魔女達の黄昏

erunas

第1話 セレナ・ヴァンテールの救済

セレナ・ヴァンテールは、かつて孤児であり、国の救済によって修道女となった。


信仰と奉仕の日々を送り、純粋に人々を助けることを使命としていたが、無実の罪を着せられ、火刑に処される寸前だった。


しかし、その瞬間に彼女は救世主と呼ばれる謎の存在に救われ、共に旅をすることとなった。


その後、彼女の記憶は途切れている。


いつ、どのようにして旅が終わったのか、自身が何を失ったのかも分からない。


ただ一つ、彼女は吸血鬼となり、過去の人間の姿ではなくなっていた。


彼女の変貌の理由を問い詰めた時、魔女カレン・ファースは「それは代償だ」とだけ告げた。


セレナはカレンと共に魔女会「ウィッチワークス」で働き、細々とした任務をこなしていた。


かつての清らかな修道女の姿からは想像もつかない日常を送りながらも、彼女の心の中にはまだ信仰と正義の火が消えていなかった。


そして、自分の失った記憶や、再び救世主と出会うことを密かに願いながら、吸血鬼としての新たな運命を受け入れて生き続けていた。


雨が続き、廃墟の城で彼女達は住んでいた。

セレナ・ヴァンテールは、栗色の長い髪を淑やかに肩へ垂らし、柔らかなシルクのネグリジェに身を包んでいた。


彼女の姿は、まるで幽かな月光が照らす妖艶な幻影のようで、死者の城に漂う冷気すらその美しさを際立たせていた。


セレナの周囲には、無数の竜牙兵たちが厳かに佇んでいた。彼らは竜の牙に宿された低級な魂であり、簡易的な召喚術によってこの世に縛り付けられた不気味な兵士たちだ。


彼らは何も語らず、ただ主であるセレナを見守るように無表情に立っている。


この城は、アルドゼファー大陸の南東、死霊帝国の最果てに位置する古びた要塞であった。


廃墟と化したかつての帝国の残滓は、今やセレナ達の居城となっていた。


彼女はその広大な浴場で、温かい湯に身を沈め、無為な時を過ごしていた。


湯気が立ち込める中、彼女は指先を撫でるように滑らせながら、自らの肌を見つめていた。


白く滑らかなその肌は、以前の彼女が持っていたものとは違う。


吸血鬼として新たな生命を与えられたその身体は、死と美しさが奇妙に同居していた。


セレナは、ふと曇ったガラスに目をやった。


そこには、ぼんやりとした輪郭が映っていたが、顔は映らない。


まるで、この世の存在でなくなったかのように――自分がもはや人間ではないことを痛感させられる瞬間だった。


「私は……いったい何者だったのか?」


その問いは、彼女自身への問いでもあり、神への問いでもあった。彼女の記憶は、火刑台に上がる前の記憶で止まっている。


それ以降、どれだけの時が流れたのかも分からない。ただ、かつて修道女であり、神に仕え、清らかな生活を送っていたという断片だけが、頭の片隅に残っている。


だが、今やその神に背を向け、忌まわしき存在として生き続けている。


セレナは、皮肉な笑みを浮かべた。


かつて神の使いだった自分が、今では吸血鬼――血を糧に生きる化け物としてこの世界に存在している。


その事実は、彼女にとって滑稽でさえあった。黒血の魔女――そう名乗ることにはどこか虚しさがあったが、それ以上に自らを定義する言葉を持ち合わせていなかった。


もはや神への祈りも、救いも必要としない身となった今、彼女にとっての唯一の必要なものは、生き延びるための血だけだった。


「修道女だった時の私は、どこへ行ったのだろう……」


セレナは、虚ろな目で天井を見つめながらそう呟いた。


神への信仰に全てを捧げていた過去の自分と、今の自分との間には深い溝があった。


その溝は、何もかもを奪い去り、彼女の心を虚無へと追いやっていた。


ふと、背後からカレン・ファースの声が響いた。

「お前が何者であったか、それを知ることに何の意味がある?」


セレナは声の方へ目を向けるが、答えは出さない。ただ、再び静寂が浴場を包み、竜牙兵たちの無言の監視が続いていた。


セレナは、自らの運命を静かに受け入れながらも、その虚しさをぬぐい去ることができないまま、今日もまた血に飢えた夜を迎えようとしていた。


セレナは浴場から上がり、湯気がまだ体から立ち昇っている。

栗色の長い髪がしっとりと濡れ、肩にしなやかにかかる。

竜牙兵たちが無言で動き、彼女に着替えを手渡す。

彼らはセレナの命令に絶対的に従う存在であり、その無感情な動作は、いつも彼女に不気味な静けさを感じさせた。


「で、何の用かしら?」

セレナは、妖艶な微笑を浮かべながら、浴場の扉の前に立つカレンに問いかけた。


カレン・ファース、魔眼の魔女として知られる彼女は、両目を封じる布を常に巻いていた。

その魔眼は人の理性を狂わせる力を持ち、彼女自身でさえもその視力を完全に制御できなかったため、常に布で封じている。


しかし、セレナは時折ぼんやりと思う。


カレンは本当にその布越しに何かを見ているのだろうかと。

