スピンオフ 消えた鳳凰と龍の行方

「ツモ。リーチ、ローハンだから…跳満です」



「えー、また鈴木くんかよぉ。強いねぇー」



「たまたまですよ。運が良いんです」



古びた雀荘。タバコの煙が室内に充満し、どこもかしこも煙たく、タバコ臭い。


無表情の青年は奥の雀卓に腰を下ろし、早数時間。負けなしだった。若い、というだけで目立つのに、負けなし、だから余計に目立つ。


その青年の話はすぐに裏方へと伝わり、イカサマだろうとヤクザ共がその雀荘のケツモチをしていた別のヤクザを呼びつけ、呼びつけられたそのヤクザはのそのそと様子を伺いにやって来た。


男は他の連中に頭を下げられながら煙たい室内に入ると、遠くから青年の手元を睨み続けていた。イカサマの証拠を掴もうと、睨み続けて1時間ほど経った頃、あまりにも見破れず、すっかり集中力を欠いていた。


勝ち続けるなんて、真っ当な勝負なはずねぇけどなぁ。

絶対にイカサマしてンだけどなぁ。

そうは思っても証拠がないのでは、話にならない。


男はタバコを取り出し、火をつけてふかした。


じーっと青年の手元を見る。青年は男に気付いている様子はなく、ただ表情無しに牌を切っていた。



「…兄貴、どうスか。イカサマならとっちめなきゃならないスけど」



男の部下がそう小声で言った。



「イカサマの証拠が掴めないからこうして見てンじゃねぇの。兄貴達が連敗なんて、ちょっと普通じゃねぇやな」



「そうスよね。あの青年、一回も負けてないんスよ。小さい上がりの時もありますが、さっきだって跳満でしたし。兄貴達だって別に弱いわけじゃないじゃないスか」



「兄貴達はイカサマしてるから勝ってンだろ?」



「まぁー、そっスけど。でもいつもじゃないスよね?」



「まぁな。ただ、だからこそ、問題なんだよなぁ」



「どういう事っスか」



「いつもイカサマしてるわけじゃないとはいえ、イカサマしてもあのガキに勝てないってわけだろ。それはさすがにクセぇのよ」



「あ、そうスよね。確かに」



「あのガキ、何者だ」



「さぁー? 前からたまーに来てたみたいですけど。ここ1週間はほぼ毎日来てるみたいっス。いつもふらっとやって来て、数時間打ち続けて、ふらーっと帰るみたいです」



「ふーん。偉く肝据わってるみたいだけど、いくつだ」



「わかんないっス。でも、学生っぽいスよね。大学生スかね。オーナーに聞いてきましょうか? たぶん、年確してると思います」



「身分証、コピーしたのあるだろ。それ持って来させろ」



「はい」



しばらくしてその部下は1枚の紙を持って、男の元へ戻って来た。そこには青年が提出した学生証がコピーしてあった。名前は鈴木 龍、金北大学2年、理工学部、と記載があり、年齢はどうやら今年でハタチらしい。


もちろん顔写真は青年のものである。


しかし男はクセェなと、長年の勘のようなものが働いた。この学生証は偽物じゃないのか、と。疑うものの、これもイカサマ同様証拠がない。現物があれば見破れるのだろうが、コピーされ、潰れた画像ではわからなかった。


結局青年は最後まで尻尾を出さず、勝ち越して、表情を一切変えないまま、「ありがとうございました」と礼儀正しく一礼して帰って行く。


男は青年が出て行ったのを見届けた後、その雀卓へ向かった。



「なんだ、あのガキ。絶対イカサマしてンだろうが」



その雀卓には組の人間がふたりいた。面目潰されたヤクザは怖いなと男は思った。ニコニコと大人しく牌を打っていたそのふたりも、青年の姿が消えると悪態をつき、苛立って椅子を蹴飛ばした。そのうちのひとりが青年が勝ち越してる事に引っ掛かり、雀荘のケツモチである男を呼び出したのだった。



