相合傘のうた

音愛トオル

相合傘のうた

 桜の花びらが空を泳ぐ温かな昼下がり、伸びやかな鈴を思わせる透明な歌声が公園に響く。私はふらふらと引き寄せられるように歌声の元へと歩いて行った。

 通りから、公園に入り、ベンチの前。

 有線のイヤフォンのコードを胸元で大切そうに握り、まぶたを伏せ、風に語り掛けるように歌う女の子。ふわふわのワンピースを着こなす、たぶん、私と同じかちょっと年下の。


「――」


 聴き入り、心射貫かれた私は優しい声がやむまで、ずっとその子のことを見つめた。



※※※



 雨はあまり好きではなかった。特に、梅雨。洗濯物も乾かないし、せっかく朝整えてきた髪も湿気でふらふらだ。

 それが私の常のはずだったのに、今この瞬間、私は雨のことをこよなく愛してしまいそうになった。


文乃あやの、ごめんね。傘忘れちゃって……入れてほしいな」

「り、りんちゃん!?い、いいけど」

「ほんとっ。やった!」


 鈴ちゃん――と言っても実は同じ高校の2つ先輩、3年生だ。

 出会った時、お互いの年齢を知らぬままに友達になって、後から年齢差を知った。春先、私は敬語を試みたが、鈴ちゃんにタメ口がいいと言われ、今に至る。

 本当は少しむずかゆかったけれど、なんか、特別な感じがして。


「……まあ、いいけどさ」

「ん?やっぱり嫌だった?」

「ぜ、全然!むしろ――ああいや、なんでもない」

「……?」


 さて、私たちは今昇降口の中からほかの数名の生徒と同じく、雨のしたたる校庭を眺めている。そんな私の手のひらは既に雨に濡れてしまったのかというくらい、汗がにじんでいた。

 だって、しょうがない。

 と相合傘をすることになって、果たして誰が冷静でいられようか?


「それじゃ、行こう!」

「あ、ちょっと。先に行ったらあ――相合傘、の意味がないってばっ」


 あの日、あの陽だまりの公園で歌を聞いた時。

 私はたぶん、鈴ちゃんに一目惚れした。

 自分が女の子が好きになるのだと知ったのもその時で、それ以来の片想い。

 鈴ちゃんの好きなところ可愛いところかっこいいところをあげればきりがなく、たぶん歌を何曲も書けるだろう。書いたことはないけれど、それくらい好き。


「えへへ」

「……鈴ちゃん、そんなに相合傘、楽しい?肩濡れちゃうけど」

「え?楽しいよ。だって、文乃と一緒だし」

「ちょっ――と、な、なに言ってるか分からない」

「なんでよー!」


 くっついて、離れ、くっついて。

 2人の肩が、振り子がぶつかっては離れを繰り返すなんとかという装置(後で調べたらニュートンのゆりかご?と言うらしい)みたいだな、と思った。

 実際には私の肩と鈴ちゃんの肩が触れ合うその相合傘の距離で、頭がパンクしそうなくらいどきどきしている。だって鈴ちゃんはすぐに、私が勘違いしそうなセリフを言う。

 多分私に触れる雨だけ、お湯になっているな。


「ねえ文乃。私、割と最近まで相合傘って、愛――あの、ラブの方のね。愛愛、ラブラブ傘って書くと思ってた」

「ふっ……ーん、わた、私は知ってたけど。た、確かに」


 そんなこと言われたらさ……!


「い、言われてみればそんな雰囲気あるよね」


 じゃあ鈴ちゃん、もそうなの!?

 なんて聞けるはずもなく、私は湧き出る衝動を逃がすために、スクールバッグを持つ手に力を入れた。濡れている方の肩で手がぷるぷると震える。

 危ない、全く油断も隙もない……っ。


「……小声なら、大丈夫だよね」

「――?鈴ちゃん?」


 鈴ちゃんは何かを呟くと、とん、と半歩近づいてきた。それまでは触れては離れを繰り返していた肩が、ぴと、と密着する。

 のみならず、腕を組んで来て――え?


――ええ!?


