最終話. 鳳凰と辰
純粋、無駄に正義感が強い、バカがつくほど情に脆く流されやすい。
辰也は犬のように素直だが、僕に嘘をつく。
上手くない嘘を、つき続けている。
連絡も寄越さず、ただ忙しくなるという置手紙だけを残して、辰也は行方をくらませた事があった。
僕は、彼のことが死ぬほど心配で眠れない日々を送っていたのに、約1ヶ月が経った頃、「おう、久しぶり」と何事もなかったかのように突然、辰也は家を訪ねてきた。
なぜ会ってくれなかったのかと問い詰めても、僕にはただ、仕事が忙しかったと言うだけで、本当のことをひた隠していた。
仕事が忙しい、そんな理由じゃない事くらい分かってる。
わかりきった嘘をつかれるというのは、何とも苦しいもの。
だって彼の裸を見たとき、彼の体には治りかけの切り傷が無数にあって、その傷はどう見ても、喧嘩の類いでついたような傷じゃなかったのだから。傷痕はかなり薄くなっていたが、内腿や背中、脇腹、胸に無数にあって、その場所がどうやって付けられた傷なのかを語るようだった。
想像したくないけれど、想像してしまう。
辰也は組み敷かれ、一方的に暴力を受け、抵抗もできず、その暴力を受け入れた事を。
相手は誰?
辰也にそんな事をしたのは、誰。
しかし考えるだけ無駄で、僕の知らない相手であることは明白である。
追求する事もできず、僕は、ただ辰也の側にいた。じりじりと焼かれるような痛みを感じながら。
それなのに、その十数年後、跡目争いで辰也の組がゴタつきだして、今度は数年間も音信不通となり、辰也は僕の目の前から姿を消した。
諏訪さんでさえ、「辰也さん、忙しいみたいで。すまねぇな」と悔しそうに言うだけ。
きっと辰也が口止めをしていたに違いなかった。
また僕の前から姿を消して、嘘を作って僕の元へ戻って来るのだろうと、僕は悔しくて憤りを感じたのを今でも覚えている。
だってその嘘は、辰也が傷つき、苦しんだ証拠なのだから。
その数年間、僕は彼が生きているという事だけは、諏訪さんや、諏訪さんの運転手兼辰也の用心棒であった山内くんの表情から見て察していた。
辰也は僕を関わらせないように、守るために、自分を犠牲にしたのだろう事は分かっていて、それを知られないように僕と距離を開け、諏訪さん達にも口止めした。
辰也は馬鹿だ。
僕を守る為には何でもしてしまうから、大馬鹿だ。
僕の本音は、辛い時こそ、僕を頼ってほしかった。
それだけなのに。
少しくらい連絡をくれたって良いじゃないのかと、数年もの間放ったらかしにするなんて酷いんじゃないのかと、腹は立つものの、どうしようもない。
だから、僕はあの頃、連絡の取れない男の気を引きたかった。他の男に行ってしまうぞと、嫉妬させるように、他の男とも何度か関係を持った事があった。セフレのような丁度いい男、という言い方は適切かはわからないが、簡単な関係というのを築いていた。けれど、それでも辰也からは一向に連絡はなかった。
消えた男は僕が何処で何をしていても、もう連絡を寄越す気はないのだと僕は気付いてしまい、その時はもう、自分の人生は上手くいかないのだと腹立たしく、悲しくも思った。
その時は地獄だった。
何かに縋りたい気持ちだった。
派手にヤりまくって、忘れてしまいたかった。
僕らしくなかった。いつも冷静でいられるのに、ちょっとやそっとじゃ、僕という男は変わらないのに。
なのに、僕は辰也が何をしても音信不通のままで、苛立ち、焦り、その度に辰也に似たような子を捕まえてはヤりまくり、そして辰也との相違点を見つけては、あぁ、辰也じゃないんだよな、なんて当たり前の事を何度も何度も思っていた。
本当に僕がこのまま他の男に傾くんじゃないのか、とか、心配してくれても良いのになと、あの頃は思っていたが、辰也は何一つ干渉しなかったし、連絡も皆無だった。
そしてある日突然、連絡があった。
会いたい、という言葉と共に場所が記載されていた。
僕は仕事を投げ出してその場所へ駆けつけた。
そこは港の古い倉庫が並ぶ場所だった。
