第四十二話 帰って来たわ!

 朝扉あさと産屋うぶや(出産のための小屋)から月を見ていたとき、桂城帝かつらぎていは宮中の清涼殿せいりょうでんから月を見ていた。帝は、月を見るのがすっかり習慣となっていたのである。


月姫つきひめ……」

 望月もちづき(満月)の美しい夜だった。

 月姫が光の球体に包まれて行ってしまってから、もう三月みつきになる。それでも帝は諦めきれずに、月を眺めるのだった。


 ――望月もちづきが、少し膨らんだような気がした。

 まるで、身体を震わせるみたいに、金と銀の粒がふわりふわりと藍色の夜空に滲み出た。見ているうちに、そこから一筋の光が真っ直ぐに帝の方へと伸びてきた。

 ……まさか⁉

 桂城帝かつらぎていは、驚きと期待で胸を満たしながら、立ち上がって簀子すのこ(縁側)へ向かい、そしてきざはし(階段)を下りた。


 月から伸びる光の筋は先端に、光る球体を作っていた。光る球体は金色の中に白銀の粒が光り、金と銀の光の粒を辺りに美しく撒き散らしながら、ゆっくりと帝の前に降りて来た。


 その光る球体は、人が入るくらいの大きなものだった。

 帝は目を凝らしてその光る球体を見つめた。

 ……月姫……!

 光る球体に、帝は一歩ずつゆっくりと近づいた。

 そして目前に迫る光る球体に、そっと触れた。

 すると、光る球体は辺り一面に、光の粒を、波のように同心円状に散りばめ、球体の形は徐々に崩れていった。


桂城帝かつらぎてい

 光る球体が光の粒子となって拡散してしまうと、そこには月姫がいた。

 三月みつき前に光る球体とともに天に昇って行ったときと、同じ姿で月姫はいた。紅葉襲もみじがさね袿単うちきひとえ姿(成人女性の日常着)で、黒い豊かな髪をゆらゆらと揺らして。

桂城帝かつらぎてい、あたし、帰って来ました!」

 目の前で起こったことがうつつのこととは思えず、桂城帝かつらぎていが言葉も出せずに立ち尽くしていると、月姫はそう明るく言って、帝の方に駆け寄った。


「……月姫! 本当に、あなたなんだね? 私の願望が見せた幻かと思ったよ。ああ、もっとよく顔を見せて欲しい」

 帝は月姫の手を引っ張り、そして両手で月姫の頬を包むようにして、その黒曜石の瞳を覗き込んだ。

「帝、あたし……帝といっしょにいたくて、どうしても。――帝がいない世界では生きているような気持ちがしなくて、それでここに帰ってきたんです」

「月姫……! 私もだ。あなたがいない世界では生きているとは思えなかった」

「帝……」

「決して離さないと誓ったのに、光る球体に包まれてあなたは天に昇って行ってしまった……どんなに悔しく悲しかったか……!」

「でも、あたし、戻って来たわ!」

「もう、二度と手放しはすまい」

「はい! ずっとおそばにいます!」

 桂城帝かつらぎていは月姫を固く抱き締めた。

 月姫は、帝の胸に顔をうずめながら、ああ、本当に帰って来たんだ、と実感して涙をこぼした。


「……桂城帝かつらぎてい、そう言えば、あたし、上の世界での記憶は徐々になくなるそうです。ここに来たことと引き換えに」

 そして、異能力[魅了チャーム]も。

 月姫は心の中でそう付け加える。

 月白には「記憶も異能力も、封印される」と告げられていた。

 桂城帝かつらぎていは抱き締める力をいっそう強くして、「記憶があってもなくても、あなたはあなただ、月姫」と答えた。「何も変わりはしない」

「帝……」


 ――そう言えば。

 第一階層に戻るとき、桂城帝かつらぎていはあたしを行かせまいとして、異能力を発動させていたわ。……そもそも帝には〔魅了〕が効かないし。

 月姫は、顔を上げて桂城帝かつらぎていの顔を見た。

 もしかして、帝は、もともとは第一階層の人間なのかしら? それもかなり高位の。……記憶をなくしている? 


 桂城帝かつらぎていは月姫の頬を撫でながら、囁くように言う。

「月姫、愛しい人。あなただけだ」

桂城帝かつらぎてい、あたしもです。帝だけを恋しく思っています」

 答えながら月姫は、帝がもともと第一階層の人間だったとしても、そうでなかったとしても、関係ないわ、と思う。帝は帝だ。

 あたしが愛した桂城帝かつらぎてい

 それだけ。


「月姫、今度こそ、結婚しよう。――すぐに。……いいよね?」

「はい! ……桂城帝かつらぎてい、三日間続けて通ってくださいね」

「もちろんだよ、月姫。三日目の夜、三日みかもちいをいっしょに食べよう」

後朝きぬぎぬの歌もくださいね」

「当然だ」


 月姫は桂城帝かつらぎていの腕の中で、朝扉あさと朝扉あさと伊吹いぶきの子にも早く会いに行きたい、お母さまやお父さま、それからお兄さまたちにも早く会いたい、と考えていた。

 だけど、あたしが一番会いたかったのは、桂城帝かつらぎていだ。

 月姫は帝を抱き締める手に力を込めた


 ……ああ、やっと帰って来られた。

 この腕の中に。

 この、優しい自然と生きる世界に。



 歌を。

 歌をうたおう、歓びの歌を。

 忘れてしまう前にもう一度だけ。

 この世界が、どうか愛に満ちた幸福なものでありますように――





          了


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛を知らないお姫さまが愛を知るまで~月光る姫の物語 西しまこ @nishi-shima

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画