この美しい世界を忘れない

尊野怜来

第1話 アル・アアシャー

 

   ……たとえ、それが夢でも

   たとえ、それが一瞬でも

   たとえ、それが一生でも


   わたしは帰れない

   あの懐かしい風景、永遠に失われた時間へは


   見えない目の奥で

   あの時の空がよみがえる

   見上げる青い星の海

   夢見が空を 降りていく


   なのにもう、わたしは帰れない

   時が過ぎるまで

   狂った朝に目を覚ますまで

   流れる涙に目を焦がし

   夢見の誘いに目覚めても

   わたしは飛べない

   舞い上がれない


   夢見よ

   もはやこの大地などかえり見ないものどもよ

   未だこの地を這う、わたしの目にはもう映らないものどもよ


  

   たとえ、それが夢でも

   たとえ、それが一瞬でも

   たとえ、それが一生でも

   私は帰れない



   だが、今でもわたしは待っている

   あの時に戻りたいと願っている


   あの星空に、お前たちが帰っていった日に

   あの日をもう一度見るときを

   あの日、この不自由なる目に映ったものを決して忘れず

   そのときがわたしの最後の日でも

   それでもかまわない

   わたしは待っているよ




             アル・アアシャー  「この美しい世界」より




「それは、あんたのことかい」


 ある夜のこと。とある街道沿いの安酒場の二階。

 二人が寝るのがやっとの、古い木で作られた狭くて固い寝台の上。

 傭兵稼業の男は、隣に寝ている吟遊詩人の真っ白な長い髪を無骨な指で梳きあげながら聞いた。

 まだお互いに汗ばんだ肌のまま、抱き合った行為の余韻のなかにいる。


 ついさっきまで、腕の中に抱いていた詩人の体は、ほっそりと華奢でしなやかだった。男とは思えないほどにほっそりと優しい体。

 下の酒場で宵から歌っていた吟遊詩人。

 白銀の長い髪、異常なほどに真っ白な顔。白子アルビノの詩人であることはすぐに理解したが、一曲歌い上げて顔を上げた彼の目を見た時。

 その目の柘榴色。

 それから目が離せなくなった。



 彼が、喝采の中で歌い上げたのち。

 普通は客が詩人を買い上げるのが常なのに。

 その詩人は自ら今夜の相手を選んで声をかけた。

 それを、誰も咎めようとしない。

 男は知らなかったが、それは、彼がアル・アアシャーだったから。


 吟遊詩人アル・アアシャー。

 彼は、この混沌の時代の寵児であった。混沌の時代の、夜の夢の中の寵児。彼は選ばれるものではなく、選ぶ側の者であった。

 それほどに、彼の歌、彼の声は「人々を支配する力があった」のだ。

 彼の「作品」は多く語り継がれている。

 

 古の詩人タミュリスの哀歌。

 星の女神たちの降臨の凱歌。

 地上の支配者たちの葬送歌。

 地上の楽園シャングリ・ラ叙事詩エピカ

 ……。

 もっとも有名なのは、かのハウヤ帝国の女大公カイエンを歌った、一連の叙事詩エピカであろう。それは「海の街の娘の叙事詩エピカ」として世に伝わっている。

 



「今夜は、あのひと」

 アル・アアシャーは、弾いていた竪琴を置くと、にっこりと笑って、嬉しげに一人の男を指差した。

 それが、自分であると気がついた傭兵稼業の男は驚いた。

 一番前で聞いていたわけでもない。彼の赤い目に彼の姿が映ったとも思えなかった。

 彼の目。

 それは柘榴色のもの見えぬ瞳だと彼にはすぐに知れたから。


 ああ、彼の微笑み。

 なんという安らかな微笑みか。

 どこかの神殿で見た女神のような、すべてを包み込むような微笑みだ。

 それでいて、強い。

 人の目をそらさない強さのある微笑み。その顔。

 そして、なによりも!


