新快速がとまらない
間 敷
新快速がとまらない
新快速(しんかいそく)は、日本国有鉄道(国鉄)が近畿圏の東海道本線・山陽本線などと阪和線で運転を開始し、現在は西日本旅客鉄道(JR西日本)の京阪神地区と、東海旅客鉄道(JR東海)の名古屋地区で運行されている快速列車で、普通列車の種別の一つである。
一般的な快速より停車駅が少ない列車種別であり、車両が新しいことを意味するものではない。私鉄における特別料金不要の特急や快速急行・急行に相当する列車で、京阪神地区と名古屋地区で列車の性格が大きく異なっている。
──Wikipediaより
*
知り合いの話をしよう。
あなたは電車の中で、およそ人間ではない奇妙な存在に話しかけられたことはあるだろうか──。青年サダカ(仮名)は、テレビ番組のナレーターを気取って、脳内で架空の視聴者に向けて囁いた。サダカはまさしく揺れ動く車内で、得体の知れない“なにか”から問答を浴びせられている。
彼はあるライブの助っ人で、バックバンドの一員としてドラムを叩くことになっていた。前乗りのため、ある金曜の夜に高槻駅から京都駅を目指す新快速に乗り込んだ。時刻は二十時十六分。一分の遅れもない。京都線新快速長浜行き。ほんの十数分の所要時間で京都に着く。何度も利用している路線だし、まさか乗り間違えたはずもない。彼は事が起こるまでは通路の端で壁に寄りかかり、両耳にイヤホンをして目を閉じていた。そして気付けば、車両には青年と例の何者かとの二人だけになっていた。車内からは煩雑な広告の類すらも消え、シートも窓も吊り革も墨で塗りたくったように真っ黒だった。窓の外の暗黒の空間を見れば、流れ星のような金銀の閃光が時折迸る。
はじめはもちろん夢かと思った。しかし、彼はすぐにそれを否定した。確かに、彼はこのところ忙しかった。日中のバイトを終えてから急いで準備をしてきたので疲労は溜まっていたが、居眠りをしているのだとしたら夢すら見そうにない。まれに極度の疲労のためか、やけに現実感のある鮮明な夢を見ることはあるとしても、これは現実離れしているし、なにより彼は、彼自身が夢の中で「これは夢ではない」という信念を抱くことは無いだろう、と思った。夢の中では自己すら客体のひとつで、コントロールがきかない。そもそも推測と再構築の対象ゆえに、他でもない自分自身の考えや思いであるにもかかわらず、現実のサダカがそれを知ることはできないのだ。それに、彼は自分の夢がそんなに凝ったディテールを有しないことを体質として自覚していた。夢も脳の作用である以上、体質によって個々に千差万別であるというのが、大学院で心理学を研究する彼の兄の考えで、彼もそれに影響を受けていた。
サダカは目の前の存在が何を喚いているかを聴き取ろうとした。警戒しながらも足のつま先分ほどジリジリと接近して耳を傾ける。トンネルを潜る時のように耳がぼんやりしていたのもあるし、目の前の存在には人間の口らしき部位が無く、発声器官の動きを読み取ることは難しかった。少なくともその存在は、なにか音声を発している。全体を直視してみると、人の形をしているかどうか疑わしい。色も形もはっきりしない。ただうっすらとした輪郭はあって、そこに何かが居ることははっきり分かるのだ。もし人間がシートに腰掛けているなら、そこにはちょうど手があるだろうという辺りに握りこぶしのような輪郭の丸みがあり、その内側には切符が握られているのが分かった。ただし、その切符は文字化けしていてまともではない。謎の存在は、この路線で事故死・関連死した乗客の幽霊かなにかなのだろうと、サダカの脳は理解しやすい現実を求めて納得しようとする。ありそうな話ではあるが、こういう安易な憶測はまず当たったためしがない。