「兄さん方、負けてしまいましたね。今のガキ、ですよね?」



ふたり組に呼びつけられた男はそう、ふたりの横に立つと尋ねた。



「おー、義昭! 見てたろ? 見破れたかよ」



「いえ、俺には全く。手の中に牌を隠し持って変えていたのかとも思ったんですが、牌を変えてるようには見えませんでした」



「手先が器用なら出来ない事もねぇだろ。この俺が一勝もできねぇなんておかしい。ありゃ絶対、イカサマだ」



そのヤクザが喚けば喚くほど、青年の噂はあっという間に雀荘内に広まった。


麻雀漫画の主人公のような青年だと、誰もが噂した。


青年は仏頂面だが礼儀正しく、ただ勝負を楽しんでいるように見えたため、青年を悪く言う人間は、面目を潰されたそのヤクザ連中のみで、他の客達からは賞賛されていた。


青年の強さから賭け麻雀をしようと悪い誘いが何度もあったが、青年は丁寧に断り、ただ健全に楽しく勝負をしていたように見えた。


しかしそんな青年が、ある日突然、ぱったりと姿を見せなくなった。



「今日、アレは?」



「いえ、来てないっすね」



その日から負けなしの青年は姿を現さなかった。

そして数ヶ月後、妙な所で、男はその青年を見つけた。


ケツモチしていた派手なクラブ。若いやつらの溜まり場になり、風紀もクソもあったもんじゃない乱痴気騒ぎの愉快なクラブ。


便所は大抵若い奴らが乳くり合い、柱や壁で陰になる見えない場所では誰かが誰かの下着に手を入れており、VIPルームはヤクまみれのキメセク快楽部屋になっていた。


そんなギラギラしたクラブの一角に青年がいた。


雀荘にいた時とは、雰囲気がかなり変わっていたが、その青年だった。派手に着飾り、顔立ちの良さと背の高さから派手なクラブ内でも目立っている。


男はクラブのバーテンに青年の事を聞いた。バーテンはよく知らないと首を傾げ、男は舌打ちをする。


しばらく青年を目で追い、こんなクラブにいる理由を探ろうとした。


そうして青年を目で追い続け、面白い事実が判明した。


青年はVIPにいたある客を見つけると、色目を使い誘い出したのだ。後をつけると便所の個室へと消えて行った。もちろん、ヤる事をヤるために。


男は、ほーう、と面白くなった。


便所の個室は満室で、誰の喘ぎ声かも分からない喘ぎ声が聞こえ、男は呆れて眉間に皺を寄せる。しかし興味が何よりも勝り、青年が入った個室の前にぴたりと足を止めた。


騒がしく響くクラブ音楽。

ズンズンズンと一定のリズムが地鳴りのように響く。

混ざって聞こえる女の喘ぎ声。

乾いた肌の打つかる音。


誰も何も気にしない空間。


だから、秘密の話しもダダ漏れだった。

誰も聞いていないと思っているから、ベラベラと秘密を語るのだろうなと、男は思った。



「…はぁー、快かったよ。君、上手いね。それで、いくら?」



「口だけだから、2万で良いですよ」



「へぇー。じゃぁこっちは?」



「こっちは…うーん。10万」



「えー、高いね。てか、君、いくつ?」



「ハタチです」



「名前は? 番号教えてよ」



「リュウ。番号はすみません、携帯持ってないんです。でも、最近はここにいるから、お誘いある時はここに来てください」



「アハハ、わかったよ。でも君、度胸あるよね、ここでこんな事しちゃうなんて」



「ここ?」



「だってここ、ヤクザがバックついてるだろ? 売春なんてバレたら殺されるんじゃないの?」



「確かに。バレたら殺されるかもしれませんね。あーでも、それならお兄さんもヤバいんじゃない? 俺を買って金を落としてるの、お兄さんだから。それにお兄さん、悪い事、たくさんしてるでしょ?」



男は青年の言葉にますます面白くなったと、にやついた。青年は怖気付かないし、その声は一定で、落ち着いていて、飄々としている。更に、自分を買った男を脅している。


若いのに肝がここまで据わってるなんてなぁ、と男は感心した。しかし脅せばもちろん、問題も起こるだろう。


しばらく静かになった後、ガタンと大きな音がして、「やめろよ!」と青年の声が響いた。


青年を買った哀れな客の逆上か。


男は楽しくなり、口角をあげたまま、その個室のドアを見つめていた。ドン、とまた壁にぶつかったような大きな音が鳴り、「返せ!」と青年の怒鳴り声が響いた後、またガタンと大きな音が鳴る。


殴られ、倒れた音かなと、男はドアの前でじっと考えていた。


そうしてガタガタと忙しなく個室のドアが開き、怒り狂った男の客が財布を片手に慌てて個室から飛び出した。瞬間、この客は青年から財布を奪ったのだと、ピンと来た。どうしようもないほどのクズなんだなぁ、と男は笑った。


その個室から顔を真っ赤にした客と目があった瞬間、男は有無を言わさず、そいつの顔面を殴った。


何度も何度も何度も。

哀れな客は鼻を折り、血を流し、白目を剥く。

それでも尚、殴り続けた。

その光景を、青年はじっと見ていた。


男は青年の視線に気付くと、静かに言った。



「次はお前だ。逃げんなよ」



青年は逃げなかった。

青年はさきまで自分にしゃぶらせ、満足そうに笑っていた客の変わり果てた姿に笑みをこぼした。見るも無惨だと、口角がゆるりと上がっていた。


次は自分が殴られる、その恐怖より、男が客を爽快に殴りつける姿を見ていたいという欲の方が勝り、じっとその場で凝視していたのだった。


目の前の男の殴る姿は圧巻だった。

気持ち良さそうに人を殴るんだなと、青年は思った。


男は散々、殴り散らかした後、殴られ続けた哀れな客が握り締めていた財布を強引に奪う。そうして血のついた拳のまま青年の前に立った。



「ここ、ウチの組のシマだって知ってて稼いでたンだよなぁ?」



「はい」



青年は隠そうともせず素直に頷き、男は血のついた拳をそのまま振り上げ、青年の頬を一発殴った。


青年はそのまま倒れたが、それでも男は数発、その顔を殴り続けた。口の中と、目の下を深く切ったらしい。青年はペッと血を吐き、目の下のパックリと割れた傷からダラダラ流れる血を、手の甲で押さえた。綺麗な顔は血でグダグダと濡れている。


それでも殴り続け、青年が完全に気を失うと、男は青年を担ぎ、その異様な空間を後にした。



「何スか、それ?」



車に青年を運ぶと、男の運転手が首を傾げる。血まみれの青年をトランクへ放り投げ、男は、「良いモン拾ったのよ」そう吐いて上機嫌に車に乗った。


男は血まみれの青年を家に連れて帰った。

青年はそのまま風呂場の浴槽に放り込まれ、男は気を失う青年の横で財布を開いた。それは先、散々殴った男が青年から盗み、逃げようと手に握っていた財布。


中身は万札が12枚、カードは雀荘で見た身分証が1枚。他の身分証もクレジットカードも、何もない。妙だった。そして写真が数枚。どれも隠し撮りされたヤバい写真。そのうちの1枚には、殴り倒した客が映っていた。それは若い女2人にクスリを売っている写真であった。しかも場所は先ほどのクラブ。許可もなくウチでクスリを売るなんてと、怒りを覚えたのも確かだったが、それよりも、そんな写真をこの青年が脅しに使っていた事の方が男にとっては衝撃的だった。


だから、あの時揉めたのかと、男は青年を見下ろした。


それにしてもこのガキ、何者だろうか。


男はシャワーから勢いよく冷水を出すと、青年の頭からそれを浴びせた。髪や顔にこびりついて固まっていた赤い血が、水に流されて排水溝へと消えていく。



「…やめ、やめて下さい」



青年は冷水の冷たさに驚いて跳ね起き、手で水を止めようとあたふたと抵抗する。男は笑いながらシャワーの水を止めると、青年の濡れた前髪を鷲掴み、その顔を覗いた。



「名前は?」



「リュウ…」



「本名を聞いてンだ」



「本名です。鈴木 龍。…財布の中に、大学の身分証があります」



「偽物だろうが。よーく作られてるが、これは偽物。あんま舐めない方が良いンじゃねぇの? 痛い目を見る前に、本名言いな」



青年が持っていた学生証は偽造された物だった。パッと見は誰も気付かないだろう。しかし男はそれを偽物だと見破り、青年に詰め寄る。青年は少し驚いた顔をした後で、落胆したように溜息を吐いた。



