第2話
文庫殿と呼ばれるからには文庫にこもっているものかと思っていたが、どうやらこの女は単なる出不精ではないらしい。
無論、文庫で書の読み書きをする日もあったのだが、今日は外出の気分のようで、文庫殿は俺を市井へと連れ出した。これも彼女の教育の内に入るのだろうか。
「内にこもってばかりでは、世の中など見えませんから。四季の移ろいを知ることもなく日々を過ごすのは、もったいないことですよ」
小さな口で餅を頬張りながら、文庫殿は言う。連れ出したのは自分なのだから奢る、と彼女は言ったが、借りを作るのは何となく癪なので断った。文庫殿がいなければ、茶屋の女将から睨まれたか、最悪追い出されていただろう。
大人たちは俺が甘いものを好むと勘違いして、特に父母のもとにいた頃は好きでもない甘味をあれこれと押し付けられた。甘味が苦手なのだと言えば、苦い茶を渡されるので堪ったものではない。
俺が好きなのは肉だ。食ったところでだらしない体にしかならない甘味など、食っていられるものか。
「そういえば、あなたのことはあまり聞いていませんでした。この機会に質問をしても良いですか?」
咀嚼を一段落させ、文庫殿が俺に向き直る。状況が状況だからか、初対面よりもずっと幼く見えた。
文庫殿と会うようになって時間は経つが、俺は俺の名前すら彼女に伝えていない。聞かれなかったし、わざわざ教えるものでもないから。文庫殿だって、他に正式な名があるだろうに、ずっと文庫殿で通しているのだからおあいこだ。
俺は気にしていなかったが、文庫殿は聞き出す機会を探っていたのかもしれない。不本意ではあるが、俺は一応うなずいておいた。これから名の表記が必要になる場面が出てくるかもしれないし。
「ありがとう。では、あなたはどちらの出身なのですか? 畿内の訛りがないものですから、気になって」
……なんだ、名前は聞かないのか。
これじゃ、俺が期待していたみたいだ。馬鹿馬鹿しい。
それよりも──だ。文庫殿が俺の身の上を深掘りしようというのは嘘ではなかったようで、出身について問われた。たしかに、畿内に入るのは家出してからだ。訛りなんて意識したことがなかったけど、そういえばこっちの連中は俺の知る発音と異なる話し方をすることが多い。聞いている側からすれば違和感を覚えるものなのかもしれない。
変に隠すことでもないので、越後、と短く答える。畿内の人間からしてみれば、馴染みのない場所だろう。
「まあ、長旅だったのですね。東国には足を運んだことがないので、お話を聞かせていただけると嬉しいのですが」
「話すようなことは特にありません。夏が短く、冬が長い。それから……こっちよりは、温泉が多いです」
「良いことではありませんか。ならば今、あなたの郷里では、紅葉の盛りでしょうね。大坂に来てから、本格的に……山や名刹で紅葉狩りを楽しむことは減りましたから……ああ、こういう時は、京が恋しくなります」
「京にいたのですか」
聞かれてばかりというのも面白くない。すかさず聞き手に回ると、文庫殿は湯呑みに息を吹き掛けた。
「育ちは京です。……とはいえ、伏見にいましたから、洛中の方が聞いたら嫌な顔をするでしょうね。あなたがいかにもな京人でなくて良かったと心から思います」
「下らないお話ですね。出身地で人の価値が決まる訳ではないのに。……まあ、その土地にしか根付かない身分や家格はあるんでしょうけど」
ちらりと文庫殿の顔を見ると、彼女はん、と首をかしげた。小鳥みたいな仕草だ。いくら物言いが大人びていたって、こういう素振りを続けるからには小娘らしさが抜けきらない。
「風流だの何だのと言って、遊びに興じるのがお好きな上に、京で育ったと来た。あなたは公家か何かの血筋ですか」
決して人目を避けている訳ではないのに、自らを悟らせない女。大坂に集まる牢人どもから揃って文庫殿と呼ばれる彼女が何者なのか、知っていれば俺に対する周囲の目も改まるかと思った。
詳しいことはよくわからないが、文庫殿の身分自体はそう低くない気がする。ふとした瞬間の立ち振舞いはやたら丁寧だし、筆跡は素人目に見ても美しかった。男のように漢字まで遣うのだから、人並み以上の教養は持ち合わせていると言って良いだろう。
俺は武家の生まれではあるものの、そこまで名を馳せてはいない、小さな家の出だ。基本的な座学こそ習わされたものの、文庫殿が好むような遊興には触れてこなかった。むしろ、贅沢するなと戒められていたくらいだ。
だから、きっと文庫殿は恵まれている。俺の知らない世界を知り、それが当たり前のように振る舞える彼女は、生まれからして俺とは一線を画しているんだろう。
「公家の方と交流したことはありますが、残念ながら公家の生まれではありません。私は正真正銘武家の子ですよ」
──あなたの思い描く、公家の文化が性に合っているのは確かですけれど。
穏やかに告げて、文庫殿は微笑んだ。まるで、俺の世間知らずと偏見を
ああ、でも、少し合点がいった。この女が大坂にいるのは、青野原の戦を機に家が没落したか何かだろう。そういった輩は山ほどいる。現に、牢人たちがそうだ。主家を失い、あてもなくさ迷って、大坂に引き寄せられる。夜、光ならば何でも良いとばかりに集まる小虫のように。
俺は何でも良い訳じゃない。戦に出たいのだ。それも、勝ちが見えきっているのではなく、そこで終われるような──骨を埋められる場所を、探している。だから大坂に来た。
