文庫に夢む

硯哀爾

第1話

 この城には、文庫殿ふみくらどのと呼ばれる女がいるらしい。

 らしい、などという語尾を付けて真偽をあやふやにしているのは、単に俺がその女を目にしたことがないのと、周囲の者たちも数える程しか見かけたことがなく、彼女に干渉するにしても自主的な行動を伴わなければならず、そもそも文庫殿の行動範囲をつまびらかに把握している者がほとんどいないが故である。謁見の伺いを立てなければならない程高貴な人物という訳ではなく、文庫殿本人が認めさえすれば通りすがりに声をかけても応じる上に、牢人たちの連れ子にも気まぐれに手習いを付けているとのことだが、それにしても情報の少ない人物だ。

 俺は女と遊びに大坂まで出張ってきたのではない。武家に生まれたのに戦に出ることもできない世情が気に食わなくて、実家で無駄に時を潰すくらいなら武士もののふらしく死んだ方がましだと思い、牢人の集まる大坂へ出奔することを決めた。

 俺が生まれた後の日本ひのもとに戦がなかったと言えば嘘になる。……が、腹立たしいことに生家は青野原の戦の折、越後における一揆の鎮圧に多少関わった程度で、当時元服すらしていなかった俺が参陣するなど不可能だった。その後はお察しの通りといったところで、第二子であった俺は家督を継ぐことも戦にて功名を立てることもままならず燻り続け、今に至る。

 別に、戦の勝敗に興味はないし、天下人たる徳川と豊臣の間でいつ戦が起こるかは定かではない。しかし、せいぜい在地勢力との小競り合いしか体験できず長々と生きるよりも、ただの一度でも大戦に参して人を斬り、武士らしく死ねるのならば、後者の方が良いと思った。

 そんな俺としては、同じく大坂に集った牢人、その中でも特に腕の立つ者と剣を交えたいところだが──連中は俺を子供扱いして一向に取り合ってはくれない。あろうことか、お前は若いのだからこの機に学を身に付けろ、などと年長者ぶって助言される始末。

 言っておくが、俺は全くの無学ではない。基本的な読み書きは実家で習った。だが、じっと座っているよりも、剣を振るう方が性に合っている。これでも実家の臣たちや兄上を打ち倒すくらいの力はあるし、今更学を修めたところで何の意味があるだろう。

 そう周囲に伝えたのは一度ではないのに、相手をしてくれるのはこちらを子供と侮る雑魚ばかり。俺が挑みたい強者たちは、お前は一回噂の文庫殿にでも会って和歌の一つでも学んでこい、せっかく題材に欠かない秋口に剣ばかりでは勿体ないぞ、とのこと。辞世の句など読めなくても人は斬れるのに、おかしなことを言う。

 そういった理由から、俺は文庫殿に会うことを決めた。何かを学ぶつもりはない。彼女に会ってきたという事実があれば、相手をする者が増えると考えただけだ。

 その名の通り、文庫殿は文庫にいることが多い。縁を結べば他所でも会えるのだろうが、初対面となれば文庫に行くしかない。本来なら一生足を向けなかったであろう文庫の前に立つと、古紙と墨のにおいがした。

 果たして、文庫殿は本当にいた。文机の側に座し、静かに墨をっている。俺の入室に気付いたのか、ゆるりと顔を上げた。


「こんにちは」


 挨拶した女──文庫殿は若い女だった。人の美醜に興味のない──強いか弱いかで判断する俺さえも、綺麗とはこういう者のことを言うのだと理解する程度には美しい。この季節の明るい月の下にいれば、彼女の白い肌も黒髪も、きっとよく映えることだろう。

 彼女は手を止め、俺の方を見た。目線がかち合う。負けたくないと思った。


「周囲の者たちから、あなたに会って学を修めるようにと言われました」


 本気で口にしていた者はそういないだろうが、理由付けにはちょうど良い。俺は文庫殿を睨み付けながら続ける。


「手合わせを挑んだのに──です。おかしいとは思いませんか。俺は武を求めているのです。だのに皆、口を揃えて学べと言い、俺をいなそうとする。あなたは、彼らを納得させるだけの力をお持ちなのでしょうか。あなたが男にも負けぬ武力をお持ちだというのなら、俺も納得できますが」


 はっきり言って、文庫殿は武を修めてはいないだろう。武器を握る者に共通する気迫がない。藍色の着物から覗く手は小さく、そして白い。まともに剣を握ったことのない──せいぜい筆を持つ程度の、女の手であることは明らかだった。