「…長谷部 虎太郎、です」



「虎太郎ね。よろしく、コタちゃん」



男はにんまりと笑った。



「お前、雀荘でイカサマやってたろ?」



「証拠、ないですよね」



「ねぇな」



「じゃぁやってません」



「"じゃぁ"、やってません、ね。お前、喧嘩売る相手間違えてねぇか?」



男はつい楽しくなって、ケタケタと笑いながらそう言うと、青年は「別にそういうつもりじゃありません」と表情を一切崩さず吐いた。



「まぁ、いい。んで、今度はウチのクラブで売春。口は2万、ケツは10万、だっけか? ケツはよっぽど自信あるんだな、え?」



青年は目の下の傷に触れると、痛みに顔を顰めながら口を開く。



「下は…使った事ありません。だから10なんて値段で吹っ掛けてるンです。いざ金出してヤろうとする人が出て来たら逃げますよ。何度かありましたけど」



ほーう、と男は青年の前髪から手を離す。青年は男を見上げると、「もう帰してくれませんか」と淡々と尋ねた。 



「お前、自分の状況、よくわかってないンじゃねぇの? ヤクザの雀荘でイカサマして、クラブで売春と客を脅迫、コレ、ヤクザにバレたら命取られるレベルの事よ? んで、今お前はそのヤクザの家の風呂場に転がされてンじゃねぇの」



「なら、カタギの俺を殺しますか?」



「カタギねぇ。若いのによくそんな言葉知ってンな」



「ヤクザ映画好きだから」



「ふーん。そうかい」



男はそう言うと、敢えて沈黙を作った。青年の頭の先から爪先を、品定めするかのように見た。そうして青年の唇を親指でなぞる。



「お前は使えそうだから生かしておこうか。金を儲けるための商品になってもらうかなァ? 慣れたモンだろうよ。あ、でも、ケツは初めてか? ふふふ、きったねぇオヤジにぶち込まれて、ウチの組に喧嘩売ったこと、死ぬほど後悔すんだな」



脅しをかけたのに、青年の表情は一才変わらなかった。むしろ、落ち着きを取り戻していて、それが妙に男の居心地を悪くする。変なガキだと、男は青年を見下ろした。



「殺さないんですね」



青年は念を押すように、そう言った。



「あ?」



「あなたみたいなタイプのヤクザなら、今すぐここで、殺すのかと思いました。お兄さん、見るからに怖いから。ヤクザはみんな、怖いですけど」



怖い、と言いながら怖がる様子はない。

そもそも怖い、と思うなら、ヤクザ相手に喧嘩を売るような事しないだろう。


男は青年が少しだけ口角を上げたのを見た。



「お兄さん、見た目とは裏腹、優しいですよね」



自分を散々殴った相手を優しいと言う。どういう神経してるのかと、男は思った。



「今ここでバラして金にするか、体を売らせて永遠に金を稼がせるか。どっちが得か。俺ァ後者だと踏んだまでよ。売れなくなったらバラせば良い、だろ? 俺ァ損得でしか動かねぇのよ。優しいヤクザなんでね」



そう言うと、青年はふふっと笑った。



「カタギを殺したら後には引けなくなりますもんね。殺しは面倒ですよね。だから始末は後回し、そういう事ですよね? でも、俺、体を売っても良い金にはならないと思いますよ」



「今更何を言ってンだよ。逃げようったて、無理な事だぜ」



「逃げるつもりはありません。ただ、体を売った、って少し語弊があるかなと。俺、口でしかしてませんよ。セックスはしてません。俺、勃たないンです。それにね、もし後ろからヤる事になったら、背中見せるでしょう。大抵の人は、見たら萎えるような背中です。だから俺は誰ともヤりません」



男は眉間に皺を寄せた。若くて面の良い男が勃たない、それに背中に何かがある。


まさか同業者?

この面で背中一面にびっしりとド派手な紋々が入ってる、なんてオチか?


いやぁ、まさかな。


このガキは相当なワケありなんじゃないかと、頭を掻いた。ヤクザ相手に怖気付かない時点で普通のガキとは違うが、こいつは訳ありな上に頭のネジが何本も飛んでるらしいから、厄介かもなと男は思った。



「お前が勃たなくても問題はねぇだろうが。所詮、お前は便所よ。んで、背中が萎えるってのは?」



「アハハ、そっか。便所かぁ。下品ですね。背中は…」



青年はそう言うと着ていたシャツのボタンをひとつひとつ丁寧に外し、するりと何の抵抗もなくシャツを脱いだ。シャツの上からある程度分かってはいたが、ガタイは良い。腹なんか見事に割れていた。肌も綺麗で、高く売れそうだった。


良い体に、良い面。これで背中が萎えるとは、どういう事かと男は片眉をあげて青年の体を見下ろした。


青年はゆっくりと、男に背中を見せた。



「萎えませんか」



青年は背中を見せながら男の顔を見上げる。



「それともこういうのが好きな変態、いますかね」



青年はふっと笑うと、揶揄うように男を流し目で見ていた。青年の背中は一面が切り傷とタバコを押し付けた跡がケロイドのようになり、正面から見た体からは想像も出来なかった。



「見事だなァ」



「ケロイドになってますよね。大抵の人は萎えますよ」



「誰がやったよ」



「父です。ロクでもなかったんです」



青年は濡れたシャツを着直さず手に持ったまま、飄々と語った。



「小さい頃から繰り返し繰り返し。泣こうが喚こうが、関係ありません。地位も名誉も金もあるけど、愛がない。俺はあの人の怒りを鎮めるためだけの道具でしかありませんでした。無理矢理に突っ込まれ、抵抗する事もいつしかやめました。でも、押し付けられるタバコの熱さは何度体験しても慣れないものですよね。経験、あります? 根性焼き」



