男の顔

みたか

男の顔

 一定の室温と明るさが、静けさを生み出している。フロアを踏む足音がそれをぶち壊す。ここに来るのは一年ぶりだ。

「俺、美術館って苦手なんだよなぁ」

 耳元で萩岩が囁きやがった。ぞ、と背中に走ったものを無視して、おれは笑みを作った。

「あー、おれも」

「なんか落ち着かねえなー。居波どうする?」

「とりあえず順番に回るか」

 課外活動で美術館に来た。おれたちの中学は芸術分野にも力を入れていて、年に一回は美術館に来る。おれは今年で三回目になるが、何度来てもこの独特の雰囲気に慣れない。

 順番に見ていくといっても、だいたいの人がそうするから、決まった場所で混んでしまう。遠目に眺めながら、萩岩と館内を歩いた。

 今日の課題は、絵をじっくり鑑賞して感想を書くこと、その中から一作品選ぶこと、の二つだ。選んだ作品の作者とキャプションをメモして、宿題で詳しく調べることになっている。来週には発表会まであるのだから、かなり面倒な課題だ。

 たった一つ作品を選べばいいだけだが、これが結構難しい。美術に興味がないおれですら聞いたことがあるような、有名人の絵だったら楽だろうか。調べるのが面倒くさそうな人の絵は、なるべく選びたくない。でも、有名な人の絵は選ぶ人も多そうだ。それはそれで面倒だから困る。

 ……あ、三保谷さん。

 中盤まで来たところで、思わず足を止めてしまった。萩岩がおれの顔を見て首を傾げた。

「ん、どうした? なんか見たいやつあった?」

「んーん、なんでもない」

 髪を二つに結んだ丸い頭を見て、胸が軋んだ。近づくことすらできず、通りすぎていく。

 三保谷由香さん。こんなおれが三保谷さんを好きだなんて、笑える。

 三保谷さんとはクラスが違う。喋ったこともないし、目が合ったことすらない。ただ、三保谷さんの喋り方とか笑い方とか、柔らかくていいなと思う。おれの嫌がることは絶対しないだろうし、おれを決めつけることもしないだろう。おれはきっと傷つかない。こういう人と一緒にいたら、優しい気持ちになれる気がする。

「なあ、お前って三保谷さんのこと好きなん?」

「えっ?」

 萩岩の言葉に勢いよく振り向いてしまった。こいつがおれの気持ちを察するのに充分な反応だった。

「なんだよ、言えよなあ!」

「いや……」

 心臓が変な動きをしている。音がうるさすぎてよく分からない。

 隠し通してきたのに、なんでこんなところで……。

 萩岩の腫れぼったい目が、にっと弧を描いた。いやらしい表情に吐き気がする。

「なあ、話しかけようぜ」

「えっ」

「ほら、周りに誰もいねーし、行くしかねえって」

 おれの返事を待たずに、萩岩は三保谷さんのほうへ歩いて行きやがった。

 おい、やめろ! やめてくれ!

 そう思うのに、喉が粘ついて上手く声が出ない。はくはくと口を動かしている間に、萩岩は三保谷さんの肩を叩いた。

「ねー、何見てんの?」

 振り向いた三保谷さんは明らかに戸惑っていて、心臓が潰れそうになる。萩岩の手招きに引かれ、重い足を動かした。

「ほら、居波もなんか言えって」

「あっ」

 萩岩に背中を叩かれて、足元がふらついた。とん、と肩にあたたかいものが当たる。

「あ、ごめん」

 それが三保谷さんの身体だということに気づいて、咄嗟に謝った。触れたところが熱くて、どくどくしている。一瞬しか触れなかったのに、身体の柔らかさが伝わってきてだめだった。口が緩みそうになって、必死に耐える。

