6. 彫師と若頭

俺とシロの関係は、親友、という言葉がもっともぴったりくるだろう。あの日以来、シロは俺の胸を借りて泣くこともなく、弱音を俺に吐くこともない。


シロの側にいて、シロを支える。

けれどシロは俺に頼ることもなく、日々、淡々と時間だけが空虚に進んでいった。


シロが家に転がり込んできたあの日から、1年が過ぎた。


シロは先日、大学をやめた。


理由は彫り師になりたいから、だそうだ。大学での成績は良かったのに、あっさりとそれを投げ出し、シロは凛太朗さんと呼んでいる有名な彫り師の元へ弟子入りした。シロは仕事場近くの小さなアパートを借り、俺はほぼ毎日そこへ入り浸っていた。



「シロ、明日、何時頃帰ってくんの?」



「明日? 明日は、夕方には帰れると思うよ」



「そっか」



「なに、サプライズでもしてくれんの?」



明日はシロの誕生日だった。

だから、サプライズをしてやろう、とは思っていたが、まさか本人の口から言われるとは思わず、俺は飲んでいたビールで咽せ、シロはその姿にケタケタと笑っている。


なんとも意地の悪い男だ。



「ごめんごめん。辰也は相変わらずだなぁ」



シロは咽せた俺の背中をポンポンと叩きながら、可笑しそうに笑っている。



「どういうことだよ、相変わらずって」



「相変わらず素直、ってこと。隠し事が苦手で、すぐ顔や行動に出て分かりやすい」



それってヤクザにとっちゃ致命的なんじゃないのかと、俺はシロを見上げながら思った。



「てか、いいの? 若頭は組を背負っているのに、ほとんど毎日僕のとこ来ちゃって。晩御飯作ったり、朝ご飯作ったり、なんかもう主婦みたいだよ?」



どきりとした。

迷惑、なのだろうかと思うと途端に怖くなる。

拒絶されたらどうしよう。いくら親友とはいえ、毎日飯を作るのは異常だよな…。そう、だよな。そう思い始めると、怖くなり、動悸が止まらない。


拒否されるのは、やっぱり、怖い。



「わ、悪い。…迷惑なら、迷惑って言ってくれて良いから」



焦る俺に、シロはふっと笑う。



「迷惑なわけないじゃない。僕は君と一緒にご飯食べれるから嬉しいよ。ただ、組は大丈夫なのかな? って。いつもここにいるから、心配になっただけだよ」



シロは俺の顔を覗きこむと、首をコテンと少し傾ける。


その仕草に心臓がドキリとした。

熱くなる頬を隠すように、ビールを飲み、シロから視線を外して口を開いた。



「組の方は大丈夫だよ。それに、若頭ってのも名前だけだし。俺の基本的な仕事って、若衆の面倒みて、仕事を管理してるだけで。ほとんど組を仕切ってるのは諏訪だし。俺は若衆頭、って方が名前的には合ってるかもしれない。まぁ、俺はポストが必要だからそこにいるってだけでさ、本当、お飾りみたいなもんだしよ」



「ふーん、でも、組の若頭には変わらないだろ?」



「いやまぁ、…そうなんだけど」



そうなんだけど、でも本当に、若い連中のリーダーってだけ、ほとんど仕事はしていなかった。責任を取るだけの存在、なような気がしてならないし。


そんなことを考えていると、少しの沈黙が生まれた。


シロは何を考えているのか、相変わらず分からないから、俺は沈黙を嫌い、話を戻した。



「そんなことよりさ、お前、明日、誰かと祝う約束あんのか? あるんなら本当、そっち優先してくれて良いからな。サプライズ、バレちまったけど、俺のは別に、」



「ないよ。だから祝ってよ、ね?」



シロは甘くて優しい。



「ん、…じゃぁ、遠慮なく、祝うわ」



そう照れを隠しながら言うと、シロは「ありがとう」とまた微笑む。



「あぁ、でもね、アルコールはダメなんだ。明日、入れ墨いれるから」



「へぇー、明日…明日!? まじ!?」



誕生日の当日に入れるのかと、俺は驚いた。確かに、ハタチになったら入れると言ってたけど、まさか、その日に入れるとは、よっぽど楽しみにしていたのだろう。


よっぽど入れ墨に、思い入れがあるんだろう。


それは、こいつにとって大切だった人が背負っていたから、だろうか…。



「デザインも決まっててさ、背中全面に鳳凰がいて、太ももまで鳳凰の尾っぽがくる予定なんだ。こう、骨盤をなぞって、鳳凰が体に住み着いたような感じ」



それはかなり広い範囲に墨が入るという事だった。


想像できねぇなと、俺はつい眉間にシワを寄せてしまう。



「何もない背中は今日で最後、なんだな」



そうぽつりと呟いた、なんでもない一言にシロは甘く微笑んだ。



「うん。…見ておくかい?」



シロの背中を見る。シロの何の気なしの提案に、俺はつい右往左往してしまう。軽く動揺し、落ち着かせようと、ビールを一口飲んで冷静なふりをしようと必死になるが、熱い頬は隠せそうにもなかった。



「ん。…見ておく、かな」



つい、漏れた本音にシロは口角を上げたまま、厚手の白い長袖を、首の後ろ側から引っ張り、するりと脱いでしまう。


何度見てもやはりシロの体を見ると、心臓の音が早くなる。風呂だって一緒に入るのに、なんで慣れてくれないんだと、俺はため息をついた。



「この何もない背中とはお別れだよ」



シロは俺に背中を向けると、俺の方に顔だけを向けて、そう言った。俺はそっとシロの背中に触れた。親父につけられたというタバコの痕は、いつ見ても痛々しい。


けれどそんな痛々しいその背中に俺は甘く唇を寄せたかった。この傷も全て、こいつの証で、いつできた傷なのかも、俺は知っている。ひとつひとつの過去を知っている。


その傷全てに舌を這わせたい。


しかし、シロから求められない限り、俺は何も出来やしない。


だってこいつにとって俺はただの親友で、こいつの中にはあの人が残っているのだから。俺がこいつの背中にキスを落とす日は、来ないのかもしれない。


だとしても、こいつにとっての幸せが俺の幸せ。


こいつの側にいて、支えて、守ってやる。それが俺の出来る唯一の事。


罪を滅ぼすのに、俺の事を愛してほしいだなんて、傲慢すぎる。



「……お前ってほんと、色、白いよなぁ」



俺は自分の衝動を押し殺した。



「日焼けするとすぐ赤くなるから良い事ないよ。僕は辰也みたいに褐色の肌が羨ましい。辰也はまだ、墨は入れないの?」



「んー、まぁ、そのうちな。何を入れるかも決まってないしよ」



「そっかぁ。若の背中には何が入るのかな?」



シロは目を細める。ちょっとイタズラな笑みだった。


俺の瞳をじっと見て、俺のことを、あえて若と呼ぶのは揶揄っている証拠だった。



「若って言うなよ。お前に言われると、なんかすげぇ違和感」



「でも、いいじゃない、若。ふふ、なーんか、いやらしいよね」



「いやらしい…?」



「うん、いやらしい」



シロの楽しそうなイタズラな顔。

いやらしい、だなんて、こいつは俺を揶揄っているだけ。わかってはいるけど、何故、俺にそう言ったのか、こいつの心の中を読みたくなる。


心の中を読めりゃぁ、苦労はしないのに。


…いや、読めたって、こいつがいやらしいと言った事に意図なんかなくて、ただ揶揄って言っただけで、たかがシロの一言に振り回される自分が嫌いになって終い、なんだろうな。


