第3話
初めて、人を斬った。
きっかけはありきたりなものだった。俺が女──とりわけ常識とされる姿から逸脱しているから、好きにできると勘違いした牢人がいた。
もとより、面倒なことになるとわかっているから、本来の性別は明かさないようにしていたけれど……どういう訳か、件の牢人は見抜いたらしい。この秘密を言いふらされたくなければ言うことを聞け、などと宣って、俺の体を暴こうとした。
だから斬った。それだけの話だ。
本当に……それだけなのに、体の震えが止まらない。ぬちゃりとした血の感触が忘れられず、乾いた今もぬめる液体がへばりついているように感じる。
誰かに見られたら。いや、見られるのは構わない。咎められて、ここにいられなくなる方が、俺にとっては耐え難い。
今日は月が冴え冴えとしていた。郷里にいた頃から思っていたが、秋の月はやたらと明るい。公家どもが揃って月見に興じる気持ちも、理解できるような気がした。
そんな月は、平生ならば隠せるはずの血の色や俺の焦りさえも浮かび上がらせる。行く宛てもなく、死体から逃れるように足を動かす俺を見咎める者に、月明かりは意地悪く手助けする。
見るな。見るな。俺の姿を。
祈りながら歩を進める。──誰に? 誰でも良い、俺を観測しているものに。──どこに? どこでも良い、独りになれて、この身の汚れを落とせるのならば。
汗が止まらない。もう秋なのに。そうだ、郷里の越後では、もう紅葉が進んでいて、空気も大坂より冷たくて──きっと、ここより澄んでいる。俺がもし越後にいたのなら、今よりずっと、見付かりやすいはず……。
そんな風に、余計なことを考えたのがいけなかったのだろうか。
進行方向に、ひとつの人影が見えた。丸みがあって、小さい。夜着の上から小袖でも羽織っているのか、ひらひらと揺れる布地が羽のようだった。
あれが天女であれば、どれだけ救われただろう。しかし、それはただの人間だ。──俺のよく知る、逸脱した女。
──文庫殿。
「あなた……どうされたのですか、このような夜更けに」
相手も俺の存在に気付いたのだろう、訝しげな色を宿しながら声をかけてきた。
影が近付いてくる。小袖を
「人を斬りました」
隠しておくこともできたはずだ。だのに、俺は馬鹿正直にありのままを伝えてしまった。
ひゅ、と向かい側で息をのむ音が聞こえる。暗くて文庫殿の表情は見えないが、あの女を驚かせることができているのなら幾分か快かった。
「意外と呆気ないものでした。俺にとって、人の命を奪うのはそこまで難しくないようです」
自分は世に
文庫殿が一歩、俺に歩み寄る気配がした。月は飽き飽きする程明るいのに、どういう訳か女の顔は隠されている。逆光がそうさせているのだと気付ける程、今の俺は落ち着いてはいられなかった。
そっと手首を取られる。そのまま文庫殿は、血で汚れた俺の手を見た。
「………汚れたのは、これだけ?」
静かな問いかけ。そこまで重要なことだろうか、と疑問に思いつつ、俺はこくんとうなずいた。
そう、と文庫殿がほとんど吐息のような相槌を打つ。感情の起伏が読み取れない声色だ。
「では……上手く返り血を避けたのですね。全く血のにおいがしないから、言われるまで気付かなかった」
そして文庫殿は俺を責めるでも慰めるでもなく、淡々と感想を述べた。
返り血なんて、気にする余裕すらなかった。押し倒されそうになって、反射的に剣を抜いた。とにかく相手を優勢に立たせてはいけないと己に言い聞かせながら腕を振り回して、それで──こうなった。
そうだ、俺はよく考えずに人を斬ったのだった。文庫殿にはとても見せられないくらい、必死になって。
取り繕っているのが露見しないか、それだけが気がかりだった。文庫殿に、情けない姿を見せたくはない。彼女は俺を嘲らないだろうが、それでも、この女の前でだけは特別な自分でありたかった。
「……水場に行きましょう。たとえ掌だけであっても、他の者に血を認められたら嫌でしょう」
ふわりと小袖を翻し、文庫殿が先行する。人殺しが目の前にいるのに、全く動じていない。殺した側は、ずっと気が逸って仕方ないのに。
「……あなたは、このような時分に何を?」
文庫殿に引っ張られてばかりというのも悔しくて、俺は努めて平静を装いながら尋ねる。背を向けた文庫殿は、振り返らずに答えた。
「今日は後見の方がいらしていますから。もてなしていたら、すべきことがずるずると後に延びてしまいました。今から床につくところでしたが、あなたがいらっしゃったものですから、予定を変更したのです」
「……怒っていますか」
「どうして?」
「あなたの眠りを先延ばしにしてしまった」
「その程度で怒りません。私を短気だとお思いの方がいらっしゃるなら、後で訂正しておかなくては」
背中越しに、文庫殿が笑っているとわかる。こんな時でも何でもないように笑えるなんて、きっとこの女は何かがずれているのだ。
そのずれが、俺にとっては安心できる。相手が文庫殿というのは気に食わないけれど、ここで鉢合わせたのが彼女で良かった。
周りの連中が言うような、学ぶことはまだない。でも、この時ばかりは文庫殿に感謝せずにいられない。
「……感謝致します、文庫殿」
小さな声で呟いたつもりだったが、二人の足音──下手すればそれすらもまともに聞こえない状況では、俺の囁きを聞き取るのは容易かったのだろう。顔の半分だけ振り返った文庫殿が、ふと息を吐き出した。
「このような人間にお礼を言うべきではありませんよ。真に正しい人は、まずあなたの非を咎めるものです」
それが当然のことだと、俺もわかっている。すぐに前を向いた文庫殿は、俺の返事など待ってはいない。
彼女は正しい人になりたかったのだろうか。愚かしいことだ。普通の枠組みから一度でも外れれば、世間の語る正しさに則していられる訳がないのに。
今日ばかりは、文庫殿の愚かしさに救われた。それだけは本当だ。
いつの間にか全身の震えは収まり、その代わりに俺はしゃんと伸びた女の背中へと憐れみを送った。
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