第5話
珍しく、文庫殿から呼び出されることがあった。今まではずっと俺が訪ねていたから、相手側からの接触には少なからず驚いた。
真正面に座する文庫殿は、唇を引き結んでうつむいている。そのまま何もしていない──訳がなく、彼女は真剣な面持ちで茶を点てていた。俺は茶室に呼び出されたという訳だ。
「──どうぞ」
白い指先を添えて、文庫殿が俺の膝元に茶碗を差し出す。適度に泡立った抹茶が、ほかほかと湯気を立てている。
当然ながら、俺に茶の湯の礼儀作法はわからない。その旨を文庫殿に伝えはしたが、二人しかいないのだから気にしなくていいと言う。
茶碗を両手で持ち、恐る恐る口をつけた。そこまで熱くはない。……が、やはり味は予想した通りだった。
「……苦い」
「それが良いものだと存じますが……もしお得意でなかったら申し訳ありません。甘いものがお好きではないと伺っていましたから、大丈夫かと早合点してしまいました」
「……平気です。伝えていなかったのはこちらなのですし」
俺は今、上手く無表情を取り繕えているだろうか。口の中いっぱいに広がる苦味に顔をしかめたいのを我慢して、これくらい平気だと意地を張って見せる。
ちなみに、茶請けの菓子は甘味ではなくかき餅だ。以前外出した際、甘いものは食べないと口にしたことを覚えていたのだろうか。であれば助かるとぼんやり考えつつ、口直しにかき餅を
「──して、本題は? ただ茶を飲むためだけに俺を呼び出したのではないでしょう」
口内のものを飲み下し、努めて冷静に文庫殿へと向き直る。二口目の茶を啜る気にはなれない。
文庫殿が微笑んでいる。困ったような、嬉しさや楽しみの感じられない──鎧のような笑い。良い報せを聞くことはないのだろうなと、直感的に察する。
「あなたはせっかちですね。私は、もう少しのんびりとしても良いと思いますが……先延ばしにしてばかりでは、私自身が苦しくなるだけ。理解しています」
両手を
「いつ、と決まった訳ではありませんが、おじ様……失礼、後見人より縁談を持ちかけられました。そろそろ潮時だろう、と」
直前の躊躇いなどどこへやら、文庫殿は毅然として、苦味にすら耐えられぬ俺を打ち負かすかのように淡々と告げた。
すぐに言葉は出なかった。それは決してあり得ない話ではなかったし、武家に生まれた女ならば通って然るべき正道であった。
先程茶を飲んだばかりなのに、いやに喉が渇く。どうにか唾を飲み込むが、文庫殿は待ってくれない。
「具体的なことは何も決まっていません。ですが、私も既に行き遅れと呼ばれて然るべき
目の前に座る女は、まだ二十歳にも満たぬ俺と同じくらいか、それよりも幼く見える。しかし、この佇まいと口振りからして、実際のところは年上なのだろう。そうとでも思わなければ、自分の器の小ささに叫び出してしまいそうだった。
俺と違うけれど、俺と同じ、逸脱した女。己の意思の赴くままに生きている彼女が、正常な道に戻ってしまう……考えるだけで目眩がした。
どうして俺を置いていくのか。そう詰りたかったけれど、俺にその権利はない。俺は文庫殿の一知人というだけで、彼女の道行きに文句を言えるような立場ではないのだ。俺に反抗の言葉は用意されていない。
つと文庫殿が俺の方へ手を伸ばすのが見えた。柔らかな指が、俺の頬に触れる。あまり力を込めずに、皮膚、そしてその下の肉を伸ばされた。
「そんな顔をしないで。今生の別れにするつもりはありません。私は、たとえ離れ離れになってもあなたとの縁を続けていられるようにと、こうしてあなたを呼び出したのですよ」
俺はどんな顔をしているんだろう。わからない。わかっているのは、文庫殿だけで良い。
文を書きます、と文庫殿は言った。未練など、欠片も感じさせない眼差しで。
「あなたはずっと、大坂におられるのでしょうか。もし住まいが変わるようでしたら、どうか教えてくださいね。私、あなたとは疎遠になりたくないのです」
「……どうして? 俺はあなたのように遊興に耽らないし、食の好みも合いません。考えだって、似通っていない」
