Ⅱ 同じ世界を



「噂になってたよ、瞳子ちゃん」


 帰宅してすぐに、わたしの部屋に入ってきた、綾乃ちゃん。放課後は、航生くんと待ち合わせをしてた綾乃ちゃんとが、帰りは別だったから。


「噂?」


 綾乃ちゃんの言葉に、首を傾げると。


「あの保科くんと、仲良くなったらしいじゃない?」


「えっ?」


 周りの人に、わたしと保科くんが仲良くしているように映ったの? しかも、そのことが噂になっていただなんて。


「大丈夫? 瞳子ちゃん」


「えっと、何が……?」


 思考がまとまらない。ぐるぐる回転しそうな頭で、聞き返した。


「一緒にいた、もう一人は結城くんっていうんだけど、わたしと同じクラスでね。この学校の人間なんか相手にする気ない、みたいな雰囲気だったから。保科くんもタチの悪い人なんじゃないかなって、心配なの」


「そんな悪い人には見えなかったよ」


 会ったばかりだし、わたしに人を見る目がどの程度あるのかは、わからないけど。


「何か聞かれたりしたの?」


 まだ、綾乃ちゃんは心配そう。


「ううん。わたしが読んでた本の話をしただけ」


 それでも、現実離れした、夢みたいな時間だった。本の感想を聞きたいと言ってくれたのも、社交辞令とかには感じられなかったし。


「……そう」


 複雑そうに、綾乃ちゃんが相づちを打つ。


「一応、気をつけておいてね」


「うん。ありがとう」


 綾乃ちゃんの気持ちに素直に感謝して、うなずいた。ちょうど、そのタイミングで航生くんから携帯に連絡が来たようで、綾乃ちゃんは部屋に戻っていく。


「なんだか、すごいところだよ、高校って」


 ベッドに寝転がって、写真のお母さんとお父さんに話しかけたところで。


「そうだ」


 保科くんとの短い会話を思い出した。レイ・ブラッドベリの短編を漫画化した、わたしのお母さんの文庫本が、どこかにあったはず。漫画なら、とっつきやすいかも。


「あった。これ」


 本を取り出しながら、再び保科くんの顔を思い浮かべる。悪い人でも、調子のいい人でもないよね。


 よろこばれはしないかもしれないけど、嫌な顔はされないはず。そう信じて、通学バッグの中に本を詰めた。今までにない、ふわふわした気持ちで……。





 と、そうはいっても。


「ね? 言ったとおりでしょ?」


 翌朝、学校に着くなり、決して好意的には見えない、女の子たちの視線。


「どうしよう……」


 持ってきた本、渡せるかな。それ以前に、今日も話ができるのか……。


「あ、あれ」


 綾乃ちゃんの教室の前で立ち止まって、振り向くと、昨日綾乃ちゃんに名前を教えてもらった結城くんと、保科くんが廊下の角を曲がって、こっちの方向に歩いてくるところだった。


「じゃあ」


「ああ」


 軽くあいさつを交わしてから、結城くんが先に手前の教室に入っていく。保科くんが、一人になった。普通に、自分の教室に向かおうとしてる。


 今、わたしも視界に入ってるよね。こっちから、あいさつとかして、いいものなのかな。隣の綾乃ちゃんにも、ようすをうかがわれているような気がするし、すれ違うだけなのに、体が強張って……と、そのとき。


