第2話 夢見が空を……

「アマル・シン、アマル・シン、どこにいるの?」

 あれから数日。

 まだ朝日のまぶしい時刻。館の厩に走りこんできたものがあった。

 アル・アアシャーである。

 城の衛兵隊長で、若様のアアシャーの武術指南でもあるところの老人が出てくると、アアシャーは飛びつかんばかりに駆け寄ってきた。

「ああ、ここに居たんだね」

 武術指南はびっくりして目をぱちぱちさせた。

「これはこれは、アアシャー様。今日はまた、早起きまでしてお稽古がしたくなりましたかな」

 老人の皺だらけの顔がほころんだ。と言っても、老人もこの病弱な若様が朝から剣の鍛錬がしたくて来たとは思っていない。

「ち、違うよ」

 老人の思った通りに、アアシャーは力いっぱいの否定を込めて顔を振った。

「違うんだよ。ねえ、アマル・シン、頼みたいことがあるんだけど」

 老人は心の中でうなずいた。そうでしょうとも。私の若様。

 それでも老人は生真面目に聞き返した。

「なんです? まさか、アルファボルを出して欲しいとかおっしゃるんじゃあないでしょうね。それならだめですよ。私は旦那様に頼まれておるんですから」

 眉をしかめてみせるのを、アアシャーは切実な目で見上げてきた。

 おやおや。

 今朝の若様は本気らしい。

「……ねえ、頼むよ。ね、一生の頼みだから、アルファボルを出させてよ。この通り、頼むよ」

 真っ白な柔らかな長い髪に縁取られた真っ白な顔の中で、柘榴色の瞳が真剣そうに光っていた。

 アマル・シンは、困った表情を顔に張り付かせたまま、しばらくの間、朝の牧場を歩く羊たちの群れを見ていた。

「ねえ、もう稽古をさぼったりしないから」

 その瞬間、老人の目の裏で、何かが弾けた。

 これは既視感というものだろうか。私は前にもこうしてこの白くてひ弱な館の若様に、同じことを頼まれたことがある。そう、こんなふうに。あれはいつの出来事だったか。

 かつて一度はあった出来事をなぞっているのかもしれない。なぜか、その時老人はそう思った。

 彼はふと牧場から目を離すと、いきなりアアシャーの腕をぐいとつかんだ。

「わあ。何をするんだよ。痛いじゃないか」

 若様の悲鳴になど耳も貸さない。

「最近は、少しは筋肉が付いてきましたなあ」

「え。そうかな。あまり剣術はうまくならないんだけど」

「いえいえ、アアシャー様ももう十三歳になられるのですから、そろそろ騎士としての作法なども身につけていただかないと困りますなあ」

 アアシャーのただでさえ真っ白な顔から血の気が引いた。

「……目のよく見えない僕でも騎士になれるのかなぁ?」

 アアシャーの答えは大人から見ればたわいもない悩みだった。

 いくら目が不自由でも、彼の他にはこの家の後継者がいない以上、アアシャーは見えずとも見えると言って、この家を継ぐしかないのだ。

「はははははは。なれんでも格好だけでもつけていただかねばなりません」

 そして、答えるアマル・シンの答えは、すべての事情を知り尽くした大人の世界の返答だ。

 この少々、夢見がちの若様にはかわいそうだが、この家が、この館が、この領地が安寧に次代へ引き継がれることだけが、家臣たる彼らの望みだったから。

 彼は、アアシャーの腕を取ったまま、厩の奥、アルファボルのいる方へ歩いていきながら、言った。

「アアシャー様、今朝はちゃんと御膳を召し上がられたんでしょうねえ」

 アマル・シンの髭の下の唇に苦笑いが浮かぶ。

「ああ! もちろんだよ。だって、ティルルーが見張ってたもの」

「それなら、まあ、よろしいですか」

 アマル・シンは続けた。

「お馬は出して差し上げましょう。ですが、その前にお支度をきちんとなさいませよ。一応、剣もお持ちになって。そのような軽装でアアシャー様をお出ししたとあっては、私が旦那様に叱られます」 

