第4話
しとしとと、激しくはないがしつこく雨が降っている。
こういう日の文庫殿は、名前の通り文庫にいることが多い。俺の予想はどんぴしゃで当たった。背筋を伸ばし、さらさらと筆を動かしている女の姿が目に入る。
文庫殿はにこりと微笑み、こんにちは、と挨拶した。彼女は出会うと開口一番に挨拶する。余程のことがない限り。
あの日──数日前、人を斬った時は、文庫殿にとっても異常事態だったのだろう。そういえば開口一番にこんばんは、とは言われなかった。彼女には、人殺しとなった俺がどう見えていたのだろうか。
「何を書いているのですか」
目の前に座ったら邪魔だろうから、俺は隣に腰を下ろす。俺の背丈は一般的な女よりも少し高いが、文庫殿の隣に並ぶとやけに背が伸びた気がしてならない。
文庫殿は手元から目線を外さない。しかし、無視することはなく穏やかに答えた。
「日記です。毎日したためている訳ではありませんが、今日はこんな天気ですから。数日分、まとめて書いています」
「……俺の仕出かしたことも記録するつもりですか?」
「まさか。だって人殺しには風情がありませんもの。仕事でも、自分の戦果でもなく、他に書き残したいことがあるのに、優先するものではないでしょう」
あっけらかんと文庫殿は言う。こうもきっぱり否定されると、追及する気も失せる。
別に、恐れている訳じゃない。生家を出奔し、大坂にたどり着いた時点で、俺は未来への末永い展望を捨てている。今更死に怯えるものか。
それに、表立ってはいないが、牢人の間では斬った張ったなどそう珍しいものでもないだろう。わざわざ咎め立てていては、大坂を去る牢人も出かねない。どのような素性であっても戦力になる牢人は、徳川の天下となって二桁に入ろうとしている現状を抱える豊家にとって無下にできない存在だ。
そういった訳で、仮に文庫殿が俺の素行を日記に書いたとて然程困らないのだが……そもそも文庫殿にその気がないらしい。本人には絶対伝えないが、俺は少し安堵する。
「あなたの行動を制限したい訳ではありませんが、何故ちまちまと日記なぞを付けるのですか。何かあれば、紙などすぐに燃えてなくなるのに」
完全に無視されるということはないが、書き物をしている時の文庫殿はあまりこちらにかかずらってはくれない。別に構われたくて来ているのではないが、せっかく足を運んだのになおざりな対応をされるのは腹立たしいので、当てつけとばかりに絡んでみる。
俺は文庫殿を困らせたいだけで前述のように繰り出した訳ではない。本気で、日記を付ける意義を解せないでいる。
そりゃ、身分だけで食っていけるような名門の武家や公家の連中なら、時間を持て余して当然だ。手慰みに必要のない書き物をすることもあるだろう。
文庫殿も趣味嗜好はそういった連中──本人いわく文化人──と似通っているが、芯の部分が彼らと異なることは彼女だけでなく俺でさえもわかっている。墨と仄かな香に包まれている文庫殿だが、ふとした瞬間に陰りが見える。それは死であり、誰かの流した血であり、はたまた不和でもあり──一概にこう、とは言えないが、女の根幹には平穏と対をなす何かがある。文庫殿が望まずとも、彼女という人間の生に染み付いた陰影。それは、呑気に生きる奴らが到底持ち得ない代物だ。
あの日、俺は女の本質を看破した。彼女に覚えていた違和感はこれかと、即座に納得できた。俺もまた、彼女とは違う角度での異常者だから、気付けたのだろうか。
かすかに乾いた音がした。文庫殿が筆を置いたのだ。これで完成ではなく、一旦の小休憩だろう。
「何故日記を付けるのか……ですか。色々ありますが、そうですね。忘れないために、という理由が一番大きいかと」
文庫殿が、ゆるりと顔を上げる。しかしその眼差しは俺に向かわない。中空──彼女にしか見えないどこかに、意識の半分を馳せているように見えた。
「私の心は、ふとしたことで簡単に揺らいでしまうから。ひとところに留まらなければ、小さな記憶からこぼれ落ちてしまう。そうして知らない間に取り落としたものを思い出せるよう、文にして
「過去を思い出して、良い結果ばかり得られるとは思えませんが」
「ええ、辛いことも、思い出したくないこともあるでしょう。でも、私という人間は、過去の積み重ねと延長線上にいるのですから。終わりまでに何度か振り返っておかねば、そのまま置いていってしまいそうで恐ろしいのです。とりわけ、遺書をしたためる時はこういう記録を振り返らないと、考えがまとまらなくて」
「遺書? あなた、近々死ぬ予定でもあるんですか」
我ながら身も蓋もない質問をしてしまった。羞恥から顔を伏せると、くすりと小さな笑い声がこぼれる。……笑ったな、あの女。
