7. 唐獅子の歪な愛情

早く、こんな6日間が過ぎれば良い。


シロとの行為に思いを馳せながら、俺は義務感と共に、言われた高層マンションへと向かった。そのエントランスはシンプルだが高級感に溢れ、大きな現代アートっぽいよく分からない絵画が飾られていた。こんな所に住んでいるのかと思うと、なんだか、やはり好かない男だと思った。


エントランスで部屋番号を打ち込み、インターフォンを鳴らした。



「はい」



「俺です」



「どーぞ」



開いた自動ドアを抜け、エレベーターに乗って部屋まで行く。何をされるか分からないという緊張に吐きそうになりながらも、昨日のシロとの一夜を思い出すと、つい体が熱くなる。


自分の体の素直さを滑稽に思いながら、尾関さんの部屋の扉の前でまたチャイムを鳴らした。尾関さんは嬉しそうに、満面の笑みを浮かべながら俺を招いた。



「さぁ、入って。御飯は食べた? あ、これ、スリッパね、どーぞ」



シンプルで洗練された広い部屋だった。無駄な物が一切なく、白と黒と金で統一されている。夜景が一望でき、壁にはよくわからない、線だらけの絵画が飾ってある。爽やかで少しスパイシーなシダーウッドの香りが部屋に充満していた。


どこまでも典型的なイケメンなのだろうな、この人は。



「遊びに来たわけじゃありません。さっさと事を済ませたい」



「事ってなに? まぁ、ひとまず座って。お腹空いてないの?」



「…それほど」



はぐらかされ、俺は言われた通りに、リビングの椅子に腰を下ろした。


尾関さんは分からない。

何を求めているのか、一切掴めない。


尾関さんはシャワーを浴びた後のように、髪を下ろしている。シャツの袖をまくると、エプロンをして、何やらとても陽気で楽しそうに食事の準備をしていた。



「じゃぁ残していいから、一緒に食べましょう。私は食べてないからね」



「はぁ」



「ワインは飲めた?」



「…はい」



「良かった。ハンガリー産の美味しい白ワインがたまたま手に入ったからさ、一緒に飲もうか」



そう言って注がれた白ワイン。出された料理は、見たことのないような豪華さで、俺は何しにここへ来たのか急にわからなくなって、軽いパニックを覚えた。


戸惑っていると、尾関さんは「どうぞ、食べて。…いただきます」と手を合わせ、食べ始めてしまった。生ハムやサラミ、小洒落た白身魚の料理、よくわからない野菜の入った美味しそうなスープ、少量のクリームパスタ。


どうして、もてなされてるのだろう。

いや、もしかしたら普段からこんな生活をしてるヤバイ人なのかもしれない。


いやいやいや、待て、冷静に考えれば、これは俺の詫び、俺に無害、むしろプラスになるようなこと絶対しないんだ。きっと何かある。もしかしたら、クスリでも入ってて、気づけば取り返しのつかないヤク漬けの廃人になってるかもしれない。


そうだよ、そういうことだよ。

だって、こんなの、おかしいだろ。


頭の中では延々とそんな自問自答が繰り返されている。しかし答えは、いくら考えようが出てこない。



「…食べないの? 毒とか入ってないけど、…なんなら毒味しようか?」



その言葉に俺はびくっと反応してしまった。まるで心を読まれているかのようだったから。



「俺は詫びを入れに来たつもりです。もてなされに来たわけじゃありません」



「そんなに焦らなくても、夜はこれからだし、ね? あとでたっぷり詫びてもらうから、安心してよ。だからさ、一緒に飯くらい食べようよ」



あとでたっぷり詫びてもらう、という言葉に俺は緊張した。この人は、本当に、ヤクザらしいヤクザだから信用してはいけない。


主にヤクで儲けているらしいが、その手法は巧みで、稼ぎは驚く額だと言う。


そして裏切った者への制裁は、反吐が出るほど酷く、拷問に拷問を重ねてから始末し、遺体を残さないように、最後はミンチにして豚に食わせるか海に流すらしい。そんな噂のある男が、呑気に白ワインと飯を勧めるわけがない。



「…辰也くん、良い加減、そんなに警戒しないでくれるかな。飯は本当に、ただの飯よ。ひとりで食べるのが嫌だっただけなんだ。張り切って作ったんだから、食べてね、ちょっとでもいいから。…ほら、毒ないよ」



尾関さんはそう言うと、俺の前に置いてある魚の身をフォークで刺してパクッと食べた。その凛々しい眉を困ったように下げて、形のいい唇を閉じて、弱々しく笑っている。



「白ワインも、毒味しようか」



「…はい」



「ほんとに信頼されてないなぁ。同じボトルから注いだのに」



「グラスに毒が塗ってあるかもしれないですから」



「なるほどね。でも、兄弟分の組の若頭に毒盛るわけないんだけどなぁ。そんなことしたら、戦争じゃないか。私はバカじゃないよ」



尾関さんはそう言うと俺のグラスに手を伸ばし、くいっと一口飲んだ。飲み込むと口を開け、飲んだことを見せる。



「ほら、ごっくんしたでしょ?」



ヘラヘラと尾関さんは笑った。この人の言葉はどこか人を誘い、煽って、いつか痛い目を見そうだ。誰にでもそうやって、敢えていやらしい言葉を使うんだろうな。


でもこのルックスの人間が言うと、セクシーだなんて褒め言葉になるのだろう。俺はグラスを受け取り、尾関さんの飲んだ部分に合わせて、一口飲んだ。


やっぱりこの人は、どうしたって嫌いだと思いながら。



「あ、間接キスだ」



尾関さんはいたずらっぽく笑う。



「違う、これは…」



「わかってるよ、縁に毒が塗ってあれば危険。でも私の飲んだところなら安全、ってことでしょう? でもこれで、毒は盛られてないってわかったろ。だから、飲んで、食べよう? 」



