夏の終わりの食卓

清瀬 六朗

夏の終わりの食卓

 細川ほそかわ洋子ようこは洗面台で二重まぶたのアイシャドウの乗りを何度も確かめた。

 うん。

 これならだいじょうぶだ。

 造りが不器用なこの家は、洗面台のところが暗い。ほんとうなら、二階にまで上がって化粧台で化粧の乗りを確認したほうがいいのだろうけど。

 そこまでやらなくていい。

 少しバックして、台所に入る。

 ついこのあいだまで、吉樹よしきがここのテーブルでご飯を食べていた気がする。

 いま、社会人になって、しわ一つないスーツを着て、水色と青と緑と細い赤のストライプのネクタイを締めている吉樹ではない。

 その吉樹ならばたしかに今朝までここにいたけれど。

 その、いまの吉樹は、文句のつけどころがないくらいものわかりのいい子だ。

 小学生のときの吉樹はそうではなかった。

 いろいろなことに次から次へと文句を言いながら、ここに座ってご飯を食べていた。

 ご飯を食べることに集中しなさい、と言っても、すぐにほかのことを思い出して立ち上がる。

 そのたびに、あとにしなさい、と叱っていた。

 なぜだろう。

 そういう吉樹のほうが、洋子には愛おしい。

 そんな日々は、二度と戻らない。

 あたりまえのことだ。


 玄関や居間のあるほうに戻り、台所に入る。

 洋子は、ガステーブルに置いてあったアルミの片手鍋を開ける。

 いまどきこんなのを使うのか、とママ友の伊治いじ圭子けいこにあきれられた木の落としぶたを取る。

 ふわっ、と湯気が上がる。

 「つん」という香りが弱められたネギの香りが上がって来る。

 よし。

 うまくできた。

 さわらは姿も色もきれいなままけていた。

 三十分ほど前に炊けて、保温にしてあったご飯をよそう。

 自分が小さいころに使っていたプラスチックのお茶碗ちゃわんにしようかと思ったけど、やっぱりそれは子どもっぽすぎる。

 そのかわり、ご飯茶碗ではない、灰色の、深めの小さい鉢によそう。

 小さいころの吉樹が、ごく一時期だけ、この鉢をご飯を食べるのに使っていた。

 わざと冷ましてあったお味噌汁も、ガラスの鍋からうるしりの木のお椀に入れる。

 豆腐と、わかめと、細い白ネギを切って入れたお味噌汁は、小さいお玉三杯で、ちょうどの量だ。

 鰆は、どうしよう。

 せっかく、煮崩れもせず、きれいな色にできたのだ。

 その色がじゃまされないお皿に盛りたい。

 四角のガラスの皿があったのを思い出す。透明だけど、四つの角のうち一つのほうにうっすらと青い色が載っている。

 夏らしくて、いい。

 整った四角ではなく、四枚の四角形をわざと不器用につぎはぎしたような形も気に入っている。

 鰆を載せて、ネギを載せると、ちょっと小さいかな、と思ったけれど、もう載せてしまったし、これよりいい器も思いつかない。

 この三品で、昼ご飯にしよう。


 不器用な造りのこの家は、台所と、ご飯を食べる居間とが離れている。

 海翔かいとがいたころには、わざわざ居間までご飯を運んで食べていた。

 海翔が出て行って、相手が吉樹だけになると、台所にテーブルを買って来て、そこで食べた。

 台所だとテレビが見られないと吉樹が文句を言うので、小さい画面の液晶テレビを買って来て、それを見ていた。

 洋子一人のときには、ずっとラジオをつけて、聴いていた。

 今日は、ラジオもなくていいか。

 窓は、家の裏にあたるところに、すりガラスの窓がある。

 いまの時間は真昼で、この窓は北向きなので、かえってここからは光が入りにくい。

 でも照明はつけなかった。

 座って手を合わせて、「いただきます」をする。

 吉樹がいるときには「じゃ、食べようか」とか言って、食べ始めていた。

 海翔がいるときにはまして「いただきます」の儀式なんかやらなかった。海翔はそういうのが嫌いだったから。

 一人に戻って、子どものときのように「いただきます」から食べ始める。


 ふと、顔を上げると、向かいの戸棚のガラスに、シルエットになって自分の姿が映っているのが見えた。

 細かな模様が入ったガラスで、鮮明には映らないが。

 ああ、と、鰆を口に入れたまま、洋子はふっと息をついた。

 天然パーマで巻き上がり、ボリュームの多い髪の毛。

 タンクトップを着ているので、肩の線がそのままその鈍いガラスに映っている。

 ふだんのように電気をつけていたら、こんなあわいシルエットは見ることはできなかった。

 鮮明に見えないところは、さっき洗面台で見た像で自分の姿を補う。

 人よりも少し茶色がかった肌、二重のぱっちりした目、黒い瞳。

 くっきりした眉と、少し厚い唇。

 今朝まで帰省していた吉樹が帰り、この昼から洋子はまた一人だ。

 うん、とうなずく。

 鰆もネギも良い具合に炊けている。

 二十二のときに吉樹を産み、二十七で海翔と別れた。

 子を産んだのが早かったので、吉樹が社会人になっても、まだ四十六歳。

 細川洋子はまだ四十六歳。

 どうしよう。

 「また、恋でもしてみるかな」

 思いがけず、そんなことばが湧いてきた。

 胸から湧いて、耳と口の奥の空間に、そのことばが響いた、と思った。

 自分のことばではないみたい。

 そこで

「それもいいかもね」

と、今度は自分のことばでそれに返事をして、洋子は自分一人のために作った昼食を食べることに集中することにした。

 「ご飯のときには、ご飯を食べることに集中しなさい」

 自分の過去の声が聞こえたような気がして、洋子は、ふっ、と息をついた。


 (終)

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