車が一台止まっていて、運転席には山内くんが、後部座席には辰也がいた。
しばらく僕達は話し込み、僕は会えた事の嬉しさと、安堵とで、つい泣きそうになった。泣くまいと必死になりすぎて、かなり眉間にシワが寄ってたろう。
辰也は僕に、そんな怖い顔しないでくれ、と困ったように笑っていた。
そうしてそれから数回会って話す機会があった後、辰也からアメリカ行きの航空券を渡された。
アメリカへ一緒に逃げてくれないか、そう切羽詰まった顔をされる。何度も、「悪い、お前を離してやる事ができなかった」そう苦しそうに、表情を歪ませて、震える声で言っていた。
僕の答えは決まっていたのに。
そんな顔しなくたって、そんな言葉を吐かなくたって、僕は君と何処までも行くつもりなのに。
だから僕達はあの日、日本から突然、姿を消したのだ。
そんな事ももう昔の事ではあるが、僕の中では昨日の出来事のように思い出してしまう。
「…シロ、何考えてんの」
ソファに座る僕の膝の上に頭をのせて、テレビを流し見ていた親友であり、長年の恋人は、そう尋ねて片眉を上げた。僕は彼の歳を重ねた顔を愛でるように撫でると、彼は猫のように、僕の掌に頬を寄せた。
「昔のことを、ちょっと思い出してた」
「昔って?」
「昔は昔。君は大事な事をひた隠す事があるだろ。半年以上も雲隠れしていた時、刺されて死にそうになっていた事、僕には一切言ってくれなくてさ、ひどい事に、もし自分が死んだら、その時だけ、僕に知らせてほしいって、諏訪さんに頼んでた事。今思い出してもやっぱり腹が立つ!」
僕は眉間にシワを寄せ、辰也の頬を鷲掴んで、むにゅむにゅとその頬を痛めつけた。痛めつけているが、当の本人は笑ってる。
「悪かったよ」
そう笑っていやがるのだ。
「はぁ。この点に関しては何度でも詫びてもらいたいね」
「ふふ、何度でも詫びるよ。悪かった」
仕方のない事だった、そうだとしても、僕は僕の知らない所で辰也の命が奪われて、死に目にも会えない事を想像すると、今でもゾッとしてしまう。でもそれは、起きる事のなかった出来事で。不安な方をつい考えてしまうのは、僕の悪いところなのかもしれない。
僕は口を尖らせたまま拗ねていると、辰也は楽しそうに僕の顔を見上げていた。
「昔の事で言うなら、よく一緒に風呂入ったよな、それからお前が家に転がり込んできて、ごつい入れ墨入れてさ」
「その数年後に君と結ばれてまして、振り回されましたよ」
「ハハ、振り回した、な。悪かった」
「ふふ、……歳、取ったよね。思い出に浸ってしまうなんてさ」
「そうだな。まぁ、でも、こうして誰かと歳を重ねるって、感慨深いよな」
「思い出したくない事もたくさんある、だろ?」
「それは、お前も、だろ?」
「どうだろ。君には割ともう全部、言ってる気がするなぁ」
辰也は僕の目を見ながら、わざとらしく目を大きく見開き驚いてみせる。
「あれだけ秘密主義だったのに、か?」
「別に秘密主義だったわけじゃないよ」
「そうか? 俺にはお前がずっとミステリアスに見えてたけどな。でも、少しずつ、自分の事を語ってくれるようになってさ、なんでも言ってくれて、嬉しかった。俺はいつだって、何でも受け止める覚悟、あるぞ」
「僕にだってあるよ、辰也」
僕だって。
過ぎた事だからもう忘れろと、辰也は言いたいのかもしれない。でも、僕だって、君の全てを受け入れるつもりなのに。どんな事があろうと、君ひとり抱える必要なんてない、と。僕にも痛みを分けろよ、と。
何があったのか、だいたいは予想がつく。けれど真相は分からない。
辰也は「そうだな」と静かに言うと、またテレビへと向きを変えた。
しばらくまた黙ったままテレビを見る。
深夜のくだらないバラエティを点けっぱなしにしていた。
「…全然眠くならねぇな。今、何時だよ」
「んー、2時になったところ。眠れないもんだね」
「本当な。…それにしても、また日本に帰って来るとは思わなかった」
「そう?」
「俺は向こうで骨を埋めるつもりだったからな」
「…抗争があったの、もう7年前になるんだね」