この人が何を考えているのか、全くわからなかった。


料理の上手い男前。何処にいたって持て囃されるだろうに。


いつか何処かのキャバクラの女の子達が言っていた。尾関さんほど、聞き上手で優しく、気を遣ってくれる客はいない、と。尾関さんも、相手が俺だからヤクザ丸出しなのだろうが、普通に話せばきっと物腰の柔らかな人、なんだろうし。


なのに6日間も同業者で、男の俺と過ごしたがる。意味がわからない。


上下関係をはっきりさせたいだけなのであれば、こんなに手の込んだもてなしは不要だろう。



「あー食べた食べた。ごちそうさま」



「ごちそうさまです」



食べ終えると、尾関さんは鼻歌を歌いながら食器を片している。


俺はただ椅子に座り、警戒しながら洗い物をする尾関さんを見ていた。ジャーと水の流れる音を響かせながら、尾関さんは突然、俺に、「洗い物終わったら、一緒にお風呂入ろよ」と笑顔で誘ってきた。


本当に訳がわからない。

何が悲しくてこの人と風呂なんて一緒に入らなきゃならない?



「一緒に入るのは、ちょっと」



そう断ると、尾関さんは



「ではどうぞ、先に入っておいで」



と口を尖らせる。


俺に断られたからって、拗ねるだろうか。

怖い。やっぱり言い知らぬ怖さがある。


事務所で俺の頭を押さえつけたあの尾関さんと、この尾関さんは同一人物、なんだよな?


だとしたら、やはり怖い。


訳がわからないまま、俺は風呂に入り、あの人の狙いを考えていた。


そもそもどうして6日間なんだろうか、と。



「やっぱり私も入るよー」



色々と考え悩んでいた俺に、悩みの種が疑問系ではなく、入ることを宣言して裸でズカズカと風呂に入ってくる。


この人は俺を見下し、馬鹿にし、屈辱を与え、笑うような男なのに、今のこの人は、ただ俺と一緒にいたいだけのように見えてしまう。


そんな事ってある? うーん。やっぱり怖いな。

人を簡単に脅すような人間の狙いなんて、わからない。



「入るんですか…」



「入りますよ、そりゃぁね」



この人は俺の事をどう思って、しゃぶらせ、6日間を要求したんだろう。尾関さんはやけに楽しそうだった。


そんな無邪気に笑ってる甘いマスクの男前は、その顔に似合わず、背中に大きな唐獅子を背負っている。牡丹と唐獅子。いかつい和彫りを入れ、それは胸にも繋がっている。いわゆる胸割五分。


そのギャップに俺は驚き、同時に、この人はやっぱりヤクザだと改めて思い知らされた気分だった。いくら俺に飯を与えて、楽しそうにヘラヘラ笑って接しているからとはいえ、それがいつまで続くかは分からない。


もしかしたら、俺が思う以上に酷い仕打ちがあるのかもしれない。


だってきっと、この人の狙いは、上下関係をはっきりさせる事であり、それはいつか俺が会長の座を引き継ぐ事を想定して、その時、俺がこの人に逆らえなくするため、なのだろうから。



「…髪下ろしてるから、シャワー浴びたのかと思いました」



俺は頭の中でそう考えを巡らせながら、口では冷静を装った。



「浴びたね。でも、辰也くんとはやっぱり入っておきたいじゃない」



「なんすかそれ」



本当に、なんすかそれ、である。

この人は俺に何をしたいのだろう。

何をしてほしいのだろう。

尾関さんは困ったように眉をひそめた。



「そんな冷たい目で見ないでよ。この6日間は、ただ私と恋人みたいに過ごしてほしいんだ」



「は…?」



とてつもなく、変な話だ。尾関さんは長い足をするりと俺の右側に寄せ、頬肘をついて口を開いた。



「実はね、昔っから辰也くんに入れ込んでるの。だから、辰也くんが今日来るって思うと張り切らずにはいられなくて。シャワー浴びたはいいけど、普段着で出迎えるわけにもいかないから、無難にシャツ着て、スーツパンツ履いたりしてさぁ、けっこうドキドキしてんだよね」



昔っから、ってどういうことだ。

張り切られずには、って何。

上下関係をはっきりさせたいんじゃないのかよ。


それってまるで…、なんてあり得ない言葉が脳裏に浮かんだ。しかしそんな訳がないと、その言葉を頭の中で消し去り、俺はただ尾関さんの言葉を待っている。



「要はね、君のこと、好きなんだ。"昔"っから」



は? 怖すぎる。

こいつ、好きなんだ、と甘く言ってるが、昨日、俺に何をした?


本当に訳がわからない。

昔からって、いつの事を言ってる?