青年はまるで他人の話をするみたいだった。男は「ねぇな」と答えると、「そうですか」と青年は無表情に答える。



「アレ、何度経験しても痛いんですよね。皮膚が焼かれて、次の日も、その次の日も、ずーっと痛い。まぁ、そんな事を繰り返すうちに、勃たなくなってました」



えげつない話をするんだなと、男はつい、眉間に皺を寄せた。



「でも俺の体つきがどんどん大人になると、あの人は俺に興味を無くしました。俺にとっては嬉しくて仕方ない事ですけど、あの人の怒りの捌け口は誰になったんだろう、と考えざるを得ないですよね。どこぞのガキに手を出してるかと思うとゾっとします。食われた子供が可哀想だなって。きっと、一生、トラウマになるんだろうな、って。だから思ったんです。あんな人間、生きてたって仕方ないな、って。……そう、思いません?」



青年の冷たい瞳に、男はゾクッとした。

このガキ、普通じゃないな、と。


……良いな、と。


欲しいな、と男は思った。


男は青年の真っ黒な髪に触れると、首を傾けた。



「賢いねぇ。お涙頂戴話して、同情を買う、良い考えだと思うよ。俺はね」



「できれば体、売りたくないですから。同情してもらえれば、最高ですもんね。でも、お兄さんが言うようなお涙頂戴話も、俺にとってはハッピーエンドですから。涙を誘うようなものではないかもしれませんね」



「ふーん。そうかい。それが、ハッピーエンド、ね」



「はい。ハッピーエンド」



「お前、住む場所は?」



「ない、って言ったら、俺を置いてくれるんですか」



「さぁね。どうしようか」



「父方の祖父はいますが遠方にいます。だから実質、俺は父のいない父の家でひとりで暮らしてます。帰る場所はありますが、温もりはありません。哀れで、可哀想でしょう。あなたがその帰る場所になってくれるなら、それなりの恩は返しますよ」



男は浴槽の縁に腰を掛けた。青年は男を見上げて微笑んだ。男は青年の顔を見ながら微笑み返す。



「良いねぇ。そうやって自分を守ってきたのか。俺ァ好きだね。気に入ったよ。でもなぁ、虎太郎、俺の懐に入って尻尾を振るのは簡単な事じゃないのよ。お前が一生、俺の為に稼いで、俺の為の駒になって、俺の為になーんもかーんも捨てるなら、お前の居場所ってのを作ってやってもいい。でもそれが出来ないなら、居場所とやらは他を当たるんだな」



青年は男の顔を見上げたまま、ふっと笑う。



「居場所、作ってくれるんですね。良いですよ。約束。あなたの為に、俺は何もかも捨てます。…とは言っても、捨てるほどの物は、持ってませんけど」



青年に迷いが全くなかった。

不気味ではあった。信用していいものか、まだ、わからない。ただ、男は、その青年をどうしようもなく手元に置きたかった。



「そうかい」



「ねぇ、名前。教えてくれませんか。何て呼べば良いですか?」



「義昭。羽石 義昭」



「義昭さん。よろしくお願いします」



「……おう」



綺麗な面して、居場所もなく、ヤクザ相手に飄々とイカサマをやってのけ、売春しては金持ちの客を脅す。歪んだ過去を引き摺るでもなく、こうして怖気付く事もなく、ヤクザの懐に入ろうとする。恐ろしいな、と男はつい笑ってしまった。



「義昭さん、俺、お腹空きました」



「俺も腹ァ減ったな」



「あ、じゃぁ俺作ります! 義昭さんは座ってて! 冷蔵庫、借りますね! あ、その前に何か服、貸して下さい」



青年の顔は男に殴られたせいで腫れていた。その腫れた顔で笑い、犬のように尻尾を振る。青年は楽しくて仕方なかった。自分を散々殴った男を丸め込み、自分の住処にした事を。男が人を殴る姿は爽快で仕方なかった。この人の側はきっと刺激的だろうと、青年は思った。


男の側はきっととてつもなく過激で、甘美で、自分はこの人の側が居心地良くなってしまう、そう青年は確信していた。


ふたりで飯を食い、酒を飲む。

飯を食い終わると、少し酔いが回る。


男は青年の髪を鷲掴むと、青年を見下ろした。



「やるこたァ分かってるよな?」



「はい」



カチャカチャと青年は男のベルトのバックルを両手で外すと、すでに半勃ちしていたそれを両手で包んだ。



「ふふ、義昭さんって、相当なドSでしょう」



「マゾっ気がないのは確かだな」



「殴られて血ィ流した男見て勃たせてますもんね」



「ボロ雑巾みたいなお前見てたら、イキそうになったね。ついでにその背中も」



「性癖歪んでますね」



「そうなぁ」



男は青年に咥えさせると喉の奥に突っ込み、青年が涙目になるのを見下ろした。苦しそうな顔、でも気持ち良さそうな顔してンな。そう思うと、自分の理性というのは効かないものだった。


青年をベッドに放り投げると、硬くなったそれを握る。

青年はベルトを外し、下を脱ぎ捨てると、男の顔を見上げた。



「義昭さん、俺、本当にこっち使ってませんよ。慣らさないと、入らない」



「お前、いつ父親殺した」



「2年前。だから、最後に使ったのも2年前です。いきなりそれ、突っ込まないで下さいよ」



「お前、俺に指図できる立場か、え?」



「そういうわけじゃないです、けど…ただ、慣らさないと、義昭さんも気持ち良くないンじゃないかな、って、だから、」



「うるせぇな」



男は乱暴に青年の口に指を突っ込むと、青年はそれを苦しいながらも丁寧にしゃぶった。口から抜かれた濡れた指は肉を押し、ぐねぐねと中を弄る。青年は妙な感覚に、熱い息を吐いた。



