夜が明けたらキスをしよう

桃園すず

「ブンカ、今日行ってもいい?」


 ポケットに入れていたスマートフォンが小刻みに震え、アヤちゃんからのメッセージを受信した。アヤちゃんはわたしの好きなひと。アヤちゃんなんて言っているけれど、別にかわいらしい女の子ではない。ガタイのいいスポーツマンだ。綾汰りょうたが本当の名前で、綾の字をアヤと読んでいるだけ。むしろアヤちゃんはわたしのほうなんだけど、一度もそう呼んでくれたことはない。文佳あやかをブンカと一ミリも疑わずに読んだ彼は、訂正してからもわたしのことをずっとブンカと呼び続けている。だから仕返しにこちらもアヤちゃんと呼んでいるんだ。


 もうずっと友達だから、今さら恋人になんてなれそうにない。一度酔っ払った勢いで「わたしたち、付き合っちゃおうよ」なんて言ってみたことがあったけれど、そのときは笑ってバッサリ切り捨てられた。だからもう言わない。彼にとって一番仲の良い女友達というポジションに甘んじることにしたのだ。


「いいよ。またフラれたの?」

「うん。ブンカ、慰めて」

「わかった。オムライス作って待ってる」


 ふうとため息をひとつ吐き出した。安堵のため息か、それとも落胆のため息か。知らない間にまた新しい彼女ができていたことにショックを受けつつ、けれどまた長続きしなかったことにほっとしている。高校生の頃に出会ったわたしたちはいつのまにか二十代も半分を終え、同級生には既婚者もちらほらと現れ始めた。アヤちゃんだっていつか結婚してしまうかもしれない。そうなってしまったらもう、わたしとは会ってくれないだろう。確実に近づいてきている終わりを、その先を、考えないようにする。


 ついこの前まで蝉がうるさく鳴いていたと思ったのに、気づけば乾いた風が頬を撫で、ほんのりと甘い秋の香りがする。カーディガンを羽織って買い出しに向かう。アヤちゃんの好きなオムライスを作るために卵は欠かせない。ひとつだけ古い卵が残っていたけれど、いつもふたつ使うし、半熟にするから新鮮なほうがいいだろう。


 アヤちゃんが来る前にケチャップライスだけ作っておく。チキンライスではなく、ツナを入れたケチャップライスをアヤちゃんはいたく気に入っている。


 初めて作った日のことを思い出す。大学生になってから少し疎遠になっていたアヤちゃんから夜中に突然電話がかかってきた。少し掠れた声で「なあブンカ、俺のこと慰めて」なんて言ってくるからすごくどきどきした。都合のいい女みたいになっちゃうかもなんて思いながらも、もしものときのために急いでシャワーを浴びたり、念入りに歯磨きしたりしてアヤちゃんが家に来るのを待った。


 部屋に入るなりアヤちゃんは「腹減った。オムライス食べたい」などとのたまった。突然言われたから家にあるものでなんとか作って出してあげた。それがツナのケチャップライスだ。ケチャップは少なめで、醤油を少し垂らして炒めるのがポイントだ。アヤちゃんはチューハイを買ってきていて、一緒に飲んだ。お酒が飲める歳になってから会ったのはこのときが初めてだったと思う。


 アヤちゃんが家にいるという極度の緊張からか、酔いが回ったのだと思う。アヤちゃんが恋人にフラれた話をするから、寂しいなんて言うから、「じゃあわたしたち、付き合っちゃおうよ」と言ってしまったのだ。アヤちゃんは苦笑いしながら「何言ってんの。ブンカ、酒弱すぎ」って言ってわたしからチューハイを取り上げた。ずるずると昔の記憶を辿っていたら、苦い思い出まで引っ張り出してしまって胸がきゅうと苦しくなった。あの日からお酒は飲まないことにしている。


 チャイムが二回鳴らされ、ノックが三回あった。これはアヤちゃんが来るときの合図だ。わたしは鏡の前で前髪を整えてからドアをあけた。


「よう、ブンカ。久しぶり」

「アヤちゃん。どうぞ、入って」

「おじゃましまーす」

「なんか……ちっとも落ち込んでるようには見えないんだけど」


 アヤちゃんはいつもそうだ。慰めてなんて言うわりに、泣くわけでもやさぐれるわけでもない。悲しそうだったのは最初に来た日くらいだ。たいていただ楽しくごはんを食べて、映画見たり、ゲームしたりして、疲れたらそのまま眠る。幸か不幸か一線を越えたことは一度もない。


「そんなことないって。今日は飲む」

「わたしは飲まない」

「わかってるよ。ブンカにはこれ」


 アヤちゃんは左手に持っていた袋から缶を一本取り出した。ノンアルコールのチューハイらしい。アルコールを封印したと言っても、別にお酒を欲することもないから、ノンアルコールで我慢などと思うこともなく、これまで飲んだことはない。アヤちゃんとわたしはそれぞれ一本ずつ選び、残りは冷蔵庫にしまった。


 適当につまみになりそうなものを出した後、オムライスの仕上げに取り掛かる。買ってきたばかりの新鮮な卵をふたつ、ボウルに割り入れ溶きほぐす。混ぜすぎないくらいがちょうどいい。フライパンにはバターを落として熱する。バターが溶けたら卵を投入し、絶えずかき混ぜ、半熟状になってきたところで一度火を止める。温め直したケチャップライスを整えながら卵の上に乗せて、ここからが一番難しい。手前からそっと卵を返してごはんを包む。フライパンを揺すって形を整えながら反対側からもごはんを包む。そして最後はえいやっと皿に裏返すようにして盛り付ける。たまに崩れるけれどご愛嬌だ。


