〈安定化薬〉の色が各〈回収員〉の識別ナンバーになっている、という事実があります。闇に流しても、すぐに足がついてしまう。その2点を共に解決する必要があります」


「そうだな。とすると‥‥なるほどな。見えてきた。〈安定化薬〉さえ自由に手に入るならば、ということだな。それも他人の〈安定化薬〉を」


 皆が部長の一挙手一投足を見守っている。


「そういえば最近、すぐに辞めてしまう在野の〈回収員〉が増えているらしいな。〈安定化薬〉も在庫が増えすぎて、さぞ困っているだろう。どうなんだね?」


 ゆっくりと部長が振り返った。その視線の先の川島は石像のように固まったまま、目を合わせようとしない。再生を停止した動画ソフトが表示されているだけのスクリーンを、ただ凝視している。




 燃え続ける焚き火は、見ていて飽きることがない。

 〈哀愁〉で燃えているからだろうか、今日は特に美しく色づいているような気がする。

 そう力説する亜沙香に、


「気のせいだろう。僕にはいつもの火にしか見えないけど」


 と、身も蓋もないことを言う陸。

 夕日も沈み少し肌寒くなってくる時間帯だ。火を絶やすわけにはいかない。頃合いを見計らいながら薪をくべる。


「私はなんか特別感を感じるけれどね、今日の焚き火は」


「カナさんにそう言ってもらえると、焚き火冥利に尽きるでしょうね」


「焚き火冥利ってなんだよ。それにしても、この利用方法は僕には想定外だった。こんなことが出来るなら、ポケットに入れて空を飛ぶっていうのも、ただの冗談とも言い切れなくなってきたね」


 〈哀愁〉が優秀な着火剤になることが分かったのはごく最近のことだ。ある動画サイト内でその実演がされてから、キャンプ好きの人々の間で一気に広まった。

 通常〈哀愁〉をエネルギーとして使う場合は、何らかの専用デバイスを使う。しかし電池とは違い、そこに明確な理屈はない。

 着火剤にするときは、〈哀愁〉そのものを直接焚き火に投入する。ここに従来技術からの飛躍がある、と言われている。

 そもそも〈哀愁〉は燃えない。にもかかわらず、ただそこにあるだけで焚き火を大きく燃え上がらせる。この点が非常に革命的な事だ。と、今、業界ではこの話題で持ちきりだ。

 じゃあ、そんなに話題になってるなら、ちょっとやってみましょうよ、と亜沙香の方から提案して、今日に至る。

 亜沙香としては難しい話はどうでも良くて、カナとキャンプに来ていることが純粋な喜びだ。


「川島課長、結局会社を辞めることになったよ」


 そう、陸が切り出した。

 興醒めになりそうで話題にはしたくなかったが、カナには伝えなければならない。


「逆にですけど、なんでその程度で済んだんですかね? あれって立派な横領ですよね?」


「そうだな。‥‥まあ、上の考えることは分からないけど、そんな大事にしたくないってのもあったのかもね」


「なんだかなあ、って感じですね」


「あのあと調査を進めたら、思いのほか多くの〈回収員〉に持ちかけてたらしくてね。部長も怒るのを通り越して、呆気にとられてたよ」


 ここまで黙って聞いていたカナが、軽く息を吐くように、そう、とだけ呟き、


「じゃあ、ファクターXは、川島?」


「さあ、どうだろう。そうだとも違うとも、今はまだ言えない」


 もう一度、そう、とだけ呟いたカナが、今度は亜沙香に向き直り、


「色々とごめん。それと、ありがとね」


 唐突のこのセリフに「なにが?」という返ししか思いつかず、言葉を失う。頭をフル回転させても、結局、同じ返ししか浮かばない。


「また今度、一緒にライブ見に行ってくれる? 今はただ純粋に楽しみたくて。もちろん亜沙香が良いなら、だけど」


 一瞬、裏にあるカナの意図を考えてしまったが、そんな思考とは別に口は反射的に動いていた。


「是非是非! いいに決まってるじゃないですか。近いうち、行きましょ」


「良かった。じゃあ、よろしく」

 

 火の勢いは衰えることなく、浮かび上がるカナの姿は痺れるほどに美しい。

 思考が麻痺し、その足元にひれ伏して全てをカナに捧げてしまいたい衝動にかられる。

 そんな亜沙香の思いには関係なく、夜の闇は深くなっていく。

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哀愁で走る車 高丘真介 @s_takaoka

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