「そうかもしれませんね、私とあなたは対になることの方が多い。共通の趣味を持てないのは残念ですけれど、強要するものではありませんから。私は気にしていません。どちらかと言えば、お会いできたことを僥倖に思っています。最近は、年の近い
「文のやり取りなんて、したことがありません。あなたにその気があっても、俺が溜め込んでしまうかもしれない」
「良いのですよ、気が向いた時にお返事を書いていただければ。それに、どこに嫁ぐかすら、今は決まっていないのです。運が良ければ、畿内で済むかもしれない。会いに行くことはできなくなりますが、気軽に文を交わす程度であれば、そう難しいことではないでしょう?」
「運が良ければ、ね……。あなたは意外に先が見えていないようだ」
文庫殿に心を揺さぶられてばかりというのも癪だ。いつまでも余裕ぶった顔をしている彼女に仕返しをしてやりたくて、俺は挑発的に鼻を鳴らした。
「いずれ豊家は徳川の標的となる。大坂に居続ける俺は、天下の敵として戦うでしょうね。そんな相手に、あなたは文を送りたいという。ご自身の立場も顧みずに」
文庫殿が口をつぐむ。してやったりと思った。
確かな予兆がある訳ではない。だが、徳川の天下が定まった今、かつての天下人──その遺物など、邪魔でしかないだろう。遅かれ早かれ、豊家は天下の敵と見なされる。
そうなれば、俺は牢人たちと同様に天下の敵となるだろう。文庫殿の嫁ぎ先にもよるが、ただでさえ増え続ける牢人は問題視されている。気軽に交流できるとは思えない。下手すれば、文庫殿の夫が敵方になるかもしれないのだ。
文庫殿が嘆息する。憂いに沈んだ表情も、ぞっとする程に綺麗だ。一体何を仕出かせば、こんな風に生まれて来られるんだろう。これではまるで呪いだ。
「……たしかに、時勢は我々の障害となり得るかもしれません。あなたの言にも一理あります」
居住まいを正し、文庫殿はひとつの反論もなく俺に向き直る。ほんの僅か、目元に悲しげな陰りを湛えて。
「あなたはお強い方なのでしょう。これまで帰属していた生家を自らの意思のみで出奔し、大坂まで馳せ参じた。なりたい自分を、実現させて。……私には到底成し得ぬことです。どれだけの時間が経とうとも、私は己が過去を完全に振り捨てることはできません。もしも過去が、その産物が足下に縋り付いてきたのなら、私はきっと躊躇ってしまう。全てを捨てて、全くのひとりぼっちになんて、なれないから……。あなたならば、迷わずに蹴り飛ばして、望みを曲げることなく歩み続けられるのでしょうね」
「……褒められているようには聞こえません。やはりあなたは説教臭いお方だ」
「人に道理を説いて回れる程、私は高尚な人間ではありませんよ。思ったことを……感じたままのあなたを、取り繕わずに言ってみただけ。……まあ、あなたは花や月を愛でるより、強い方と剣を交えていた方が楽しいのかもしれないけれど」
悔しいが、文庫殿の言う通りだ。当たり前にあるものをわざわざ目に留めて無駄な時間を費やす程、俺は暇人じゃない。
いつの間にか、茶碗から立ち上っていた湯気は消えている。冷めたとしても、味は変わらないだろう。これ以上飲む気にはなれない。
ねえ、と女が呼び掛ける声がした。麗らかな、世の中の穢れを知らぬ少女の如き声色で。
「私たち、疎遠になっても……時折思い出した折に、お互いの幸福を祈りながら生きてゆけたら、どんなに良いでしょう」
それはきっと叶わない。
否定したかったが、酷なように思えて沈黙を選ぶ。茶碗に手を伸ばし──先の苦味を思い出して、やはりやめておこうと選択する。
臆病で、脆弱で、庇護がなければ生きていけない女。俺は文庫殿に憧れない。彼女のようになりたいとは、夢にも思わないだろう。
だが──他者に寄り添い、慮り、退屈な平穏を心から享受できるその有り様は、俺が今までに見た誰よりも眩しい。誤って覗き込んだ、愚かな女の目を焼いてしまう程に。
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