彼女は盲目であるはずなのに、周囲の動きや感情を正確に把握しているかのような振る舞いを見せる。

それが魔眼の力なのか、それとも別の何かに由来するのか――セレナは答えを求めることもなく、ただ疑問を抱いたままでいる。


カレンは短く答えた。

「仕事の依頼だ。」


その言葉に、セレナはため息をつきながら、濡れた髪を指で払う。


もう少し湯に浸かっていたかったが、どうやらその余裕はないらしい。

竜牙兵たちが無言で動き、黒のドレスをセレナの体に着せる。


その姿は、誰もが振り返るような妖艶さと威厳に満ちていた。


かつて修道女だった自分がこんな姿になるとは、彼女自身でも信じられない変わりようだ。


場所を変え、応接室に入ると、カレンはすでにその場でセレナを待っていた。


魔眼を封じたまま、背筋をピンと伸ばし、何も見えないはずの目でセレナをじっと「見つめて」いるような気配を感じる。


セレナはカレンのそばに座り、机の上に置かれた依頼書に目を通した。


「また、獣人族と人族の諍いの仲裁ね……」

セレナは微かに苦笑した。

この種の依頼はいつも彼女に回されてくる。

それは、彼女がその役に「向いている」と周囲から見なされているからだった。


吸血鬼としての冷静さと威圧感、対立する者たちに不思議と影響を与えるのだ。


「面倒なことばかり回ってくるわね」

と呟きながらも、セレナは依頼書を閉じた。


もう長いこと、こんな仕事が日常となっていた。

血に飢えた夜を送りながらも、どこかで失った自分を探し続ける彼女にとって、こうした仕事はその虚無を埋める一つの手段に過ぎなかった。


カレンは口元に微笑を浮かべた。

「向いているのだから、仕方ないわね。」


その言葉に、セレナは深くため息をついた。


自分が何者であるのかを問い続ける日々の中で、唯一確かなことは、この闇の中での役割だけだった。


ウィッチワークスーーそれは非合法な力を操る組織であり、金や権力では解決できない問題に対処するために設立された闇の組織だった。


忌み嫌われる魔女達や異能の力を持つ者を有効活用するための組織、世の中に蔓延る不条理を片付けていく。

それが、彼女たちの役割だった。




セレナ・ヴァンテールは静かに依頼先の現地へと足を踏み入れた。


依頼内容は、この国から獣人族を排除してほしいというもの。


技術革新が進んだ大災害以降の世界では、人間族は銃や大砲の力を駆使し、数の上でもカの上でも獣人族を圧倒していた。


この国は建前上、平等主義を掲げてはいるが、その政策の中では獣人族たちは含まれることはなかった。

人間族との共存は難しく、相容れない存在として常に圧迫され続けている。



セレナは歩みを進めながら、何度も繰り返されてきたこの種の依頼に心の中でため息をする。


人間族は常に獣人族の排除を望むが、それは単に自らの恐れと偏見に基づくものだ。


そして、セレナの役目はその命令を遂行することに過ぎない。


断ったところで、依頼者たちは別の手段で獣人族を追いやるだろう。


誰かが手を下すのであれば、自分がその役を引き受けることに特段の感情は湧かなかった。


隔離された地域に到着すると、獣人族たちがわずかな土地に押し込められ、 監視する人間族の目が厳しく光っていた。


彼らの存在が、まるで罪であるかのように扱われている。


その光景を目にしても、セレナの心には何の感慨も浮かばない。

すでに何度も見た光景だ。

どこにでもある悲しい日常の一つであった。


黒いドレスをまとい、足元をロングブーツで固めたセレナは、静かに手袋をはめ直す。

そして、視線を空へ向け、冷ややかに呟いた。




「さぁ、救済のときよ。」





彼女はナイフを手に取り、冷淡に自身の手を切り裂いた。


深紅の血がゆっくりと流れ出し、その血が地面に落ちる前に、空に舞い上がった。


それはまるで鮮やかな花弁が開いたかのように、 空に広がり、やがて人間族の頭上で咲き乱れて、頭を貫いた。


花は次々と連鎖し、見る間に一面を血のような花畑に変えていく。


その異様な光景に、監視をしている人間たちは恐怖で動けなくなり、獣人族たちは一瞬の自由を得た。


獣人族の代表がセレナに駆け寄り、 深々と礼を言う。

彼らは近隣の国へ亡命することを望んだ。


生き残るための、唯一の道を選んだのだ。



セレナはその場をじっと見つめながら、無表情で息をつく。


いつもと変わらぬ結末だ。

何も変わらない。

何度も繰り返される、どちらかが排除されるまで続くこの闘争。

それが平和のための唯一の解決策だというなら、セレナはそれに従うまでだ。


「私はこうして。..誰かに殺されるその日まで、赤い花を咲かせ続けるのだろう。」


セレナは虚無の中でささやき、ただその言葉だけが虚空に響いた。





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