俺はその日もまた悶々としたまま、やり過ごす。


次の日、シロの背中に大きな鳳凰の筋彫りが完成した。脇腹や、下腹部、そして太ももにまで尾を伸ばした鳳凰は、見事としか言う他なく、これに色がついたなら、息を飲むほど美しいのだろう。


シロとふたりでケーキをつつき、シロが欲しがっていたアメリカの古い映画のビデオをプレゼントする。シロは大喜びで、俺はそこまで喜んでくれるとは思わず、心底嬉しくなった。



「この映画、手に入れるの苦労したでしょ?」



「いや、そんな事、ねぇよ」



本当はかなり苦労した。廃盤になった幻のアメリカンノワール映画。


都内の店という店を梯子して、探しに探しまくっても見つからず、最終的には諏訪に頼みこんだ。諏訪のコネとリサーチ力により、1本だけ隣町の古い骨董品屋で見つかった。俺は隣町まで行くと、そのビデオを買い付け、プレゼントっぽく、包装紙でラッピングまでするという舞い上がりようである。


諏訪には青春だねぇ、と軽く笑われたが、そんな事どうでも良い。こうしてシロが喜んでくれたのなら、これ以上に幸せな事はないのだから。



「この映画面白いんだよね。懐かしいなぁ」



懐かしい、か。

その言葉に、俺の幸せ気分に少しの引っかかりが出来る。また、もやもやしてしまう。


こんな古い映画、こいつはいつ、誰と、どこで、見たのだろうか。



「そう、なんだ」



けれど俺はシロに、なぜそんな古い映画が好きなのかと聞くことができなかった。俺はちっとも変わらない。いや、変われない。言いたい事も言えず、感情を殺しては口を閉じる。


好きなヤツの側にいて、そいつの幸せを願う。それはかなり苦しい事で、思った以上に自分の精神も身体も参っていた。欲を満たせないというのは実に面倒でややこしく、どうしていいのか、まったくわからない。


諏訪に聞いても、「他のやつとヤッちまえよ」と言われ、俺はとてつもなく諏訪が嫌いになった。


でも、諏訪は間違ってない。

このままだと俺は一生、シロの隣で誰にも愛されず、経験がないまま悲しく死ぬのだ。


自分にとっては拷問のような日々、だけど、そうであるべきなのかもしれない、と思うのも確かだった。


シロを、あの時守ってやれなかったのだから。


そうして、ただ日々を悶々と、淡々と過ごし、3年の歳月が過ぎた。俺は未だに何も出来ずに、つまらない日々を過ごしている。そんなある夜、俺は驚くほど生々しい夢を見た。シロが俺の口に自分のモノを咥えさせ、体中を愛撫して、それから俺の中の奥深くへ突っ込む、過激で甘い夢。


シロの目はとても攻撃的で、妖艶で、俺は苦悶し続けた。



『辰也、舌、出してごらん』


『なに、すんだよ…』


『いいから、ほら、舌出して』



後ろを突かれながら、シロは長い指を俺の舌に絡めると、そのまま口内を犯した。



『シロ…イキそう、イキそ…』


『いいよ、イって』



その言葉を合図に俺は欲を放った。…のが、夢であり、最悪な事に夢精し、気持ちの悪い朝を迎える。


こんな事を度々やっては後悔する。


初体験は、好きな人とがいい。

もうここまで来ちまったからには、あいつ以外考えたくねぇ。


という意地みたいな頑固な望みがある反面、このままなら、俺はきっと、ずっと、誰ともまぐわう事なく死ぬんじゃねぇの、という焦りもある。


でも、シロ以外とはヤりたくねぇな…、そう繰り返すばかりだった。


Tシャツ一枚、下半身は何も身につけず、汚れた下着を持ってランドリールームへ行くと、諏訪が朝からきっちりとスーツを着て、洗剤を洗濯機へ入れていた。



「わー、諏訪ちゃん起きんの早いな。…パンツ入れて良い?」



「水洗いしてから入れて下さい」



「はい、すみません」



諏訪の隣にある洗面台で水を出し、ゴシゴシと洗い、それをポイっと洗濯機の中へ放り込んだ。諏訪はタバコを咥えたまま面倒くさそうに、洗濯機の開始ボタンを押している。俺はそのままシャワーを浴びようと服を脱いだ。



「辰也さん、あなた、いつまで童貞貫く気だよ」



もちろん、諏訪には何もかもがバレている。

居心地が悪いったらねぇ。



「余計な御世話だぞ。そのうち捨てるから、急かすな」



「自分でも抜いておけよ」



「わかってるよ」



全く。わかってるんだよ。

言われなくとも、わかってはいるんだ。


けど、自分で抜いても何だか満たされず、自慰は好きじゃなかった。だから、自分で抜く事もほぼなく、そして初めての相手に強く固執している俺は、何をどう足掻いても、常に欲求不満だった。


俺はシャワーを浴びながら、悶々としていた。さっきの夢はとてつもなくリアルで、ヤったこともないのに、あの感覚はすごく生々しかったな、と。


単純な体である。


夢を思い返すだけで、それはまた反応した。俺はため息混じりに眺めた。ボディーソープを手のひらに少しのせ、体を洗うように、それに手をかける。諏訪がすぐ外にいるのはわかっていたけど、俺の手は、あの夢に取り憑かれたように動いた。



「はぁ…っ…あっ…」



甘く漏れる息は、シャワーの音で掻き消される。頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなる。



「シロ…」



シロが欲しくて堪らなかった。


手と夢は器用に、俺を悦楽へと導く。

甘い快楽の波は俺をあっさりと攫って行った。


俺は呼吸を整えて外へ出ると、諏訪はもうそこにはおらず、俺はそそくさとTシャツとスウェットに着替えた。遅い朝飯を食おうとキッチンへ行き、諏訪の作る飯を待つ。


諏訪はここでは母さんだ。



「ほらよ」



「いただきまーす」



焼き鮭、豆腐の味噌汁、グリーンサラダ、厚焼き玉子が二切れ、ほうれん草の胡麻和え、リンゴ入りのヨーグルト、納豆、そして白米。健康的で美味い朝飯。我らが諏訪かぁちゃんは俺が食べるのを、コーヒーを飲みながら待っている。



「今日は14時から高津ンとこの若衆が挨拶に来る。それから15時に、新しい年少組のリーダーのー…なんつったか、…まぁ、そいつがこの前の暴力事件の詫びで来る」



「増岡くん? 来るんだ、了解」



「向こうは指詰めるって騒いでるみたいだけど、どうすんだ?」



「うげー嫌だよ、そんなの! 他人の指なんて要らないわ!食事中にやめてくれよ。なんか昔のヤクザみたいな子だよな。若いのに、考え方が恐ろしい」



「辰也さんよりは若いな」



「よなー? もっと話し合いで解決しようと思わないのかね」



俺は殺すとか、指を詰めるとか、そういう落とし前のつけ方が大の苦手だ。それがこの世界のルールだと、親父にはよく怒られたが、未だに納得できていない。だったら金、全て金ってのが今の主流だが、それも頷けない。