「ん………」



青年の心臓は忙しなく身体中に血液を送っていた。息遣いが荒くなり、頬が熱くなる。頭がぼうっとし、唾液が溢れては、それを飲み込んだ。



「お前、インポじゃなかったのか? それとも俺を同情させるための嘘だったか、あ?」



青年は自分の体の素直さについ、笑ってしまった。



「嘘はついて、ませんよ……。……どこかのAVみたいですね。…勃たなかったのに、あなたが触ると、…嘘みたいに体が反応するなんて。…あなたは俺の、運命の相手なのかな」



「アハハハ、気持ち悪い事ぬかしてンじゃねぇぞ」



男は馬鹿にするように大笑いすると、まだほぐれていないそこに押し付け、勢いよく突っ込んだ。青年は短い悲鳴をあげると、声を我慢しようと手の甲に噛みついた。


けれどその快楽は異常だった。


なぜ、こうも気持ちが良いものか、全く分からなかった。 


誰かとまぐわうなんて嫌悪しかなかったのにな、そうシーツを握りしめながら喘ぎ、噛み付いた手の甲に歯形を残し血を滲ませる。



「オラ、イケ」



びくん、と体がのけ反り、体中に力が入ってしまう。頭は真っ白になり、目の前が霞んだ。


この過激な人の側はやっぱり良い。

青年は男の熱っぽい眼差しを見ながら思った。


翌日、青年は荷物と共に男の家へ越して来た。


男は青年の荷物の中のひとつを見て、ぎょっとした。



「お前……」



青年が手にしていたのは学生服だった。隣町にある有名な進学校の制服であった。



「本当にハタチだと思ってました? 身分証が偽物だって見破ったのに、歳は信じてくれてたんですか? ふふ。ごめんなさい。俺、高二。17です」



男は目を見開き、火のついたタバコを指に挟んだまま、何も言えずに度肝を抜かれた。その姿が青年にとってはとても可笑しく、青年は声を出して笑ってしまうほどだった。



「ふふふ、…灰、落ちそうですよ」



青年はそう言うと灰皿を差し出して、男に微笑んだ。



「そんなに驚くんですね。ねぇ、義昭さん、今まで、経験ありました? ガキとセックス」



「………ねぇよ」



「未成年との性行為って、犯罪ですよ」



「ヤクザに犯罪行為云々なんて今更な気もするがな。…ガキとセックスね。犯罪の色が違うわな」



「ふふ。義昭さんには責任取ってもらわなきゃ。だって俺が騒ぎ立てれば、義昭さん、捕まっちゃうもんね。17のガキを強姦したなんて、騒がれたら嫌でしょう?」



「…お前、恐ろしいな」



男は灰をポンと灰皿に落とすと、溜め息をひとつつく。さすがの男も、この青年の正体は予想外であった。そして青年が本気か冗談か分からない脅しをかけてくるのも。



「そういう事なので、平日は学校行きます。朝は早いですから、俺が義昭さんの朝飯作っておきますね。リクエスト、あったら言って下さいね。俺、義昭さんのために頑張ります」



若干17のガキ。

正体は不明。

訳ありで、父親を殺しているらしいガキ。


男が青年の事を調べたのはその日の事だった。


青年の父親は驚いた事に代議士だった。

母親は青年が10の時に離婚していた。

他の男と一緒になった母親は今ではヤク中で、借金もしていた。

どうやら男のいる組のフロントの金貸しから、多額の借金があるようだった。


男は嫌なところに繋がりがあるものだなと思った。


青年は少しではあるが、借金返済のため、稼いだ金を母親に渡しているようだった。


父親はというと母親と離婚後、酒に溺れるようになった。しかし外面は良く、代議士としての仕事でも成果をだし、世間体はかなり良かった。酒浸りなイメージはなかったようで、父親が本性を表すのは青年の前だけだった、ということらしい。


そしてそんな父親が、2年前、睡眠薬と酒を飲み、ふらふらの状態で自宅の階段から落ちて死亡する。

事故死と結論付けられていた。


しかし、これを当時15の青年が計画してやった事だとするなら。


男は青年に対して強い感情を抱いた。


こんな面白い人間、一生離せねぇな、と。

俺だけのモンにしてぇやな、と。


……………

………


早朝のニューヨーク。朝日が眩しく、日差しが気持ち良い。


冬が終わった春の陽気は日差しが強く、春とは思えないほど暑かった。夏はかなり暑くなる、と近くの肉屋の主人が言っていた。こっちの夏は日本と違って蒸し暑くなくて好きだ。とはいえ、古いアパートにはエアコンなんて素晴らしい物はないのだが。春とはいえ、今日は初夏に近い気温で、部屋は窓を開けていても少し暑く、早朝から目を覚ましてしまった。二度寝する事ができず、家の鍵とタバコだけを握り、近くの川沿いまで歩いた。


川沿いにはベンチが連なり、川と対岸との眺めが良いからか、昼間は観光客がちらほらといる。しかし今は朝の6時。観光客はもちろんおらず、朝からストレッチをしながらジョギングしている若い男女が数名いるだけだった。


しばらく川沿いを歩いた。対岸へ架かる大橋の下、いつもの定位置に着くと、タバコに火を点けた。


大きな川の向こう側には、今はもう使われていない廃墟となった何かの工場がある。大きな煙突がシンボルになっているようだった。看板も建物も煙突も、全てが錆びているが、アメリカの退廃したSF映画の世界観があって好きだった。その工場の前は広い遊歩道になっており、数人がジョギングしているのが見えた。


こっちの人間は、こうも朝からアクティブなのかと、俺は対岸をぼうっと見ながら考えていた。


早朝なら人がいないかと思ったが案外いるもので、俺は柵に腕を掛け、タバコをふかしている。


一本を吸い終わる頃、その大橋の中を電車が通った。カタンタタンと心地の良い音を立てている。この音が好きで、いつも川沿いの同じ場所で黄昏れる。時差ボケがまだ少し残る今日この頃、その黄昏れが日課のようになっていた。