「アヤちゃん、できたよ」

「お、やったー。ブンカ、ケチャップでなにか描いてよ」

「やだよ、わたし絵心ないし」

「そんなこと言うなよー。絶賛傷心中の俺に優しくしてやってよ」


 にこにこしながらそんなこと言われても説得力が皆無だ。けれどじっと見つめられて、負けてしまう。むかつくから割れたハートを描いてやった。アヤちゃんはしばらく眺めた後、絵についてはコメントしないまま「いただきます」と言った。なんなんだよ、と思いながら見ていると、アヤちゃんはハートの割れ目をスプーンで修復している。


「ブンカ、ありがとう」

「別に。いつものことじゃん」

「うん。ブンカが慰めてくれるから俺は心置きなくフラれてくることができる。これからもよろしくな」


 ぐっと胸が詰まって返事ができなかった。これからもわたしたちは友達であって、恋人になることはありえない。改めてそう線を引かれた気がしたのだ。目頭がつんと痛む。アヤちゃんは幸いオムライスに夢中で、わたしが泣きそうなことには気づかない。深呼吸をして涙を引っ込める。


「なんでそんなに長続きしないの」

「なんでだろうな。こんなにいい男なのにおかしいよな」


 またはぐらかされた。いっそ、結婚でもしてくれればいいのに。一生友達でしかいられないのなら、絶対に手の届かないところに行ってしまえば諦めもつくのではないだろうか。


「あー、喉渇いた」


 アヤちゃんが買ってきてくれたノンアルコールチューハイを流し込む。ジュースみたいなものだと思っていたのに、案外お酒のような苦味を感じ、驚いて缶をまじまじと見つめる。ひょっとしたらお酒なのではないかと思ったけれど、ちゃんとノンアルコールだった。黙々とオムライスをつつくアヤちゃんの向かいに座ると、アヤちゃんは手を止めてこちらをじっと見る。


「ブンカ、泣いてた?」


 慌てて目元を隠そうとしたけれど、その手をアヤちゃんに掴まれる。ずるいなあ。どうして気づいちゃうんだろう。


「わたしも失恋したの。だから、アヤちゃん。わたしのこと慰めてよ」


 え、と声を発してアヤちゃんは数秒固まる。なにか言ってくれないと気まずい。


「ブンカ、彼氏いたんだね」

「失礼な。って言いたいところだけどいないよ。好きだった人に恋人がいたことを知っただけ」


 これなら嘘じゃないよね。アヤちゃんがオムライスを食べに来るたび、わたしの心はひっそりと傷つき続けていたんだから。


「そっか。慰めるって、具体的にどうしてほしいの」


 アヤちゃんは眉を八の字にして、あからさまに困惑しているようだ。もっと困らせてみたい。おかしな欲望が湧いてくる。


「抱きしめて、頭撫でて。『文佳、大丈夫だよ』って言って」

「わかった。じゃあこっちおいで」


 両手を広げたアヤちゃんに少しずつ近づく。もうすでに後悔し始めている。心臓が今までにないくらいに暴れていて、抱きしめられたらそれがきっとバレてしまう。


「ほら、文佳」


 存外やさしくて甘い声で名前を呼ばれ、クラクラとしてしまいそうだ。結局向かい合って抱き合うのはわたしには難易度高すぎて無理だった。アヤちゃんの胸に背中を押しつけてもたれかかると、後ろから包むように抱きしめてくれる。こんなに近くで触れ合うのははじめてだ。


「ブンカ、ちっちゃ」

「アヤちゃんがデカいんだよ」


 アヤちゃんの口が耳のすぐ近くにあって、くすぐったくて、身を捩りながら返事をする。いつも通りにできていたか不安になる。


「文佳……」


 はっきりとは聞き取れなかったけれど、思い過ごしかもしれないけれど、かわいいって言われた気がする。それに、これはたぶん気のせいじゃなく頭にキスされた。


「アヤちゃん、酔ってるの?」


 腕の中から抜け出そうとしても、アヤちゃんはなかなか離してくれない。もがいているうちにいつのまにか向き合うように座っていて、すぐ目の前にアヤちゃんの顔がある。


「アヤちゃん」

「違う、綾汰って呼んで」

「……綾汰」


 アヤちゃんはふっと笑って、それからトロンとした目になった。ゆっくりと顔が近づいてきて、これはキスされるんだとなんとなく気づく。


「いやいやいや、待って」


 腕の力が弛んだ隙に抜け出して部屋の隅まで逃げる。バカだな。わたしは。せっかくならキスでもなんでもされておけばよかったのに。でも、それでアヤちゃんとの今の関係が壊れてしまうことのほうが怖くて、この夜が明けたらもう今までみたいにいられないんじゃないかって思ったらダメだった。


 でも、こんなに拒絶してしまったら結局気まずくなってしまうような気もしてきた。もうどうしていいかわからなくて、近くにあったクッションを顔に押し当てた。アヤちゃんがどんな顔をしているのか気になるけれど、怖くて見られなかった。BGM代わりにつけていたテレビから空虚な笑い声だけが部屋に響く。


「ブンカ、ごめん。やりすぎた」

「……そうだよ。アヤちゃん酒癖悪すぎ。だからフラれたんじゃないの」

「……そうかもな」


 ぎこちない空気が部屋中に充満しているようだ。いつも通りにと思うのに、今のはちょっと嫌な言い方だった気がする。アヤちゃん、怒ったかな。もうどうしたらいいかわかんないよ。

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