5. 白と黒

シロが家に来た。

突然電話で、「住む家がなくなった。住まわせてほしい」と淡々と頼み事をする男はまるで猫のようで、いなくなったと思えば突然現れ、音信不通になったかと思えば、突然、住まわせてほしいと言う。


男は小さな荷物を抱え、困ったように笑い、大学へ入学するまでの間だけ、住まわせてほしいと言った。


正直俺は、それ以降も、一緒にいたかった。


ずっと住んでくれて構わないと、出来ることならこの先ずっと、なんてプロポーズに似た言葉を飲み込み、彼の居候を承諾した。


シロは日中、ネコのように気が付くといなくなっている。


そんなある日、たまたま出掛けて行く彼の姿を見た。どこへ行くのか気になって、後をつけた。彼は薄暗い、昼は活気のない繁華街へ入って行った。そして、路地裏に並ぶ風俗街のさらに奥、繁華街の外れにあるコンクリート剥き出しの古い建物の地下へと姿を消した。


そこは名の知れた彫り師のいる店だった。


俺はギョッとした。

もしかしたら、その場所で入れ墨を彫ってもらっているのではないだろうか。あの白い体に、いかつい和彫りを入れてるのではないだろうかと。


もしそうだとしたら、なんたる事態だろうか。


俺はシロの全てを知りたくて、シロに全てを打ち明けてほしくてうずうずしてる。しかし、あいつからは何も言わないだろう。何も言ってはくれないだろう。


俺はどんなあいつだって受け入れるつもりなのに。


あいつは俺になにひとつ、言わないのだろう。



「…シロ、風呂入る?」



「んー、まだいいや」



晩飯を食べ終え、俺たちはシロの部屋にこもった。二階のだだっ広い部屋を彼の部屋として使っている。古い畳の部屋。床の間があり、壊れたテレビが一台置いてあった。


そこに木のローテーブルと座椅子、布団一式、それからシロの荷物を入れる箪笥がひとつ。それでなんとか生活してもらっている。


シロは基本、部屋にいる時は窓辺にいる。


開けた窓に肘をかけ、静かに本を何時間でも読んでいる。月がとても明るい穏やかな夜は、彼は本を読まず、ただぼうっと月が浮かぶ空を眺めていた。その月明かりに照らされる彼は、驚くほど綺麗である。そよ風が彼の少し伸びた地毛である色素の薄い茶色の髪を揺らし、彼は心地好さそうに空を眺めていた。


お前は何を考え、何を想っているのだろう。

少しくらい、何を考えているのか読めたらいいのにな。



「…シロ」



「ん?」



名前を呼ぶと、シロは優しい瞳をこちらへ向ける。俺はその瞳に毎回どきりとする。一緒に住んでいるのだから、それくらいの事でいちいちドキドキするなと自分の体に言い聞かせているのだが、どうやら効果はない。


毎回、毎回、俺の体は飽きもせず、シロの柔和な瞳に心臓を焼くのだ。


俺はシロの髪と比例した薄い茶色の瞳がとても好きだ。優しくて温かな印象を持たせるからだろうか。



「今日、お前を繁華街で見たんだけど」



入れ墨、入れてるのか? なんて聞きづらい。聞いたところで、君に関係ないと冷たく言われたら、俺はショックで寝込んでしまう気がする。しかし俺は、何も聞かないのもそれはそれで嫌だった。


口から出た中途半端な言葉にシロは、「あーうん、入れ墨の店に通ってるからね」と大した事でもないかのように言った。


やっぱり入れてんのかよ。知らなかったなと驚き、呆気にとられる俺に、シロはすぐさま口を開いた。



「手伝いさせてもらってんの」



予想していなかった答えだった。

手伝いとは、どういう事だ…?