こいつとやる事は覚悟の上だった。

しかし告白されるなんて思ってもみなかった。


俺は混乱し、無言で眉間に深い溝を作っていると、畳み掛けるように目の前の男は「本当に好きなんだよね」とまた口にした。そんなはずないと頭のどこかで否定するが、目の前の優しい顔をした爽やかな男は少し照れたように笑っている。


俺は何を言うべきか、完全に言葉を失くしていた。



「…辰也くんもさ、女に興味ないだろう?」



辰也くんも、か。

………あぁ、そうか。


参ったなと、俺は癖のように首を掻いた。



「…尾関さんには関係のないことでしょう」



気まずくなってそう吐いて、視線を逸らした。尾崎さんは少し、困ったように笑ったのを横目で見た。



「関係大ありだよ…」



それは俺が思う以上に弱々しく吐かれたものだから、俺はつい、尾崎さんへとまた視線を移す。



「わかってると思うけど、この世界で男が男を、そういう性的な意味で好き、ってのは良しとされない」



尾崎さんは淡々と続ける。



「昇格するための障害にもなる。生きにくいもんでしょう、この世界は。でも私が男を好きだという事は変えられない。だったら、ふたりで生きていこう。私は良い男だと思うけどな」



プロポーズに似た言葉を突然言われた。ふたりで生きていこう、と言った男は一体何を考えているのだろう。今まで人を馬鹿にし、見下してきた男と、こいつは同じ人間なのかと思うほど、この男は俺に甘えるように言葉を紡ぎ、接してくる。


俺は心底、面食らっている。



「あの…」



何かを言わなければと思い口を開くが、実際何を言ったら良いのか全くわからない。どこから、どう言えば良いのだろう。


だって、結末は分かっているから。

俺の答えは決まっているから。



「まぁ、ひとまずそういう事だから。毒盛るとか、君を殺すとか、そんな物騒な事は一切するつもりないから安心して。…じゃぁ、私は温まったし、先に上がってるよ」



そう尾関さんは俺の返事を聞かずに、さっさと出て行ってしまった。


尾関さんが風呂から上がってしばらくして、俺も風呂を出た。自分のことを言いそびれたまま、俺は尾関さんとまた酒を飲み、テレビを流し観る。


もし今、赤の他人が入って来たとして、この状況は一体どう説明されるのだろう。風呂上がりの男ふたりが、楽しそうに酒を飲み、テレビを観て、片方は片方に告白をした。この状況はただの友人になるのか、いや、ならないよな。



「辰也くん、チョコレートいる? このウィスキーとすごく合うんだ」



それは箱詰めされたチョコレートで、いかにも高級そうに金粉がまぶしてあった。手が付けられていない新品だったからか、先の言葉のせいからか、俺は毒味を気にせず、一粒取って口に入れた。ダークチョコの中にほろ苦いヌガーが入っていた。最後に少しコーヒーの味がした。シロにも食べさせたいなと頭の片隅で思いながら、俺はウィスキーを一口だけ飲んだ。



「美味しいでしょう?」



「美味いすね」



「よかった。これ、女の子にあげるとめちゃくちゃ喜んでくれるんだ」



「尾関さんって、いかにも女ウケしそうですもんね」



「あはは、嫉妬してくれたら嬉しいな。…はい、辰也くん、もういっこ。あーん」



差し出されたそのチョコに一瞬ためらったが、そのままパクッと餌付けされるように口に入れた。尾関さんは幸せそうに満面の笑みを浮かべる。


なんだろう。この騙してる感じ。俺が罪悪感を感じる必要は一切ないはずなのに、この人の幸せそうな笑顔を見てしまうと、少し胸が痛くなる。


しばらく俺たちは雑談をしたが、俺は尾関さんと一緒に生きていけないということも、好きな人がいるということも、伝えられなかった。


なぜだろう、出来なかったのだ。

でもきっと、それはこの人に対するほんの少しの同情と、大半は恐怖心だという事は分かっていた。この人の考えてる事が読めないから、次の一手を打てない。


それが九割を占めるだろうなと、俺は首を傾けた。


もし仮に、この人が本気で俺の事が好きなら、俺に他に好きな人がいて、そいつと一生を生きる覚悟だと言ってしまったら、この人はシロに何かするんじゃないかと思ってしまう。


実際に好きだと甘い顔してるこの人は、俺に何をした?


あれは好きな人に対する扱いじゃねぇだろ、と俺には尾関さんの心が、行動が、全く読めない。


そんな事を考えているうちに急に眠気に襲われ、俺は瞼を開けていられなくなった。ふわふわと、突然やってくる眠気。


しまった…、俺は心の中で大きく舌打ちをしたが時はすでに遅い。俺は意識を保つことができず、あっさりと手放し、深い深い暗闇の中へと落ちていった。


再び目を覚ますと薄暗い部屋の中、手を後ろで固く縛られ、ベッドに転がされていた。案の定、やっぱりかと、俺は奥歯を噛み締めている。


これが目的かと。

この人の本性はやっぱりこっち側。

優しい言葉を吐いたって、この人は善人ではない。


人の上に立ち、自分の欲を傲慢に晴らすような人間である。


どうしようかと、俺は状況を把握しようと周りを見渡した。俺が転がされているのはどうやら寝室のようである。部屋の壁一面に俺の写真がずらりと並べられている、異様な寝室。全て盗撮したものだった。



「…起きた?」



この人の好きという感情とその愛情表現は、どう考えても歪である。


尾関さんは部屋に入ってくると不敵な笑みを浮かべ、俺の横に腰を下ろした。俺の心臓はその異様な怖さに鼓動を早め、気分が悪くなり吐き気すら覚えていた。



「ここは、君の部屋」



自慢げに言うその顔を俺は見上げた。


俺は何も答えなかった。



「辰也くんと快い事するための部屋」



俺の考えはまとまらず、尾関さんを見上げながら、この場所からどうにかして逃げないと、そう焦りながらも冷静に考えようと必死になる。尾関さんは何処からかゴム管を取り出すと、慣れた手つきでそれを左の二の腕に巻きつけ、内側をペチペチと叩いて血管を探している。ヤクを入れるつもりだろう。