「早ぇな、時が流れるのって」
「もう、誰も君の命を狙ったりしないよ」
辰也は一瞬、難しい顔をした。
眉間にシワをよせ、「そうだな」とぽつりと呟いた。
問い詰めることはできない。辰也が自分から話してくれるのを待つだけ。僕は辰也の少し伸びた髪を撫でながら、ため息をひとつ吐いた。
7年前、辰也の組で抗争があった年。僕たちはその抗争の終焉を見ずに、日本を離れた。
組が崩壊し、あの街にいる事はもちろん、日本にいる事さえ危険だった。組を潰す、それが目的で、辰也の親父さんは殺され、辰也の死を望む者もゴマンといた。
何が引き金だったか。どうしてそうなったか。
詳しい事はわからない。けれど、辰也が悔しそうに話してくれた事がある。引き金は兄貴分の組との衝突だった、と。
けれど、山内くんが僕に話してくれたことがある。
辰也は絶対に話さないであろう話しだった。
それはある男の存在について。
その兄貴分の組に、辰也にひどく執着する若頭がいたという話。その人は辰也を"そういう目"で見ていた。若衆のいざこざを良い理由に、若頭であった辰也を出せと、何度も要求していたらしい、が、辰也は断り続けた。
いつしかそれは愛情から、憎悪に変わったのかもしれないと、僕はそう思っている。だって、その組を筆頭に、辰也の組は潰されたようなものだから。
しかしその若頭は、抗争の真っ只中に忽然と姿を消したのだ。さらにそこの会長もまた、不審死を遂げていた。辰也の親父さんが死んだ一週間後だった。辰也の組の壊滅が決定した後のことだった。僕らが日本を出た後のことだった。
誰かが相手のトップを殺した。辰也の組の人間だと考えるのが妥当、なのだろうが、その会長を殺せるのは限られた人間だけで、外部の犯行はほぼ不可能だと、山内くんは言う。
つまり、内部の人間の仕業。誰が、何のために。
憶測の域を出ないが、山内くんはその若頭がやったのではないかと、推測した。
でも、なぜ? 辰也を手に入れたかったそのイカれた若頭が、自分の親を殺す理由。
僕には分からないし、分かりたくもないが、分かることは、その大きな抗争は、トチ狂った若頭が引き起こし、両組織を破滅させ終止符を打った、という事である。
その若頭は真実と共に消え、僕たちも日本から消えた。
「…なぁ、シロ」
「ん?」
目の前の男は、あまりにも多くのことを経験してきた。
だから今はもう、ゆっくりと、穏やかに過ごしてほしかった。僕は辰也の髪を撫でながら、首を傾けて返事をすると、辰也はテレビを見ながら口を開いた。
「この街には思い出ってのがたくさんあるよな」
そうぽつりと呟く。
「そうだね。生まれて育った場所だもんね。…でも急に、どうしたの」
「んーいやぁさ、俺はあまりお前を縛りつけたくはないんだけどさ」
「…うん」
何が言いたいのかと辰也を見下ろすと、辰也は少し迷いのある顔をしていた。
「お前ってさぁ、東京で、ちょっといい感じになってた若い子いたろ? 名前、なんだっけ…女みたいな名前の子」
「あぁ、蘭?」
「そうそう、そいつ」
僕は昔、辰也がパッタリと連絡を途絶え、消えた頃、蘭という不思議な魅力を持つ青年と名前の付かないような関係を持っていた。
恋人、というには重すぎる。
友達、というには軽すぎる。
セフレ、がぴったりくるかと思うけど、ヤる事だけが目的じゃなかったようにも思える。
僕は彼には幸せになってほしかった。
でもそれは、僕と、ではなかったが。
彼はいつも何処か儚い目をしていて、誰かを待っているようだった。
だから、僕も居心地の良さを感じていたのかもしれない。互いに、誰かを待っているから。互いに、その誰かを見ていたから。
「蘭が、どうかした?」
「東京戻って来たし、また、会うのか?」
そんな事かと、僕はつい笑ってしまいそうになった。
素直な辰也は、僕にはとても不安そうに映ったから。すぐ顔にでるなんて、元はヤクザの若頭だなんて思えないなと、僕は頭の片隅で考えている。
「ふふ、会うわけないだろ。なぁ、辰也、覚えてるかい? 僕が君とアメリカへ高飛びする条件」
