第6話
これまで誰かに興味を持つことがあるとすれば、それは単純な強さに由来するものばかりだった。
俺は強くなりたい。強ければ強い程、戦いに赴く機会が増える。俺の望む武士らしさに、近付くことができる。いつ起こるかわからない戦に間に合わせるため、俺は時間を惜しんではいられなかった。弱い人間と関わっている暇など、なかったはずだ。
だのに、俺の心にぽつぽつと空いていた隙間は文庫殿に埋め尽くされた。自覚のないまま、気付いた時にはどうしようもないくらいに。
あの女は弱い。俺に武を、強さを教えてはくれなかった。
何故、彼女に惹かれるのか。心当たりはある。あの夜──初めて人を斬った夜、寄り添ってくれたのは他でもない文庫殿だった。体の震えが止まらない俺の側にいて、人殺しを恐れることなく、平生とそう変わらぬ態度で先導した。
この先、戦が起こるのならば。俺は、人殺しとしての生を歩まなくてはならない。
抵抗はない。もとよりそれを望んでいた。一度目は戸惑ったが、同じ轍を踏むつもりはない。一度目よりも、上手くやってみせる。
だが、俺は大きな戦を知らない。人を殺した時のように、今までにない何かを見聞きし、体験することとなったら──俺は、果たして冷静でいられるだろうか?
視線のみを上げる。赤々とした斜陽が、格子の隙間から差し込む。
俺は文庫にいる。人を呼び付けているのだ。この場によく留まることから、文庫殿と呼ばれる女を。
彼女には昨日、茶室を出る際、日が沈むまでに文庫へ来るようにと言付けた。少し考えてから伝えたいことがある、と。
もうじき日は沈んでしまう。俺はずっと待っているのに、文庫殿は一向に来ない。言い様のない焦燥が、俺の胸中にじわりと滲む。
あれは約束を反故にするような女だっただろうか。俺の知る限り、文庫殿はのんびりとしたところはあるが、一度結んだ約束を平気で破る程不誠実な人間ではなく、むしろ律儀で義理堅い人だった。趣味も合わず、口答えばかりする俺に構ってくれていたのだ。はっきりと断言できる。
ならばどうして。どうして、今来ない。俺は、今この時でなければならないのに。
腰に差した刀、その柄に触れる。己の焦りを抑えようと、取り留めのない行動に逃げる。我ながら愚かしく情けない行動だ。
もしや、と──指を這わせながら思い至る。
文庫殿は、全て見透かしているのではないか?
あの女は聡い。茶室で相対した時から、とっくに勘付いていたのかもしれない──俺が、自分の命を狙っていると。
初めからそうするつもりはなかった。彼女が婚姻の可能性を、
俺に寄り添う人間など、そういないだろう。強い男たちは俺を小僧だ変わり者だと軽んじ、女たちからは身の程を知らない異常者と奇異の目で見られ遠ざけられる。時間をかければ誤解も解けるかもしれないが、その間に戦が起ころうものなら、ただの徒労に過ぎない。
ならば、文庫殿をずっと側に置いておけば良い。俺から逃げず、いつだって真っ直ぐに見据えてくる彼女さえいれば、どれだけ心が乱る出来事に遭遇しても、俺は惑わずに済む。
ああ、文庫殿が現状に固執し、この先も変わらず文庫殿でいてくれたら良かったのに。そうすれば、俺は彼女に寄り添われながら、本懐を遂げることができたはずだ。
もう待つのには飽いた。こうなれば、俺自身が彼女を迎えに行くしかない。
立ち上がり、場所を考えずに走る。一刻も早く文庫殿に会いたい。会わなければならない。その首を切り落として、腐り落ちるその時まで手元に置いて、俺の心の支えとするのだ。
文庫殿。名前も知らない、美しい女。
あれに、俺を狂わす気などなかっただろう。他の人間と同じように、ただ誠実に接してきただけかもしれない。
俺は、それが一等憎らしい。無自覚なまま俺の心をかき乱し、勝手に入り込んでは、いつの間にか取り返しの付かないところまで浸食している。俺の意思とは関係なく、俺にとってかけがえのない存在になってしまった彼女を、俺は決して許さない。
この頃は日が沈むのもうんと早まった。うかうかしていたら、約束の刻限を過ぎてしまう。
真っ赤な世界を走る。急いで、焦っているはずなのに、何故だか楽しくなってきて、俺はくるりと回ってみた。今まで意識してこなかったが、日没とはこうも綺麗に見えるものだったのか。まるで血の海だ。戦になったら、こんな景色の中で溺れてしまうのか。それは愉快なことだ。きっと愉しい。
久しぶりに、声を上げて笑った。とっくに焼かれた目をさらに焼いてやろうと、俺は赤に飛び込む。文庫殿も道連れにしてやりたいと、心の底から願って。
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