Ⅲ 悲しい現実
「じゃあねー、野呂さん」
「あ、うん。また明日ね」
同じクラスの女の子に帰りのあいさつを返して、教室を出ようしたところで、保科くんと目が合った。声をかけるかわりに、軽く笑いかけてくれた保科くんに、本人にだけわかる程度に頭を下げる。
教室で保科くんと話す機会がほとんどなくなってから、少しずつだけど、わたしに普通に話しかけてくれる女の子も増えてきた。きっと、保科くんが気を遣ってくれたおかげ。
いつものように、校門を出ると同時に携帯を取り出して、ながめる。話はできなくても、保科くんとのつながりは、ちゃんと……。
「ノロ子じゃん」
「えっ?」
不意に、聞き覚えのある声。
「航生くん」
その声の主を確認して、びっくりした。
「どうして、こんなところにいるの?」
「どうしてって」
いつものバカにした口調で、航生くんが続ける。
「綾乃を迎えにきたに決まってるだろ?」
「や……ちょっと、待って。こっちに来て」
とっさに、他の生徒から見えにくい位置まで、航生くんの腕を引っ張った。
「何だよ?」
当然ながら、航生くんは、いぶかしげな表情。
「うん、あの……」
だって、つき合っている人がいることを、綾乃ちゃんは内緒にしておきたいんだもの。違う制服姿の航生くんが、こんなところで綾乃ちゃんを待っていたら、絶対に綾乃ちゃんが困っちゃう。
「綾乃は? 早く呼んでこいよ」
「えっと……」
どうしよう? 航生くんをごまかす方法を、必死で考えていたら。
「…………!」
門から出てきた綾乃ちゃんが、こっちに向かってくる。しかも、その後ろには、保科くんまで。ちょうど、帰る時間が重なったみたい。そんな状況に、一人であたふたしているうち。
「野呂さん。まだ、帰ってなかったんだ?」
「う、うん」
先に保科くんに見つかって、声をかけられた。
「どうも」
「……ああ」
軽く航生くんにもあいさつをした保科くんに対して、意味もなく敵意をむき出しにする航生くんの態度に、はらはらしてしまう。
綾乃ちゃんも、航生くんがの表情に気づいて、顔を強張らせていた。
「じゃあね。俺は、ここで」
なんだか、ひやかすような口調の保科くん。
「綾乃!」
そこで、航生くんが大きな声で綾乃ちゃんを呼んだ。そんな航生くんをちらりと振り返ってから、何事もなかったように、保科くんが去っていく。
保科くんに、変な誤解されてないといいな。さっきの雰囲気じゃ、まるで……。
「何だよ? さっきの男」
失礼な態度を取っていたのは航生くんの方なのに、予想したとおり、航生くんが嫌悪をあらわにしてる。
保科くんみたいな人に綾乃ちゃんが目をつけられないか、心配だからなんだろうけど、同じ子供じみた態度でも、結城くんみたいな微笑ましい印象は受けられない。
「瞳子ちゃんと同じクラスの人。ね? 瞳子ちゃん」
「うん。すごく感じのいい人だよ」
「ふうん。ノロ子に愛想振りまくくらいだから、誰にでもいい顔してるんだろうな」
隣にいる綾乃ちゃんを意識しながら、そんなことまで言い始める航生くん。ものすごく、嫌な気持ちになった。
「何も知らないのに……そんなこと、言わないで」
我慢できずに、航生くんに反論したんだけど。
「本当、バカだな。おまえ」
わたしが怒ったところで、航生くんがまともに聞いてくれるはずがなかった。
「あの男にちょっと優しくされたからって、カン違いしてんじゃねーの? 多分、陰で笑ってるよ、あいつ。ノロ子のくせに、自分をわきまえてないって」
今度は、不自然なくらい、大きな声で笑い出す。
「なあ? 綾乃。綾乃も、そう思うだろ?」
「綾乃ちゃん……?」
綾乃ちゃんの方を見ると、つらそうな表情で目を伏せていた。そのようすに、嫌な胸騒ぎを覚える。
「どうしたの? 綾乃ちゃん」
「瞳子ちゃんに伝えるべきか、どうしようか、迷ったんだけど」
意を決したように、綾乃ちゃんが顔を上げた。
「それ、本当のことみたいなの」
「え……?」
「今、航生くんが言ったこと」
苦しそうに、綾乃ちゃんが続ける。
「保科くんが瞳子ちゃんのことをネタにして、友達同士で笑ってたって。クラスの子に聞いちゃったの」
「…………」
そんなの、ただの噂に決まっている。保科くんは、そんな人じゃない。そう信じたいけれど、自分に自信がなくて、綾乃ちゃんの言葉を否定することができない。
「ほら。だから、言ったろ? ノロ子はノロ子らしく、おとなしくしてればいいんだよ」