僕が彼とアメリカへ消える時、僕は彼にある条件を突きつけていた。
「覚えてるよ。久保 春仁って青年のことを調べてくれ、だろ? 訳のわからない条件だったけど、それで一緒に逃げてくれるなら、ってその時は情報屋に頼み込んで調べたけどさ。お前とその青年、何か関係があったのか?」
辰也は僕の顔を見上げる。
「僕じゃない。その春仁って子の事を、蘭はずっと好きだったんだよ。でもその子はヘテロでさ、蘭は手に入らないって諦めてた。蘭は僕を見ているようで、僕じゃなく、いつもその彼の事を見ていたんだろうね。だから君に調べてもらって、春仁くんって子もまた、蘭の事を想ってるんじゃないのかと思って、僕は心置きなく日本を離れたってわけ」
「そう、だったのか…。辛くなかったのかよ」
「辛い? 蘭が僕ではない別の子を想っていたから? それとも、蘭を置いて日本を出たから?」
「両方」
「うーん、まぁ、辛いというか、なんというか。…音信不通だった恋人が突然現れて、アメリカへ一緒に逃げてほしい、って言われたら、僕に選択肢はないよ。僕にとって恋人は君だけだもの。結局さ、彼は誰かさんに似てたのよ。僕の目の前から突然消えた誰かさんに。気の強そうな、ツンケンした感じの男前でね、褐色の肌に黒髪で、逞しくて、白い歯を見せて笑う姿が、すっごく君に似てた。だから蘭と一緒にいた時は、蘭を通して君を見てたんだろうね。蘭には幸せになってほしいって、心底思ってた。彼もまた僕を通してその春仁って子のことを見ていたから、その子と一緒になれればな、って感じてたのが正直なところ」
辰也の表情がゆるゆると優しくなり、照れたように頬を赤らめる。隠しているつもりらしいが、辰也はわかりやすい。
「そう、だったのか」
「覚えてるかわからないけど、君が春仁くんの事調べてくれて、写真見せてくれたろ? どこで手に入れたかわからないけど、公園で佇んでる春仁くんの写真。あれ見た時、あーって思ったよ」
「ふふ、うん。わかる気がする。色白で、でかくて、色素の薄い茶色の髪と瞳。優しそうな顔とかね、お前に雰囲気すげぇ似てんなーって思った」
「そ、そういう事」
「なるほどね」
辰也はそう呟くと、恥ずかしそうに少しだけ笑い、上体を起こして、すたすたとキッチンへ向かった。冷蔵庫からビールを取り出すと、また僕の横へと落ち着いた。
「申し訳ない、って、後ろめたさがずっとあった」
一本を僕に渡し、辰也はビールを開けながら口を開いた。
「無理矢理日本を離れさせてさ。何もかも俺のせい、だったから。でも俺は卑怯だから、お前と別れる事も出来なかったし、組のために死ぬ事も、出来なかった…」
そう言って辰也はぐっとビールを飲む。
何もかも、俺のせい。
何を思ってこいつは、その言葉を吐いたのだろう。
卑怯だと、組のために死ぬ事もできなかった、と。
「辰也、君がどう思ってるかわからないけど、僕はけっこう君に執着してて、君なしではわりとやっていけない。もし、もし仮に君がね、組のために命投げ出したとして、それを立派な死だと讃えてくれるのは誰だろうか。そんなやつ、あの当時の組織内じゃぁいなかったんじゃないの? 諏訪さんだって、山内くんだって、君が生きる事を最優先にしてた、それが証拠だろ。それに僕は思うよ。君が死んでいたら、僕もここにはいない。君が生きてるって、わかってたから、僕はあの時生きていけたんだもの。もし君が組のために死を選んでいたら、僕はわりとあっさりと、後を追ってたと思う」
冷えたビールは胃を満たした。僕は言葉を並べ、辰也の言葉を待った。辰也は少し驚いたように僕を見て、それから弱々しく口角を上げ、目を細める。
「…じゃぁ、お前と一緒に歳取って、今ここで、ビール飲んでるなんて幸せなんだな、きっと」
「そうだよ、幸せなんだよ」
辰也は僕の返事に笑ってくれる。
ふぅと息を吐くと、僕の方に体を向け、少し迷いのありそうな瞳で僕を見た。
そしてしばらくの沈黙。それは数秒だったと思う。けどその数秒はとても長く、何を言う気なのかと勘ぐるしかなかった。
