第二十五話 東海道・保土ヶ谷宿の神明社-ハルシネーション(電子幻影)世界の香魚子-

 横須賀線を横浜から下り方面の列車に乗ると次は保土ヶ谷駅である。この街はもともと江戸時代に整備された主要街道である五街道の一つ、東海道にあった宿場町が発展した場所だ。今はさほど大きな駅でもないし、切り立った丘陵地の狭間にあるわずかな平地部にある都会のベッドタウンである。少ない平地を切り開いて新興住宅がひしめきあう町である。居住の利点は横浜駅まで一駅と言う便利さだ。大都会の横浜に気軽に出かけられるという利点は大きい。

 そんな今風の町保土ヶ谷。ところがメインである西口には大きな駅前広場と古くからの街道沿いの風景が少しだけ残る。旧東海道を拡張した駅前道りには路線バスが行き交う。その歩道の向こうには明治期以前からの木造街道民家もわずかだが残っている。

 東海道宿場のなごりは新しく現代に立てられた助郷役役場跡や高札場の跡などを解説する歴史案内板のみだ。だがこの旧宿場町にしてベッドタウンでもある現代の保土ヶ谷にも由緒ある神明社が存在する。その新興住宅地とのギャップが、程良い落ち着きを醸してくれるのが興味深い。


 駅前の旧東海道を横浜方面に数分歩くと大門通りの交差点に出る。そこを左に行けば神明社。その交差点の横断歩道を渡りきって右に曲がった辺りにある商店建築の家がこのお話の主人公、三木元香魚子みきもとあゆこの家だ。

 今彼女はここから五分とかからない保土ヶ谷のお伊勢さん、神明社に行って帰ってきたところ。彼女は仕事が休みの日には、散歩がてら神明社をお参りするのが最近の習慣になっている。初詣の客もそろそろ終わりの松の内を過ぎた成人の日の頃だった。


 つい最近までは、映画やらお祭りやらと誘ってくる幼なじみの男性がいた。特に付き合っていたわけでもなく、小学校時代からずっとそんな感じの付かず離れずの仲良しのご近所さんで、暇になることなどなかった。ちょっと前まではそんな程良いスケジュールの生活が日常だった。


 彼女のその幼なじみの男性。はす向かいの古い家に住む口細泰央くちぼそやすおという。残念なことに彼は一家で大阪に転居してしまった。つい数ヶ月ほど前のことだ。

 彼女も二十九歳。そろそろ恋のひとつでもしておきたくなる年齢だ。いや実はその泰央に幼少の時分からずっと恋しているので、片思いと言う意味の恋は経験している。ただ男女交際の経験がないままこの年齢になってしまったというのが真実だ。

「こんなにモヤモヤするのならコクっておけば良かった。どっかのマンガじゃないけど、私も魔法使いになれる年齢になっちゃったわよ」

 今まで彼がまさか自分の近くから消えてしまう現実なんて想像だにしなかった。


 そんな独り言をいいながら不機嫌そうに歩道を歩いていたときのことだ。

 香魚子は、数ヶ月ぶりに、既にもう懐かしいと感じる笑顔に出会った。

「えっ? なんで」

 彼は香魚子の斜向かいのその家から出てきたのだ。さらさらの髪に鼻筋の通ったあの表情はまぎれもなく口細泰央くちぼそやすおなのだ。でも見慣れない革ジャンなどを着ていたのでファッションの嗜好が転居先で変わったと思った。


『帰ってきたんだ。一家で関西に赴任したお父さんに同行したのに、単身で戻ったのかな? まあ、彼はフリーのウェブデザイナーだから何処ででも仕事は出来るのよねえ。あとで声かけてみようかな』と思いながら家に入る。彼の家の表札には前とは別の新しい『口細』の表札が掲げられていた。彼は彼女に見向きもせずに忙しそうに駅の方へと走っていった。