そのヤクがどういうものなのかも知らない。

この人が暴走してしまう可能性だってある。



「ようやく夢が叶うから、ドキドキが止まらないよ」



そう興奮気味な尾関さんに俺は、いよいよこの状態が切羽詰まるほど危険だと感じて、即座に口を開く。



「尾関さん、」



尾関さんは口角を上げながら、目を細めて俺を見下ろした。



「ん?」



「ヤク打ってからセックスするつもり、ですか」



「…だめ?」



「俺のこと、好きなんすよね?」



「好きだよ、ずっと前から」



「なら、ヤクなしでしましょうよ。…好きな人とするのに、そんなものいらないでしょう? まるで俺のこと、好きじゃないみたいですよ」



「どうしてだい?」



「だって、ヤク打って無理に気持ち良くしないとイケないってことでしょう?」



俺は真剣にそう言った。頼むからやめてくれと、心の底から願いながら。尾関さんは少し間を開け、うーんと首を傾げると、わかったと頷いた。



「一理あるね。辰也くんと、ようやくできるんだもんね、そうか、…やめておこうか」



「はい」



俺は尾関さんの返事にホッと胸を撫で下ろす。

良かった、と素直に感じた。

ヤクをキメてからヤるなんて勘弁してくれ。この人の事だ、ロクな事にならないだろうから。



「せっかく柳田さんのとこから貰ってきたのに。ちょっと勿体無いけどなぁ」



「弟分から何してんすか」



「今日のために、一本調達しただけだよ。上物なんだ」



尾関さんはゴム管を外し、「チェリーくんに、最高に気持ち良くなってもらおうと思ったんだけどね」と、名残惜しそうにそのクスリを俺に見せた。


その時、この人はまだ俺が童貞だと思っているのだという事に気が付いた。


俺はもう童貞じゃないと否定して、この人から逃げる口実を作ってしまえばいいのに。いや、それも出来ない。誰とした、なんて事、この人にバレたら…。そう考えると、何もかもを躊躇して言葉を飲み込んでしまう。



「ないほうが、俺は嬉しいですから」



「そう?」



「なんで照れてんすか」



「ヤクなしでセックスとか久しぶりだから」



「でも、俺の食べたチョコレートに何か入れてたでしょう?」



「あれはただの睡眠薬。変なクスリじゃないよ。だからうーんと楽しもうね」



「…そう、ですね」



「うん。…好きだよ、辰也くん」



目の前で笑うやたら容姿の良い男は、たぶん、俺と違ってシロのような存在がいないのだろう。だから、その存在を俺にして、この世界で生きようとしてるのかもしれない。


同情してんのか?

いや、する必要なんてないだろう。散々なことをされたんだから。


全く、同情の余地すらない。そうだろ。



「…私が君に執着する理由、教えようか?」



尾関さんは俺の上に乗ったまま、俺の顔を見下ろし、俺の頬に触れた。



「…はい」



小さく返事をすると、尾関さんは口を開く。



「私はね、君の小さい頃を知ってるんだよ。会ってるんだ、実はね。私が10の時、君は3つ。君はすっごく可愛くて、ヤンチャな男の子だった」



全く覚えてなかった。けど、だからこの人は俺に昔という言葉を使ったのだろう。



「覚えてないでしょう?」



尾関さんはそう、ふふっと笑う。



「…すみません」



「謝る事ないよ。君は3歳だったし、数時間を共にしただけだもの。だから、覚えてないだろうなぁって思ってた。若頭になってから再会した時の辰也くん、私を見るなり、顔に嫌いですって書いてあるほど睨んでたものね」



「すんません」



「さすがにショックだったなぁ。だから意地悪もいっぱいしちゃった。私の方こそ、ごめんね、大人気なくて」



尾関さんは俺の髪を撫でながら、申し訳なさそうに笑って謝った。俺がこの人を嫌いな理由は、この人が俺を馬鹿にし、見下し、そして強引で、暴力的だから。俺の弱みに付け込み、脅しては、物事を自分の有利な方へ進める。


だから嫌いなのだ。


でもこの人にとってその行動の全てが、俺に対する執着が理由だったら?


それはそれでかなり恐ろしい、が、恐ろしいの方向性が異なる。この人はただ、俺に振り向いてほしかっただけ、なんじゃないだろうか。


だからこの人自身はそれほど悪い人ではないのかもしれない。他の連中には慕われ、人望が厚いのだから。


この人はただ、俺が欲しいだけ。

愛が欲しいだけ。

それだけかもしれない。


この人はずっと孤独を抱えてきた寂しいやつなのかもしれない。



「意外です」



だからと言って、俺はこの人に靡く事はないけれど。



「私はね、ひとりじゃなーんにも出来ない。寂しがりやだしね」



困ったように笑う顔は、どう見たって女も男も放っておかない。まぁ、この人は女に興味がないけれど。誰にでも好かれそうな甘い顔をして、甘い言葉を上手く使えて、俺じゃなくても良いはずなのに。ちやほやと誰からでも好かれるんじゃないの。