「尾関さん、って言うんだ」
突然出た名前に僕は戸惑った。でも辰也はその名前を絞り出すように言うものだから、あぁ、もしかして、と辰也の伏せられた瞳を見下ろした。
「うん」
「尾関さんは、翔龍会の若頭で、真っ当に誰かを愛する事が出来ない人だった。それはその人の生い立ちが歪だったからか、その人の性分なのかは、俺にはわからない。誰からも好かれるような人なのに、誰も愛した事がなかったんだと思う。俺にはお前がいたけど、尾関さんには、そういう側にいて愛してくれる人がいなかった。だから、俺にすがりついてきた。…あの人は、俺に、一生を共に過ごしてほしいと、言ってきた。でも俺はそれを受け入れられなくて、支えになる事を拒絶した」
なるほど、と僕は頷きながら思った。
思った以上に、その男は辰也に執着していたのだろうと。
「あの6日間、俺は尾関さんを理解しようとしたし、近くにいようとしたけどできなかった…」
「うん」
「でも、今でも思うんだ。もう少し、あの人に寄り添う事が出来ていたら、あんな事にはならなかったんじゃないか、って」
辰也は眉間に深い溝を作り、苦しそうに言葉を詰まらせる。
でもその言葉で、僕は全てを繋げた。
あの6日間の時の男と、抗争を仕掛けた男は同じで、そいつが辰也の人生を変えたのだろうと。
この優しい男は、尾関という男に同情したんだろう。でもそれは相手の乱暴で一方的な愛情で、同情心なんて打ち砕かれた。
それでも相手は唯一の存在である辰也を欲した。それはきっと、死ぬほど、狂おしく欲したことだろう。
辰也は粉々の同情心と恐怖心から、その人を拒絶した。
もしそうだとするなら、腹が立つ。
それが、組織を壊滅させるまでの抗争に繋がった直接の理由だと言うのなら、やはり尾関という男は、救いようのない傲慢な男。自分勝手で、周りを巻き込み、崩壊させても満足しないのだから。
「ねぇ、辰也。その尾関って人はただただ傲慢だった、そうだよね? 君が手に入らないから君を苦しめる、それってどこぞのストーカーと同じ思考じゃないか。そいつのせいで君は長いこと苦しみ、危うく死ぬところだったろ。しかもそいつのせいで僕は君に距離を置かれてるし、僕は生涯、許せないだろうな。叶うなら、僕がそいつの首を絞めて殺したいよ」
「お前は物騒な事を真面目な顔して言うよな」
辰也はふっと笑うとビールを一口飲んだ。
「今も、昔も、本気だよ」
僕はいつだって本気だった。
本気で、辰也を苦しめた相手を殺したいと思っている。
それは今も昔も変わらない。
「…昔、か。懐かしいな。あん時も、お前は殺したいと言ってくれたな。それだけで救われたね。ま、でも結局、あの日、お前と初めてまぐわっちまったら、全てがどうでも良くなったんだけどさ」
「君の気持ちが軽くなって救いになったなら、それはそれで良いけどさ…。でも、君を初めて抱いた次の日から、君は突然会ってくれなくなるんだもの。僕は生きた心地がしなかったけどね」
「それは、本当に悪い」
辰也はまた困ったように眉を下げて笑った。
もう過ぎた事。そんな事、わかってるさ。
「今こうして君といられるんだから、僕はそれで良いんだけど。それでも、君を苦しめ、殺そうとした男を、僕は許せそうにもない、という事だけは覚えておいてほしいな」
「ふふ、うん…わかったよ」
辰也はふぅと深呼吸をすると、また僕を見る。
「長いな、お前との付き合いも、もう何十年になるだろうか」
「36年、かな」
「初めて会った時の事、俺覚えてるよ」
「えーうそ、本当? 小一の記憶なんて僕はほとんどないけどなぁ」
「俺はよく覚えてる。ヤクザの息子って事もあったし、昔っから俺、目つき悪いしで、入学式誰も話かけてくれなくてさ、なんかもうしょげちまって、学校の花壇の花見ながら泣きそうになってたら、お前が急に隣に来て、パンジー好きなの? って。好きだよ、って答えたら、お前が、可愛いお花だよね、って笑って、そっから互いに名前言ってさ、しばらく話した記憶ある。お前は俺がヤクザの息子だって、知らなかったんだろ?」