じゃぁ何もせずに、はい許します、なんて心優しい若頭は不要で、イメージでナメられては一貫の終わりだという事で諏訪が良い感じにいつも調節してくれている。


組員が抱く俺のイメージは、諏訪が作ったもの。

俺は心底、こんな稼業向いていないと思ってしまう。



「辰也さんは相変わらずだな」



「何が」



「ヤクザのクセに暴力を嫌う。少し優しすぎるんだよ、あなたは。いつか付け入られないようにしろよ」



「…はいはい」



「まぁ食い終わったら、とっととスーツに着替えて来いよ。今日はちょっと行かなきゃいけないところがある」



「ふーん。何処?」



「兄貴ンとこ」



「げ、あの件か。うわー、しんど。行きたくねぇ」



「カシラとして、詫びを入れなきゃならんな。スーツ着て、髪もきちんと整えて来いよ。相手は向こうの若頭だ。あいつは見た目と違ってゴリゴリのヤクザだ。食えない野郎だから、足元見られてナメられないよう、気をつけろよ」



2日ほど前、ここのチンピラがバカをしでかした。ベロベロに酔って繁華街で絡んだ相手が悪く、ここの組の兄貴分にあたる、翔龍会の幹部と大喧嘩をした。


最悪なことに喧嘩をしたシマは、その組のシマであり、完全にこちらに非があるということになった。その大馬鹿共は、兄貴分の組のヤクザを、あろうことかボッコボコにしてしまい、向こうの若頭はカンカンらしく、俺を呼びつけた、というわけである。


なんといってもあの組は、会長同士、つまり俺の親父と翔龍会の会長の仲があまり良くない。同じ盃を貰っている、つまりは兄弟分なのだが、お互い腹の探り合いを長い事しているように見える。


だからかもしれないが、俺とその若頭もあまり話をしたことがない、が、ないくせに仲が悪い。


7つほど年の離れたあの若頭、尾関 将太(オゼキ ショウタ)という男はアメリカの大学を出ていて、秀才であり、いつも俺を小馬鹿にしている。それなのに、案外人望が厚く、慕われていた。仕事もできて、仲間からも尊敬される、見た目の良い秀才ヤクザ。


それが、気に食わないのだ。


嫌だ嫌だと言うものの、詫びというのはこの世界ではとても大切で、俺は黒いスーツを着て、ネクタイをきっちりと締め、髪を見事な七三分けにした。運転手と諏訪と共に、翔龍会へと足を運ぶ。


帰りたい。

すでにとっても帰りたい。


シロに会いたい。今日は仕事が終わり次第、即行シロの所に帰ろう。


何か楽しい事が待っていれば、この最悪な時間も耐えられる気がした。だから今晩は、シロと何を食おうかと、そんな事ばかりを考えている。


しばらく車を走らせ、到着した先はビジネス街の外れにある高層ビルだった。外資系のオフィスという感じがして、それがまた鼻につく。エントランスを入ってすぐ受付を通り、俺は欠伸を堪え、諏訪と一緒に案内役の男の後をついて行った。


最上階フロアにある事務所。部屋の奥に位置するのがそこの若頭の部屋らしい。事務所の入口からはその部屋が影となり見えなかった。


コンコンと案内役がノックし、「黒崎会若頭、黒崎 辰也様と若頭補佐 諏訪 文武(フミタケ)様をお連れしました」そう低い声で伝える。「入って」とドアの向こうから声がした。男はドアを開け、俺たちを中に入れると、自分は頭を下げて外へ出た。


この案内役を含め、事務所にいる奴らも全員、どう見てもヤクザには見えなかった。が、諏訪も言う通り、ゴリゴリのヤクザである。



「ご無沙汰しております」



諏訪がそう無表情に言うと、尾関の若頭、いや、言い慣れた呼び方だと尾崎さんで、彼は立派な深い朱色の革椅子からスッと立ち上がり、「お久しぶりでした」と微笑む。スタスタと入口に立っていた俺たちの前に来ると、爽やかに挨拶する。



「お久しぶり、辰也くん」



彼もまた俺の事を黒崎の若頭とは言わない。



「お久しぶりです」



昔からいけ好かないこの男は、アメリカ仕様な体格の良さと甘いマスクと、物腰の柔らかさで、夜の世界ではひどくモテている、と有名だった。シロより背が高いよな。デケェな、と俺は見上げながら思った。



「…諏訪さん、今日は、辰也くんとふたりで話したいから、君はそこらへんブラブラしてくれる? ドアの外で待ってくれていてもいいけど」



そう笑顔で諏訪を外へ出そうとした尾関さんの言葉に、俺は正直戸惑った。この人とふたりになるのは何よりも避けたかった。小馬鹿にし、人のプライドを傷つけ、人を見下す。人を苛立たせては隙を作らせ、不利な提案をしようとする。だから俺はこの人が大の苦手だ。



「それは無理なお願いですね。私はこいつの補佐ですので、カシラに何かあっては困ります」



「何もないよ。僕の側近だって外にやってるし」



「しかし…」



「そっちがどうこうモノを言える立場じゃないってのは、わかってんだろ?」



尾関さんの目の色が変わり、それを受けて、諏訪の目の色も変わる。こんな小さい事件で、揉め事は勘弁してほしい。


それに今日のは、話が拗れるような展開にならないほど簡単な詫び。ただお詫びとして金を渡し、謝り、一件落着。そんな事で諏訪と尾関さんが険悪ムードになる必要はないのだが。


だから俺は諏訪を見て、口を開いた。



「諏訪、いいよ、下がってて。尾関さん、話し、始めましょう」



諏訪の眉間に深い溝ができ、尾関さんの口角がいやらしく上がる。諏訪は俺の横から離れようとせず、俺がもう一度、「諏訪」と名前を呼ぶと、諏訪の鋭い目が俺を見下ろした。



「大丈夫だから」



そう言うと、諏訪は不満な表情を浮かべながら、「外で、待ってます。失礼します」とドアを開けて出て行った。尾関さんは俺にソファに座るよう言うと、自分も対面にあるソファに腰を下ろして長い足を組んだ。



「君んとこの狂犬、本当に怖いよね。ちゃんと躾といてよ」



尾関さんはそうハハッと笑い、俺を揶揄っている。俺は早速その言葉に苛立ったが、それを堪え、「本題に入りましょう」と静かに返事をする。


持ってきた鞄の中から札束をふたつテーブルに出し、「見舞金です」と差し出した瞬間、尾関さんはその札束を無視して口を開いた。



「私のとこの若衆の治療費、500万ほどかかったんだ。保険効かなくてさぁ。顔面ボコボコにされたヤツがいてね、ほとんどそいつの整形代なんだけど。あと、ひとり、足に障害残っちゃったヤツいてさ、使い物にならなくなったわけ。でも、そいつの生活も少しは見てやらなきゃね? 今、払える? 辰也くん。500万」