それとも、子供の頃の思い出がそれほど重要だったのだろうか。


分からない。


それに、この人は何故、この世界にいるんだろう。

頭が良くて容姿端麗なこの人が、なぜこの世界にしがみついているのか、俺には全く理解できなかった。


だから俺は尾関さんに髪を撫でられながら、静かに口を開いた。



「尾関さんって、なんで極道になったんですか」



俺の質問に、尾関さんは少し考えていた。「長い話になるけど、良い?」そう、首を傾げるから、「良いですよ」と答えると、尾関さんは溜息をついて、俺から離れた。枕元にあるシェルフからタバコを取り出し、何か思う事があるような表情で、それを吸った。



「私の父はここの幹部で、ロクでもない人だった。酒を飲んでは暴れて、ヤクもやりまくって、子供がいても御構い無しに若い女を連れ込んでくるようなクソみたいな男だった」



そんな生い立ちだったなんて、だれが予想できるだろう。


淡々と話す尾関さんの言葉に、俺は心底驚いている。



「母は優しかったけど、男にだらしのない人でね。ついでに、ニコチンとヤクが手放せない、どうしようもない人だった。ヤクのために水商売して、金を稼いで、その金全てをヤクに使う。まぁ、私の親はそんな親でさ、自業自得というのか、なんというべきか分からないけど、母は男といざこざが起きて、殺された。殺したのは、この組の若衆だった。だからそいつ、上のヤクザに殺されんのが怖くてか、私の父に殺されるのが怖くてか、警察に自首したんだ」



こんな過激な話をされるなんて、思わなかった。


尾関さんは一息つくと、またタバコを深く吸い、ふぅと煙を宙に吐いた。俺を見下ろしながら淡々と話を続ける。



「私の父は、もう母の事なんて何とも思ってないと思ってたけど、そうじゃなかったみたいでね。父は母が死んだ一週間後に後を追うようにして呆気なく死んだ。酒とヘロイン、自殺って言っても過言じゃない死に方さ。いや、自殺なのかもしれないね」



そこまで言うと俺の頬を優しく指の背で撫で、俺はただそれを困ったように受け入れる。



「その時私は10歳でね、今の組長に拾われたってわけ。おやっさんはさ、こんな私を自由に生かしてくれた。好きな学校へ通わせてくれて、お前は好きなように生きろって、のびのび育ててくれて。だからこの人に恩を返さなければ、って強く思った。だからこの世界に入ったの。あの人を喜ばせたかったから。これが私の理由だよ」



この人は、俺が思っていたようなお坊ちゃんなんかではない。


淡々と話すが、その内容はとてもショッキングなものである。悲しみも、怒りも、苦しみも全て含まれているのに、この人はちっともそれを顔に出さない。



「そう、だったん、すね…。すんません、なんか、辛い事聞いてしまいました」



「アハハ、やめてよ。君は本当に優しいんだね。でもさ、私はまだ幸せな方だと思うんだ。世の中には、もっとひどい事、たくさんあるだろう? だから、すごい体験したんすねー、って笑ってくれていいんだよ」



「はぁ…」



笑ってくれ、と言われても笑えるわけがない。

尾関さんは髪を掻き上げると、「辰也くんってさ、ほんと、素直だよね。素直で、優しい」とぽつりと呟いた。



「昔っから優しかったもんね。動物とか虫とか、植物までも大事に扱ってね? 私はそういう辰也くんが、すごく好き。出会った時ね、君は3歳で元気いっぱいに走り回ってて、すっごく危なっかしくて。とーっても子供らしい子供なのに、言う事と成す事は一丁前でさ。多分、私が落ち込んでるって、暗い顔してるって、君なりに理解してたんだろうね。だから庭から大量のタンポポ摘んで、私にくれたんだ。あげる、って一言だけ言ってくれた。その時にさ、なんだか救われた気がしたんだ。なんでだろうね、あー温かい世界があるんだなぁって、思ったから、かな」



「そうだったんですか」



「ふふ、それだけの記憶で、って思ってる?」



「いえ…」



「10歳の私にはそれだけが希望だったの。君があまりにも可愛いすぎて、温かい存在すぎて、…いいなぁ、って。君の側なら、私もそっちの世界に行けるのかな、って」



それが、この人が俺に執着する理由。

とても純粋な理由。



「でもさ、こうして生きてきたけど、温かい世界なんてやっぱり無縁だった。男が好きだなんて、言えないものね。自分の欲を隠し続けて、我慢して生きなきゃならない」



「…そう、すね」



「この組は、特にそうかもしれない。先代が特に厳しい人だったって聞いてる。だから、おやっさんもそう。男は男らしく。なんでだろうね、男のために男が死ぬ、友のために死ぬ事は美しいのに、そこに恋愛感情が入ってしまうと美しくないんだ」



尾関さんは表情を曇らせ、タバコを吸いながらまた困ったように笑っている。



「実はね、来週、本家会長の娘と結婚するんだ。それがおやっさんの願いでもあるから」



「え……」



好きでもない人と結ばれる。俺はその言葉に、全てを理解した気がした。


だとしたら、それは、どれほど苦しいことか…。


この人は、育ててきてくれたおやっさんに恩を返そうと、喜ばせようとこの世界に入った。


そんな男の考える事は、きっととても単純で残酷だ。

自分を殺してでも、この組織に尽くすと決めたこの人の決意はとてもつもない痛みを伴うだろう。


だから結婚する前に、俺を得ようとした。

俺なら、わかってくれると思ったから。


なんだよ、それ。

俺はこの人の立場があまりにも苦しくて、この人に対する嫌悪も苛立ちも、何もかもが、少しずつ同情に変わっている事に気が付いた。



「尾関さん、不本意な結婚に、幸せなんて無いと思います。俺にははっきりこうだとは言えないけど、でも…尾関さんも、相手も苦しむ事になりませんか」



「私は演技上手だよ? ずーっと演じてきたようなものだし、彼女と結婚して、子供作って、幸せな家庭を演じる事くらいできると思うな。彼女を愛せる自信はあるんだ、不思議とね。良い人だよ、優しくて賢くて美しい。…ただね、私はきっと、辰也くんを忘れられないと思うんだ。君はとても温かい世界の人間だから。私は君の側にいたい」