こっちへ来て、まだ3週間近く。

組はどうなったろうか。

残った組員は無事にあの街から逃げる事が出来たろうか。


俺はきちんと死んだ事になっているだろうか。


……あいつは、大丈夫だろうか。


日本を捨ててこっちへ来たとは言え、何も気にしていないわけではない。


気になる事は山ほどある。

しかしそれらは今の俺にとって、知る事が難しい事であった。


ふぅ、と煙を吐く。 

煙はふわふわと儚く消え、俺はぼうっとそんな事を考えながら、水面を眺めていた。


決して綺麗とは言えない濁った川の水。

川の底は何も見えない。



「きったねぇ水だよなァ」



そう声がした方を見ると、相変わらず厳つい顔をした男が灰色のフーディーに、どこで手に入れたのか分からないビーチサンダルを履いていた。日本にいた時には見た事がなかったラフな格好で、俺の目の前に現れる。



「そう、ですね。これでも綺麗になったらしいですけど」



「へぇー」



男は俺の隣に来ると、柵を背中に寄り掛かった。川を見ている俺の顔をちらりと覗く。



「眠れねぇのか」



「まだ時差ボケが治らないみたいで…。これでもマシになった方ですけど、それでも早朝には目が覚めてしまいます」



「大変だな」



「義昭さんは? まだ、寝てて良いのに。時差ボケ、ないでしょう」



「まぁ、俺は最初っからあんま無かったわな」



「なら、…俺、起こしてしまいましたか?」



「いんや。便所に起きたらお前がいなかったんでね。ここじゃねぇかと。天気も良いし、外出ようかと思ってサ」



「そう、でしたか…」



義昭さんはふっと笑うと何も言わず、ただ俺の隣にいた。  


しばらくの沈黙の後、俺は吸いかけのタバコを携帯用灰皿に押し付けて仕舞っていると、義昭さんは呟くように言った。



「急にいなくなンなよ」



どきりとした。

時間が一瞬、止まったようだった。



「……心配、させましたか」



「しないと思うのか」



「すみません…」



義昭さんの鋭い瞳が俺を捉える。

この人とはもう長い付き合いで、本当に色々あった。今まで、この人の側にいて“良い”事の方が少なくて、“悪い”事の方がうんと多かった。


この人の指示で散々悪事を働き、失敗しては殴られ蹴られる。バレないだろうとその悪事を義昭さんに働くと、笑ってしまうほど過激なケジメを取らされた事もあった。とにかく痛め付ける事に手加減ってのが無い人で、死ぬ一歩手前まで追い詰められる。


はたから見れば、俺はこの人と一緒にいて不幸だと思われていたかもしれない。


何度も殴られ、至る所にアザを作り、何度か骨折までしているのだから。


それでもこの人の側にいるのは、結局は、俺の居場所はこの人の側だと頭でも体でも分かりきっているから。


こうして少し心配されたただけでも、俺は嬉しくなってしまい、この歳ですら、少し胸がトキメクのだから仕方がない。


何が起きてもこの人の側が良いと思ってしまうのは、昔からの癖のようであった。もう刺激ばかりを求める歳でもないのに、俺は刺激的なこの人の側にいる事に強く固執している。


それは今も、昔も。


義昭さんは欠伸をひとつすると、頭を掻き、また俺の方を見た。



「まだ、3週間しか経ってねぇんだよな…。いや、3週間も、かな」



義昭さんはぼうっと、そう言葉を吐いた。



「そう、ですね…。心配、ですか?」



「心配ねぇ。残して来た数少ない組員は田舎に帰らせたし、壊滅したあの組に名残はねぇけどよ。お前がまた死にに行こうとすンじゃねぇかと、心配にはなるよな」



「俺はどこにも行きません。安心、して下さい」



「そうなぁ。さすがに日本から遠い異国の地だからなぁ。…けど、ふと過るのよなぁ。お前がいない世界ってのをさ。だってお前、俺の為に命投げ出そうとしちゃうから。俺も歳だよなぁ、そんな風に感傷的になるなんてよ」



そりゃぁ、投げ出すだろうと、俺は思った。

だってそういう約束だったじゃないか。


なんてこの人は、そんな昔の口約束なんて覚えてないのかな。ただ、あの時は俺を側に置きたかっただけ、だったような気もする。



「義昭さんの為に、なーんもかーんも捨てる覚悟ですよ。今も昔も。俺に居場所作ってくれたあの日から。命も、あなたのもの、ですから」



「……ふふ。そうかい。なら、長生きしてくれねぇとな? 通訳いねぇと生きていける自信ねぇからよ」



「うん。大丈夫です。死にませんよ」



粗暴の悪い男、暴力的だがカリスマ性のある典型的な悪の親玉みたいな義昭さんだけど、俺がこの人のために命を捨てようとした事を、この人は未だに怖がっている。


本来であれば怖がる必要のない事、なのに。

怖がってもらえるなんて、俺は幸せ者なんだろうな。



「帰りますか」



「おう」



「朝飯、作りますね」



「食ったら寝ようや」



「良いですね」



義昭さんと肩を並べてゆっくりと来た道を戻る。


こうして一緒に歩いてる事自体が感慨深く、俺は義昭さんの横で少し、口角が緩んでいた。


だってそうだろ。こんなに穏やかな日を、この人とふたりで過ごせるなんて、夢にも思わなかったのだから。


若頭と補佐の関係。

穏やかさとは掛け離れた生活を送っていたあの頃、情夫、なんて影で呼ばれていたけど、俺はもちろんそうは思っていなかった。出会いが出会いだったから、若い頃は一緒に住んでて、発情期の動物みたいに毎日ヤりまくってた時期があったのは確か。けれど歳を重ねて、この人が若頭になってからは違った。いや、俺が変わったのだろうな、きっと。幹部連中の目を気にし、住む場所を別々にし、義昭さんから離れようとした。