『あたしだって分かったのなら手ぐらい振ってくれてもいいのに』と不満げな顔つきの香魚子だ。



「やあ、ゲッコー!」

 香魚子は自分の部屋に入るとAIモジュールに話しかけた。『♪ピロピロピン』と電子トレモロ音が鳴った。気のせいか重なるように『♪ポロロン』と音が鳴った気もした。

 だが気にする間もなく、すぐにAIの音声が彼女に応える。

「ハイ、ゴヨウハナンデショウ?」


 分かりきった答えしか返してくれないコンピュータの返答だが、おきまりごとのように訊ねる。

「どうして彼は私に連絡もなくひとり単身で戻ってきたの?」

「ソレハホンニンニシカワカリマセン。ホカニオヤクニタテルコトハアリマセンカ?」

 そう言うとモジュールは、点灯していた赤いランプをやめて休眠した。

「AIめ。私の恋愛を面倒くさがったな」

 彼女は神社の札受窓口で授与されたキーホルダー型のお守りを思い出す。

「あ、そうだ。これチャリの鍵につけておこう!」

 そう言ってふたたび家を出て、家の脇にとめてある自転車の方に向かった。


 するとさっき見かけてから十分ぐらいしただろうか、泰央がファストフードの包み紙と袋をぶら下げて戻ってきた。おまけに髪をポニーテールに結んで、可愛さと女子力全開の女性と楽しそうに手を繋ぎながらだ。この真冬の日だというのに、防寒対策はPコートだけでミニスカートでがんばる女子。

 それに負けそうな二十九歳、着の身着のままなラフなファッションの香魚子である。毛玉のできはじめた毛糸編みの上着にマフラーを引っかけて、分厚いタイツにロングのスカート。オシャレは疾うの昔に諦めた、色気のないよれた女の自覚もある。


「なぬ?」

 青天の霹靂とでも言えるショッキングな光景に彼女は静止モードのDVDの画像のように固まった。そして家の前で自転車の手入れをしていた香魚子には、何故かその光景が不快に感じた。この時も彼は横目で香魚子を見るが、瞬時に挨拶もせずに目線をごく自然に反らしてしまう。


「なによ。これみよがしに見せつけってこと? そりゃ、私は恋人でも何でもないけど、幼なじみとしての挨拶ぐらいしてくれても良いんじゃない。関西に行ってそんな冷たい性格になったってこと」


 女性としての自信のなさが彼女の心中に、より一層の追い打ちをかけている。

 なぜか涙の止まらない彼女。勿論恋人でもなければ、夫婦でもない。ただのご近所さん。幼なじみなのに肩書き以上の感情がふつふつとこみ上げてくる。身勝手な感情だ。だが彼女の抑制の意志とは関係なく涙の礫は溢れだしポロポロとしたたり落ちる。


「そりゃ私だってあんな可愛くて、清楚な格好の服を着こなしてみたいけど、似合わないのも分かっているモノ。そんな私を見下すようにこの時とばかりに見せつけなくたって……」


 通りを隔てた向かいの二人は、香魚子の尋常でない視線に足を止める。その表情に気付いたのだ。自転車の荷台に持たれ、そんな涙ほろりの香魚子を前に彼とその彼女は困惑気味である。


「あんた浮気でもしたの、あの女と」と横のポニーテールの女性は不審な表情で彼を見る。

「いや、オレは誠実だよ、志々美しじみ以外は目に入らないんだけど……弱ったな」


 そう大きな通りではない町中の道で二人の会話は香魚子にも届いていた。


「あんたに身に覚えがないとすれば、あの女がメンヘラってこと?」

 ポニーテールの彼女の辛らつな言葉にしかめっ面で彼は困った表情だ。時折香魚子と男女二人の間に自動車が通るが、そう交通量の多い道でもないので、会話はその時でも筒抜けだ。

『私、メンヘラなんかじゃない!』

 心の中で必死に踏ん張る香魚子。でも涙はとめどもなく、次から次へと溢れてくる。こっちの意志とは無関係に。心が香魚子本人の予想以上にダメージを受けているのだ。



 そこにお馴染みの部分メッシュを入れた惚け面が顔を出す。彼女の視界にストレートに飛び込んできた。驚いたことに向かいにいる志々美というポニーテールの恋人の男性とうり二つなのだ。