「あ、野呂さん」


 ほんの少し、かがみ込むようにして、わたしの名前を呼んでくれた、保科くん。綾乃ちゃんも目を見開いていた。


「おはよう。あのね……!」


 気持ちが上ずって、口が勝手に開いてしまう。


「家に漫画があったから、持ってきたの。ブラッドベリの話の。かなり前に描かれた、少女漫画なんだけど……」


“ 痛い”っていう、女の子たちの声が聞こえてきた。違うの、わかってる。ただ、役に立てるかもしれないと思っただけ。でも、せめて、教室に入ってからにすれば……。


「へえ。読んでみたい」


「本当?」


 ぱっと目を輝かせてくれた保科くんに、わたし自身も驚いていた。


「うん。なんか、見たことあるかも。はぎ望都もと、だっけ?」


「そ……そう! 待ってて」


 またしても気が動転して、この場で本を取り出そうとバッグを開いたら、勢いあまって、ノートや教科書まで廊下にぶちまけてしまった。


「大丈夫? 瞳子ちゃん」


 すかさず、拾い上げてくれる、綾乃ちゃん。


「あ、ごめ……」


「ううん」


 落ちたものをまとめて、わたしに渡してくれたあと。


「これは、保科くんにかな。はい」


 綾乃ちゃんは、にっこりと笑って、保科くんに本の包みを差し出した。


「借りていいの?」


 確認するように、保科くんがわたしに視線を向けたから、大きく首を縦に振ると。


「どうも。ありがとう、野呂さん」


 本を受け取って、わたしと綾乃ちゃんの両方に言葉をかけてくれたところで、予鈴が鳴った。


「ありがとね、綾乃ちゃん」


 わたしも綾乃ちゃんにお礼を言って、保科くんのあとを追うように、慌ただしく教室に入る。


「はあ……」


 席に着き、バッグを机の横にかけて、深呼吸。やっと、落ち着いてきたみたい……と、我に返って、隣に視線を移したら。


「…………!」


 保科くんが、こっちを見て、またおかしそうに笑ってる。


「ご、ごめんなさい。何ていうか、いろいろ……」


 本を貸すだけなのに、あんな大騒ぎになって。


「なんで、野呂さんが謝るの? 読むの、すごい楽しみ」


「よかった」


 今、純粋に、もっともっと、保科くんと話ができたらいいなと思った。そして、保科くんのことをたくさん知りたい。





 帰りの支度を終えて、息をついた。


 朝の一件で、また悪目立ちしてしまったみたいで、話しかけられる雰囲気の女の子がいない。とりあえず、担任の先生が来るまで、部活の見学申し込み書でも……。


「文芸部?」


「あ……うん!」


 不意にかけられた声に、勢いよく返事する。気づいたら、保科くんにのぞき込まれていた。


「わたしの中学校、文芸部がなかったんだけどね。ずっと、興味があって」


 何の特技もないけれど、文章を書くことだけは、昔から好き。夏休みの読書感想文で賞をもらったり、小説みたいなものを書いていたときは、何人かのクラスの子に先を楽しみにしてもらえたり、唯一ほめられる機会のある分野でもあった。


「そっか。いろいろ、教えてよ。野呂さんのおすすめ」


「う、うん」


 見かけのとっつきにくさとは違って、ごく自然に会話をしてくれる保科くんに、わたしの緊張も少しずつ解けていく。


「そうだ。どうして、保科くんは軽音部に入らないの?」


 自己紹介のとき、中学では軽音部に入っていたけれど、ここでは入る予定がないと言っていたのを思い出した。どうしてなのか、気になっていたんだ。


「それね。ちょっと前から、外でバンドやってるから」


「そう、だったんだ」


 顔が少し近づいただけで、わたしの心臓はドキドキと音を立てる。


「結城くんと?」


 視線をそらしつつ、よけいな質問をしてしまうと。


「いや。あいつは、ここの軽音入ると思うけど……へえ。意外。野呂さんも、結城のこととか、チェックしてるんだ?」


 なんだか、意地の悪い笑顔。


「ち、違うの……!」


 一応、説明しておかなくちゃ。


「今朝、わたしの荷物を拾ってくれた、いとこの綾乃ちゃんが結城くんと同じクラスなの。だから」


「ふうん。今朝の子、いとこなんだ?」


「そう……なの」


 結城くんの件はただの冗談だったらしく、屈託のない調子で聞かれたんだけど、自分で説明しておいて、もやもやした感情が押し寄せてくる。かつての航生くんとのことを思い出して……。


「あ、さっきの話。バンドやってるっていう」


「うん」


 我に返って、返事した。


「広めないでもらえると助かる。できるだけ、そっちの方と学校の方は区別したくて。ごめん。面倒なこと言って」


「そんなことない」


 力いっぱい、首を振る。今の、わたしを信用してくれていることが伝わって、うれしかった。


「あ、噂をすれば」


 保科くんが目をやった先には、廊下の窓から手を振ってくれている、綾乃ちゃん。視線に気がついて、綾乃ちゃんも保科くんに笑顔で会釈する。そして、今度は、わたしのクラスの男の子たちの視線が、綾乃ちゃんに……。


