十八歳の夏

真花

十八歳の夏

 最初に教わったのはタバコの吸い方で、次は触れ方だった。

 カオリは裸の上に黒のキャミソールを着て、やわらかい短パンを穿く。乳首の形が浮き上がっているが、果ててすぐの僕は注目もしない。カオリは床に直接座って、ちゃぶ台に斜めに置かれたピアニシモを掴み、自然な手つきで一本取り出し口に咥える。ライターがなかなか付かなくて、五回目でやっと着火して、タバコの先端が煙になり吸い込まれ、カオリの口から直線で吐き出される。カオリは煙が僕の方に来ないようにテレビの方を向いて吐いた。真っ黒な画面のテレビまで煙は勢いを保てず、途中から浮遊して天井に溶けた。刈り上げられたカオリの後ろ頭から覗く耳が僕を、僕の胸の底の方を呼ぶ。心が共鳴したと断じたいが、僕がカオリとこうなった一因には耳の色気はあって、他にも部分としての、うなじや腋や脚の形も同じように重要な因子だ。そう言うパーツの集合に気持ちが足し算ではなくかけ算されて行動が決まった。それで、今日もここにいる。

 カオリのタバコは灰と煙に分離され、フィルターと少し残った葉っぱの繋がったものが灰皿に転がる。細いのは六つ目。僕の太いのは三つが灰皿に寝ている。カオリはちゃぶ台に乗っていたペットボトルからお茶をコップに出して、こくこくと飲む。

「フーくんも飲む?」

 声と同時に差し出されたコップを、体を起こして受け取る。

「ありがと」

 僕は裸で、汗ばんでいて、だが、その汗の半分はカオリの汗で、汗は混じっていて僕に密着している。お茶はぬるかったが喉を通るときには冷感を伴う気持ちよさがあって、一気に飲み干した。空になったコップをカオリに渡す。ん、とカオリは受け取って、音を立てずにちゃぶ台に置いた。僕はコップを追いかけるように床に降りて、カオリの横で、メビウスの箱を取る。タバコに火をつける。煙はカオリと同じようにテレビに向かって吐いた。

「ねえ、フーくん」

 カオリが僕の顔をやわらかく覗く。甘えの匂いが薄くする。だがそれだけではない。もっと透明なものが含まれている。生の卵黄と卵白のように。僕は、ん? と言って次のひと吸いを肺に送る。

「空が青い理由って、知ってる?」

 僕はカオリの後ろに視線を通して、無垢に青い空を見る。

「太陽光が散乱するからじゃなかったっけ」

 カオリは首を振る。

「違う。そう言う科学的な話じゃなくて」

「じゃあ、海を反射しているから?」

「それも違う。もっと大事な理由がある」

「虹が美しく見えるように?」

 カオリは、うーん、惜しい、と右手の指を一本立てる。

「人間に関わることだよ」

「死んだときに迷わず逝けるようにとか?」

「近い。答え言っていい?」

 僕は、いいよ、と言って、タバコを灰皿にやさしく打ち付ける。カオリは永遠の秘密を打ち明けるように、小声で呟く。

「失恋を吸い込むためだよ」

 僕はすみやかには理解出来なくて、失恋? とカオリの顔に向かって放る。

「そう、失恋。もし空がなかったら、失恋は永久に癒えないんだ」

「じゃあ、恋も吸い込まれて希釈されるの?」

「そうだよ。でも恋は次から次に産生されるから大丈夫なんだ」

 僕はもう一度向こうに在る空を見る。

「空は失恋で埋まっちゃうんじゃないの?」

「いつかはね。その日が人類最後の日になる」

「失恋で空を失って、僕達も終わるの?」

「残念ながら」

 カオリはきゅんと嬉しそうに肩を窄める。

「それで、人類最後の日まであとどれくらい?」

「私が失恋したら、終わり」

 カオリは不敵に口角を上げる。

「じゃあ、人類は安泰だね」

 カオリは僕にぎゅっとくっついて、胸に頬擦りをする。僕はタバコを慌てずに灰皿に置く。煙が一瞬混乱した後に真っ直ぐに立ち上る。

「フーくん大好き」

「人類のためじゃないよ」

「私、十二もお姉さんなのに、いいの? 本当にいいの?」

「むしろ年下みたいに感じているけど?」

 僕はカオリの背中をトントンと叩く。肋骨の上を歩くみたいに。タバコも触れ方も教わった。他にもたくさんのことをカオリに教わっている。十八歳の夏がカオリに溶けて行く。

「ねえ、フーくん」

 僕の胸の辺りからころころした声が聞こえる。ん? と僕は答える。

「ここ、心臓の音と、声がよく聞こえる。……歌って」

 窓の外に見える空は澄んでいて、もう一つ失恋があったとしても受け止め切れそうだ。だが、試すことはない。僕はいくつかの曲を頭の中で思い浮かべてから選び、やさしい歌を歌った。

 カオリはじっと胸に耳をつけたまま僕が歌うのを聴いて、歌が終わってもそのまま動かなかった。僕は二曲目を歌うか迷って、歌わなかった。カオリがやっと離れる。目に涙が溜まっていた。僕が多分驚いた顔をした。カオリは首を振る。二人の間に垂れ下がった絹を分けるみたいに。

「こんなに幸せでいいのかな、って思ったら泣けて来た」

「いいんじゃない?」

 僕はカオリがこれまでどんな恋愛をして来たかを知らない。と言うよりも過去をほとんど知らない。だが、今があればそれで十分だ。過去がその人を作るなら、それは今に全て集約されるし、作らないのなら今だけで問題ないだろう。今より大事なことなんてない。カオリは涙を拭く。

「明日も幸せかな」

「それは、僕達で決めればいいことだよ」

「じゃあ、そうする」

 カオリは溌剌さに一片のまろやかさを含んだ笑顔になる。これがきっと、カオリの幸せの顔だ。泣き顔じゃない。灰皿に立てかけていたタバコが全部灰になって煙が止まった。僕達はそれぞれのタバコを出して、火をつけて、煙を吐き出す。


(了)



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