「それはわかりません。でも、世の中何が起こるかわかりませんから。辞世の句ならどこでもしたためられるでしょうが、遺書とは腰を据えて書くものでしょう? その時がいつになるか、私にはわからないから……こういった、何でもない時間に思い出すようにしているのです。いつでも筆をとって、私の意思を伝えられるように」
「……そりゃ、あなた程であれば、戦場でも歌を詠めるでしょうね。俺にはとても無理ですが」
「どうでしょう、いざ戦場に立ってみたら、恐ろしくて何かするどころではないかもしれませんね。故にこそ、私はこうした時間が貴重に思えます。上手く使わなければならないとも」
「あなたは随分と諦めが良いようだ。話を聞いている限り、坊主の説法に近いものを感じます──いつ死んでも良いとお思いで?」
笑われたことに対する仕返しに、少し突っ込んだ問いを投げてみる。生き死にに関する話ができるまで親交が深まった……などと思うのは、脳天気が過ぎる。
文庫殿の視線は相変わらず俺へ向かない。俺の知り得ない、彼女だけの時間──置き去りにされているようで、苛立ちが募る。どうせこの女は俺そのものを見てはくれないのだ。
「諦めが良い──のかは、わかりません。私はまだ死んだことがありませんから、いざおしまいを前にすると平静ではいられないかもしれない。それに、未練もありますし……。その未練を少しでも埋められるように、今を生きているようなものです」
「未練?」
「お坊様とは程遠い、即物的なものですよ。欲しい茶器があるとか、温泉に入りたいとか、まだ見ぬ景色を目にしたいとか、新たな出会いを見付けたいとか……とにかく、色々なんです。日々を過ごしていくと、それだけ未練が増えていく。我ながら欲深いと思います──死ねば、その全てもぷつりと断ち切られてしまうのでしょうけれど」
ここでようやく、文庫殿が俺を見た。彼女の、癖のない髪の毛が揺れる──その長さは肩口に届くか届かないか。一般的な女たちに比べたら随分と短く、しかし出家している訳でもなさそうなので何かと中途半端だ。
この長さであれば、首を掻き切られても見苦しくはならないだろう。俺は脳裏に、物言わぬ首級となった文庫殿を想起する。
文庫殿の言うようにぷつりと断ち切られた彼女は、ただの物質になったとて、腐り落ちて朽ち果てなければずっと美しいにちがいない。もとより、見目だけはずば抜けた女だ。腰にぶら下げていれば、きっと戦場でも注目を浴びられる。
そんな女の中にあるのが、しょうもない欲望というのは些か残念な気もするが……何もかも完璧ではつまらない、と神仏は思うかもしれない。
「あなたは戦い、命を奪った末に果てたいのでしたね」
ふと、思い出したように文庫殿が切り出す。責めるような響きを持って。
そうだ。俺は戦場で、動乱の時代に見合った死に方をしたい。そのために邪魔なものを振り捨てて、ここまでやって来たのだ。
うなずき、首肯すると、文庫殿は再び筆を持った。俺に向けられていた視線が、またどこかへ行ってしまう。
「あなた、お名前は何というのです? 差し支えなければ教えていただけませんか」
「……何故、今更になって名前などをお聞きになられるのです?」
「あなたは、言ったところで遺書も、下手したら辞世の句さえも遺さずに飛び出して行ってしまいそうなんですもの。あなたにとっては些末なことでも、あなたのお知り合いのことを思うと気の毒でなりません。故にせめて、あなたがいたという証をしたためようと思いました。その最たるものが名ですので、こうして尋ねたまで」
不要なお節介だ。この女、変なところで面倒臭い。
たしかに彼女の言う通り、俺は何も遺さずに死ぬかもしれない。生家だって、意思ひとつで捨てられた。今になって縋ろうと思うものはない。
ああ、でも、この女には。俺が立ち竦んでいる時に寄り添ってくれた彼女には、何か置き土産を残してやっても良い。
「……うい」
「?」
「
「あら、ではちょうど今が収穫の時期ですね。秋の佳き日を思わせる素敵なお名前を忘れるなぞ、無粋が過ぎます。──ということで、どうぞ」
さらりと懐紙に文字を書き付け、文庫殿がこちらに手渡してくる。そこにあるのは、茴の一文字──俺の名前。
わかったような口を利きはしたが、俺は実際に自分の名がどのような字を書くのかすら知らなかった。よく遣う漢字以外は覚えていないのだ。
文庫殿は、本当に賢いのだろう。女であれば覚えなくとも良い漢字を当然のように書き付け、導き出す。俺は男のなりをしていても、己の名さえ書けなかったのに。
どうせならもっと上等な紙に書けよ、と思わないでもなかったが、他人と一定の距離を置きながら過ごしている文庫殿にしては、歩み寄った方なのだろう。なくさない限り持ち続けようと思い、懐紙を折り畳んで懐にしまう。天気故か、俺の名を書き付けた懐紙は不思議としっとりしているような気がした。
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