「あ……あのね、一緒に帰る約束をしてるの」


 取りつくろうように、言葉を続けたんだけれど。


「そうなんだ。うちの担任も早く来ないかな」


 保科くんは、綾乃ちゃんに軽く反応を返したきり、特に気に留めていないようす。


「頑張ってね、文芸部。さっきの本も、ありがとう。じっくり読ませてもらうよ」


「……うん」


 変なの。話しているだけで、泣きそうになるくらい、温かい気持ちになる。永遠に、別世界の人だと思っていたのに。





「文芸部?」


「そう。明日、見学に行ってみようと思って」


 帰りの電車の中で、綾乃ちゃんとおしゃべり。


「瞳子ちゃん、上手だもんね。昔から、作文とか読書感想文とか、よく表彰されてたし」


「上手かどうかは、わからないけど」


 恥ずかしくなって、話題を変える。


「綾乃ちゃんは、テニス部?」


 中学のとき、活躍していた。


「そうだね。緩く続けられそうだったら……あ、航生くん」


「綾乃」


 電車を降りて、改札を抜けようとしたところで、いつものように斜に構えた表情で手を上げる、航生くん。


「なんだ。ノロ子もいたんだ」


「うん。でも、先に帰るから、大丈夫だよ」


 顔をしかめた航生くんに、すかさず断っておく。不思議なほど、胸は痛まない。


「おばさんには、わたしから伝えておくね。綾乃ちゃん、遅くなるかもって」


「あ、瞳子ちゃん」


 早く、二人にさせてあげなきゃと歩き出したとき、綾乃ちゃんが駆け寄ってきた。


「航生くんのことなんだけど、誰にも言わないでくれる?」


 少し離れた位置にいる航生くんを気にしつつ、声を潜めて、心配そうな口調の綾乃ちゃん。


「入学早々、つき合ってる人がいるのが知れ渡ったら、周りから浮いちゃいそうだから……」


「そっか。わかった」


 綾乃ちゃんの不安な気持ちが伝わってきたから、うなずいた。


「綾乃?」


 航生くんが、綾乃ちゃんのことを気にかけ出してる。


「ごめんなさい。瞳子ちゃんに、お母さんへの伝言頼んでたの。じゃあ、お願い、瞳子ちゃん」


「うん」


 綾乃ちゃんと航生くん、二人を安心させるように笑って、手を振った。好きな人とつき合えるって、すごく幸せなことだと思うけれど、その反面、大変なこともあるのかもしれないね。





 わたしはといえば、お昼休みの時間になるたび、気が重くなってしまう。


 周りのようすをうかがってみても、中に入れてもらえそうなグループが、ひとつも見当たらない。お弁当を持って、今日も一人で屋上に向かうことにする。


 あれからすぐに席替えがあって、保科くんとも教室の端と端に分かれちゃったから、クラスの人と話す機会は、ほとんどないに等しい。行き帰りは、綾乃ちゃんがいてくれることが多いとはいえ、このままじゃ……。