あぁ、そんな事もあったなと、よく覚えてるなと、僕は嬉しくなった。僕は彼がヤクザの子だと知っていた。でもだからと言って、避ける理由が分からなかっただけ。
「知ってたよ。知ってて話しかけたの。花、愛でてるやつに悪いやついないじゃない」
あの時のこいつは悪いやつには見えなかった。
ヤクザの子供って周りから避けられ、噂の的にされていたけど、こいつ自身は何ひとつ悪くなかった。それに、花を愛でてるこいつと、どうしても友達になりたかった。だってきっと、良いやつだと、僕は直感で感じたから。
「愛でてるって、…ただ見てただけだろ」
「僕には愛でてるように見えたの。話したいな、って思った、それだけ。君は実際、花が好きで、不器用だけど誰にでも優しい人じゃない。6歳の僕の目に狂いはなかった」
「そうかよ、ハハ、良かったよ、そう思ってくれて」
僕は辰也を失う事がかなり怖い。きっと心のどこかでこいつが、過去に縛られ消えてしまいそうだと思っていたからだろうか。
辰也は深呼吸をするとビールを飲み、「あちぃな、ここ」と照れたように笑う。
辰也はもう、消えたりなんかしない。
音信不通になって、忽然と消えたりなんかしない。
だってもう、過去の事も話してくれたし、こうして僕の側で笑ってくれるのだから。
もう二度と、消えたりしない。そう確信している。
「暑いなら、脱げばいいじゃない? あ、ねぇ、背中の龍、見せてよ」
「いつも見てるだろ」
「その言葉、やらしいね。どういう時に見てるのかって想像しちゃうからかな」
「そういう事言うなよ…恥ずかしいだろ」
「ごめんごめん」
甘えるように少し口を尖らせると、辰也はふっと笑いながら、するりとTシャツを脱いだ。辰也はTシャツを脱ぐと僕に背中を見せる。そこには昔彫られた龍が、今でも生き生きと泳いでいた。
その龍は僕の鳳凰と対になるよう、色を少し似せてあった。それは全体を通してみると、龍と鳳凰で向き合っているように見えるデザインに敢えてしたが、辰也は気付いているのか、いないのか。そもそも、鳳凰と龍の意味を、知っているのか。
僕はそう、辰也の龍に触れながら思った。
「満足か?」
「うん、…辰也の龍、好きだな」
「そりゃそうだろ。お前がデザイン考えたんだ」
「ふふ、うん。最高にかっこいい」
辰也の龍は僕がデザインを考え、凛太朗さんが彫った。だから長い年月を共にしても、この龍は輪郭をしっかりと残し、色が滲む事もない。
「龍は、良いね…」
僕は少し、思い出していた。
鳳凰と龍、僕はふたつを背負うつもりだったのに、龍は長谷部さんを檻に閉じ込める暴力的な男のものだと知り、やめた事を。嫌いだった事を。龍そのものが憎く、嫌悪した事を。
でも結局は、長谷部さんは義昭さんとの人生を選び、義昭さんも長谷部さんを守るように、姿を消していた。
龍は、僕の大切な人を守っていた。
凛太朗さんだってそう。僕をあれだけ支えてくれた人。優しくて温かい人。その大きな人の背中にも龍がいた。
いつの間にか龍という入れ墨は、僕にとってとても重要で大切な入れ墨となっていた。
「やっぱり辰だから龍にしたの? 君、急に龍にする、って言い出したろ。それまで決まってないって、時間をかけていたのに」
辰也の後ろから抱きつき、僕は辰也の肩に顎を乗せてそう問うと、辰也の頬が急に赤くなりだし、照れたように口ごもる。
「まぁ、そういう事…」
「どういう事よ」
「俺の名前に辰が入ってるから、ね?」
「本当にそれだけ? 僕に嘘はつけないよ」
「いや、まぁ……お前が鳳凰背負ってる、から、さ」
そうか、そうか。知ってたんだ。
ふふ、知っていて、入れたんだ。
「へぇ。プロポーズ?」
揶揄うように言うと、辰也は耳までも赤くしてしまう。
「別に、プロポーズってわけじゃ…」
「ないの? それは悲しいなぁ」
「いや、ない事もない、けど…」
「プロポーズだ」
「……もう、俺を揶揄うのやめてくれ。お前、もちろん意味、知ってンだろ。龍と鳳凰」