 それを聞くアアシャーの表情はぱっと明るくなり、そのまま何も言わずに自分の部屋へと戻っていく。

 その後ろ姿へ、アマル・シンの声が追いついた。

「アルファボルは表につないでおきますからね。慌てなくても太陽は逃げませんよ!」



 そして。

 アル・アアシャーはアルファボルの背に乗っていた。

 白銀の髪は額の銀石と金石を捻った額飾りでとめられて風になびき、華やかな、母や乳母たちの心づくしの刺繍で覆われた空色の絹地の外套がその華奢な体を覆っている。

 腰には細い、繊細な蒔絵をあしらった剣が、護身用に携えられていた。

 少しだけ気だるげな、けぶるようなその姿は、さながら彼自身が何かの妖精でもあるかのように見えた。

「アルファボル、僕は今日、夢見に会うよ。会って、歌を聞かせてもらわなきゃあ」

 キュル・テペの牧の原、夢見の国へと、アアシャーは一心にアルファボルを駆けさせた。

 そのとき、アアシャーの、体に似合わぬ強い声が、高原一杯に振りまかれた。それはまさに自然に起こったことで、アアシャーの意図など何も関知してはいなかった。

 それが、のちの彼の生涯を彩った、あの偉大なる声の始まりであった。



 ……いま、蘇る

 空の夢がぼくに微笑みかける時が来る

 日が暖かくぼくに降り注ぎ

 花は匂い

 雪解けの小川はささやき

 大地が夢見の歌を歌う!

 これは空の高みまで届く歌だ

 夢見が空を

 降りていく

 夢見が

 空を……



 それは、歌だった。

 アル・アアシャーがその人生で、初めて紡いだ、歌。

 彼は、自分のこころを、そのまま、歌としてその世界へ蒔いた。



 きっと僕はいつか、思い出す

 僕が嫌いだった時代のことを

 いつか思い出して

 苦く笑うだろう

 今から僕は自分自身をおのれの虜にしよう

 この白い髪

 現世を正しく見られないこの柘榴色の瞳

 僕は僕が人と違っているということだけで

 僕は僕の幼い時代を過ごしてしまったのだ

 なぜ

 僕はそれをまだ知らない

 でも、僕は僕でよかった

 こうして、生きていられてよかった……!




 そのとき。

(本当によかったの)

 それが聞こえたのだ。


(その目も、その弱い体も呪わないのね?)

 ……ああ。

 そりゃ、少しは悩ましい。少しは恨めしい。でも、僕は僕。

 他の人じゃない。


(変わったのね)

 ……成長したのかな

 人間である僕は生きて、年を重ねて、そして過ぎ去っていくんだ。それは変えられない。

(そんなことは、実は悲しいことじゃないのかも知れない)

 アアシャーは無意識のうちにその問いに答えていた。

 それなら、今までのすべては、思い出にして、ずっと持って行けばいいと思ったから。

 大人になって、いつかこの話を話すべき人に出会うまで、ずっと持っていけばいいさ、と。

 僕は

 いや

 この時代は……


 その時のアアシャーには、それより先のものは見えなかった。

 僕がいつかこの世界を離れる日まで

 この時代はぼくを支配し続けるよ。

 それだけ。

 きっと変わらないと、信じられたのは。


(思い出がもっと欲しい? )


 あ。

 

 そう聞かれて、アアシャーは気が付いた。

 その時、やっと彼らの姿が彼の柘榴色の弱い目に映ったのだ。

 彼はアルファボルの手綱を引いて、止めていた。

 喉から出てきたのは、こんな言葉。

「思い出の数だけ、ひとは悲しいことが多くなるけれど、それだから生きていけるって、知ってるよ」


 嗚呼。


 彼らがそこにいた。

 夢見が。

 彼らが。

 そこに。


(そう。いつも思い出には涙の跡があるね。齢を重ねるごとに涙の味は苦くなるよ)

 

「涙が?」

 そういう声が彼の耳を打った時。


 不意に、アアシャーの前で羽音がして、何かが彼の濡れた頰に止まった。小さな、本当に小さな手が置かれて、水滴をはらりと払う。

「まさか……」

 アアシャーは見えない目を、高原の明るい地平の果てに向けた。

 そんな遠くのものは、アアシャーには何も見えない。

 だが、この頰に感じるものは。

 アアシャーはおそるおそる頰に手をやって、その存在を確かめた。

「本当に、本当に夢見が僕の前に現れるなんて! 」

 アアシャーの少し霞のかかった目には、夢見の真実の姿が見えていたのかもしれない。

 それは、彼の柘榴色の目だけが見たもの。

 それは、寂しげに顔を垂れた、幼い子供の姿をしているように見えた。

 涙色のその存在。

 夢見は、アアシャーの白い手のひらの上に座り、かすかに笑ったように見えた。

(あなたには、もっともっと、思い出を持って行って欲しいの。もっともっとたくさんの。あなたの一生のかけて歌い続けても、終わらないほどの思い出を)