ふざけた値段を当たり前のように吹っかける。

部下が探りを入れたが、ボコボコにした相手はそこまで重症ではなかった。何が整形代だ、ふざけんな。



「この金額以上は出せません」



「たったの200万で済むと思ったの? 店の看板とか壊れちゃったし、色々と修理しなきゃならないのよ?」



この男は心底嫌いだった。

目の前で人を見下したように足を組み、タバコをふかし、気だるそうに俺を見る。



「何の計算もなしの200万ではありません。話によると、ひとり、確かに骨折したみたいですが、足、ではなく腕、ですよね。それも障害が残るような重い怪我でないと伺いました。他の連中は顔を殴られ、ボコボコみたいですが、整形するほどではないと、聞いてます。顔の骨を折ったやつはいないと」



「何処の情報だい、それ? そんな嘘っぱち、まさか信じてないよね? まったく、事を荒立てたくないんだけどなぁ、辰也くん。そっちが悪いのは充分承知でしょ? 酒に酔って喧嘩吹っかけてきて、ボコボコにしちゃぁ、ダメダメだよ。それにこっちのシマに入って騒いだのは、君んとこのチンピラなんだから。さて、残り300万、どーすんのかなぁ」



治療費は、ざっと計算しても100万にはいかない。色々とイロを足して200万なのだ。事を荒立てたくない、非を認めた上での謝礼だ。


なのに、この男は500を出せと要求してる。足元見てナメてるわけだ。



「…なら、見舞い行きますよ。そちらさんの部下に、直接謝らせて頂きます。300万もその時に用意します。こっちの殴ってしまった若いの連れて、詫び、入れに行きますよ。なので、病院、教えて下さい。そうすりゃぁ、解決するはずです」



本当に、そんな大怪我を負った幹部がいるならな、と俺は静かに尾関さんの返事を待った。



「それはよした方が良いんじゃない?」



でもこの男の頭の回転は早い。



「問題起こしたヤクザがただ謝りに病院に来る、なんてだーれも考えないよ? うちと君ンとこは、仲悪いんだから、尚の事。もしかしたら、大怪我して上手く動けない幹部連中を殺そうとしてるかもしれないじゃない」



「そんなわけ…」



「ないかな? 別件でもぶつかってるよね? 早田ノ橋の件でも、シノギでゴタついてるじゃない。その矢先、コレでしょう? 仮に、君達が見舞いに来たとして、何か起きたら周りはどう思うかな? 君は自分ンとこの看板に泥を塗った事になるよね? だったら来ない方がそっちの組の為、じゃないかな」



口が上手いこの男は、頭もキレる。それでここまで登りつめたようなものだから、俺みたいなペーペーが口で、頭で、勝てるはずもなかった。だからこの人は、頭がキレ、この世界をよく知ってる諏訪を外に出したんだ。


俺はやられたと、ため息が漏れた。足に障害の残った男なんていないのに、その証拠がない。


しかしそれを今この人に聞いたところで、うまくはぐらかされて終わるのは目に見えている。


考える時間が欲しい。そう無言でひたすら考えていた俺に、尾関さんは考える時間を与えないよう、圧をかけるように言葉を発する。



「辰也くん、お父さん、呼ぶ?」



この人は賢い。人の弱みを熟知している。

そしてそれをなんの躊躇いもなしに、脅しに使う。



「いえ…」



親父を呼ぶなんて、そんな恥ずかしい事はできない。ただでさえ、俺はヤクザっぽくないと言われながら若頭の座にいるのに、こんなチンピラの事件を収めることもできないなんて、若頭失格と言われてもおかしくはない。


そうなれば、それこそこの組の恥だ。


この人は、それを分かった上で言ったのだろう。俺はどうすれば良いのか。何が正解か。



「…俺も一応は若頭です。部下の話を聞く限り、200万が妥当。この点を譲るわけにはいきません。この金額はかなり上乗せした金額です。兄弟分として出せる金です。それぞれの治療費、プラス、そちらのシマでの出来事ですので迷惑代も含めています」



尾関さんはタバコをふぅーっと吐くと、「そう」と呟き、デスクまで歩くと電話を手にした。何をしてるのか、と考えている間に、尾関さんは俺を見ながら電話相手に口を開く。



「もしもし、こんにちは。私は翔龍会、若頭の尾関と申しますが、黒崎会長います?」



こいつ、と俺は焦り、尾関さんの元へ急いで駆け寄り、その電話を切った。尾関さんは焦る表情丸出しの俺を見下ろすと、「あと300万」とだけ呟く。


本当にこの男は嫌いだ。

一緒の空気を吸いたくないほど、嫌いだ。



「尾関さん、300なんて出せません。それくらい同じ若頭ならわかるはずです。500も出すはずがないと。本当は何が目的なんですか」



「500万、妥当だと思うなぁ。足に障害残った男ねぇ、若いけど俺の右腕だったんだよねー。用心棒として結構買ってたんだよ。でももう、使い物にならないやねぇ? でもしばらく面倒見てやるのが筋だろ? あいつ、離婚してるから金かかるのよ。だから、あいつから仕事を奪った君にもその責任、あるでしょう?」



俺は正直、言葉を無くした。何を言っても、同じやりとりを繰り返すだけだ。勝てるわけがない。この人とは、経験値が違う。そう思わざるを得ない。


殴られた幹部連中をきっちり調べてこなかった俺が悪い。こんな風に転がるなんて、諏訪ですら思ってなかったろう。



「だから、500払えと?」



これはたかがチンピラの喧嘩。

もっとすんなり、簡単に金で片がつく内容のはずだった。200なんて多めに見繕ってるのだから、何の文句もなく、受け取って終わり、なはずだった。


なのに、なぜ。どうして、こうも面倒になってる?



「500万、きっちり払ってもらわないと困るなぁ。喧嘩した時、店先の看板壊したでしょう? あれ、結構かかるんだよねー、あの看板、特注だったから。それに、店前で騒いじゃうからさぁ、客入らなくなっちゃったし。迷惑してるんだよ? だから、治療費プラス迷惑料で、500、妥当だと思わない?」



尾関さんはふふっと笑うと、俺の目をじっと見た。デスクの上に腰を下ろして、小馬鹿にするように目尻に皺を寄せる。



「もし、払えないと言ったら、どうするんですか。また、親父に電話しますか」



「お父さんに電話かけられるの、そんなに嫌なんだね。そうだね、いいよ、他の手段も提案してあげようか」



「他の手段…」



「私に君の6日間くれたら、300はチャラにしてあげるよ。ただし、この事は秘密。私と君だけの秘密」



それが目的だったんだ。最初っから吹っ掛け、飲み込まざるを得ない状況に持って行く。


心底ふざけている。



「つまり、尾関さん、あなたの下で働けと? そういうことですか。だとしたら、それはできるわけがない。早田ノ橋のシノギでうちと揉めていますが、その情報を漏らせというのなら、それも無理な話だと…」



「そうじゃない、君の6日間を私にくれればいい。あと、」



尾関さんはタバコを持ったまま、ニタニタと嫌な笑みを浮かべている。



「お詫び、して」



そう尾関さんは、タバコを挟んだ方の手で、俺の頬を鷲掴むと、楽しそうに笑った。


瞬間、俺は全てを理解した。俺はこいつに体を預けろと言われているんだ。その6日間は好きにしていい、と。



「わかるよね? 歯は立てないでよ。痛いの嫌いだからさ」



こいつ。

どこまで人を侮辱し、逆撫ですれば気が済むんだ。


ふざけてる。こんなヤツ、ふざけてる。



「……それは、できません」



俺は怒りを押し殺し、静かに言うと、尾関さん呆れたと言わんばかりに溜息を吐き、頭を掻く。タバコを深く吸い込むと煙を吐き出し、俺の目をじとっと見つめ、ゆっくりと口角を上げた。



