世界はほんの少しの闇と溢れるばかりの愛で満ちている
伊東ミヤコ
Chapter one
Ⅰ ただ、眩しくて
「……うん」
もう一度、髪と衿元を整えて、鏡を見る。中学のときの指定のセーラー服とは全然違う、憧れていた紺のブレザーに、チェックのスカート。これなら、こんなわたしでも、少しは高校生っぽく見えるかも……。
「あ、いけない」
部屋の時計を見上げて、驚いた。入学式から遅刻なんて、恥ずかしい。
「お母さん、お父さん、行ってきます。今日も、わたしを見守っててね」
棚に飾ってある写真に声をかけると、急いで階段を駆け下りる。
「おはようございます……!」
息を切らしながら、ダイニングのドアを開けると。
「おはよう、
紅茶をいれながら、にっこり微笑見かけてくれる、美恵子おばさんと。
「おはよう。今日は、いっしょに行こうね」
すでにテーブルについて、やっぱり優しく笑ってくれる、綾乃ちゃん。
「わあ、おいしそう。おばさん、ありがとう。
高校も、自慢のいとこの綾乃ちゃんと同じ学校に通えるなんて、心強い。わたしも、綾乃ちゃんの向かいの席に着いた。
「あ。その前髪の留め方、可愛い」
「本当?」
慣れない分け方に挑戦しちゃって、心配だったんだけれど。
「うん。ボブっぽい感じの髪型に、すごく似合ってるよ。瞳子ちゃんも、彼氏作りなよ。高校で格好いい人見つけて」
そんなことを囁かれて、動揺してしまう。
「わたしは……」
綺麗な綾乃ちゃんと違って、全然目立たないし、誰かとつき合うなんて、まだまだ考えられない。
「ふふ。先出てるね。角のところで待ってる」
「あ、うん……! わたしも、すぐに出るから」
朝食をとり終えると、身支度のチェックをして、靴を履いた。
「気をつけてね、瞳子ちゃん」
「はい。行ってきます」
おばさんに笑顔で手を振って、外に出る。
「わあ」
空が真っ青。絶好の入学式日和。
「……と」
のんびりしているひまは、ないんだった。駅に行く途中の角で、綾乃ちゃんが待っているんだっけ。
新しいバッグを抱えて、あわてて走り出すわたしは、野呂瞳子、15歳。
希望の高校に合格して、期待に胸をふくらませて……とまではいかないんだけれど、多少はワクワクしていたりする。
いとこの綾乃ちゃんの家、田村家でお世話になっているのは、小さいときに両親が事故で亡くなってしまったから。
楽しかった記憶は今も断片的に残ってるけど、綾乃ちゃんとおじさん、おばさんのおかげで、幸せに生活できている。特に綾乃ちゃんは、何かと鈍いわたしの面倒を見てくれて……と、そのとき。
「あ……」
約束した場所で、綾乃ちゃんが
「瞳子ちゃん」
綾乃ちゃんの方が、わたしを呼び寄せた。
「ごめんね。航生くんと待ち合わせしてたから、先に出て来ちゃったの」
「そっか。そうだったんだ」
上原航生くんは、中学三年生のとき、わたしと同じクラスだった人。何でもソツなくできたし、顔立ちもはっきりしていて、学校の中でいちばん目立ってた。そんな航生くんと綾乃ちゃんがつき合い出したのは、受験が終わってすぐのこと。
「よ、ノロ子」
「おはよう」
わたしたちの高校とは逆方向の、S高のブレザー姿の航生くんに、あいさつを返す。
……航生くんは、かつて、わたしの好きだった人。
「いいかげんに、ノロ子って呼ぶの、やめてあげてよ」
「なんで? ぴったりなんだから、いいじゃん。なあ? ノロ子」
いつもの調子でからかってくる、航生くん。
「うん……いいよ、べつに。慣れちゃったから」
「もう。瞳子ちゃんが優しいからって」
「高校行っても、どんくさいんだろうな、こいつ」
そう。こんなふうに教室の中でかまわれているうち、いつのまにか、好きになっていた。今になってみれば、航生くんがわたしに近づいたのは、綾乃ちゃんのいとこだったからだって、考えなくてもわかるのに。
航生くんが綾乃ちゃんに告白したと知ったときは、ショックを受けたっけ。でも、わたしを通して話すようになった航生くんのこと、綾乃ちゃんもずっと気になっていたと知って、心からよかったと思えた。
もともと、自分が航生くんとつき合えるようになるとか、想像することすらできなかったし、こうして改めて見ても、お似合いの二人。
「じゃあな、綾乃。また、連絡する」
「またね」
名残惜しそう航生くんと駅の改札で別れて、わたしと綾乃ちゃんは、上り方面の電車に乗り込んだ。
「ドキドキするね」
「うん。失敗しないようにしなきゃ」
「大丈夫だよ」
そう、わたしを安心させるように言ってくれた綾乃ちゃんのこと、車内の人が、たくさん見ている気がする。
ストレートの長い綺麗な黒髪に、真っ白な肌。大きな瞳は、外国の女の子みたいだし。背は、わたしとそれほど変わらないのに、制服の上からでもわかる、すらりとした手足。それに比べて……。
「でも、よかった」
「ん?」
ふっと息をついた、綾乃ちゃんを見た。
「航生くんのこと。わたし、瞳子ちゃんと航生くんは、両想いなんだと思ってたから」
「そんなわけ、ないよ……!」
思わず、大きな声を出してしまった。
「だって、瞳子ちゃんにばっかり、話しかけてたじゃない? 航生くん」
「だから、それは……」
最初から、綾乃ちゃんをねらっていたからであって。
「でも、瞳子ちゃんに失礼だったよね。そんな誤解しちゃって。瞳子ちゃんは、もっと真面目そうな人がいいよね」
「わからない、けど」