「何やってんの? 香魚子あゆこ

 シクシク泣いていた香魚子は「へっ?」と顔を上げた。

 その視線の先にはもう一人の泰央がいるのだ。こっちの泰央はいつも見慣れていた青いフリースに青いパーカ―、お馴染みの一部分を銀に染色した髪だ。

「あれ? 泰央が二人? なんで?」

 目を腫らしながらも、目尻を人差し指で拭う香魚子。

「さっき駅に着いたってメールを入れただろ? 驚かそうと思って、サプライズで帰ってきてやったのになんかたいそうなお出迎えだな」といつもの口調で笑う泰央。

 香魚子はさっきのダブって聞こえたトレモロ音が脳裏に浮かぶ。

『あれだ。いろいろあってすっかり忘れてた』


 向かいの香魚子の横に急に出てきた泰央にポニーテールの志々美も気付いて驚く。「あれ」という表情を見せて、泰央と自分の横にいる彼氏の顔を見比べる。

「えっ? 隆夫がもう一人?」


 すると男ふたりは顔見知りのようで気軽に手を振って、

「よう、やっちん!」

「おう、たっくん!」と互いに挨拶を交わす。


 状況の急展開。一体何が起きたのかも分からずに香魚子は、瞼の乾かぬうちにドングリ眼で二人を見比べた。

「なにこれ。どゆことよ? 私の脳みそバグってる? ハルシネーションの世界だわ」

 そう彼女は、AIがコマンドの矛盾で引き起こすおかしな現象や画像であるハルシネーションのような幻影を見ている気分だった。それは、よりリアルな状態で起きるバグのようであった。

 すると青い服の泰央が説明をする。

「なんだ香魚子、僕と隆夫を間違えてたの?」

 ポニーテールの女性も「なに知り合い? このうり二つの人」と隆夫に尋ねる。

「ああ、いとこの兄ちゃんの泰央」と彼女に紹介してみせる。

「いとこ?」と声を揃えての香魚子と志々美。

 その言葉に泰央は、「うん、そうなんだ。ウチの家族が関西にいる間、あの家を使ってくれているいとこなのよ。家って、使わないとダメになるって言うじゃない。なのでこの春から東京の大学に入学する彼が使ってくれているんだよ」と説明をした。

「親戚なんだ。どうりで似ているはずだよね、はあっ」と香魚子。

 ため息とホッと一息が交じるように大きな深呼吸をしてはき出す。


「なんでそんな涙目しているのよ」と泰央。

 バツ悪そうに彼に背を向けると「何でもないわよ」と言ってツンとする香魚子。

 ちょうど通りを渡ってきた隆夫と志々美が意味深な笑顔で笑う。そして隆夫は、

「やっちん。分かっているくせに。そうやって誤魔化して彼女の思いを惚けて知らんぷりするつもり?」と白い歯でニカッと笑う。近くで見ると確かに泰央よりも若いのが分かる。

「何だよ」

 バツ悪そうな泰央は、苦虫をかみつぶしたように痛そうな表情だ。

「それを言うためにわざわざこっちに朝イチの新幹線で帰ってきたんだろう」と照れ隠しで言い訳のように言う。

 その意味深な言葉に反応する香魚子。

『なに? 私、これからコクられちゃうの? 魔法使いにならないで済むのかなあ……』

 彼女は自転車の鍵につけられたキーホルダー型のお守りを見つめて何故かひとり真っ赤になっていた。

「ああ、泰央、十一日の鏡開きで割ったお餅があるから、お汁粉にするんで食べて行きなよ。私が作ってあげる、あまーいヤツね」と言うと、

「うん、ぜひ香魚子の部屋でさ」と返す泰央。

 モジモジしながらも香魚子は「うん」と返す。

「なによ、私たちなんかファストフードなのにねえ」と笑う。

「じゃあ志々美もお汁粉作ってよ」

「分かったわよ、じゃあまた駅前で買い直しね。夜はお汁粉にするわよ」と笑う。

「じゃあ、やっちん。せいぜいあまーいお汁粉をご堪能下さいよ。邪魔者は消えるよ」と意味深な言葉を言い残して隆夫と志々美は通りを渡って、彼の家族から借りた家へと姿を消した。


 その場に残された香魚子と泰央。

「オレさあ。向こうに行ってみて香魚子のいない時間がつまらなくて……。正式に彼女でもなかったからここで彼女になって欲しくってさ。帰ってきてお前の意見訊いてみようかな? って思ってさあ」

 そう言って真正面で香魚子を見つめた。

「ばかあ。好きに決まってんじゃん。私だって一緒、つまんない日々だったわ」と俯く香魚子。

 これが三十歳手前の男女の会話なのだ。なんとも無垢で純粋な微笑ましい三十歳同士である。二人はお汁粉のあとで、電車で五分の横浜にデートに出かけたのは言うまでもない。長年互いを大切にしてきたこの二人なら、遠距離恋愛という試練も乗り越えられそうだ、と榛谷はんがやのお伊勢さんは微笑んでいるだろう。


                 了

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神明社のある街角の風景-恋と御縁の浪漫物語- 南瀬匡躬 @MINAMISEMasami

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