「最近、ひとつ墨を増やそうかと思ってさ、良い彫り師を探してたんだ。そうしたら、まだ若いけど、7番街に良い彫り師がいるって聞いて、そこに行ってきたの。話を聞いたら、あの新堂 凛太朗さんンとこのお弟子さんって言うじゃない。あの人、弟子取ってるんだーって感動してさ、ついつい話込んじゃったよね」



一気に血の気が引いた。

頭が真っ白になり、怒りなんかどこかへ消え、恐怖と混乱だけが体を支配している。



「その彫り師の子、色白で綺麗な顔してるのに、背中にゴツい鳳凰飼ってるんだよね。見せてもらっちゃった」



恐怖に背筋が凍り、動悸が高くなる。


尾関さんは机から降りると、そのまま机に寄りかかり、俺の髪に触れた。



「歯は、立てないでね?」



男が男に屈服し、服従する。

それは簡単に表すことができてしまう。


300万を無しにしてくれと、この人を説得なんてできない。討論なんてできない。頭のキレる男に口では敵わない。力ではどうか。そんなの、この人を殴っただけで大問題になる。では、親父を呼ぶのか? それこそ、もっとも避けたい事だ。


でも何より、この人は、俺の弱みを知り、最大の脅し文句を知っていた。


この目の前の男は全て、計算尽くだった。



「ちゃんと、舌、使ってよ」



俺が、この人の要求を、飲み込むことも全て。


俺がシロを守らなければならないのに、あいつが俺のせいで危険な目に遭うなんて、どうすりゃ良い。


この世界は俺が思った以上に残酷で、非道。弱い者はただ食われて終い。


俺は自分に対する弱さに苛立ち、手が震えた。呼吸が荒くなる。シロがこいつの手によって…、なんて最悪の結末を想像しては、怖くなり、どうしたら良いのかわからなくなる。


いや、俺に選択肢はない。



「ふふ、良い子だなぁ」



さっさと終わらせよう。

さっさと…。



「ねぇ、もっと、舌使ってよ。…アハハ、良いね、良い眺め」



初めてはシロが良かった。

シロ以外は嫌だった。


尾関さんはタバコをふかし、煙を宙に吐く。


きっと、こいつはこれが目的だったのだろう。上下関係をはっきりさせる事が、この人の、本来の目的。次期、会長になる男の目的。俺はこいつの下にしかなれないと、悪足掻きせず、従えと、そういう事だ。



「もっと深く咥えろよ、喉奥使ってさぁ」



髪に絡むその大きな手。

後頭部を押さえつけられ、吐きそうなほど、喉の奥まで、それを無理矢理に突っ込まれる。


俺は必死に、早くその行為を終わらせようと、熱り立っているそれの根元に舌を寄せる。ただそれをしゃぶり続けた。自分の無様な姿を思うと悔しさに全てを投げ出したくなる。


自分がこんな立場じゃなかったら…。

なんて、無駄なたらればが頭をよぎる。それでも自分の立場を理解してるつもりだから、俺は今のこの行為を受け入れた。



「そうそう、良い感じ。…ん、覚え早いね。…ふふ、辰也くんって、ほんと、いいなぁ。素質あるんじゃないの?」



ぐっと、俺の頭に寄せる手に力が入った。尾関さんは腰を突き上げると、俺はついその苦しさに目を瞑り、爪が食い込むまで拳を握った。唾液が溢れる。鼻水が垂れる。泣きたくもないのに、涙が頬へ落ちる。全ては苦しいから。シロはこんな事を、いとも簡単にやっていた。


俺にはこんなの苦痛でしかない。

楽、なんて死んでも言えない行為だ。



「全部、飲み干してね」



奥へと出された液体は生ぬるく、ドロドロと喉へひっついて、喉から胃へと落ちていった。気分が悪い。今にも吐きそうだ。それを我慢し、舌先で、ヒクつくそれを確認して、解放されるのを待った。


尾関さんは俺の口内からゆっくりとそれを抜き取ると、満足そうに、俺を見下ろす。ベルトを締めると、両手で俺の顔を掴んだ。



「あーって、口を開けてごらん?」



優しいトーンで言われたその言葉に、俺はただ従う。口を開け、男の液体を飲み込んだことを証明する。すると尾関さんはそのまま顔を近付け、唇に舌を這わせ、舌を絡めて食いつくようなキスをした。


俺は驚きのあまり何もできなかった。


だって、これは、俺のファーストキス。

それをあっさりと、こんな男に奪われた。


俺は呆気にとられたが、すぐに、今までの色んな怒りが込み上がり、ふっと気付くと目の前の男の顔を殴りつけていた。我慢していたのに、あれだけ、我慢していたのに…。


尾関さんは殴られた拍子に椅子に体をぶつけたが、たいした衝撃でもなく、殴られた頬に手を添えたまま、イラっとした表情で俺を見つめる。



「なに、してくれてんの」



冷たく低い声。事を荒立てたくないから、シロを危険な目に遭わせたくないから、あんな事を我慢したのに、これでは全てが台無しになってもおかしくない。俺は目の前の男を見上げ、言葉を絞り出した。



「あんたの、それをしゃぶったのは…好きでやったことじゃねぇ。キスは、…違うだろ」



目を合わせることができなかった。

自分は本当に、この稼業に向いていない。弱い人間だと、つくづく思い知らされる。本音をぶちまけ、罵る事もできやしないのだから。



「…え? 待って、辰也くん、これ、ファーストキスだったりする?」



尾関さんは鼻で笑うと、馬鹿にしたように俺を見下した。



「…関係のないことでしょう」



「ないわけじゃないんだけどな。…そうか、君、チェリーなんだ」



「は…?」



「童貞かってこと」



やけにストレートな言葉。この人は俺を馬鹿にして、心底楽しそうで、俺はあまりの悔しさと屈辱に言葉を失くした。



「そうか、そうなんだ」



でも無言は時として多くの事を語る。尾関さんは俺の無言に満足した様子で、「じゃぁ、明日の夜は、うんと楽しみにしてるね」そう言って、目尻にキスを落とすと俺の胸ポケットにメモ紙を入れた。


けど、それで、はい、さようなら、というわけにはいかない。



「シロ、…シロには近付かないで下さい。それは今、ここで、約束して下さい」



尾関さんはうざったそうに眉を顰め、タバコを吸うと、俺にその煙を吹きかけて、また嫌な笑みへと表情を戻した。



「君が、ちゃんと6日間を私にくれるなら、もちろん。そもそもあの場所、君ンのとこのシマだからね。私としても君が大人しく言う事聞いてくれりゃぁ、こっちもリスク取らなくて良いから助かるよ」