 その偉大なるこえ。


 アル・アアシャーは、古傷だらけの男の手を取って、言った。

「今夜は、あのキュル・テペの歌を共に歌いましょう」

 と。




「……キュル・テペは、たしか……」

 詩人は頷いた。

「ええ。あの、トウィーラ・ルプダの火山の大噴火で、すべて埋まってしまいました。領主の子で、その時、西のハーマポスタール大公国の都、ハーマポスタールの学校に行っていた私だけが残されたのです。他には何も、本当になんにも残らなかった」

 柘榴色の瞳が、細められた。ちょっとだけ寂しそうに。

「今晩一晩、いっしょにあの失われたキュル・テペの歌を歌ってくれますか」

 男は自分の声を耳の遠くで聞いた。

 それに答える自分の声も。

「いいとも。聞かせてくれ。いや、共に連れて行ってくれ」

 と。




 

「夢見の国は、確かにあったのです」 

 アル・アアシャーは男によって褥に押し倒され、口づけを交わしながら話し始めた。

「トゥイーラ・ルプダ山を望む、キュル・テペ高原、そこには、確かに夢見の国があったのですよ」

 と。

 アル・アアシャーの口づけは甘美であった。優しく、しかも慈しみに満ちて。

 傭兵の男は陶然としながら、その物語を聞いた。

 アル・アアシャーの声にのったそれは、聞くものの耳に届くだけではない。 

 聴衆たちは見たのだ。

 彼の物語る実際の場面を。彼の奏でる音と声を通じて。



 今、傭兵の男の目の前には山がそびえている。

 完璧な三角形をした黒い山。

 トウィーラ・ルプダ山。

 その頂には常に白い雪がいただかれている。

 その下に広がる、キュル・テペ高原の牧の原に、小さな影が見える。

 それは、金色のたてがみの、光り輝くような一頭の馬だ。

 その馬を馳せている、一人の美しい子供。

 馬の、光をふりまいたような金のたてがみと、みごとな対をなす白銀の髪を高原の涼しい風にたなびかせ、一人の少年が人馬一体となって駆け回っている。

「アルファボル! 花は避けなきゃだめだよ!」

 やっと十二、三歳といったところだろうか。白銀の白子の髪と、柘榴色の瞳。人間離れした美貌の中に浮かんだ、詩情のような、けぶるこころの色が、高原の空気に弾けた。

 年相応の無邪気さと、早く大人になりたいと思う心の間で、危うさが葛藤し合う年頃だ。

「アルファボルったら! 花を踏んじゃいけないとは言ったけど、止まれとは言ってないよ!」 

 美しい色とりどりのお花畑の前で、ぴったりと歩みを止めてしまった馬。

 少年は、しばし待ったが、しまいにはこう言わねばならなかった。

「わかったよ、アルファボル。お願いだよ。僕はもう帰りたいよ」

 その声に、アルファボルは嬉しそうに嘶き、軽やかに走り出した。出来うる限りで花を避けながら。

 黄金と白銀の光の洪水が、暮れ始めた茜色の高原を染めて走り去った。


 少年が広大な石造りの城館の入り口まで来ると、中から数人の大人たちがばらばらと駆け寄ってきた。

 その中でも、一番歳をとった、頑固そうな老人がアルファボルの手綱を取って、馬を止めた。

「アル・アアシャー様、何度申し上げたらお分かりになるのですか。陽の落ちる前には必ず帰ると、爺と約束なさってではありませんか」

 老人は、噛みつくような声で言う。

 少年。

 この城館の公子、アル・アアシャーは、腰まである長い髪に半ばその顔を隠してうなだれた。その顔に紅花木

《フォンファー》のような赤みがさす。

「だって……」

「だって、なんですか」 

 爺の言葉は厳しい。

「……今日こそ夢見に会おうと思って、ずっと待っていたんだ。夢見は僕のことを怖がって、寄ってこないのだもの……。アルファボルは夢見たちと仲良しなのに」

 その言葉を聞くと、老人の厳つい顔が、少年の言葉にびくりと震えた。

 黙ったまま、アル・アアシャーを鞍から下ろしてやりながら、彼はさっきとはうってかわった声で言った。

「アアシャー様、夢見は目開きにしか近寄らないのです。目開きでないものには、彼らの本当の姿が見えてしまうからだそうですが……」

 アアシャーは、その柘榴色の瞳で老人を見据えた。

「僕は……僕は目が見えないんじゃない! そりゃあ、お前たちに比べれば、見えないのは確かだけれど……見えないわけじゃ、ないんだ!」

 アル・アアシャーはそう叫ぶと、その身に怒りをまといつかせたまま、ふっと顔を背けて、城の中へ走りこんだ。

(危ない!)