俺はとうとう言い出せなかった。目の前の人が辛そうに笑うから、俺に縋ってくるから。突き放す事ができないのは、シロを脅しの材料に使われているから、ではない。


自分はただ幸運な事にシロがいた。

でももし、シロがいなかったら。


俺もこの人と同じように、誰かに縋りたいと、苦しんでいたのかもしれない。


そう自分を重ねてしまうと、途端に、突き放す事が出来なくなった。


この人とは共に過ごせやしないのに…。



「だから、私と一緒に生きようよ」



尾関さんはそう言って、俺を強く強く抱きしめた。この人にはきっと、俺しかいなくて、誰にも頼れない。俺は否定も肯定もできず、ただ、尾関さんに体を預けた。


俺じゃなく、他の誰かを愛せれば、この人は幸せになれるかもしれないのに。でも俺は何も言えなかった。自分の意思がふわりと浮く。そして消えて、この人に同情する。


尾関さんはタバコを消すと、また深いため息をついて、俺を見下ろした。



「好きだよ、辰也くん」



何か言葉を吐こうとすると、尾関さんはその言葉を塞ぐように、甘く唇を合わせた。



「私を嫌わないでほしい。私にはね、未来像があるんだよ。美しい妻がいて、可愛い子供が、ふたり、かな? 男の子と女の子がいて。で、辰也くんとは、決まった日にどこかの離れの別荘で会うんだ。くだらないお喋りをして、一日中愛し合って。その関係は、年を取っても変わらない。ずーっとそうやって生きていこうよ」



何て答えれば良い?

この人に、何を言えば良い?


これは俺の弱さだ。優しさ、なんかじゃない。

ただただ、卑怯なだけ。逃げてるだけ。



「…尾関さん、しましょう」



言葉で返す代わりに、体を重ねることを選んだ。

卑怯な選択だった。


誰も何も得ることが出来ない、姑息な選択。


尾関さんは「そうだね、うんと優しくするよ」と、子供のように素直に笑った。甘く唇を重ねて、体中に温もりを落とした。



「…んっ…、尾関さん、縄、ほどいて下さいよ。逃げませんから」



「アハハ、ごめんね。縛られるのは嫌い?」



「好きではないですよ」



「そっか、残念」



尾関さんは縄を解くと、縄の跡を見ていた俺の頬に手を寄せ、「私のこと、嫌いにならないでくれないかな」そう弱々しく吐くのだ。



「なりませんよ、…さ、続きしましょう」



俺は今、この人を騙している。


罪悪感を消すように、俺は尾関さんの首に腕をまわし、ただ快楽に身を任せ、熱い息を吐き、汗を流し、欲を吐いた。


事が終わる頃には、窓の外は明るかった。ふたりでシャワーを浴びると布団に入る。瞬間、昨日のシロを思い出した。俺はまたその記憶を消すように、尾関さんにキスをして深い眠りについた。


今、シロを思い出すのは罪悪感で苦しくなるだけだから。


俺も尾関さんも子供のように眠り、昼過ぎに起きるとふたりで遅い昼飯をとった。俺はそのまま仕事へ行き、仕事が終わると尾関さんのマンションに戻って、また、ふたりで時間を過ごす。そんな日々をただ繰り返えす。