これは始まり。


屈辱に吐き気がした。気持ちが悪い。

男の優越感に浸る顔を見て、俺は憤り、自分を落ち着かせようと必死になった。それでも頭に血が上り、手が微かに震えている。


尾関さんは用が済んだ俺をつまらなそうに一瞬だけ見て、「もういいよ、帰りな」 と静かに言った。



「……失礼しました」



一礼して、部屋を出る。ドアを閉め、外にいた諏訪と目が合った瞬間、俺は感じたことのない安堵と、耐え難い屈辱と、恥ずかしさに、鼻がつんと痛くなった。


弱いのは昔から、この世界は向いてないと自覚してるのも昔から。


諏訪に先に車に戻るよう伝え、俺はトイレへ駆け込んだ。冷たい水で顔を洗い、口に指を突っ込み、何度も吐いた。何度吐いても、消えてくれない、ベタベタと喉にひっつく感覚。吐いても吐いても、足りない。両手は微かに震え、俺は落ち着くまでそこを離れることができなかった。


諏訪のもとへ戻ったのは、10分ほど経った後だった。



「腹ぁ壊した。悪いな、待たせて」



俺は車に乗り込んで、諏訪の隣に座る。何もなかったように平常心でいたいのに、諏訪は無表情の中に、苦虫を噛み潰したような表情を見せた。


奥歯を一度ぎりりと噛み締める仕草を、俺は見て見ぬ振りをした。



「…何された?」



低い声で言われた言葉に、俺はびくついた。バレたくない、でも、諏訪の勘は鋭くて、俺は何と言おうかと悩んだ。どう返事をしたら、もっとも納得してくれるのだろうかと。



「別に、何もされてないよ。金も受け取ってくれたし。…グチグチ言われたけど、気にしてない」



明らかに嘘だとわかる。でも、それしか言葉が見つからなかった。上手い嘘なんて思いつかなかった。それでも、何があったかなんて言いたくない。言えるわけもなかった。あんなこと、恥でしかないのだから。


諏訪は俺を問い詰めることはなく、「そうか」と呟いてタバコに火をつけた。



「諏訪、ちょっと寝かせて」



「…あぁ」



俺は諏訪の肩を借りて、目をつぶった。早くあんな出来事を忘れたい。あんな男の見下ろす目も、言葉も、俺は早く忘れたかった。


その日、仕事がゴタつき、結局シロの所へ行けたのは、深夜の2時を少し過ぎた頃だった。こんな時間に行くのは迷惑だと分かっていた。それでも、今日は、どうしてもシロの顔が見たかった。シロに触れたかった。シロの側に、ただ、いたかった。


シロに起きているかとメッセージを入れると、すぐに、起きてるよ、早くおいで、と返事が返ってくる。


シロの優しさに触れると、苦しくなる。


初めては、やっぱり…こいつが良い。


でも、それはこの関係を崩す事になる。

親友という関係を。シロの居場所を奪う事になる。


それだけは避けたい。


俺が望んで良い望みじゃない事くらいわかってるが、今は、どうしても、自分に歯止めが効きそうにもなかった。


どうせ、あの男とはヤるはめになる。

それなら…。


俺は大きな溜息をつき、いつものように、シロの家へと足を運んだ。



「おかえり」



シロはそう甘く微笑みながら俺を招いた。俺はつい、弱音を吐きそうになった。抱きしめて、泣きたい気持ちになったのが事実、しかしそんな女々しい事はできるはずもなく、「ただいま」と微笑んで、ジャケットを脱いだ。



「焼きそば余ってるけど、食べる? フライパンにまだあるけど」



「食う食う」



テーブルに余ったらしい焼きそばを置き、俺はビールを、シロは酎ハイを片手に乾杯した。酔いたかった。酔ってシロに全部ぶちまけて、今日の出来事を忘れてしまいたかった。だから、俺の酒の摂取量は異常で、飯を食べ終わる頃にはビールを5本空け、その後に、持って来ていたウィスキーを開ける。



「何か、嫌なことでもあったの?」



さすがに飲み過ぎているのは分かってる。シロがそう聞いてくるほどペースが早い事も。でも、今だけは忘れたい。飲めばどうでも良くなって、気は楽になるから。次から次へと酒は進み、シロは少し心配そうな顔をしていた。


シロに心配をかけるつもりはなかったのだけど。


何か良い、言い訳を考えなきゃなと考えるが、酒で鈍くなった頭では何も思いつかなかった。



「別に、特に何があったってわけじゃないけどよ。今日はただ、酒、飲みたい気分だった」



ウィスキーのロックを飲み干し、胃を焼く。また新しくグラスに注ぎながら、ふぅ、と強い酒に息を吐く。シロは頬杖つきながら俺を見ていた。



「辰也は僕に隠し事するの?」



ドキッとした。

いつも、俺がこいつに言っていた言葉。


そうか、俺はこうやってこいつを追い詰めてたのか…。


あぁ、しまったな。



「…そういうわけじゃねぇ、けど」



「僕には何も隠すなって言うくせに、辰也は僕に言えないことあるの?」



シロの目は怖い。まるで刑事みたいに嘘を嗅ぎつける時のこいつの目は、鋭くて、冷たくて、俺はついたじろいでしまう。


言いたくない。だから、言わせないでくれ。



「別に隠し事してるわけじゃない」



お前の事も詰め寄ったりしないから、隠し事したいならして良いから、俺の隠し事にも、頼むから詰め寄らないでくれ。


頼むから、詮索しないでくれ。



「へぇ。そうなんだ」



なんて、都合が良いよな…。

シロの冷たい目、低い声のトーンに、俺は怖くなった。嫌われたんじゃないかと、身構えてしまう。


けれど、だからと言ってベラベラとあんな恥を告白するわけにもいかない。



「…別に大した事はないんだ。仕事でちょっとトラブルになったってだけで」



「トラブル」



「うん。…そう、それだけ。だから、そんな顔すんじゃねぇよ」



俺はそう呟きながら、ロックを一気に飲み、その場に横になった。尾関さんの見下す目、頭を押さえつける力、口の中に残るあの感覚、俺は全てを忘れたかった。


忘れさせてほしかった。

けれど酒は思考を鈍らせるだけで、何の解決にもなってない。


シロに頼めば、新しい記憶に塗り替えてくれるだろうか。シロとまぐわえば、明日から尾関さんに体を預けることができるだろうか。


シロとやっちまえば、俺はすべて、吹っ切れるだろうか…。


なんて、絶対にあっちゃならねぇだろうが。

関係をぶち壊す事になるんだ。


そんな傲慢な願い、さっさと忘れろ。

全ては罪滅ぼし、わかってんだろが。


でも、……でも、やっぱお前が良い。シロ。お前が良い。


俺は手で顔を覆い、自分の薄弱さに疲れ切っていた。


シロは、そんな俺を見下ろすと、俺の方に手を伸ばした。俺の手を取ると、顔を覆っていた俺の手をよけ、代わりに自分の掌を俺の頬に寄せる。



「ねぇ、辰也」



今、シロの目は優しくない。



「何か、されたろう」



何かを嗅ぎつけたような、怪訝な顔。こいつは、諏訪のように問い詰めないという優しさを、どこかへ捨てたのだろうか。


俺が昔からこいつにやってきた事だから、今度はこいつが俺を追い詰める番、そういう事なのかな。


自業自得、かな。


俺はシロと目を合わすことが出来なかった。



「別に何もない。そう言ってンだろうが」



上体を起こし、そう面倒くさそうに答え、またウィスキーを飲む。シロには知られたくない。何があっても、知られるわけにはいかなかった。


シロは少し首を傾けると、俺をじっと見ている。

いつもの穏やかな甘さはなくて、氷のような冷たさだけがそこに残る。



「…辰也、前に僕に聞いたよね。初めての相手は良いやつだったかって」



「あぁ…」



今、突然、なぜそんな事を言い出したのか。

俺はシロが何を言いたいのか、分からなかった。



「その相手は、僕の世話を焼いてくれたヤクザだよ。住む場所もくれた。僕にとっては世界一優しい人」



分かってはいたのに、そう改めて口に出されると、心臓がキリキリと痛む。



「初めてってさ、経験するまでは、誰でも良いと思ってた。別に女の子じゃないし、初に固執してたわけじゃないから。でも、あの人と初めてした時、僕は心底思ったの。この人で良かった、本当に良かったって。僕にとってあの思い出は、きっと忘れる事はできないし、生きる希望にもなってた。だから、僕は君にも後悔はしてほしくない」