理解できない音声は、ただ聞くともなく聞くに任せていると生理的に不快に感じ始める。サダカは自身の経験上、そうしたイレギュラーをなんとか理解したいと考えるようになった。経験上というのは例えば、橋の渡っていたらこの世ならざる世界へ渡らされそうになったり、友人と廃ビルを探検すれば生き別れたり、あるいは道端に落ちている空き缶から声が聴こえたりと、些事から大事までさまざまなのだが、それらとサダカの生きる時間が行き交う瞬間、彼が刺激されるのは知的探究心だった。自分が理解できないものを身辺から排するのではなく、親しむまではないにせよ、それが何ものか、どういった起源やいきさつで彼の目の前にあるのかということくらいは知りたかった。そして、そのためのリスクならば多少侵すことになろうと受け容れるのが彼の人生訓だ。サダカは大体、こういう事態に遭遇すると鳩尾の辺りが緊張して、足の甲にひどく汗をかく。このようなものには何度遭遇しても慣れず、彼自身、慣れるほどに接触を重ねるのは避けたいと思っていた。知りたいのと積極的に出会いたいかはまた別の話だ。持ち前の胆力だけで超常現象にたった一人で立ち向かえるほどの強者ではない。むしろ虚弱体質で、ただそうであるがゆえに沸き起こる、他人に相手にされない、幽けきものへの同情心が無いとは言い切れなかった。怪異にはそれを見透かされ、そこにつけ込まれているのかもしれないと思わなくもない。だとしても、怪異が人間には成れないのと同じように、彼は彼以外の何者でもない。サダカは深呼吸し、存在と対峙する。
不明な音声が、仮にサダカに馴染みのない地域の言語だとしたら、外国人の幽霊だろうか、珍しいな、と彼は思った。あっと不意に思い出して、リュックの中を探り、マカレルを取り出す。一年ほど前に知り合いがある筋から入手したものを譲り受けた。近くの薬局で買えそうな、何の特徴もない、白くて丸くて平べったい、工場の臭いのする錠剤はいかにもちっぽけに見えた。ちなみにその知り合いというのは例の廃ビルに共に乗り込んでそのまま行方不明になってしまった友人その人であり、薬の詳細を知る術は既にない。しかし他に頼るものもないと、いきおいそれを飲み下す。この世でない異質な物事への理解を助ける薬だというが、どうもこれはお菓子のラムネではないかと訝る。思えば友人は人をからかうことが生きがいのようなふざけた人物だったし、行方をくらませたのも当人の仕込みではないかといまだに疑っている。喉を通過する異物。微かな甘みを唾と共に飲み込んだ。まだこれに助けられたことのないサダカにはただのラムネ菓子に感じる。偽薬効果も発揮されまい。そのまま黒い列車の中、存在と対峙することしばらくして、雑踏のなかで知った人の名が不意に明瞭に聴こえるように、あるいは壁の向こうの話し声が扉を開けた途端に聴こえるように、サダカはそれの話す言葉を解し始めた。
存在は、嬉しい、良い、と最初に言った。挨拶も交わさぬその段階で、それはサダカが言語を解し始めたことを把握していた。この時、存在が相手の内的状況を読み取る力を有すると気が付き、彼の背筋に寒気が走った。もし相手を出し抜こうとしたり攻撃しようとしていたりしたら、どんな反応をされたか分からない。それはすかさず、悪霊ではないのだから、そんなことはしないと告げた。しかし、要求は是非とも聞き入れてほしいという。
次にこの列車が停まる時までわたしと「問答」を続けてほしい。何についてでもいい。続けていればいつかは停まる。しかし、もしわたしと話そうともしなければきみが骨になってもこの列車は停まらないだろう。ただし、安心してほしい。車内を見渡して分かるように、誰の骨も転がっていない。わたしひとりの力で駆動している列車であるから、現実の電車のように毎日清掃員が出入りすることはない。もしわたしが人の血肉や魂を喰らうなら、人骨が山になっているはずだ。これまでに居合わせた乗客は少なくとも、餓死する前に全員が「乗り換え」をしていった。
ちょっと待ってください。サダカは思わず相手を制する。
問答小僧の話しぶりは幼子に言い聞かせるかのようだったが、要するに、この電車はきみがわたしを無視する限りどこまでも停まらないぞと脅しているらしい。サダカは妙に冷静になって、このまま今夜中に京都のホテルに着かなかったら、同じホテルの違う部屋に宿をとって、ラウンジで明日のライブの最終打ち合わせをしたり好きな音楽の話でもしよう、と誘ってくれたベーシストが心配するに違いない。今日明日のことで済まなければ、ライブの現場にもバイト先にも迷惑がかかる。よしんばこの電車が物理法則から逸脱した異空間を突進しているのだとしても、降りた先が京都でないまったく見知らぬ土地では困る。まず、電力で動いていないのだとしたら電車と呼ぶのは変だ。幽霊列車とでも呼ぼうか。幽霊列車はどこへゆく?