でも結局は、何もかも、うまくいかなったのだけど。


それでも当時の俺は真剣にこの人の将来を考えていた。この人は頂点に立つべき人間で、そのためなら俺は何だってしたかった。


そう願ってはいたが、現実、俺の存在は邪魔だったろう。足枷になっていたろう。俺を捨ててしまえば、と何度も強く思っていた。


この人は昇進して、組を持ち、もっと上を目指せる器量のある人間だった。


なのにこの人は、最終的には全てを捨ててまで、俺を選んでしまった。


本当は俺が全てを捨てて、この人を守るべきだったのに。それは文字通り、全て。命も、何もかも。そのために俺は生かされていたようなもの。だからこの人はあの日、俺に居場所をくれた。そう思ってたのに。


なのに、義昭さんは、俺がこの人のために命を捨てる事を、良しとしなかった。


全てを捨ててまで俺を選んだ男に、俺は、何をどう返すことができるのだろう。


いや、……何を返したところで足りるはずがない、のかな。



「義昭さん、ジャムはイチゴとブルーベリーどっちが良いですか」



「どっちでも良いよ」



どっちも一緒だろ、そう顔に書いてある。部屋に着くと俺は手を洗ってすぐに朝食を作った。和食好きな義昭さんにとって、この地は苦労の連続で、大好きな銘柄の米も手に入らず、味噌汁の味噌も訳のわからないブランドの味噌になり、焼き魚には全く期待ができず、納豆も驚くほど高いし冷凍されている。結局、洋風な朝食メインになり、不満な顔をして義昭さんは食っている。


今日もパンとジャムとサラダとソーセージ。

熱いコーヒーに義昭さんはミルクと少しの砂糖を足す。


ふたりして飯を食い、食い終わると義昭さんは食器を片した。



「洗い物しますよ。義昭さんは好きな事、してて下さい」



この人に洗い物をさせるなんて、と止めに入るが、義昭さんは「しつけぇぞ」と一言吐いて、不器用に洗い物を済ませた。


こっちに来てから義昭さんは家事をするようになったが、若頭と補佐の立場が抜けない俺はそれを何度も止めようとしては怒られる。



「全部俺、やるのに…」



「飯作ったのお前だろうが」



男の仕事、女の仕事、亭主関白が云々此云、この人は家の事なんて全くしないのかと思っていたのだが。少し、違ったらしい。



「昔っから俺がやってたじゃないですか。高校生のガキに家事やらせて、飲み歩いてたあの頃の義昭さんはどこですか」



「アハハハハ、あったなぁ、そんな事」



「それに、毎度毎度、女物の香水の匂いさせて帰ってくるんですもん。………変わりましたね、義昭さん」



義昭さんの横で俺はそう呟くように言った。義昭さんは手を拭くと、ふっと表情を緩めて俺を真っ直ぐ見た。



「女物の香水ね。あん時にはそんな事、全く言ってなかったじゃねぇの。なに、嫉妬してた?」



「どうですかね。今、思い出して嫉妬しそうです」



「互いに嫉妬する歳でもねぇだろ」



「はいはい。昔の事ですし、今更過去の事に関して嫉妬はしませんよ。俺もあなたから離れてた時期、ありますし」



「そうな。そっちのが酷い話じゃねぇの。散々離れておいて、俺に結婚しろって迫った時期な? 人の気も知らねぇでよ」



「あなたもヤる事、ヤってたでしょうよ。女呼んではヤりまくってるって、聞いてましたよ」



「ま、お互い様だな」



「えぇ……そう、ですね」



「ふふ。…でもなぁ、虎太郎。俺ァ、今も昔も、お前の恋人だと思ってンだけどな」



あまりにもストレートな言葉だった。

俺の感情はきっと素直に顔に出ていたに違いない。



「いつからかは分からねぇが、俺はお前の恋人のつもりだったぜ。ちゃんと告白した事ァ、ねぇけどよ」



心臓がどきりと、脈を打って痛い。

この人の口からそんな甘い言葉を聞けるなんて。


あぁ、これが俗に言うアメリカンナイズド、というものかもしれない。


俺は驚いて一瞬言葉を失くしたが、冷静になろうと一呼吸を置く。


俺はまだまだこの人の事を、知らないんだな。



「……いつから、でしょうかね。互いに互いを想っていたのは。俺は最初から、あなたがイカれてて、爽快に暴力を振るう人で、側にいたいと強く思ってましたが、いつからその感情が色恋に変わったんでしょう。…気付けばそうなってて、蓋を閉じるしかなくなっていたように思います」



「色恋なんてロマンチックなもんとはかけ離れた世界にいりゃぁな。気付いても、見て見ぬフリすんのが得策か。…でも、今は違ぇだろ?」



「はい…」



「俺ァさ、お手伝いがほしくてお前とここにいるワケじゃねぇのよ。恋人としてここにいるつもりだからよ」



「恋人、…やっぱりなんか照れますね」



「お前が17のガキん頃は、イカれた発情期の犬みたいな存在でよ、ヤる事ヤるだけヤって、恋人らしいことはしてなかったしな」



「失礼ですね。まぁ、間違ってませんけど」



「でもあの頃もあの頃で楽しかった。戻りたいとは思わねぇけどさ。けど、若頭になった後なんて、お前は早々、家を離れたし、若頭と補佐なんて肩書きがありゃぁ、どう足掻いたって平等にはならねぇもんで、お前はずーっと変に壁を作りやがってよ。これからはそういう壁、無くしてほしいもんだよな? 恋人ってのは、平等であるべきだろ? 今は昔とは違う。今の俺達には恋人らしい事が出来る環境にあンだからよ。皿洗いくらい、させろ。今更だがよ」



「義昭さんが、そんな風に物事を考えるタイプの人間だって知らなかった。ロマンチックなんですね、意外と」



「意外かぇ? 俺は昔っからロマンチストよ」



「ふふ。そうでしたかね」



この人の側が居心地良いと、離れられなくなると、出会った時から感じてた。その理由がまさにこの人の根っこにある。この人が素直に言葉を並べると、俺はどうしようもなくなった。