後悔はしてほしくない。

シロの言葉に、俺は言葉を詰まらせた。


こいつは、俺が隠したい事をわかってる?

何をされたかを、理解してる?


そうだとしたら、俺は、どうすれば良い?


いや、待て。

わかるはず、ないだろ。


いや、でも、なら、…



「辰也、言ってごらん。何があった? 僕は辰也の全てを受け止めるつもりだよ。辰也が今まで僕にそうしてきたように」



シロが怖かった。



「でも…」



「大丈夫だよ。言ってごらん」



「……」



胸が苦しい。

何を言えばいい?


白状する?

何を白状すんだよ。


言えるわけないだろ。


絶対に、言えるわけない。



「辰也、君の痛みを分けてよ」



こいつはどこまで俺を受け入れてくれるのだろう。


シロの幸せを何よりも願って生きていく、それが俺の唯一の罪滅ぼしだから。シロはまだ、“あの人”の事を追っているだろうから、シロの幸せを壊してはいけない。


俺があの時止める事が出来なかったから、こいつは、一線を超えた。こんな汚い世界に足を突っ込まざるを得なくなった。


俺が気付いていたら、こいつは、失わずに済んだ物がうんとある。


俺のせいなのだから。


……なのに、俺はどこまでも傲慢だ。


シロなら受け入れてくれると、俺の側にいてくれると、期待してしまう。



「…今日、詫びに行ったんだ」



あぁ。何を口走ってんだよ。



「こっちに非があったから、ある程度の事は覚悟してたんだけど、向こうが提示する金額とこっちの金額の折り合いがつかなかった。それで向こうは、金の代わりに、俺の6日間を自分にくれって言うんだ。何を言ってんのか、最初わからなかった。でも、すぐに理解できた。そいつの目的は金じゃなくて、上下関係をはっきりさせる事だってこと」



そこまで言って、俺はグラスにウィスキーを注ぎ、一口飲む。



「…はじめて男の、アレを、咥えたよ。苦しくて、死ぬかと思った」



シロの顔なんて見れなかった。

俺は表情をシロから隠すように、俯き、片手でシロの視線を遮るように顔を隠した。



「………初めてはシロが良かった」



一度話してしまえば、ベラベラと、雪崩のように言葉が溢れ出た。


馬鹿だな。こんな風に吐いてしまうなんて。


少しの沈黙。シロは何も発さなかった。

顔は怖くて見れなかった。


今、この状況で、思いをぶつけたかった訳じゃないのに。酒のせいにして、逃げ出したい。


きっと、もう、シロの側には、いられなくなる……。


俺はぐっと奥歯を噛み締め、しんと静かな部屋でシロの言葉だけを待っていた。



「あぁ、ようやく本音を言ったね」



けれどシロの言葉と共に、悔しさに目の前が霞んでいた俺の視界がぐるりと変わる。俺はあっという間に天井を眺めていた。何が起きたのか、理解が追いつかなかった。


状況を理解しようと必死になるが、思考回路がすでに馬鹿になっている。


ただ俺の目の前にはシロがいる。

シロは俺の上を取ると、俺の片手に片手を重ねる。指を絡め、熱い掌の熱を感じた。



「辰也、僕なら良いんだよね?」



頭が追いつかない。

何故、こうなった。


シロの目に優しさは、まだ、ない。

いつもの甘さも穏やかさも温かさも、ない。



「辰也、………良いって言って。僕を、受け入れて」



シロはいつも飄々としてるのに、気のせいか、声が少しだけ震えているように聞こえた。


たぶん、気のせいかな。


シロの片手は俺の頬に寄せられ、親指が俺の唇に押し当てられる。



「辰也、…答えてよ」



なんで、どうして、こうなったんだ…。

いや、もう良い。そんな事、どうでも良い。



「良いよ……シロ、お前が、欲しい…」



どうして、シロが俺を、なんて事はもうどうでも良い。


今は、もう何も考えたくないと、頭も体もえらく欲に従順だった。


そこからは、もう何がどうなったか分からない。


ただお互い、体が熱くて、シロは少し泣きそうな顔をしていて、でも何故、シロが泣きそうなのかわからなくて、俺は熱い息を吐きながら、必死に考えていた。



「は、…シロ、もう、良い…もう、挿れて…」



たぶん、俺が泣いてるから、か。

いや、他に理由がある?



「ダメだよ、ちゃんとほぐさないと。初めてなんだから、時間はかけないと。一生モンなんだからさ、痛くて後悔してほしくない」



「…ん……けど、もう、なんか、…やばい…」



なんで俺、泣いてるんだっけ。


初めてはシロが良かったのに、尾関さんには咥えさせられ、キスまでされ、プライドをへし折られ、それをシロに問い詰められ、バカみたいに白状してしまった。そんな自分の弱さが悔しくて?


いや、違う。今の、この涙は、違う。


シロは、ふっとようやく笑うと、俺の目尻にキスを落とし、そのまま舌で涙を拭う。



「辰也、」



シロの声に少しの甘さが戻ってる。

唇を甘噛みされると、そのまま噛み付くようなキスに変わる。息が上がる。キスをする時、どうやって、呼吸すりゃぁ良いんだろ…。


でも何も考えられない。


なんか、すげぇ、気持ちが良い。


舌が絡むと体はどんどん熱くなる。

息が上がり、目の前が更に霞む。


シロは唇を離すと、そのまま首筋に濡れた唇を寄せ、甘噛みをした。そのまま唇は下へ下へと下がっていく。



「シロ、も、……やばい…」



「良いよ、一回イって」



「…お前、イけねぇ、だろうが…。もういいから、…挿れろ。一緒が良い、から、シロ、…」



これは酒の勢いか。

事が終わって冷静になった時、酒の過ちだと逃げる事はできる? 言い訳はできる?