 周りの大人たちは息を飲んだが、目が不自由だとは言っても、子供の足は大人の思うよりも確かだった。

 

 アル・アアシャーの心の中で、大人たちの声がうるさく渦巻いていた。

白子アルビノで、目まで悪くて……)

(体が弱いなら、人に心配かけずに城の中にいてくれればいいものを)

(上様が甘やかすから……)

(少しは、周りの言うことも、聞いていただかなくてはね!)


 ……アル・アアシャー。

(僕は、こんな名前、嫌いだ)

 彼は流れてくる涙を白い指で拭った。

(ぼくは、アル・アアシャー《視力弱いもの》じゃない!)

 ……名前でしかぼくを見ない者たちなど、百ぺんでも死んじまえ!) 

 アル・アアシャーは、いつものように自らの名を呪った。


 

 その時、声が聞こえた。

「アアシャー」

 それは、低い女の声。

 一瞬で、荒れた気持ちを冷やす、魔女の声であった。

 彼は、びくりとして、もたれていた柱から身を離した。

「……ティルルー!」


 館の魔女。

 老いを知らない、真っ黒な黒髪の、小麦色の肌のやさしいひと。

 その人は、美しい永遠の微笑みをその顔に浮かべて、そこに立っていた。

 ドンナ・ブルファ。

 美しき館の魔女。

 もう、何代前の当主の頃からこの館にいるのか。

 彼女は、それさえ分からぬ美貌の魔女だった。

 彼女の長寿の理由を、まことしやかにこういう声もあった。

「あの女には、古の獣人の血が流れているから!」

 と。 


「アアシャー。私のアアシャー。悲しんで、そして苦しんでいるのね」

 魔女の声は決して大きな声ではないのに、相手の心に響き渡る。

 館の魔女に逆らえる者はいない。

 アアシャーはこくり、と頷いた。どうせこの館の魔女にはすべてがお見通しなのだ。

「その赤い目には、この世の真実が見えてしまうから、しょうがないの。……アル・アアシャー、歴史の真実を見る者よ。人々の真実という重みを負って、あなたはこれから死までの長い時を生きなければならない」

 ティルルーは、アアシャーの真っ白な髪に手を置いて、風に巻かれて渦巻き、絡まったところを直してやりながら、歌うように続けた。

 それはまるで、予言のよう。

 彼の額に乗せられた手はこんなに暖かいのに。


「お父様は、あなたが生まれた時、『この子がまともな子であるはずがない』とおっしゃったわ」

 ティルルーの言葉に、アアシャーは身震いした。

 今までに何度か聞いたことがある話だ。

「……私も、そう思ったわ。……最期まで聞きなさい!」

 ティルルーは、なにか言いかかったアアシャーを遮った。

「あなたはね。美しい赤子でありすぎたの。天はひとりの人にいくつもの美点を与えてはくださらない。お父様もお母様も、そして私も、あなたの目が人より見えないということを知った時! ああ、やっぱり、と思いながら、安堵したのよ!」

 アアシャーは、ハッとして顔を上げた。

「だから、他にどこといって悪いところがないのを喜んだわ。……わかる? アアシャー。あなたの名前は、決して呪われた運命の名前じゃないのよ。むしろ、その名は私たちの感謝のあかしなの。神様への感謝の証として、あなたに与えられたものなのよ」

 