「ンフフ、えー? なんだろ。知らないなぁ」
「性格悪いぞ」
意地悪、したくもなる。
だってこうも可愛いのだから。
僕はぎゅっと、辰也の体を抱き締め、その背中にキスを落とす。
「君がその意味を知ってて龍を選んだとは思ってなかった」
「…だろうな」
「僕ね、龍の入れ墨って好きじゃなかった。それを背負ってた人は、僕の居場所で大切だったあの人に、暴力を振るうような人だったから」
僕がそう話すと、辰也は黙って僕の言葉を聞いた。
「でもね、結局、あの人を守ったのは、その傲慢で暴力しか振るわないような龍の男。最初は逆だと思ってたけど。違ったんだろうな。死んだ事にして、この世から消して、狙われないように守って、全てを捨てて日本を出た。だから龍って、僕にとっては、すごく、すごく…大切なものになった」
僕は辰也の背中に抱きつき、頬をぴったりとくっつけた。辰也の体温は高くて温かくて心地がいい。体温の低い僕には、辰也の熱が丁度良い。
「……お前の大切だった人、名前は何て言うんだ?」
長谷部さん。
僕はその名前を思い出す度に、儚くて辛くて苦しくなった。ある日突然、僕の目の前から消えた人。大切だった人。
「長谷部 虎太郎」
でも今はもう、違う。
「そっか。名前、初めて口にしたな」
「名前を言うと辛くなるから…。でも、もう平気。なんかもう、良い思い出だったなって」
「見つけたんだろ」
やっぱり、辰也は気づいていた。僕があの街で、彼を探していたことを。そして見つけたことを。
「うん、見つけた。死んでなかった、…本当に、本当に、良かった」
鼻がツンと痛くなる。
泣くまいと堪え、声を落ち着かせる。
「幸せそうだったか?」
でも辰也の優しい問いかけに、僕の感情は溢れてしまった。僕はただ、頷いた。
あの人は笑っていた。すごく幸せそうな顔で笑っていた。髪には白髪が混じり、シワが増え、あの時のような鋭さは全くなくて、とても楽しそうに、相変わらず美しい顔で笑っていた。
それはきっと、横にいるのが愛する人だったから。
理由はそれだけ、だろう。
「そっか、…そっか、良かったな」
辰也の柔らかい笑顔に僕は救われる。
僕も、あのふたりのように、これからも愛する人と歳を重ねる事ができるだろうか。
何があっても、この先も、一緒に。
あの人が背負ってた鳳凰と龍のように。
僕も、辰也の支えになれるだろうか。
「辰也、」
「ん?」
「一緒にいてくれて、ありがとう」
「………おう」
辰也の体温がまた上がった。
辰也はもう、消えたりはしない。
こうして僕の側にいてくれる。
僕の支えになってくれる。
だから、僕も彼の支えになりたい。
彼が死ぬ時は、僕の死ぬ時。
ヨボヨボのじーじになって、お互い老けたなと笑い合って、そうしてある日、眠りながら人生を終わらせる。そんな最期を、辰也と共に送りたい。
「突然消えるなよ。あんな思いするの、二度と御免だからね」
「……あぁ」
「死ぬまで一緒、約束してくれよ。今度こそ」
辰也の表情は見えない。
でも、穏やかに笑ってくれている気がした。
「今度こそ、か。…お前が嫌だって言っても、離してやる自信、ねぇぞ」
「離さなくて良いよ。離さなくて良い。僕も、離す気ないもの」
「ふふ、そうかい」
ドキン、と脈が早くなる。
あぁ、そうだな。
死ぬ時も一緒が良いなと、そう強く願う相手と、こうして時間を過ごせる僕はきっと世界一幸せで、世界一恵まれている。
長谷部さん、僕は今、幸せだよ。
長谷部さん、あなたも今、幸せですか。
「辰也、」
「ん?」
「好きだよ」
「ふふ、おう。……俺も、好きだ。今も昔も、これからも。ずっと、ずっと、な」
甘い甘い時間。
永遠と続けば良い。
僕は辰也の背中に顔を埋め、静かに目を閉じた。
今日も、明日も、こうして、辰也の側にいたい。
ふたりっきりで、この世界で。
それで、良いじゃない。
それで………。
鳳凰は辰に溺れる
シロと辰也
END
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