そうなのかな。正直言って、どんな人が合うのかなんて、自分で見当がつかない。
「あ、着いたね」
「本当だ」
気がついたら、学校の最寄り駅。わたしたちと同じ制服を着た人たちが、あちこちに見える。
「瞳子ちゃんにぴったりな、優しそうで格好いい人、いないかなあ」
新しい学校に向かって歩きながら、綾乃ちゃんの表情が真剣。
「わたしにぴったりっていうのは置いておいて、航生くんよりも格好いい人、そういないと思うけどな」
後輩の女の子にまで騒がれるくらい、人気あったし……と、そのとき。
「わ……」
校舎の脇で話している、二人の男の子が目に入って、小さく声を漏らしていた。
「どうしたの?」
わたしの視線の先を確かめる、綾乃ちゃん。
「や、ううん! べつに」
ごまかそうとしたものの、それは無理だった。すでに、周り中の視線が、その二人に集中していたから。
「そっか。あの人たち、見てたんだ」
「うん……なんとなく」
大人っぽいけど、二人とも胸に新入生の印の造花をつけているから、わたしたちと同じ歳だよね。とても、そんなふうには見えない。
「ふうん。音楽とか、やってそう」
遠目に観察しながら、綾乃ちゃんがつぶやく。
「そうだね」
一人は、柔らかそうな茶色っぽい髪で、全体的に色素が薄い感じの、中性的な男の子。
もう一人は、綾乃ちゃんみたいな綺麗な黒髪の、
どちらも、180センチくらいありそうな背と端正な顔立ちで、注目を浴びるために存在しているようにしか見えなかった。二人とも別世界の人だ。少なくとも、中学校には、あんな人たちはいなかった。
「それより、クラス発表見なきゃ」
「そうだった……!」
桜吹雪が舞う中、綾乃ちゃんのあとを追って、掲示板の方へ走っていく。きっと、同じ学校にいたところで、わたしがあんな人たちと関わることはないんだろうな。そんなことを考えながら……。
少し退屈だった式を終えて、一人新しい教室の中に入った。やっぱり、一緒に住んでいることもあってか、クラスは分かれてしまって、わたしはA組で、綾乃ちゃんはC組。
当然ながら、知っている人は誰もいないし、初対面の人と話すのは苦手。しかたなく、バッグから読みかけの本を取り出す。こんなだからだめなんだって、綾乃ちゃんにはあきれられちゃいそうだけど……と、そこで。
「…………!」
自然に、わたしの左隣の席についた人の顔を確認して、息をのんだ。式のときは、気づかなかった。朝見た、より近寄りがたそうな、綺麗なストレートの黒髪の方の男の子と同じクラスだったんだ。
しかも、席が隣だなんて……と、そうはいっても、こんな人にとって、わたしは空気みたいな存在。せめて、邪魔になって嫌われたりしないように、おとなしくしていよう。そう思って、意識しないで、本に集中しようと思ってるんだけれど。
……さっきから、ずっと隣からの視線を感じるのは、気のせい? おそるおそる、ほんの少し、視線を左にずらしてみると。
「あ。ごめん。なんか、見ちゃってて」
「い、いえ……!」
嘘みたい。普通に、話しかけられてる。
「いや、その本。レイ・ブラッドベリ」
「えっ?」
自分の本なのに、表紙を見返してしまう。そう、わたしが今読んでいた、短編集の作者の名前。
「俺も最近読んだから、つい」
「そうだったんだ?」
お父さんやお母さんの影響もあって、昔から本は好きだった。高校では、中学にはなかった、文芸部に入りたいと思ってるくらい。
「ブラッドベリ、好きなの?」
うれしくて、自然に言葉が出てくる。
「うーん……好きな人が薦めてたから、読んでみたんだけどね。途中で挫折しちゃった」
「たしかに、わたしも最初、とっつきにくかったかも。でも、気がついたら、引き込まれちゃってたっていう感じで」
「へえ。いいな。俺には、ちょっと難しかったかも」
「そ、そう?」
この本を薦めていた “好きな人”というのは、好きなアーティストのことかな。
「えっと……何ていう人?」
「え?」
唐突だったのか、目の前の顔が不思議そうな表情になった。
「その、名前……」
でも、引っ込みもつかないし、申し訳ないような気持ちでくり返すと。
「ああ、
「保科、倫……」
聞いたことのない名前。
「ごめんなさい。せっかく教えてもらったけど、わからなかった。俳優さん? 音楽やってる人?」
「…………」
黙られてしまった。知らないうちに、調子に乗っちゃっていた……?
「あ、そっか。そういうことか」
「あの……?」
突然、笑い出されて、不安でいっぱいになる。
「名前って、ブラッドベリを薦めた人の名前のことか。間違えて、俺の名前答えてた」
「や……ううん!」
わたしが、まぎらわしい聞き方をしちゃったから。
「ごめん、ごめん。俺の好きなバンドのギタボやってる人。そんな有名じゃないから、言っても通じないと思う」
「そうだったんだね。ごめんね」
「どうして、謝るの? えーと……」
「野呂瞳子、です」
「野呂さん、ね。よろしく。読み終わったら、教えてよ。野呂さんの感想、聞いてみたい」
「うん……! わかった。よろしくお願いします」
少しおかしそうに、くすりと笑った保科くんに、ぺこりと頭を下げた。何かが起こるなんて、期待しているわけじゃない。ただ、言葉を交わせたことが、うれしかったの。
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