 それは、誰の思い出なのか。

 アアシャーはすぐに気がついた。

 それは、一人の思い出なんかじゃなくて。 

 夢見は黙って、アアシャーの柘榴色の瞳を見た。

(もうすぐわかる。そして、あなたは忘れない……きっと。あなたに終わりが訪れるまで) 

 

 アアシャーのよく見えない柘榴色の魔の前で、その時、いくつもの時代、いくつもの風景が渦巻くようにして通り過ぎた。

 アアシャーには、その事象の本当の意味などは分からなかった。

 だが、それでも彼はそれだけは分かっていた。

 それだけを糧にそれからの長い人生を進んで行くのだということを理解していた。


「忘れない! 忘れないよ。決してこの美しい世界を忘れない!」


 アアシャーは自覚もないままに、夢見たちの気配に向かって、そう叫んでいた。

 その日、アアシャーはアルファボルとともに、見た。

 一面のお花畑。星のないのがいっそ嘘のような深い青い空。そこから、夢見が幾人も舞い降りる、その日だけ、その場所であった出来事を。

 彼らは、アアシャーの周りに集まり、その髪に花を挿し、涙を薄い紫の花びらで拭い、アルファボルを先導して舞い踊った。



 見よ。

 ここに詩人が生まれる

 我ら夢見の思い出を託すべき

 永遠を語る詩人が


(彼は忘れないね)

(私たちがここでいなくなることも)

(この美しい世界が壊れることも)

(歌え! 声枯れるまで! 彼はきっと歌うよ)


 それより後の記憶がアアシャーにはない。

 彼は館に戻り、また、前と同じような日々が続いたからである。


 すべてを失う、あの日まで。





 ……たとえ、それが夢でも

   たとえ、それが一瞬でも

   たとえ、それが一生でも


   わたしは帰れない

   あの懐かしい風景、永遠に失われた時間へは


   見えない目の奥で

   あの時の空がよみがえる

   見上げる青い星の海

   夢見が空を 降りていく


   なのにもう、わたしは帰れない

   時が過ぎるまで

   狂った朝に目を覚ますまで

   流れる涙に目を焦がし

   夢見の誘いに目覚めても

   わたしはは飛べない

   舞い上がれない


   夢見よ

   もはやこの大地などかえり見ないものどもよ

   未だこの地を這う、わたしの目にはもう映らないものどもよ



   たとえ、それが夢でも

   たとえ、それが一瞬でも

   たとえ、それが一生でも

   私は帰れない



   だが、今でもわたしは待っている

   あの時に戻りたいと願っている


   あの星空に、お前たちが帰っていった日に

   あの日をもう一度見るときを

   あの日、この不自由なる目に映ったものを決して忘れず

   そのときがわたしの最後の日でも

   それでもかまわない

   わたしは待っているよ……





「それは、あんたのことかい」

 そう耳元で聞かれて、アル・アアシャーは顔を上げた。

 ああ。

 今夜はこの人を選んだんだった。まだ、自分の名前も名乗っていない。もちろん、相手の名前も聞いてはいなかった。

 こんなことはいつものことだ。

 だが。

 今日はちょっと違うような気がした。

 なんでだろう。先ほどまでの皮膚と皮膚との交歓が、久しぶりにしっくりとして、心地よかったからか。

 改めて相手の姿を見る。だが、目の弱いアアシャーには細かい顔の造作などは見えなかった。

「ええ、そうです。もう、何年前のことでしょうね」

 アアシャーは年月を数えようとして、そんなことには意味がないことに気がついて、それをやめた。

「本当に、思い出になってしまいました」

「キュル・テペは、確か……」

 アアシャーは枕に白い面の半分をうずめたまま、歌うような調子で答えた。

「ええ。あのトゥイーラ・ルブダの大噴火で、すっかり消えてしましました。……領主の息子で、そのとき都の学校に行っていた私だけが、のこされた。他には何も。夢見も、夢見の国も、お花畑も、私の家も……すべては灰の下に消えてしまいましたよ」

 この話をするのは初めてではない。

 でも、今晩の心臓こころの痛みはいつもと違うようで。

「……かわいそうにな。夢見、だったか、そいつらはそのことを……自分たちの滅亡の日を知っていたのかねえ?」

 傭兵の男の声は、自身がなさそうだ。

「知っていましたよ」

 アアシャーははっきりとそう言うと、唇をかんだ。

 知っていたともさ!