すると今度は相手から、わたしは幽霊などではない、と抗議の声が飛んでくる。じゃああなたは一体何者なのかとサダカがそのまま胸の内で問うと、自分はシンカイソクだ、と言う。サダカは、新快速? と問う。存在は、その新快速ではない、と即答する。〈進怪足〉だ。この真っ黒な列車はわたしの足だ。進む怪しい足と書くなら、あなたの名字にあたるのが進で、名前にあたるのが怪足と解釈しても良いですか。うむ。そのように提案されたことはないが、満更やぶさかでもない。では、シン・カイソクさん、進さんとお呼びしますよ。あなた自身が幽霊ではないのだとしたら、つまり人間の死後の魂魄ではないのだとしたら、いったい何なのですか。それがわたしにもよく分からないが、「時々、人間を乗り換えさせる」のがわたしの存在意義だ。「乗り換えさせる」というのは、つまり、定常のあの電車から、この真っ黒な列車へですか? その、あなたの〈足〉であるここへ? それは、この世への恨みなどなくて、要はただの寂しがりだということですか。
そこで、サダカには進さんが少し笑ったように思えた。笑い声のような、くつ、という音声が確かにした。
「時々、乗り換えさせる」の「時々」が大事なのだとわたしは自己解釈している。わたしが人を乗り換えさせるのは、必ず新快速の電車からなのだ。あれは運行を始めてから、大都市にしか停車しない。進さんの大袈裟な落胆ぶりにサダカは異を唱えた。
始めてからといったって、そんなに大昔のことじゃないでしょう。成程、小さな駅や自分の最寄り駅に停車しないのが不満だという人の心の現れが仮にそのヘンテコな切符を持つあなたという存在なのだとしても、新快速を形成したのは、それこそ長距離を短時間で移動したいという人の欲望あってこそだし、人の都合はさまざまです。人を拐うほど怨念を募らせるには月日が浅すぎやしませんか。それに、自分勝手に人を連れ回すのでは新快速よりタチが悪い。言い終えて、つい自分の中の偏見や現状への不平を吐露してしまった、と思いはしたが後の祭りだ。進さんは目に見えた軽蔑や怒りの表明はしなかったが、だから、わたしは悪霊ではないのだよ、と呆れたようにいう。続けて、それで、これも大事なことだから言っておかないとならないが、鉄道会社には内緒で「接続」をしているからって通報なんかしないでおくれ、と。だんだんいうことが世俗的になってきたな、とサダカは思う。言葉を操る人間以外の存在も人見知りをするのだろうか。向こうには唇すらないのにこちらの内心は筒抜けとはただでさえ分が悪いのに、読心術で済まさずわざわざ問答をしろと脅迫されるので、仕方なく思いついたことはなんでも遠慮なく質問した。進さん、最初は人見知りでもしていたんですか。そんなことはあるわけないさね。礼儀上、初対面の相手には本性を見せたりしないのは人間も同じじゃないか。そういえば、僕はマカレルを持っていたから進さんと意思疎通ができたけど、ほかの人はいったいどうやって会話したんですか。
このまま問答をしていたら列車はやがて速度を落とし始めるのだろうか、とサダカは相手が人間ではない異質な存在であることを急に意識して、うそ寒い気分になった。恨みつらみがないからといって、あちらにとってみれば人との約束を守る義理など露ほどもない。窓の外には何も見えないから勘に頼るしかないが、体感として、列車は速度を落とさず時速百キロ以上を維持し続けていた。そしてふと、初めて進さんを見た時には無かったものが有ることに気付く。サダカは瞬間、人の心の機微に敏感だった兄や胡散臭いオカルト小説作家でもあった友人が揃いも揃って韜晦趣味で、それゆえに自嘲の念でもあったのか、口元を隠したものは信用するな、と言っていたことを思い出した。ならば“隠していたものを見せた”場合はこれ信用に値するのだろうか。綺麗な歯列をみせる笑った口唇が「わたしは嘘など吐かないよ」と言った。
知り合いはこれ以上は語らなかった。
仮名の青年が生還できたかは定かでない。ただ、この列車のような存在、似たような怪異が少なくとも実在するのだという確たる思いで、私は手のひらのマカレル錠を見下ろしている。目の前の存在は、人語でないなにかを発している。この言葉を解さぬ限りは、列車を降りられないのだ。
進怪足はとまらない。
新快速がとまらない 間 敷 @awai
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