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「わたしたち、一生友達でいよう」
まだ高校生だったあの頃、ブンカのことは女として意識したことはなかった。当時一番仲が良かったし、その言葉を守るつもりでいたけれど、いつのまにかそれは呪いの言葉となって、俺を暗い暗い夜に閉じ込めた。
あんなに一緒にいたというのに、別の大学に進学したら嘘みたいに一緒にいられなくなった。お互い忙しかったんだと思う。一度疎遠になったらなかなか取り戻せなくて。会いたいと思う気持ちはいつしか恋心に変わっていた。恋焦がれるたび、頭の中では「一生友達でいよう」という言葉がこだまする。一生友達でしかいられないなら、いっそ会わないほうがいいとヤケになってサークルの先輩と付き合ってみた。ブンカとは正反対の大人しくて綺麗系の彼女。告白されて付き合ったけれど、三ヶ月も経たないうちに「綾汰は私のこと見ていない」って静かに泣きながら別れを告げられた。俺は彼女を利用して、傷つけた。
自分が失恋したわけではないけれど、傷つけてしまったことに動揺したのだろうか。俺はだいぶ消耗していて、これまで我慢していた揺り戻しが来たみたいにブンカに会いたくてたまらなくなった。
「なあブンカ、俺のこと慰めて」
気づけばブンカに電話をしていて、ひどく情けない声でそう言っていた。ブンカは戸惑いながらも「じゃあうちにおいでよ」と提案してくれた。正直、家に上がることに不安はあった。どうしようもなくブンカを求めている俺が理性を保つことができるのか。一方で、俺を家に上げてくれるということは、ブンカにはそういう相手はいないんだと安心もした。
家飲みしようと提案してくれたブンカには悪いけど、酔って理性を失うのが怖かったから、自分の分はノンアルコールを選んで、いくつか缶チューハイを買っていった。
教えてもらった住所にたどり着くと、ドアの前で深呼吸し、頬を叩いた。変な気は起こさない。俺たちは友達。心の中でそう唱えてからゆっくりとチャイムを鳴らした。震える指は二回もボタンを押してしまって、ごまかすようにドアを三回ノックした。
「アヤちゃん、そんなに呼ばなくたって開けるってば」
笑いながらブンカは俺を迎え入れてくれた。久しぶりに会ったブンカは思っていたよりずっと小さくて、可愛いくて、愛おしかった。ずっと緊張していたくせに、家に入ったら猛烈な空腹感に襲われた。そういえばもう何時間も何も食べていない。
「腹減った。オムライス食べたい」
ぼうっと考えていたことをそのまま口に出してしまったけれど、ブンカはすぐに作ってくれた。お店のオムライスとはまた違う、ほっとするような味だ。ふわふわの卵が少し破れて中が見えているのがブンカらしい。
慰めてと言った手前、俺の失恋話をする羽目になった。正直ブンカには聞かせたくない話だったけれど、仕方がない。俺の失恋話を肴にブンカは結構飲んでいた。酔っ払っているのか、上気した頬に潤んだ瞳で見つめられるとどぎまぎする。自分の分はノンアルコールにしておいてよかったと本気で思った。ギリギリで理性を保ちながらも、ブンカに触れたいとかキスしたいとかそういうことで頭がいっぱいだった。
「じゃあわたしたち、付き合っちゃおうよ」
突然その言葉だけがクリアに聞こえて、俺はフリーズした。現実のことなのか、それとも俺の都合のいい妄想なのかわからなくなった。けれど、ブンカははにかみながら俺のことを見つめていて、実際にブンカが発した言葉なんだと悟った。
ほんの数秒の間に俺は葛藤した。ブンカの提案に乗ってしまいたい気持ちと別れたばかりの元彼女に対する罪悪感。そして、鉄壁の如く張り詰めていた理性は過剰なまでの防衛をした。
「何言ってんの。ブンカ、酒弱すぎ」
本心かわからないブンカの誘いを受けて、恋人になって、そして別れる可能性。臆病な俺はブンカの提案を突っぱねてしまった。直後、唇を噛むようなブンカの仕草に俺はその決断を後悔した。ブンカは本気だったのかもしれない。でも、もう取り消すこともできなかった。
ブンカは何事もなかったかのようにテレビを見つめている。別に面白くもなんともない、ただのCMなのに、食い入るように見つめていた。