「ううん……大丈夫」

 震えた声が聞こえて、身体が固まった。

 ああ、バカだ。バカすぎる。

 三保谷さんを怖がらせるなんて、何やってんだ、おれは。

 喋ったこともない、認識しているかすら怪しい男子にいきなり絡まれたのだから、怯えるのも当然だ。さあっと血の気が引いていく。

「三保谷さんごめんね、ほんとごめん……」

 そう言うのが精一杯だった。それなのに、顔は勝手に笑顔を作りやがるんだから、本当にどうしようもない。

 萩岩のシャツを引っ張って、三保谷さんから離れた。

「なんだよー、せっかく行ってやったのに。全然話してねえじゃん」

「あーはは、うん、ごめんな」

「あーあ、つまんねえ」

 手が出そうになって、拳をきつく握った。腹の奥が煮える。熱い。無神経な萩岩にも、嫌だと言えなかったおれにも、腹が立って仕方ない。

「そんなにヘラヘラしてたら、すぐ取られっぞ」

「あー、そうかも」

 笑顔を貼りつけて返すと、萩岩はため息をついて歩いていった。

 こういうとき、どうしたらいいのか分からない。笑うしかできない。

 だって、笑顔だけがおれを守る術だったんだから。今更生き方を変えるなんて、できない。

「……あ」

 ふと前を見たら、絵の中の男と目が合った。身体が固まる。動かない。

 曖昧に滲んだ男が、おれを見つめている。光のない目が、おれの奥の奥まで裸にする。

 嘘つきめ。

 猫を被っただけの意地汚い人間め。

 そう目が訴えている。

 そんなことを言われたって、おれを受け入れなかったのはお前たちだろうが。お前たちがおれの気持ちを無視してきたから、おれは諦めたのに。

 親父の顔が浮かぶ。涙がおれの目に溜まって、整えられた顔が歪んで見えた。

——いやだ、行きたくない。

——うるさい、ぎゃあぎゃあ喚くな。

 嫌な気持ちが腹の奥に沈んで気持ち悪い。吐きそうな不快感を飲み込んで、おれは口を開いた。

——行きたくない…………。

 だって、「お父さん」だから。きっと、おれの気持ちを分かってくれる。なんで行きたくないのか、どうしたらいいのか、一緒に考えてくれるはずだ。そう思った。「お父さん」に期待した。

——口答えするな! お前は何も分かってない! お前のことを思って言ってやってるんだぞ!

 馬鹿でかい声が耳を突き刺す。腕を引っ張られ、玄関から放り出された。

 こうなったらもう、家の中には入れてもらえなかった。一緒に投げ出されたランドセルを背負って、通学路を歩いた。

 家の門を出た瞬間、涙が引っ込んだ。人からどう見られているのか気になって仕方がなかったから、泣きながら学校へ行くことなんてできなかった。

 近所のおばさんに、どうしたの? と聞かれたらどうしよう。そんな恐怖がおれを襲って、急いで歩いた。

 大丈夫です。朝ちょっとお腹が痛くなっちゃっただけで。でももう平気です。行ってきます。

 呪文を頭の中で何度も唱えた。もし聞かれたら、そうやって笑顔で返すつもりだった。

 おばさんに話しかけられることはなかった。ランドセルが重かった。おれが気持ちを吐き出しても、何も変わらないということを知った。

 おれは猫被りだし、嘘つきだ。でもそうしないと生きてこられなかった。自分を守るために、そうするしかなかった。笑顔で頷けば揉めることもない。おれが謝れば丸くおさまる。嫌な気持ちになる人もいない。おれが我慢したらいい話だ。おれが耐えて円満に進むのなら、耐えるしかない。そう思った。なのに、笑っていてもだめなら、どうしたらいい?

 あのとき、気持ちをもっと上手く言うことができていたら。こんなことにはなっていなかったんだろうか。

 鼻の奥がツンと痛む。鼻をすすると、萩岩が振り向いた。

「どうしたん?」

「いや……」

「早く行かねーと、絵決まんねえぞ」

「おれ、これにするわ」

「はあ?」

 萩岩は目の前の絵を見上げた。誰も立ち止まっていないこの絵を、こいつは気持ち悪いと思っているのだろう。歪んだ顔がそう言っている。あの日の親父とよく似ている。

「まじで?」

「うん、まじで」

 貼りつけた笑顔がひくつく。顔が痛い。

「他にもいっぱい絵あるじゃん。なんでこれ?」

 みんなは風景や植物、果物、女の人が描かれた絵に集まっていた。綺麗なものばかり。優しい光と、希望に満ちた絵ばかり。

 喉の奥が詰まりそうになる。声が出なくなる前兆だ。それを無視して口を開く。

「おれは、これがいい」

 声が震えた。

「全然居波っぽくねえじゃん」

「おれっぽいよ」

 萩岩をまっすぐ見つめると、はあ、とわざとらしく息を吐きやがった。そのでかい態度に、瞼が一瞬痙攣した。

「あっそ。俺は違うやつにするから。付き合ってらんねー」

 頭を掻きながら去っていく萩岩の背中に、視線をぶっ刺した。

 もしかしたら、萩岩とはもう話すこともないかもしれない。でもそれで良かった。おれの気持ちを踏みにじるやつなんて、おれから無視してやる。

 目の前の男の顔が、おれの顔に見えた。



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男の顔 みたか @hitomi_no_tsuki

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