 出入り口から一歩も動かない俺を見て、自分が動かなければ距離は縮まらないと悟ったのだろう。文庫殿は表情を変えず、おもむろに立ち上がった。そして、呑気にゆっくりと歩みを進め、俺の前までやって来る。


「まず申し上げますが、私に武術の心得はないようなものです。昔は護身のためと言われて、体を動かしたこともありましたが……最近だと、そういった機会はめっきりなくなりました。私に武術の指南は不可能でしょう」


 上目遣いに俺を見る文庫殿は、大人びたその物言いに対して酷く幼げに見えた。顔の輪郭が丸みを帯びていることや、そもそも俺より小さく、戦意の欠片も見受けられないからだろう。

 本能的に、俺はこの女をだと判断した。大して戦えない、その手段を自主的に得ようともしない、女という身の上に甘んじている弱者。こんな相手から学ぶことなど、本当にあるのだろうか。

 ついと、文庫殿が視線を動かす。彼女の眼差しは、俺の両の目をひたと捉えた。……恐ろしいと思った訳ではないが、知らず片足が後ろへと下がる。


「あなたは、単に武術の腕を磨きたいのですか? それとも、いずれ来るかもしれない──もしかしたら杞憂に終わる、戦に参じたい?」

「は──」


 先程問いを投げ掛けたのは俺のはずだ。だというのに、いつの間にか文庫殿が質問者になっている。

 答えがあるとすれば、それは後者だ。この生温い浮世で死にたくない。叶うことなら、昔を生きた男たちのように、戦場で──華々しくなくとも、武士という身分に相応しい最期を飾りたい。

 そんな本音を、目の前の女に伝える気は更々なかった。だって、こいつは日がな文庫にこもって、のんべんだらりと墨を磨り、書物の世界に逃げているような臆病者だ。戦とは一番無縁な人種ではないか。


「もしもあなたの願いが後者だったのだとすれば、私はほんの少し──ごく僅かではありますが、お力になれるでしょう。戦うことはできませんが、私は一応の作法を知っています。戦場で武士らしく生きて死ぬための手筈……その基礎の基礎なら、あなたにお伝えできるかと」


 見当違いなことを申し上げていたらごめんなさいね、と文庫殿は苦笑した。本当に何でもない──当然のことを口にしたと言わんばかりの態度で。

 作法。そんなものを身に付けてどうする。武人とは強くあるもの。儀礼や慣習など、邪魔になるだけだ。

 そう言い返して、文庫殿をこてんぱんに打ちのめしたかった──が、いかにも弱そうなこの女が、さも当たり前のように先導者の顔をするのが不思議だという気持ちの方が勝った。そこまで言うのなら、一度はお手並みを拝見してやろうじゃないか──とも。

 俺は息を吐き出す。期待外れだったら、すぐさまなかったことにしてやれば良い。時間の無駄にはなるかもしれないが、外れだったとしてもこうはなるまいという反面教師にはなるはずだ。

 挑むように、文庫殿を見下ろす。光を受けた黒髪が、青みを帯びて艶めいた。……本当に、見目だけは大したものだ。


「そこまでおっしゃるのなら、期待しても良いということですね。では、文庫殿。俺に、あなたの言うところの作法とやらを教えていただきたい」

「既に存じ上げていることかもしれませんよ。私が知るのは、人を形作る土台の一部に過ぎませんから」

「構いません。期待外れであれば、それまでということ。この俺を納得させられたのなら、俺はあなたを認めましょう」


 ぱちくり。瞬きをひとつ、その後に文庫殿は困ったように笑んだ。俺を子供扱いする連中と似た表情で、かすかに苛立ちが募る。


「認可を得る程大層なことはできないのですが……いえ、何かを学ぼうという姿勢にあれこれと言うものではありませんね。ちょうど今は過ごしやい気候ですし、風流も探しやすいでしょう。そう気負わず、趣味のひとつでも見付けられたらという気持ちで付き合っていただければと思います」

「暇を持て余しているのではありません」

「そうですね、あなたは理由をお探しでいる。ですが、経験が増えれば、それだけ話の種も増すというもの。あなたをあしらっていた方々を振り向かせることができるかもしれません。それならあなたにも利はありますよ」

「……それは、たしかに」


 言いくるめられた感じはしないでもないが、文庫殿の言にも一理ある。もとより、彼女に会ってこいと言われたのだから、こうして顔を突きあわせているだけでも話題のひとつにはなるだろう。

 何にせよ、俺は強くならなくてはならない。文庫殿とは、そのための踏み台だ。

 改めて、向き合う女に視線を遣る。つい先程まで俺を見ていたはずの女は、何を思ったか入り込んできたただの風に目を細めていた。

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