「武家に生まれたのなら、大坂になぞ留まっていないで、どこか安定したところに嫁げばよろしいのに。あなたくらいなら、少し掛け合えばわらわら独り身が集まってくるでしょう」
やられっぱなしでは気が済まないので、こちらからもやり返してみることにする。のんびり茶を啜っていた文庫殿が、きょとんと目を丸くさせたのを確認できた。……いい気味だ。
そうだ、ここはお前のいる場所じゃない。お前には、他にも居場所があるはずだ。それなのに、何故わざわざ大坂にいる? ここ以外に頼る術がない理由を明らかにしてもらわなければ、俺は納得できない。
文庫殿は小さく息を吸い込む。伏せられた目元が、僅かに憂いを帯びた。
「……それらしい身の振り方を考えさせられた時期もありました。もう、十年近く前の話です──あの時は、苦い思いをしました。必要とあらば婚姻について考慮もしますが、今は迫られる程のことでもない。できることなら、たとえ一時であろうとも、自由を謳歌していたいのです」
相応しくないでしょう、と文庫殿が唇を歪める。微笑んだつもりなのだろうが、上手くできていない。
「こういう風に……好きなことを思うままにできる時間とは、簡単に得られないもの。故に、時と状況が許す限り、私は世のしがらみから離れたところで穏やかに過ごしていたい。無論、いつまでもわがままを言っていられない立場とは理解しています。その時が来れば、私は常識の枠組みに戻りましょう」
「……聞き分けが良いのか悪いのか、よくわかりませんね。親類は今のあなたを許容しているのですか」
「どうでしょう、血の近い親族は皆もう現にはおりませんもの。今は父の知己が私の身を預かってくださっています。大坂へ参じたのも、彼のご意向によるもの」
ここで茶を飲み干したのか、文庫殿が湯呑みを置く。コト、と乾いた音が響いた。
親類が死に絶え、血の繋がりのない他人に身柄を預かられているということか。誰かが望めば、などとやけに受動的なのはそのためだったかと合点がいった。その割には好きにやらせてもらっているようで、俺はそっと鼻を鳴らした。気に食わない。
この女がどのような道を辿ってきたか、俺に知る術はないけれど──きっと、ずっと誰かに守られて生きてきたのだ。俺とは違う──懇願すれば一定の無事は保障される、ある種の特権を持っている。
羨ましいとは思わないが──この女を強者と認めることはできない。むしろ、庇護者がいないと生きていけない弱者ではないか。
「無理に肯定していただかずとも構いません。あなたはご自身の意思で、大坂まで馳せ参じた──私のような生き方は、受け入れられないでしょう」
文庫殿は諦めている。俺に受容されることを。一目でそうとわかる、一定の距離を越えた干渉を許さぬ口振りだった。
弱いくせに、わかったような物言いをする。──いや、弱いからこそ、期待していないのか。
つくづく、苛立ちを煽る女だ。俺を認めない連中が、こぞってその名を口にしたのも含めて。
「故にこそ、私もあなたのやり方を頭ごなしに否定しません。お互いに、自分の知らなかった生き方を知る好機を得たと思いましょう」
「好機だと?」
笑わせるな、と抗議したかった。俺はお前のような生き方を、経験値とは思えない。
ここが白昼の往来でなければ、俺は声を荒げていただろう。それだけ腹立たしかったのだ──俺と文庫殿を、同じように扱われたことが。
「ええ、少なくとも私はそのように感じています。私は人と関わるのがあまり得意ではないのです。その中で、理由はどうあれあなたと交流する時間を得られたのは僥倖以外の何物でもありません。あなたは、女性の生き方は自分かそれ以外しかないと思っておられるご様子。これもまた、世を知るということです」
「……俺は、説教されるために出張ったのではありません」
「説教するつもりはないのですが……そうですね、そのように聞こえていたのなら申し訳ない。ただ、そういうものだからと看過するのはよろしくないと思うのです。あなたのような──危うげな
俺の喉が熱を持つ。
動揺する俺を前にしても、文庫殿は態度を変えなかった。何でもない世間話をしたかのような顔で腰を上げる──笑いも、厭いもせずに。
「そろそろ行きましょうか。長居していては、お店や他の方に迷惑がかかります」
ごちそうさまでした、と麗らかな声で言う女を、俺は直視できない。
文庫殿にとって、大したことではないのだ。女子たる俺が男の格好をして、世間一般的な女が辿るべき道筋から外れていたとしても──咎めも、称賛もしない。そういうものとして受け入れ、新たな可能性を知るだけ。己がその道を辿ることはなく、往来ですれ違ったかのように、そのまま自分の道へと戻る。
何故か視界がぼやけたので、目の端に溜まったものがこぼれ落ちないように天を仰ぐ。小さな雲が、魚の鱗のように群れている──憎らしい程の秋晴れだ。
「どうかしたのですか?」
既に何歩か前を行く文庫殿が振り返る気配がした。間抜けな顔を見られたくはないので、何でもありません、と返してその背を追う。
嗚呼、なんて恨めしい。文庫殿と名乗るこの女にとって、俺は特別でも何でもない、ただの人間の一人に過ぎないのだ。
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