第7話

 すっかり宵闇に支配された廊下を、女は残光のみを頼りに早足で進む。

 女は約定を破って平然としていられる性分ではなかった。どれだけ小さくとも、一度取り決めたことに対して誠実にあろうとする彼女は、ある知人との約束を果たそうと急いでいる。

 その少女──茴に、特別な思い入れがある訳ではない。あちらも端から自分に興味はないのだろう。焚き付けられたから来た、といった素振りを隠そうともしない様は、いっそ清々しくさえあった。

 彼女は本来の性別に反抗し、まるで男のように振る舞う。本人いわく、乱世の中で生きて死にたいらしい。女には到底理解のできない考え方だったが、茴の真っ直ぐな眼差しを前にしては面と向かって否定はできなかった。彼女が生半可な思いで口にしている訳ではないとわかってしまったからだ。

 茴は強くありたいようで、実際に意志の強さと並外れた行動力の持ち主であったが、それと同時に危うさも併せ持った少女だった。何かと不安定で揺らぎやすい年頃なのもあろうが、彼女は泰平が約束されつつある時代に生まれ育ったのだ。人の心は初めから強くできている訳ではない──土台のないまま命の危機と隣り合わせになれば、本人の意思とは関係なく揺れ動き、心の乱れを誘発するのは当然の理。それ故に、女は茴を案じている。望みのままに生き続けていれば、いずれ彼女の心は壊れてしまうのではないかと。

 自分にできることは少ないと、女は自覚している。だが、少女の願いを頭ごなしに否定できる程、女は厳しくあれなかった。強くなりたいと願うことそのものを、悪と断じきれなかったのだ。

 己は弱い。力で勝れるものなど、そうないだろう。そのせいで苦汁をなめた記憶は数え切れない。

 自分は運が良かったから、必要以上に力を付けずとも今日まで生きてこられた。しかし、茴も同じだとは思わない。彼女と自分では、境遇も気性も違いすぎる。

 ならばせめて足場を固めてやろうと女は思った。他人の生き方に口出しする権利のない自分にできることは、少女の心が壊れないように細工してやるくらいだと。そのために様々なことを説いた。説教臭く聞こえたところもあっただろう。

 自分と茴は、知人の域を出ない関係性だ。友人と呼ぶにはよそよそしく、他人と呼ぶには距離が近すぎる。この関係をどう呼称すべきなのか、女にはわからない。

 そんな茴から約束を取り付けられたのは、昨日──茶室にて語らった別れ際のことだった。

 婚姻により、大坂を離れることとなるかもしれない。知人でしかない茴にそれを伝えたところでどうにもならないが、この不安定な少女との繋がりが消えるのは危ういと思った。故に文のやり取りをしよう、と持ちかけた訳だが──残念ながら断られてしまった。予想し得る可能性ではあったが、やはり口惜しい。

 しかし茴にも思うところはあったようだ。文庫を目指しながら、女は少女の──まだあどけなさを残しているのに、ぴんと張り詰めた──顔つきを思い起こす。

 彼女は怒っているだろうか。本来ならば今頃文庫に着いているはずなのだが、この日は手習いに付き合っている牢人の子が、父上が戻ってくるまでいっしょにいて、とぐずった。普段は聞き分けが良いだけに放っておけず、父親の帰宅を待っていたらこのような時間になってしまった。

 ふと、平生なら見かけない人だかりを目に留めて、女は立ち止まる。寄り道をしている暇はないとわかっていても、どうしてか胸がざわついた──嫌な予感がする。


「あら、文庫殿。あなたまで出張ってくるとは珍しい。やっぱり野次馬?」


 顔見知りの女中が顔を上げ、何気ない調子で声をかけてくる。女は曖昧に笑って近付く──野次馬に来た訳ではないが、いちいち訂正するのも面倒だ。不本意だが、にしておこう。


「何かあったのですか? この時間に人が集まっているなんて、ただ事のようには思えませんが……」

「そうなのよ。人が落ちたとかでねえ。暗がりの中で走り回っていたのかしら。浮かれすぎも困りものね」


 戦に出ない女たちも、見ず知らずの他人の死に関しては非常に淡白なものである。転落死を浮かれすぎで片付けるのはなかなかだな、と女は内心で嘆息した。

 誰が落ちたのだろう。酒に酔っていたのだろうか。せめて子供やその親でなければ良いと、切に願う。

 死人の出た現場に長居するのも趣味が悪い。もともと約束があったのだし、この辺りでおいとましよう──そう思い立って一歩踏み込んだ女の足に、かさりと何かが引っかかった。


「そうそう、落っこちた人のことなんだけど」


 足元のそれを拾い上げている間も、女中は喋っている。露骨に他人事めいた、野次馬らしい口振りで。


「何でも、女なのに男の着物を着て、いかにも牢人ってなりをしてたそうだよ。荒くれ者の牢人にも困ったものだけど、結構な変わり者もいるものだねえ」


 女の手には、かつて自分が名を書いた紙片がある。走り回っている途中にでも、着物から滑り落ちたのだろう。

 ぐっと唇を噛み、女は一度瞑目した。約束は守れそうにない。

 日はとうに沈みきり、人々の持つ灯りが薄ぼんやりとともっている。女がのろのろと顔を上げると、皓皓たる月光がその白い肌を詰るように照らした。

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文庫に夢む 硯哀爾 @Southerndwarf

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