その日を境にブンカとはまた連絡を取り合うようになった。とはいえ、高校時代のように毎日というわけではない。少し間が空いてから連絡すれば、「またフラれたの?」と訊かれる始末。なにか理由がなければ会えないのだと気づいた俺は、ブンカに会うために何人もの架空の恋人と付き合い、そして別れた。
◇
チャイムを二回鳴らし、ノックを三回。いつのまにかお決まりになったその合図。
「よう、ブンカ。久しぶり」
「アヤちゃん。どうぞ、入って」
「おじゃましまーす」
ブンカがドアをあけて迎え入れてくれる。今回は三ヶ月ぶり。社会人になったら前以上に会えなくなってしまっていた。
「なんか……ちっとも落ち込んでるようには見えないんだけど」
「そんなことないって。今日は飲む」
「わたしは飲まない」
「わかってるよ。ブンカにはこれ」
ブンカは付き合っちゃおうよ事件の後から酒を飲まなくなった。俺も酔って変な気を起こしたりしないように、ブンカに会う日は飲まないようにしていたけれど、今日は最近忙しかった仕事がやっと落ち着いたところで飲みたい気分だった。とはいえ飲み過ぎないようにアルコールは一本だけ。ブンカはノンアルコールチューハイを珍しそうに眺めていた。
お互いに飲みたいものを取って、俺は一緒に買ってきたつまみをテーブルの上に並べる。ブンカも用意しておいてくれたのか、いくつか出してくれた。ブンカがオムライスを用意してくれている間、先に飲んでいるのも悪い気がして、SNSをチェックした。と言っても友人の投稿を読み流し、気まぐれにイイねするだけだが。
「アヤちゃん、できたよ」
ふっくらとした曲線のきれいなオムライスが運ばれてきた。最初に食べさせてもらったときは卵が破れていたけれど、すっかり上達したのか中のケチャップライスが見えることはなくなった。ブンカにケチャップで絵を描いてと頼んでみたが、即却下される。粘ってみたら渋々描いてくれた。ギザギザの割れ目の入ったハートだ。あの日、俺はきっとブンカのことを傷つけた。スプーンの裏側でハートを撫でて割れ目を修復する。こんなふうにブンカの心も修復できたらいいのに。
「ブンカ、ありがとう」
ありがとう。そしてごめん。心の中で謝る。実際に謝ったところでブンカも困るだろうから言わないけれど。
「別に。いつものことじゃん」
「うん。ブンカが慰めてくれるから俺は心置きなくフラれてくることができる。これからもよろしくな」
ブンカの優しさに甘えて、いつも俺はヘラヘラしてばかりだ。彼女なんかいないのに、毎回フラれたふりをしてやってくる俺は世界一カッコ悪い嘘つき野郎だ。オムライスにスプーンを入れて、口に運ぶ。ケチャップライスが香ばしい風味でおいしい。ブンカによると醤油を少し垂らしているのがポイントだそうだ。
「なんでそんなに長続きしないの」
「なんでだろうな。こんなにいい男なのにおかしいよな」
渾身のボケも盛大にスルーされてしまい、虚しさだけが残る。キッチンの片付けを終えたらしいブンカは喉が渇いたと言いながら俺の向かいに座る。少し汗をかきはじめた缶チューハイ(ノンアルコール)を口に含むと、びっくりしたような顔で缶を眺めている。そして、俺は異変に気がついた。泣いていたのか、ブンカの目が赤いような気がする。指摘すると隠そうとするから、咄嗟に手を伸ばす。
「わたしも失恋したの。だから、アヤちゃん。わたしのこと慰めてよ」
返ってきたのは予想外の答えで、すぐには反応できなかった。こうやって数ヶ月に一度、家に上げてもらっているから、ブンカには彼氏はいないんだと安心しきっていた。
「ブンカ、彼氏いたんだね」
「失礼な。って言いたいところだけどいないよ。好きだった人に恋人がいたことを知っただけ」
「……そっか。慰めるって、具体的にどうしてほしいの」
ブンカの好きな人が羨ましい。一生友達の俺ができることは、ブンカが望むように慰めることくらいだ。
「抱きしめて、頭撫でて。『文佳、大丈夫だよ』って言って」
「わかった。じゃあこっちおいで」
きっと、俺を好きな人に見立てて寂しさを埋めるとかそういうことなんだろう。ならば俺はその役に徹するのみだ。両手を広げてブンカを待つ。じりじりと近づいてくるブンカ。ついているはずのテレビもなぜか沈黙していて、俺の鼓動の音がブンカに聞こえてしまいそうだ。
「ほら、文佳」
もうどうにでもなれとブンカを催促すると、ブンカはくるっと背中を向けてもたれかかってきた。ずっと触れたかったブンカが目の前にいる。俺はそっと抱きしめた。
「ブンカ、ちっちゃ」
「アヤちゃんがデカいんだよ」