「りりり、鈴ちゃんんん?どど、どうしたの?」


 うむ、及第点の狼狽だ。

 せめて合格点の冷静さを出したかったが、無理だ。

 だって鈴ちゃんが、鈴ちゃんの腕が私の腕と。


「へへ、こうすれば文乃にだけ聞こえるよね」

「え、ええっ?」

「――歌、だよ」

「あっ……鈴ちゃん」


 その一言で、私は鈴ちゃんが何をしたいかがなんとなく分かった。

 なるほど確かに、相合傘は降りしきる雨足の靴音のせいかおかげか、どこか、歩く秘密基地の中にいるような気分にさせる。どきどきの中に混ざるわくわくは、多分そのせいだろう。

 その7割くらいが、鈴ちゃんとの時間へのわくわくであるけれど。


「聞かせてくれるの?」

「うん。特別。雨の日のライブ。文乃にだけ届ける歌」


 一日。

 私が訪れたあの公園で、鈴ちゃんが歌っていたのには理由があった。歌が大好きな鈴ちゃんは、誰かに聞かれると恥ずかしくなって歌えなくなる、らしかった。

 その克服のために、試みに公園で目をつむって歌っていたという。

 だがあの公園はいつ来ても誰もいないようなさびれた公園で、いやだからこそ鈴ちゃんは選んだのかもしれないけれど――偶然にも、私が居た。


「……聞かせて。鈴ちゃん」


 私と鈴ちゃんを繋いでいるのは、歌だった。

 鈴ちゃんは私を特訓相手に、人前で歌う練習をしている。カラオケにいったり、あの公園だったり。

 私は鈴ちゃんが好きだ。鈴ちゃんの歌も。

 だから、この時間は何よりも大切な時間だった。


 大好きな人との相合傘の中で、大好きな人の歌を聞く。


「――」


 鈴ちゃんの歌は雨に負けそうなほど微かな、けれど、私にだけははっきりと聞こえてくる穏やかな歌だった。相合傘のうたは、バラードから恋愛ソング、雨の強まるのに合わせてロックにまで変わった。

 鈴ちゃんの相合傘のうたの間、ずっと組まれた腕。あの駅で、歌の終わりでほどかなければならない。


 ああ、もっと聞いていたいのに繋いでいたいのに


「聞いてくれてありがとね」

「こちらこそ。聞かせてくれてありがとう鈴ちゃん」


 傘の中で顔を見合わせて笑いあう。

 そこに含まれる想いが、きっと私と鈴ちゃんとで少しだけすれ違っている。それでも私は、鈴ちゃんが好きだ。歌も、恋も。

 私の全ては、鈴ちゃんへの想いを歌っているから。


「じゃあね、鈴ちゃん」

「あ……うん。また明日」


 鈴ちゃんはこの駅、私はバス。

 自分から腕をほどかなければ絶対にその場から動けないだろうと分かっていたから、断腸の思いで鈴ちゃんから離れ、手を振った。鈴ちゃんはどこか寂しそうな顔をしていたが、多分相合傘が、秘密基地が物足りなかったのだろう。

 胸の前でひらひらと振り返す鈴ちゃんをたっぷり見送って、私はロータリーへと向かう。ほんの数分前まで触れていた腕が、肩が、耳が、まだ熱を孕んだまま私の心を震わせる。


「鈴ちゃん……相合傘、幸せすぎた……」


 これなら毎日雨で、毎日鈴ちゃんが傘を忘れてくれればいいのに。


「――あれ?」


 ふと、そう考えた時、私の脳裏に引っかかるものがあった。あれはたしか、友達になってからすぐの頃。学年が違うからなかなか予定も合わず、初めて一緒に帰れた日。

 教科書以外にも荷物が多かった鈴ちゃんのバッグの中に、晴れているのに折り畳み傘があって。


――忘れると困るから、常に入れてるんだっ。


『傘忘れちゃって……入れてほしいな』


「……ん?」


 小さな、雨粒よりも小さな違和感が私の頬をかすめたが、直後にロータリーに入ってきたバスを見てそれは形を得る前に消えてしまった。何か、何かとても大事なことのような気がするのに。


 フラッシュバックする、別れ際の寂しそうな鈴ちゃんの顔。


「……明日、遊ぶ約束でもしようかな」



 相合傘のうた。

 それはバスの車窓から眺める遠ざかる駅とは裏腹に、鈴ちゃんとの距離をほんの少しだけ近づけてくれたうただった。

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