尾関さんはとても幸せそうに笑った。その度にキリキリと苦しく痛むのを、俺は無視するように、本音をひた隠しにして、この人に体を預ける。


最終日、俺たちはコメディ映画を見ながら尾関さんの好きなウィスキーを飲んでいた。



「それでね、スティーヴンの元奥さんが、犬を箱に入れて送っちゃってさぁ。でもその人、本当にスティーヴン想いなんだよ」



「なんすかそれ。犬めちゃめちゃ可哀想だけど、奥さん良い人っすね」



ふたりでケラケラと笑った。尾関さんはとても甘いマスクをくしゃっとさせて笑う。笑うと八重歯が出る。



「あー笑い疲れたー。ねぇ、辰也くんってさぁ、この世界に入ってなかったら何したかった?」



「パイロット、とかですかねー。世界中を飛び回ってみたかったですね」



「おー、辰也くんはティアドロップ似合いそうだもんね」



「ティアドロップ…? 飴ですか」



「ハハハ、違う違う。サングラスの形の名前。ほら、パイロットがかけてるカッコイイサングラスあるじゃない」



「あー、あれ、そんな名前なんですね」



「そうそう」



「尾関さんは、何したかったですか?」



「私は、田舎で小さなお店とかやりたかったなー。好きな人とふたりで経営してさ。その土地で採れた新鮮な野菜を使ったスイーツとか売ったりしてね」



「へぇ、意外ですね。でも、小さいお店で働いてる尾関さん、なんか良いですね。可愛いらしいと思います」



「えーほんとー? じゃぁ、引退したら、そうしようかな。一緒に田舎に行こうよ、ね?」



「ふふ、引退って、いつの話しですか」



俺は相変わらず何も伝えず、この人との関係を崩さず、この人を傷つけないように、ただ、側にいる。


俺はこの数日間の疲労と酒で、頭がふわふわと浮くような眠気に襲われ、あくびをひとつした。



「辰也くん、眠い?」



「今週は疲れましたからね。少し、眠いですねぇ」



「じゃぁ、寝室行くかい?」



「ここで、寝ても良いです」



「ダメだよ、風邪引いてしまうから。ほら、…おいで」



体がふわりと浮いた。尾関さんは俺を抱えると、寝室へ俺を運び、俺はベッドの上に転がされる。



「尾関さんも寝ましょうよ」



そう眠い頭を引きずりながら尾関さんを誘うと、尾関さんは寝ている俺を見下ろして、いつものように楽しそうに笑う。



「そうだね、今日は最後の夜だもんね」



その言葉を聞いて、そうか、今日で最後かと、考えていた俺に、尾関さんは甘く唇を寄せる。軽いキスだった。唇を離すと、また唇を重ねる。今度は、甘ったるくて、熱っぽい。するりと尾関さんの腕が伸びてきて、俺の手を頭上でまとめて紐で固定し、そのまま股の間に割って入った。なんだか様子が、少し、違う。



「…尾関さん?」



尾関さんは悩みながら、何かを隠しているようだった。



「最後の夜は、うんと楽しまなくちゃ、そうでしょう?」



「あの…」



いつものように微笑んでいるが、いつもと違う。

尾関さんは俺の太もも手を這わせると、途端に、優しい仮面を脱ぎ捨てた。



「私に思い出を頂戴ね? 結婚したら、しばらくは会えないだろうから。辰也くんに会う口実を作るのは、少し、難しいからさ」



「待って下さい、…何を、するつもりなんですか」



両手は頭上で束ねられ、抵抗が出来ないように上を取られている。そのせいで全く身動きがとれない。逃げることも、抵抗することもできない。


尾関さんはやけに冷たい顔をして、引き出しから小箱を取り出し、その中にあった二本の注射器を手にした。



「大丈夫、怖くない、気持ち良くなるだけだから。いつも以上に、快くなるだけだから」



「尾関さんっ!」



尾関さんは慣れた手つきで粉をスプーンにのせ、下から火で炙る。粉は液体へと変化し、そこに綿をのせ、染み込ませた。



「父をヤクで亡くしてるのにね、母のヤク中だった姿も見てるのにね。やっぱり私はヤクをやめる事はできないよ。遺伝かな、だとしたら笑っちゃうな」



その綿に注射針を軽く差し込み、一気に吸い上げる。透明な少しドロリとした液体が、注射器の中に満たされ、尾関さんは空気を抜くと、俺の目を見下ろした。


得体の知れないクスリほど怖いものはない。


何が起こるかわからない、死ぬかも知れないその液体。尾関さんは俺の太ももへゴム管を巻き、血流を止め、注射針を肌と平行に刺した。痛みに眉間にシワを寄せていると、尾関さんは「大丈夫だよ」と優しく一言呟く。ゴム管を外すと、クスリが一気に体内へ流れ込んだ。


怖い。


ただ、それだけ。


尾関さんは、腕を捲ると二の腕に同じクスリを注射し、中身を全部押し込むと、深呼吸する。



「尾関さん…」



しばらくすると、徐々に心臓が早くなっていくのがわかった。信じられないほど脈打ち、何もしていないのに、体内が熱く燃えるように痺れていく。


イかせてほしい。


頭の中はそれだけになった。

まるで発情期のサルみたいだった。何もしていないのに先端から液体が溢れ出て、熱くて、訳がわからなくなっていた。



「あーやっぱり、キメてからセックスするの、たまんないね。なしもそりゃぁ快かったけどさ、比べもんにならないよ。やっぱこれ、最高だよ」



尾関さんの目は、完全に据わっていた。俺は恐怖心に何も言えず、ただ、体を強張らせている。



「ひくついてるよ、辰也くんのそこ。もう、ジンジンしてヤバイでしょ? このおクスリ、みーんな大好きになるんだ、効果がえげつないからね」



尾関さんは俺の唇に触れ、指をしゃぶらせると、その濡れた指先を俺の中へとねじ込んだ。俺が短い悲鳴を上げると、尾関さんは楽しそうに笑った。


こんなはずじゃないのに。気持ち良くなりたいと体が疼いて止まらない。欲は次から次へと溢れ、どうでもいいからイきたかった。


尾関さんは自分のそれを握り、俺の中へとぐっと突っ込んで幸せそうに笑う。優越感に浸るその人の顔は、もう、俺が同情した男ではない。


そこから記憶が飛んだ。


気が付くと、体中がヒリヒリと痛み、腰は動かせないほどの激痛に襲われる。ゆっくり上体を起こすと、白いシーツはところどころ血で汚れている。


かなり記憶が飛んだらしい。

血まで流れているのに、何ひとつ覚えていない。


たくさんの血の痕と、身体の至る所に残る縄の痕や掴まれた鬱血痕。それにどうやってついたか分からない切り傷。そこから考えられる行為は、決して"ノーマル"なものではないだろう。身体中の重い痛みに、俺は顔をしかめた。何をされたのか考えれば考えるほど、気分が悪くなる。