シロが俺を抱いてるのは、気の迷いか、同情か。


だって、そうじゃなきゃ、抱く意味がないだろ。

こいつはまだ、あの人の影を追っているのだろうから。


だから、言い訳を何か考えないと。

この関係が壊れないような、何か……



「ん、……シロっ」



でも今だけは、良いよな。

何も考えたくないから。


ただ欲に従順になっていたい。



「まだ、半分だよ。…辛くない? 痛くない?」



「少し、苦しいだけ…、でも大丈夫…だから、全部、寄越せ」



「うん…、痛かったら、言ってよ?」



話すこともままならない。コクコクと頷いて、切羽詰まりながら息をする。


下腹部の苦しいほどの熱。淡くて熱くて、鼓動が早くなり、呼吸も荒くなり、汗が滲む。


シロの体に住み着いた鳳凰の長い尾が、うねうねと動き、汗を滲ませていた。



「辰也、…大丈夫?」



シロの余裕のない顔なんて、初めてじゃないだろうか。

眉間に軽くシワが寄ってる。頬が赤い。


キスしたいな。

その唇に甘く噛みつきたい。



「……ん、平気…」



シロは、俺の考えている事を読み取ったかのように、俺を見下ろしながら、「良いよ」と呟いた。


何も言ってはいないのだが、俺のしたい事を読み取ったみたいだった。



「舌出して」



素直に従うと、今朝見た夢のように、シロの細い指が舌に触れ、口内を犯す。丁寧にしゃぶってやると、シロは困ったように眉を下げ、指を抜くと甘ったるいほどの口付けを交わす。俺はその唇を甘く噛むと、シロはそっと舌で舐め上げた。


頭がショートしそうになる。


なんでこんなにも、気持ちが良いのかな。



「……シロ、…やばい、イキそ…」



それを包むシロの手が熱いから。熱を感じて、腰を浮かした。



「いいよ、イって」



なんで泣いてるかも、もう、分からない。


なんで悩んでいたのかも、もう、分からない。


ただただ、今は快楽に従順で、刺激が欲しいだけ。



「……シ、ロ……イクっ、」



腰が浮く。強い快楽に頭はぼうっとした。



「…辰也、もうへばった? まだ、イケるよね? 後、向いて」



シロの甘い誘い、甘ったるいほどの愛撫。

ギシッとベッドが軋み、俺は熱い息を吐いた。


それから何時間経ったか分からない。事が終わった時には、意識が軽く飛びかけていた。いや、たぶん、一瞬飛んでいたかもしれない。


シロに連れられ、無理矢理にシャワーを浴びせられ、ベッドへ転がされる。カーテンの隙間から朝日が差し込み、疲れ切った体を照らしていた。



「辰也、明日、何時?」



「2時前にはここ出る」



「了解。僕のが少し遅くて良かった」



「……ん」



シロは俺の少し伸びた前髪に指を絡めると、それを横に流し、じっと静かに、俺を見下ろしていた。



「何だよ…」



「君に無理矢理咥えさせたヤツ、どこの、誰?」



「………そんな事、聞いてどうすんだよ」



「分からない。殺すかもしれないね」



冗談、のように聞こえるけど、少し、こいつの本音にも聞こえた。こいつは表情も変えずに、そう恐ろしい事をさらっと言ってしまう。でも、それが今の俺には心地良く、嬉しく、つい口角が上がってしまう。



「ふふ、ありがとよ」



「僕は割と本気で殺意を抱いてるよ」



「うん。それが嬉しいから、もう良い。楽ンなった」



それは言葉通り、楽になった。

これで、俺は、何の悔いもなく6日間をあの男と過ごせる気がした。


もう、何でも良いやな。


うとうとと、眠気に襲われていた俺に、シロはそっとキスを落とした。



「いつか、本当に見つけて、殺したいな…」



「お前って、顔に似合わない恐ろしい事を言う時あるよな。でも、もう良いんだ。ありがと」



「んー」



シロは眉間にシワを寄せると、不満気な顔をする。たかが俺に、そこまで不満丸出しで、殺したいとまで言ってくれて、今は最高に幸せなんだけどな。


お前の幸せが、俺の幸せなんだと、俺はつい言いそうになった。


シロの顔を見上げて、その柔らかい髪に触れ、「もう良いんだ」と呟くと、シロは少し沈黙し、その後ようやく、「わかった」と頷いた。



「わかってんのよ、これでも。僕はけっこうワケありだから」



シロは溜息を吐いて、俺の隣に寝そべった。



「僕みたいな男を想ってくれてる辰也はね、たぶん、心底優しい人間なんだと思う。そんなヤツだから、僕に同情して今は愛をくれるのかもしれない。でも、それもいつまで続く幸せかは分からないわけだし、僕の過去はどうしたって消えないし、だから、離れたくなったら、いつでも自由になってくれて構わないよ。…でもね、それまでは、僕はずっと君のモノ。覚えておいて。僕は君のモノ。だから約束してくれない? 君は、僕の前から消えないで。……死なないでくれよ」



その時、ハッとした。

瞬間、眠気なんて吹き飛び、俺はシロのことを勘違いしていたとに気付いた。


こいつは、本来、強い人間じゃない。

こいつは自分の過去のせいで、同情で俺が側にいると思ってる。


馬鹿だな。



「俺はそう簡単には死なねぇよ。それに、同情で愛をくれてんのはお前の方だと思ってた。こうして、まぐわうのも、同情だって。あの日から、お前はずっと、“あの人”の事を想ってるだろうから、さ。親友として、お前を支える事で、お前の側にいれンじゃねぇかって、俺は思ってた」



「そんなわけないじゃん」



シロはぽつりと呟く。



「初恋は実らない。あの人はあの人、君は君。どこかで生きていてほしいとは思うけど、あの人に対する感情は君に抱く感情とは別物だよ。君とは一生を共にしたい。側にいたい。安心したい。…ごめんね、重いよね。でも、これが僕の本音。死ぬまで一緒にいたい。死ぬ時は一緒がいい、僕はそう、思ってるよ」



「初恋は実らない、か。それは痛いな。俺の初恋はお前だぞ、シロ」



「え、そうなの? ンフフ、じゃぁ、僕は君をうーんと大切にしなきゃだね」



「ふふ、そうだな。この先も一生、一緒にいるなら、俺はお前しか知らない。だから、お前こそ、何処かにまた消えたりすんなよ。一生、大切にしてくれよ」



シロは照れたようにへらっと笑うと、ボフッと枕に顔を埋め、ちらりと俺の方を向く。



「辰也、好きだよ」



そう、照れ臭そうに、甘い顔して囁くように言った。


その日、俺達は抱き合うように眠り、気づけば昼を少し過ぎていた。まだ夢見心地である。昨日、あのシロとヤってしまった、だなんて、未だに少し信じ難かった。けれど腰の痛みが、昨夜の出来事が夢ではないと否定してくれる。


こんなに痛みが愛おしいとは。


けれど、そうだな。

こいつの為にも、きっちり、精算しなければならない。


だから、こいつには、しばらくは会わない。

消えないでくれと、言ったシロの不安な顔を思い出しては、胸がキリキリと痛むが、俺には選択肢が無かった。


俺は着替えを済ませて、諏訪に連絡を入れる。そして置き手紙を残して、その場を後にした。



『昨日はありがとう。今日からしばらく仕事が忙しくなるから会うことができない。次会える時を楽しみにしてる。 辰也』



諏訪と仕事をし、明け方近くになると、俺はひとり、タクシーで言われた場所へと向かった。あんな男のところへなんて、正直死んでも行きたくない。しかし、俺がワガママを通してる場合ではないのだ。


もし俺が拒否したら、あの男はシロに何をするかわかったものではないのだから。

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