夢に架かる橋

八柳 心傍

本編

 夢のなかに橋が出てきたら壊すか塞ぐかしなさい。


 昔から祖父に言われていたことだった。


 家族は代々信心深かった。とりわけ、若かりし日の祖父が、山奥のお寺で滝修行をしていたというのは頻繁に聞かされる話だ……竹箸が延々と降り注いでくるような激しい滝に打たれていると、お坊さんではない誰かから、とにかくお許しが出るまでは「出たい」と思っても出られないのだとか……修行の最後の日には、美しい鳥の声が聞こえたのだとか……。


 そういうことがあるから、何か私の身に不幸があると、千切れかけた分厚い御経で背筋を何度も叩かれたものだ。そのような習わしと共に育ってきたので、古き唯心主義を冷笑してばかりな現代の乾いた空気の中で呼吸をしていても、うっすらと、神秘的なものの存在を信じる心が私にはあった。


 平日、ある国語の授業を受けていた時間。


 黒板の美しい筆致により奏でられる規則的なチョークの打音と、肝要な点を強調させるために描かれる曲線矢印の膨らむような音のせいで、うとうとしていた私は、つい居眠りをしてしまった。


 夢のなかは、私の家を模していた。


 祖父の言い付けを守るため、いつものようにまず外にある門扉の先へ向かった。


 家を囲う石垣の下には、これに沿うように細い用水路が流れており、敷地から出るにはここに架かった短い石橋を渡らねばならない。およそ想像される橋にしては小さいものだが、これもれっきとした橋なので塞がねばならない。


 庭から運んできた大きめの石を、橋を遮るように並べた。


 次は、母が育てている花畑を見にいかなくてはならない。実はあそこも油断のならない場所で、たまに散水機が緩みっぱなしになっていることがあるのだが、晴れている日はそこに虹が架かっている。架かった虹の様子を、日本語では「虹橋こうきょう」と言い表すことがあるようだ。これも橋であるとしたら、消しておかねばならない。


 花畑を囲う赤煉瓦の傍にある、土に覆われた水道の蓋を開けて元栓を閉めた。


 それから庭の脚立を畳んで、開かないように内側の鎖を掛けた。


 台所の食器棚に仕舞われたすべてのはしを、煎餅の一斗缶に入れて燃やした。


 仏壇に置かれている、祖母が使っていた眼鏡のブリッジを折った。


 これで全て。


 夢に現れる舞台は大体、自宅、駅、登下校の際に通る橋の付近、学校ぐらいなので、壊したり塞いで置かないといけない箇所は憶えている。


 眼鏡を壊したことを謝るべく仏壇に線香を供えた。


 白梅の甘い香りがする。


 和室の真ん中に座って、足を放り出して休憩した。現実ではまだ授業中なので早く起きないといけないが、あの眠気を誘う退屈な授業を受けるのは何だか億劫だし、そのせいでまた居眠りをしてしまったら本末転倒だ。


 私はもう少し、夢の中にいることにした。


 しかし、おかしな話である。


 祖父の話を疑うわけではないが、夢の中に橋が出てきたら壊せ塞げとは奇妙奇天烈ではないか。これが躾話の類であれば得心も出来ただろうが、そんな話の内容でもない気がする。何せ、夢の中の話であるし、橋に気を付けろという意識を持たせたところで何かの役に立つわけでもないだろうに。


 あるいは。


 夢の中に橋が架かると、何か良くない事でもあるのだろうか。


 いつの間にか、窓の外は仄暗くなっていた。


 空が曇っている。


 その時、雲間から陽がスーッと差し込んできた。


 空一面を覆う雲にかすかに空いた穴。聳え立つ山々を彷彿とさせる白い雲の輪郭。鳥や虫などの生命が巣を作って棲みついているかのような遠い景色から、真っ直ぐに、この家の和室の窓に向かって光が差している。


 薄明光線。光芒。


 あの美しいものを他に何と言ったか。


 そうだ。


 天使のはしご。


 私は畳から飛び起きた。そうしてから、どうすることも出来ないと気が付いた。この和室には雨戸がない。カーテンのような陽光を遮る布もない。ただ仏壇を置くためのへやであるから、窓を覆って隠しきれるほどの家具もない。


 雲間の穴が、おもむろに開いていく。


 ハッと吾に返った私は、仏壇に供えた線香に目を付けた。線香筒に挿してある束をすべて取り出して、罰当たりを承知で火を点けた。


 ああ、だが、煙が立たない。


 煙の立ちにくい線香だったのを忘れていた。これでは光を遮れない。


 その時、どこからか太鼓や摺鉦すりがねを打つ音が聞こえて来た。


 私は窓の外を見た。


 空から差す、光の橋。


 あの先から何かが渡って来る。まだ見えない。


 見えないが、恐ろしいものではない。


 お化けや怪物といった醜いものではない。


 もっと人間が畏れるべき何者かが、私を目掛けて歩いて来る。


 雲の上にある国。見た事がない場所。夢の外。そこから橋を架けて誰かが渡って来る。私の夢の中へ這入り込もうとしている。


 呆然と空を見上げていると、鳥の声が聞こえた。


 聞いた事もない、美しい鳥の啼き声がした。


 夢から覚めると、国語の授業はもう数分でおしまいといった処だった。


 あれは、祖父が言い聞かせていたお話に対する潜在的な私の恐怖だったのだろうか。それが表わすところの感情の姿が、ああして夢に出て来たのだろうか。


 あるいは、あれは「習わし・・・」という形で祖父が私から遠ざけたかった者の正体だったのかもしれない。怪物でも、幽霊でもないもの。遥か空の上から舞い降りる何者か……喜びと畏敬と、安堵、達成感を感じさせる清らかな存在……されど、そのような感情を喚起させるものだとしても、私がまだ出会ってはいけない存在。


 夢の中で聞いた鳥の声は……。


 祖父が聞いた声と同じだったかもしれない。


 学校が終わったら、あの和室にカーテンを掛けよう。


 そんな事を考えながら、私は国語の授業に耳を傾けた。


「――であるので、この『てにをは』という助詞はとても大切なものなんです。私達が普段から書き、読んでいる日本語の言葉と言葉をつないで文章に意味を与える」


――言うなれば、これは言葉と言葉をつなぐ橋のようなものなんですね。

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