あの人の本性は、どうしたってこっち側か。


人をオモチャ同然に扱って、満足そうに眠るような、そんな男。


けれどこれで、この人ともお別れ。

俺はきっちりと約束を果たしたのだから、この人が俺を脅す理由もなくなるだろう。


もう二度と、会う事もないのだろう。


体はどこもかしこも痛み、俺はつい眉間に深い溝を作りながら立ち上がった。



「…いっ…てぇな」



体も心もきりきりと痛む。

もう帰ろう。


これですべて終わりだ。

俺は俺の世界で、尾関さんは尾関さんのいる世界で。

交わっちゃいけなかったのよな。


俺はひとり、トイレへ入り、気持ち悪さからしばらく吐き続けた。


わけのわからない涙が溢れ、鼻水も垂れてくる。


何がそんなに堪えたのだろうか。

なぜ、こんなに泣いているのだろうか。

何のための涙なのだろうか。


どこが痛いのかなんて分からない。気分はどんどん悪くなり、胃の中の物を全て吐き出しても、気持ちが悪かった。


早くここから出たい一心だったが、体の痛みと気分の悪さに立っていられなかった。


クスリのせいだろうかと、俺は大量の水を飲んでは、また吐き出した。


しばらくそれを繰り返すと、少しだけ体が楽になる。

体の至る所に血がつき、ギトギトと気持ちが悪い。シャワーでも浴びれば気分は少しはスッキリするかと、裸のまま脱衣所へ行く。ふと、鏡に裸が映る。



「…うっわ」



こうして鏡で全体を見てしまうと、自分の体なのに違和感を感じてしまう。


俺の体は、別の人間のもののようで、噛まれた痕が無数にあり、内腿には刃物で切られたような傷があり、それは割と深く切られていた。脇腹は殴られた痕のように、ブス色に変色しているし、髪にも血がべっとり付いている。


何だこれ。喧嘩でもしたのか。

この体はどう見てもセックス後じゃないよなと、自分の体を見ながら引いていた。


俺はため息混じりに体を眺め、熱いシャワーを浴びる。全てを洗い流したかった。熱いシャワーは切り傷にしみて、体全体がヒリヒリと痛んだ。それでも何故か、全てを流したくて、痛む傷を無視しながらシャワーを浴びる。


シャワーを終えて寝室へと戻ると、尾関さんはまだベッドの端で、猫のように丸くなって寝ていた。


俺は裸のまま、その隣に横になり、携帯で一枚の写真を撮る。


これがどこまで効果があるのかは分からないが、武器を持たない弱い者は食われるこの世界、少しでも武器は多い方が良い。


眠っている尾関さんを横目に、寝室に脱ぎ捨てられていた服を一枚一枚手に取って着替える。シャツもスーツも、シワだらけ。スーツの尻ポケットに携帯を突っ込み、さっさと帰ろうとドアを開けようとした時だった。



「あれ、…辰也くん、もう帰るの?」



その時、尾関さんは起きたようだった。眠い目を擦り、上体を起こす。その呑気な声色を聞きながら、俺は尾関さんを見下ろした。



「これで約束は果たしました。筋は通しました。もう二度と、プライベートであなたに会う事はありません」



「二度と?」



尾関さんの目の色が変わったのを見て、俺は淡々と続ける。



「シロにも二度と近付かないで下さい」



尾関さんはその言葉を聞くと目を細めて、「なにそれ」と呟く。タバコに火をつけると、俺を見上げて大きな溜息をもらした。



「あーんなに気持ち良さそうに喘いでたのに? 私は単純に君の事が好きだから、離したくないんだけど。でも君が相手してくれないなら、君の友達に頼んでみようかなぁー…」



「シロに近付いたら、次はないと思って下さい。出るとこ、出ますんで」



「脅してんの?」



「どう捉えてもらっても構いません。でも、会長にバレるとマズいんでしょ? 結婚、破綻させる事だって出来るんで、覚えておいて下さい」



俺はそう言って携帯の写真を見せる。

傷だらけの男の下半身と、裸の尾関さん。

わかりやすいように、写真の端にはロープと使われたゴムと大量のティッシュも映してある。



「誰がどう見ても事後でしょうね」



その言葉を聞いて初めて尾関さんの表情が悔しさに歪んだ。



「シロに近付いたら、会長の娘に送ります。あんたがどういう人間か、もっと、わかってもらえる事でしょうから」



「……ガキが」



「えぇ。俺はまだまだペーペーですから、良い勉強になったと思って、これは忘れます。だから、あなたも、少しは真っ当に人を愛して下さい」



携帯を仕舞い、俺は部屋から出ようとする。



「潰すよ。君の組」



そう脅しを掛けられる。

俺はその言葉を無視して、その場を去った。


シロには言えない秘密が増えた。

墓場まで持っていかなければならない、面倒な秘密事が。


でもこれで何もかも落ち着いてくれりゃぁ、良い方だろうな。そう、思っていた。


でもそれは甘かった。

あの尾関という男は、俺が思っていた以上に厄介で、全てを壊しても、満足しないような男だった。


たったひとりの男のせいで、全てが壊される。


じりじりとあの男は俺の首を絞め続けた。

長い年月を掛けて、じりじりと。


組織のトップである本家の会長が病気を機に引退すると噂になり、跡目に関して色々な噂が広がった。そのせいで全ての組でざわざわと不穏な空気が流れ出す。誰が言い出したかは分からない噂。信憑性が欠けるのにどうしてだろうか、どんどんと、その噂を信じるやつらが増えていった。


少しずつ、少しずつ、風向きがおかしくなり、気付いた時には既にもう遅かった……。

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