「野呂さん」


「え……?」


 隅の石段に座って、お弁当の包みを開いた瞬間、上から聞こえてきた声に心臓が跳ね上がった。


「保科くん」


「隣、いい?」


「あ……うん! もちろん」


 急いで保科くんのスペースを空けて、砂を払う。


「いいよ、そんなことしなくて」


 笑って、隣に腰かけてくれる、保科くん。手には、パンとペットボトルの入った、コンビニの袋。


「どう……したの?」


 近すぎて、保科くんの顔をまともに見れない。


「ん? 最近、野呂さんと話せてないなと思って」


 わたしが毎日一人でいること、気にかけてくれてたんだ。


「いただきます」


「わたしも。いただきます」


 今、丁寧に手を合わせた保科くんの動作、いいなと思った。そんなドキドキを悟られないように、おかずを口に運ぶ。


「あ。そういえば、謝らなくちゃ」


「えっ?」


 保科くんの言葉に、顔を上げた。


「この前借りた本。一緒にバンドやってる人が泊まりにきたとき、勝手に持って帰られちゃって、まだ読めてないんだ。ごめん。例の、ブラッドベリが好きな人なんだけど」


「ううん」


 申し訳なさそうな保科くんに、大きく首を振った。


「全然、大丈夫だよ。読んでもらうのは、いつでも」


 お母さんの本だから、いずれ返ってきさえすれば。


「ありがと」


 人懐っこく、保科くんが笑う。夢の中にいるみたいで、料理上手な美恵子おばさんのせっかくのお弁当の味が、全然わからない。


「文芸部は、どうだった?」


「入部はしたんだけど、想像してた感じとは、ちょっと違ったかも。文学というよりは、アニメとか漫画が好きな人が多くて」


「あはは。なるほどね」


 心地よい笑い声。


「保科くんは、歌を歌ってるの?」


「いやいや。ベースって、わかる?」


「うん、なんとなく。他のメンバーの人は、年上?」


 きっと、おしゃれな人たちなんだろうね。


「そう。ずっとライブに通ってて、好きだったバンドでさ。ベースに欠員が出たとき、めちゃくちゃ売り込んで」


「すごいなあ……」


 なんだか、感嘆のため息が出てしまう。


「まあ、いいように使われてる感じだけどね。俺、一人で住んでるから、いろいろ便利だし」


「そう、なの?」


 保科くんの手にしていた、コンビニのパンに目が行った。


「あ、ごめん。つい、よけいなことまで話した」


 ふっと、決まりの悪そうな表情を向けられる。


「気がつくとしゃべっちゃってるね、野呂さんには」


「聞いちゃって、いいの?」


 話してもらえるのなら、保科くんのことが知りたい。


「いや、普通普通。両親が離婚して、お互いに別の家庭持ってて。中学卒業と同時に一人なれて、逆に気楽になったし。もう、今の生活が当たり前になってるというか」


「そうだったんだ……」


 保科くんの横顔をながめながら、考えた。


 もしかしたら。本当に、もしかしたらなんだけれど。


 第三者の人にしてみたら、わたしもつらい境遇なはずで。でも、それを同情されるのは、何か違う気がして。


 それに、毎日幸せも感じているし、他の人が考えるよりは、きっと大丈夫なの。だけど、やっぱり、どこか寂しさを感じていることも事実。そんな似たような感覚を共有していることが、伝わっているのかもしれない。


「あのね、保科くん」


「うん?」


 ペットボトルのお茶に口をつけながら、保科くんがわたしを見る。


「わたしも……」


 と、そこで。


「あ、いた。瞳子ちゃん」


 わたしを捜してくれていたっぽい、綾乃ちゃんの声。


「綾乃ちゃん、どうしたの?」


「うん……瞳子ちゃんが、一人で歩いていくのが見えたから、ちょっと気になって」


「そっか。ごめんね」


 綾乃ちゃんにも、心配かけちゃった。


「でも、よかった。保科くんも、一緒だったんなら」


「あ……」


 綾乃ちゃんに深い意味もなかったことは、わかっていつつ、保科くんに悪いような気がして、うつむいていると。


「結城と同じクラスなんだって?」


「そうなの」


 保科くんと綾乃ちゃんの会話が、耳に入ってきた。


「結城、少しは慣れた?」


「うーん……ちょっと、近寄りがたい感じかなあ。クラスの人と話してるところ、ほとんど見ないかも。人見知りな人なの?」


「それもあるけどね。あ、結城」


 気がつくと、わたしたちのそばに、結城くんが立っていた。


「これ、返しにきた」


 結城くんが差し出したのは、なんとなく見覚えのある、保科くんの電子辞書。


「そうそう。次の授業で使うんだった」


 保科くんがのばした手に、その電子辞書が保科くんに渡った瞬間、結城くんと目が合った。聞いていたとおり、とっつきにくそうな雰囲気ではあるけれど、保科くんの友達だからか、嫌な印象は受けず、むしろ……。