 知らなかったのは、この私一人だけ。

 もう、その頃のアアシャーには確信があった。

「そうです。ティルルーももちろん、分かっていたのでしょう。……魔女はあの館ではずっと、『外世界』からの渡来者と言われて匿われていたのですからね。だから、だから……」

(彼女は私に思い出をくれたのです……)

 

 アアシャーは涙が溢れた目を閉じた。

「夢見が、空を、降りていく」

 涙は、音もなく彼の頰に流れた。

 歌が。

 歌が、襲ってくる。

 彼の体に、頭に、心に、まだ動いている心臓に。

 彼は、それに耐えた。

 この歌は、『まだだ』と。




 そのとき。

 アアシャーは天の助けのような声を聞いた。

「あんた、いくつだ?」

 傭兵が聞くと、美しい吟遊詩人は、彼の傷だらけの力強い腕の中で、ちょっとみじろきした。

「いくつに、見えます?」

 その声は睦言にしても優しすぎた。

「さあな。二十歳か、それっくらいだろう」

 傭兵がそう言うと、詩人はくすくすと笑って、彼の無骨な腕の中で跳ね回る。

 真っ白な髪が、兎か、猫の毛のように柔らかに傭兵の胸元で動いた。

 そのこそばゆさに思わず、傭兵が彼の細い体を抱きしめると、詩人はまっすぐに傭兵の顔を見た。

 行為の最初からつけっぱなしの枕元のランプの光の中で、柘榴色の目は真っ赤に燃えていた。

「私ね、今年で十九になるんですよ」

 美しい生き物は、真っ赤な目の奥から言った。

「多分そうなんです。……信じられないんですけれどね。あの夢見の歌を聞いた時から、たった六年しか経ってないんです」

 たった。六年。

 なのに、もう、あの故郷は灰色の火山灰の下。

 すべては灰色にならされた灰のした。



「あの」

 アアシャーは、もう一度、傭兵の顔を見た。

 ランプの光が当たる顔は柘榴色の目を眇めると、ややはっきりと見えてきた。

 角ばった、まだ若いたくましい顔だ。二十代の真ん中あたりだろう。そして、目鼻立ちははっきりしている。顔の中でランプの光を受けて光っているのは、灰色の目。

「あのう。よかったら、お名前を聞かせてください。……私は、アル・アアシャーと言います」

 そう言うと、傭兵は灰色の目を瞬かせた。

「へえ」

 彼とても、吟遊詩人アル・アアシャーの名を遠く耳に聞いたことはあったらしい。

「あんたが。……そうか。なるほどなあ。実は俺は男を抱くのは初めてだったんだけど、そんなこと、なーんにも気にならなくってさ。あんたが、あんまりきれいだからだろうと思ってたんだけど。なるほどなあ」

 傭兵は、言葉を切った。

 彼はおもむろに寝台から身を起こし、アアシャーの真っ白な顔を両手に挟むようにして、彼は名乗った。

「……俺は」

 彼は、名乗った。

 その名は。



 それは、出会い。


 混沌の時代に現れた寵児、吟遊詩人、アル・アアシャーを、その生涯を通じて庇護したと言われる、かの帝王。

 傭兵から身を起こし、あっという間に一国を立ち上げた英雄。

 彼は、あの女大公カイエンの守り切った、ハーマポスタールの大公の血を引いていたとも伝えられている。

 女大公カイエンのただ一人の夫だった男の血を引いていたとも。

 それは彼の灰色の瞳から始まった伝説かもしれないが。




  忘れない

  忘れないよ

  決して、あの美しい世界を忘れない


  あの、美しい時代(とき)を忘れない


  もう、過ぎ去った世界を忘れない

  この胸の奥の世界を忘れない

 


 

 伝説でもいいよ。

 私たちを

 忘れないで。


 永遠に覚えていてよ。


 そう、あの歌がいうんだ。

 そう。

 そう、言うんだ。


 この美しい世界を

 

 忘れない



 

 

 

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この美しい世界を忘れない 尊野怜来 @ReiraTAKANO

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