もぞもぞと動くブンカを逃がさないように少し腕の力を強める。密着するとブンカの熱が伝わってくる。俺のと変わらないくらい速い心臓の音も聞こえてきて、愛おしさが増す。
「文佳、かわいい」
思わずブンカの後頭部に唇で触れる。一度触れてしまえばもっともっと触れたくなる。
「アヤちゃん、酔ってるの?」
戸惑うブンカは腕の中で暴れ、気づけばブンカと向かい合っている。
「アヤちゃん」
「違う、綾汰って呼んで」
「……綾汰」
ブンカの口から発せられる自分の名前。こんなにも甘美な響きだったろうか。触れたい。キスしたい。見つめ合ったまま距離を縮めていく。あと少し。そう思ったところでブンカはするりと腕から抜け出した。
「いやいやいや、待って」
ブンカは隅っこでクッションを抱えてしまった。それでようやく俺は単なる『ブンカの好きな人』役だったことを思い出す。うっかり酒なんか飲むから、理性をコントロールできなくなったんだ。
「ブンカ、ごめん。やりすぎた」
「……そうだよ。アヤちゃん酒癖悪すぎ。だからフラれたんじゃないの」
「……そうかもな」
飲みかけの酒はシンクに流して捨てる。冷蔵庫から新しい缶を取り出した。残っているのは全部ノンアルコールだ。体内のアルコール濃度を下げるべく、喉を鳴らして飲み下す。
「ブンカ……ごめん。俺、帰ろうか」
そっと声をかけると、ブンカはびくりと動く。怖がらせてしまったのだろうか。だとしたら、最低だ。空になったオムライスの皿をシンクに下げて、軽く水をかける。洗ったほうがいいかとも思ったけれど、下手に触るのも悪いかとそこで手を止める。帰り支度をしようとしたところで、ブンカは突然立ち上がると、テーブルの上の缶に口をつけてグビグビと飲んだ。
「ごめん、アヤちゃん。わたしがその……抱きしめてなんて言うから変な空気にしちゃった」
「いや、それを言うなら悪ノリした俺のほうが絶対悪い。……っていうかそれ、俺の飲みかけだわ」
「えっ、嘘! ごめん。たしかに味が違う」
ブンカは慌てたように缶をテーブルに置くと、口をティッシュで拭った。そんなゴシゴシ拭かなくてもいいのに、と俺は密かに傷つく。これでキスなんかしてたらどんな反応されたか。そんなことを考えながらブンカを見つめていると、ばちっと目が合った。
「いや、あのこれは、アヤちゃんの飲みかけが嫌とかそういんじゃなくて。むしろ本当はさっきキスしておけばよかったなって思ってるくらいで」
「……え?」
「……あ」
ブンカはみるみる顔を真っ赤に染め、両手で顔を覆ってしまう。
「ねえブンカ、今のどういう意味?」
「あーもう。酔ってるのかな、わたし。この部屋暑くない?」
ブンカは手でぱたぱたと顔を扇ぐ。
「酔ってないと思うよ」
「いや、だってさっきアヤちゃんの飲んじゃったし」
「うん。でもブンカが飲んだのはノンアル。俺、二本目はノンアルにしたから」
ブンカは缶の表示を確認し、さらに顔を赤く染める。俺の自意識過剰とかじゃなく、これはたぶん。うろたえるブンカがかわいくていじめたくなる。
「それで、どういう意味? 酒飲んだと思って酔った気になって、本音が漏れちゃったと思っていいの?」
「そうだよ! アヤちゃんのことが好きってことだよ。なんでずっとわかってくれなかったの。アヤちゃんのばーか。アヤちゃんこそどうなの。わたしにキスしようとするくらい飢えてたの? それとも……」
「好きだよ。俺だってずっと。フラれたっていうのも嘘。そもそも彼女なんていない。ブンカに会うための口実」
これまでのことを話すとブンカはちょっと怒ったけれど、お互い様だからと許してくれた。けれど、やっぱり俺があのとき——ブンカが付き合っちゃおうよと言ったときに正直に返事しなかったのがいけない気がする。悔やんだってこの五年近くの歳月は取り戻せない。だから。
「ブンカ、俺と付き合って」
ブンカは返事の代わりに乱暴に唇を押し当ててきた。いつのまにか外は明るみ、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。長い長い夜が明けて、俺たちの関係も新しいものに上書きされる。初めてのキスは、ほろ苦いレモンハイの味がした。
夜が明けたらキスをしよう 桃園すず @m_suzu
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