「何?」


「あ、いえ……!」


 やっぱり、けげんそうな顔をされてしまった。取り乱しながら、頭と手を横に振る。それと同時に、予鈴が鳴った。


「戻らなきゃね。結城くん、一緒に……」


 綾乃ちゃんが同じクラスだと知っているのか、いないのか。無視するように、一人で先に去っていく、結城くん。


「行っちゃった」


 追いかけようとした綾乃ちゃんが、困った表情で保科くんを見た。


「ごめんね、綾乃ちゃん。あいつ、愛想なくて」


「ううん。保科くんに謝ってもらわなくても」


 保科くんと綾乃ちゃんが、おかしそうに笑い合う。なぜだか、胸がざわざわとする感覚に襲われた。


「野呂さん?」


「あ……ごめんね、ぼんやりしちゃってて」


 保科くんにのぞき込まれて、我に返った。わたし、おかしい。保科くんが綾乃ちゃんと話してるだけで、自分の居場所がなくなったように感じるなんて。


「じゃあ、俺らも行こうか」


「うん」


 綾乃ちゃんが保科くんに笑いかける。二人が並んでも、何の違和感もない。やっぱり、保科くんみたいな人には、綾乃ちゃんのような……。


「じゃあね、瞳子ちゃん、保科くん」


 C組の教室まで、あと数歩というところで、綾乃ちゃんに手を振られた。


「あ、うん。またね」


 わたしもあいさつを返して、何気なくC組の教室内に中に目をやると、すでに席に着いている、結城くんの後ろ姿。


「さっきの話さ」


「あ、うん」


 保科くんの声に、振り向いた。


「そのバンド、もともと、俺よりも結城の方が入れ込んでたんだよね。だから、すねてんの。ずっと」


 結城くんの背中を見ながら、おかしそうに説明してくれる、保科くん。


「そっか。そうだったんだ」


 笑ったら、結城くんには申し訳ないかもしれないけれど、理由を聞いたら、子供みたいで可愛く思えてしまう。


「いつか、聴きにきてほしいな。野呂さんには」


「え……?」


 一瞬、保科くんの言葉の意味がわからず、目を白黒させていたと思う。


「ライブ。気に入ってもらえそうな気がする」


「う、うん」


 わずかにずらした視線や口調から、ちょっとした照れみたいなものまで伝わってきたのが、信じられない。嘘みたいだけれど、保科くんのやってるバンドのライブに、本気でわたしを誘ってくれるつもりでいるんだ。


「野呂さん、LINEのID……あ、そういえば、ガラケー使ってたね。アドレス、交換していい?」


「もちろん」


 うれしくて、声が上ずってしまう。


「じゃあ、とりあえず、番号教えてくれる?」


「うん。えっと……」


 保科くんの iPhone の中に、わたしの番号が登録されている。


「あとでアドレス送るから、時間あるときに返信してよ」


「はい……!」


 緊張しすぎて、敬語になってしまった。そんなわたしをバカにすることなく、楽しそうに笑って、先に教室に入った保科くんに、わたしも続く。人の目なんて、気にもならなかった。


 保科くんに対して、今以上の関係を望んだりはしていない。ただ、ほんの一時でも、保科くんと世界を共有できたことに、幸せを感じているだけだから。


 それでも、本当に保科くんから連絡が来るのか、落ち着かなかったんだけれど、家に帰って、リビングで一息ついていたとき。


「……あ」


 わたしの携帯に、見慣れない番号のショートメールの着信。向かいで紅茶を飲みながら、多分航生くんと LINE のやり取りをしている綾乃ちゃんを気にしながら、内容を確認すると。


「…………!」


 願いが叶った。やっぱり、保科くんから。反射的に自分の部屋に駆け戻ると、まずは送ってもらったアドレスを登録して、短い返信の文句を長い時間考えた末、送信した。


 保科くんが、あの漫画を読み終えたら、今度は、わたしの本を貸してあげよう。携帯の中の保科くんの名前とアドレスをながめるだけで、幸せな気持ちになれた。


 結局、わたしから、そのアドレスにメールを送ることは、一度もなかったんだけれど。



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