「争いもねぇ、組員の顔色も伺う必要もねぇ、結婚もしねぇ。俺ァ、自由に生きてぇのよ。だからお前にも自由に生きてほしいンだがな」



「自由、ですか。俺はあなたといて、不自由だと思った事は一度もありませんよ」



「ふーん。俺はあるぞ。お前が結婚を押し付けて来た時なんて、まさに、な?」



義昭さんは揶揄うように笑う。俺が困った顔をしていると、義昭さんはケタケタと声を出して笑い出し、「色々あったな」と呟いて、ソファへ座った。


少しの沈黙。義昭さんはテーブルの上に出しっぱなしになっていたバーボンを少量、グラスに注いだ。俺もその横に腰を掛ける。



「朝から飲むんですか」



「悪いか」



「いえ…」



「休日の朝からゆっくり飲んでみたかったンだよ。くだらない番組流し見て、お前を横に置いてさ。昼にはもうデキあがってて、夕方には美味いワイン飲んで、夜はぐーっすり寝るンだ。けど、組にいた頃はさすがに朝からは飲めないだろ? だから、念願の、ってことよ」



「でもまだ朝の7時過ぎですよ」



「日本だと夜じゃねぇか」



「でもここは朝です」



「時差ボケしてンだろ? じゃぁお前の体は夜だって言ってるようなもんじゃねぇのか。ついでに俺もまだ時差ボケ中ってことでよ」



「……飲みすぎないで下さいよ」



「ハハハ。よく出来た妻みてぇだな。ほらよ、少量じゃねぇか。お前も飲めよ」



「はい。頂きます」



朝からグラスに注がれた少量のバーボンをふたりで飲む。この人はとても楽しそうだった。


この人はそんな事がしたかったのかと、俺は嬉しかった。


ふたりでバーボンを朝から飲み、ダラダラとニュース番組を流し見る。「何言ってンのかわかんねぇな」と義昭さんはつまらなそうに酒を飲んでいた。しばらくすると俺は少し眠くなり、うとうと船を漕いでしまう。変な時間に眠くなるなと思いながら欠伸をすると、義昭さんは「寝るぞ」と言ってテレビを消した。


ふたりで寝室に入り、広いベッドに転がった。


今はこうして平和すぎるほどの時間がただ、ゆっくりと流れていく。


仲間を捨て、組を捨て、国を捨てた。


言葉の通じない国へ来て、住む場所はうんと狭くなった。


ある程度の金と、少しのコネでどうにかこうにか生き抜くしかない。


苦労は強いられるが苦ではないだろうと、俺は思った。


だって義昭さんが側にいるのだから。


何があっても俺はこの人の側に居続けたい。


あの日交わした約束をひたと守り続けるために。


けれどその約束は時が経ち、少し変わる。

この人より先に死なない、そう約束が少し変わる。


これから先、この新しい地で、この人とふたりで、生きていく。


この人の異常で過激な愛情を独り占めして、共に歳を取るのだろうと思った。


義昭さんの言う、恋人らしいこと、ってのは今からでも遅くはないかな。若い頃にはできなかったあれこれを、たくさん。


居場所をくれたこの人に、俺は、どれだけ多くの事をしてあげられるだろう。


そう取り留めのない事を、横で眠そうに欠伸をする男の横顔を見ながら考えていた。俺の視線に気付くと、義昭さんは「寝るんじゃなかったのか」と呟くように言った。



「不思議と、ベッドに入って、あなたを見ていたら眠気がどこかへ飛びました」



「なんだそれ」



「眠いはずなんですけどね。義昭さん、恋人らしく、俺を寝かしつけてくれませんか。何か眠くなるような話、して下さい」



「そりゃぁ、お前、親と子じゃねぇのか?」



「ふふ。そうかも」



義昭さんはごろんと俺の方へ体を向けると、そっと俺の伸びた前髪へ触れ、横へ流した。



「お前、もっとタメ口使えよ。昔はもっと、舐めた口、利いてたろ」



「舐めた口利いた記憶はありません、けど、タメ口、ですか」



「俺が若頭になってから、お前、すげぇ堅っ苦しくなっちまってよ。それこそ、コイビトなんだ、昔みたいになんでもかんでも言っちまえよ」



「なんでもかんでも言って、痛い目にも遭いましたけどね。でも、…うん、わかったよ。敬語で話すの、やめてみる、かな」



「おう」



「昔はよく、こうやって眠る時に話したよね。覚えてる?」



「そうだなぁ。懐かしいやな。散々ヤりまくって、眠い俺に、お前がずーっと話かけんだよな」



「ふふ。なんだかんだで、子供でしたから。愛情ってのが欲しかった、のかな」



「基本、お前は全くもって子供らしくはなかったが、そういうとこは子供だったのかもなぁ」



「義昭さん、俺が17だって知った時、どう思った?」



「どうもこうも、後悔しかねぇよ。ガキの趣味はなかったしよ。若くて肝の据わった兄ちゃんだな、とは思ってたが、高校生だとは思わなかったよ」



「あの時のあなたの顔。いつ思い出しても、笑いそうになる」



「そりゃぁ、驚くだろうが」



「……でも、そんなガキを側に置いてくれて、感謝しかないよ。結局、俺は体売ってないわけだし。同情だろうが何だろうが、何でも良い。あなたは俺を守ってくれたんだから」



「……そんな大層な事じゃねぇよ」



義昭さんは少し照れたように呟いた。

なんだかその顔に、俺はつられて照れ臭くなり、隠すように欠伸をしたフリをして顔を手で覆った。



「さすがに、眠くなってきた」



「寝ろ寝ろ」



「うん。……おやすみなさい、義昭さん」



俺がそう言うと、義昭さんは長い腕を俺の方に伸ばし、俺の体を包むように腕を掛ける。


「おやすみ」そう義昭さんは口角を少しだけ上げるから、俺はもう一度、「おやすみ」と義昭さんに言って目を閉じた。


目が覚めたら義昭さんと何をしようかな。

近くの公園にでも行ってみようかな。

そんで2人でホットドッグを食べようかな。


それって、きっとデートだよな。

恋人らしいことをこれからたくさん、この人と経験できるんだろうな。


そう他愛もない事を考えながら。



義昭と虎太郎

END

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