得意げに面白がる、航生くん。
「瞳子ちゃんがそんなふうに思われてるの、知ってて黙ってるなんて、わたしにはできなくて……ごめんね、瞳子ちゃん」
「……ううん」
泣き出してしまいそうな綾乃ちゃんに、小さく首を振る。
「わたし、帰ってるね」
「瞳子ちゃん……!」
いたたまれない気持ちで、わたしは走り出した。誰かに、嘘だと言ってほしい。
翌朝、教室に入ると、すでに保科くんは登校して、席に着いていた。
わたしなら、大丈夫。だって、最初から、わかっていたから。
「おはよ、野呂さん」
いつもの屈託のない笑顔で、保科くんが近づいてくる。
「おは、よう」
どうにか、あいさつを返した。いっそのこと、ずっと知らずにいられたら、よかった。そうすれば、クラス替えまでの間くらいは、夢を見続けていられたかもしれないのに……と、そのとき。
「ちょっと、意外だったな」
反応を確かめるような雰囲気で、保科くんが発した言葉。
「何のこと?」
わけがわからないから、聞いてみるしかない。
「何のことって、野呂さんの男のタイプ」
「え……?」
もしかして、航生くんのこと?
「来る途中、綾乃ちゃんに聞いたよ。昨日校門の前にいたのが、野呂さんがつき合ってる人だったんでしょ?」
「航生くんが……」
どうして、綾乃ちゃんは、そんなことを言ったの?
「それで」
と、保科くんの表情が、不意に真面目になった。
「俺にかまわれて、野呂さんが迷惑がってるって」
「そんな……」
なんとなく、綾乃ちゃんの意図は、わかった。わたしのことを心配した綾乃ちゃんが、わたしから保科くんを遠ざけるために、ついた嘘。ゆくゆく、わたしが傷つかないですむように。だけど……。
「ちゃんと確かめたいと思って。野呂さん本人の口から」
保科くんに、まっすぐに見つめられた。
「あの男がいるから、俺とは関わりたくないって。言ったの、本当に野呂さん?」
「あ……」
柔らかくも力強い、綺麗な瞳。この目の前にいる保科くんが、わたしに意地の悪い気持ちで近づいたなんて、信じたくない。これもわたしを騙すための演技なのだとしたら、そんな現実、受け入れたくない。苦しくて、目をそらしてしまった。
「なー、保科。古文のプリント、やってある?」
後ろから、近くの席の男子の声。
「あの……」
何か。何か、言わなくちゃ。
「もういいよ、野呂さん。わかった」
「保科……くん?」
あきらめたような表情で、軽く息をついたあと、保科くんが立ち上がる。
「答えにくいこと聞いて、ごめんね」
「待って、違……」
頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいのかもわからないのに。
「保科くん……!」
気づいたら、保科くんを呼び止めていた。
「何?」
今までとは違う、他人行儀な冷たい口調に、体がすくむ。
「本当に、いつでもいいから、だから……貸した本、いつか読んで返してもらえるの、待ってる」
往生際悪く、関係が終わるのを引き延ばそうとしているのかもしれない。
「わたしが買ったものだったら、返してもらわなくてもいいんだけど……あれは、お母さんの本で」
「大丈夫だよ、ちゃんと返すから。じゃあ」
最後は、少しあきれたようすで、苦笑いしてた。それでも、あの本を返してもらうまでは、わずかなつながりを感じていられる気がするから……。
「野呂さん、これ」
保科くんに書店の袋を手渡されたのは、すぐ翌日の朝。
「ごめん。貸した人に聞いたら、すぐには見つからないって言うから、新しいの買ってきた。悪いと思ってる」
一日でも早く、わたしとの関係を断ち切りたかったんだね。お母さんのものだなんて、嘘みたいに聞こえたのかもしれないし。無言で、代わりの本を受け取った。
「じゃあ」
「……うん。かえって、ごめんなさい」
保科くんがわたしに背を向けて、去っていく。受け取った本を直視することができない。何も知らずに浮かれていた自分が、みじめで、悲しくて。
それでも、保科くんと過ごした短い時間は、今でも夢みたいに、キラキラしているように思えるよ。
わたしが、こんなじゃなかったら。保科くんと並んでも見劣りしない、綾乃ちゃんみたいだったら、きっとこんなことにはならなかったのに。普通に、同じものを見て、感じたことを言い合うことができていたかもしれないのに。
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