 それは、アル・アアシャーには、考えてもみなかったこと。

(僕は……アル・アアシャー弱視者

 彼の名は、彼の生まれ持ってきた障害をそのままに、古い古い言葉で歌い上げたものだったのだ。

「あなたは、生まれたときからアル・アアシャーよ。私のアアシャー。自分に誇りを持ちなさい。あなたの賢さ、あなたの美しさ、あなたの存在すべてに誇りを持ちなさい。そして、自分を愛してあげなさい」

 ティルルーは、その美しい瞳に涙を浮かせ、やさしい顔のまま、アアシャーの柘榴色の目を覗きこんで、ないしょ話のように付け加えた。

「あなたが自分を愛せるようになったら、きっと夢見もあなたに微笑みかけてくれるわ」

「本当に……ティルルー?」

「私は館の魔女よ。もう何百年を、このキュル・テペで生きてきたわ。私はあなたの道標。あなたの出発点。あなたの夢の帰るところ……」

 最期の言葉は呟きとなって消え、ついにアル・アアシャーの耳には届かなかった。

 アアシャーの顔に、子供らしい微笑みが浮かんだ。

「僕は、夢見にあって、夢見の歌を聞きたいんだ」

 ティルルーは、その時、彼女の与えられた時間の最期までの時間を見た。


 ……夢見の歌は予言する。

  決して、揺るがない。


 ティルルーの目の奥で、彼女の「世界」はその瞬間に滅んだ。

 永遠に。

 もはや取り返すすべもなく。


 だが。

 彼女は絶望しなかった。




 ここにアル・アアシャーがいる。

 だから。

 私は永遠に滅びない。

 それを知っていた。


 ティルルーの目に映ったのは、アアシャーの笑い顔。

 ああ、よかった。

 この子は笑っているわ。


「じゃあね。ティルルー。僕、までお父様とお母様にただいまっていっていないんだ」

 城の奥へと走っていくアアシャーを見送りながら、ティルルーはこころの中で歴史を歌う者に尋ねていた。

「私のあの子に、何を聞かせるつもりなの」

 それは、答えた。

 聞き様によってはそれは、呪いの言葉を。



 ……彼には永遠を歌うだけの力強い思い出を授けよう!

   彼がその死の瞬間まで迷わず歌えるように!

   この歌は永遠に彼によってこの世界に巣食う!



 ティルルーは、もはやなにも問わなかった。

 魔女である彼女でさえ、触れることができない存在の決めたこと。

 時間という名の絶対全霊の神が決めたことだったから。

 漠とした思いだけが、彼女の心から溢れた。ながい、ながい時を、この城館の魔女として生きてきた。その歴史が。

(アアシャーは、ずっと忘れないのね? 忘れずに歌い続けて、何十年も、年百年も……彼方の人たちに語りかけられるのね。そして、いつも思い出すのね、この時を。この時代を)



   ……ああ。彼は絶対に忘れない

   美しい時代

   そこに居た人々の営み

   なももかもを

   彼は


   彼だけは、わすれない!



 ティルルーは、ひっそりと涙をぬぐい、そっと呟いた。

 これから消えていく彼女も、忘れたくはないと。それだけを自分の近く滅ぶのだろう肉体に彫りつけたのだ。

 そして、自分にできること、すなわち、ただ一つの祈りを紡いだ。

「……アル・アアシャー。夢見の継承者よ。私たちを、この美しい時代を忘れないで。

 決して、決して。

 そして、生きていってね。強く、何ものにも侵されずに。強く。

 あなたは、天に声を届かせる申し子。多くの叶わなかった夢をつなげるもの。 

 すべての人の故郷を歌うことができるもの。

 この世の人々はいつだって故郷を探しているのよ。

 夢がこの世の人の中にある限り、

 ……あなたはすべての人々の歌を歌い上げるのよ!

 永遠を歌い上げるのよ」


 

 「その時」のことを知った時、館の魔女の魔力は、もはや取り戻す術のない彼方へと飛び去った。

 だから、彼女にはもはや逃げる地とてなく。

 外世界へ戻る道も見えなかった。

 

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