無言で眉間にシワを寄せていた俺に、シロは「知り合いの店だから」と涼しい顔をして言う。


俺にとってそれは、全くの初耳であった。俺はシロの交友関係も家族関係もほとんどを把握してたはずなのに。


この一年で、俺の知らない事はとてつもなく増えてしまったのかもしれない。



「そう、なのか。…知らなかった」



「最近、知り合ったからね。辰也が知らないのは当然だよ」



シロはふふっと笑うとのびをして、また、外を眺める。



「彫り師と知り合うような機会なんて、そんなにないだろ」



こいつは雲のような男だから、掴み所は一切なく、いつも一定の距離を保って、俺をそれ以上内側へは入れてくれない。そんな事はわかってたけど、それでも俺はこいつの全てを把握したかった。


彫り師と出会うなんて事は、滅多にないだろう。自分から和彫りを入れたいと思って入れ墨を入れる人間か、俺のいる世界の人間か。ほとんど出会わない職種だろう。


入れ墨に興味なんて、いつから、あったのだろうか…。


俺はシロをじっと見た。シロはまた俺の方へ向き直り、首を少し傾げて涼げな顔をした。



「うん、この1年間ね、色々あったんだ。本当に、色々」



シロは重要な事を隠す癖がある。

俺は信用されていないのだろうか。

付き合いは長いんだけどな。


シロのことは、何もわからない。



「…何があったんだよ」



言いたくないんだろうな、そう思う反面、俺はシロのことを誰よりも知りたかった。


けれど、「色々は色々さ。時期が来たら辰也にも話すね」 そう、今は聞くなと突き放された。


こいつという人間はいつもそうだ。自分のことは全然話さない。ふわっといつか、消えていなくなりそうで、俺はそんな途方も無い不安に駆られる。


今もまさにそうだ。

俺はいつだって怖い。こいつを失いそうで怖いのだ。



「なんだよ、それ」



不満な顔をあえてしていると、シロは本を閉じて、俺に微笑んだ。



「…そんなことより、お風呂、入ろうか。 一緒に」



俺はシロにいつも丸め込まれる。

一緒に、なんて久しく入ってない。



「…おう」



短い返事をして、シロと共に風呂場へと向かう。ギシギシと軋む古い階段を降りながら、先を歩く大人びたシロの背中をただ見ていた。


一緒に入るのは嬉しいが、体は素直だから、反応しなきゃいいが。気持ちが落ち着かない。


そうこう考えていると、シロは脱衣所のドアを開け、風呂場を覗きながら口を開いた。



「いつも思うんだけど、ここの風呂広すぎてひとりで入ると寂しくなるんだよね。もし、一緒に入るの嫌だったら、そこらへんに座ってていいからね」



「…今更だな、一緒に入るよ。よく銭湯にも行ったろ」



「そうだね。よく、行ったね、懐かしいなぁ」



シロは目を細め、口角を上げながら、なんの躊躇いもなく俺の前で服を脱ぐ。とはいっても、躊躇がないのは当たり前なんだろうけど。俺がそういう目で見てる、なんて事に気付いてないのだろうから。


俺たちはよく一緒に銭湯へ行ったり、ここの風呂を一緒に入ったりしたから、シロが俺を誘って風呂へ入るのも理解できてしまう。


ただ寂しい、という理由だけで、風呂へ一緒へ入ろうと言ってしまうこいつもどうかと思うのだが。


シロはあっさりと真っ裸になり、俺に背中を向けた。俺はシロの広い背中を見た。シロの体は相変わらず真っ白で、ケロイドがいくつかある。小さな切り傷もいくつかある。俺の知ってる背中で良かった、という安堵のため息は宙を舞った。


シロの体は、当然なのだが、大人になっていた。小学生の頃の、ひょろひょろした体ではなくて、骨格が、肉が、線が、大人の男である。前より筋肉がついて逞しくなっているし、背も高くなった。


ますます好みになっているから、困るんだ。



「なぁ、鍛えてんのか?」



そう聞くと、シロは湯船にダイブして「ちょっとね」と濡れた手で髪を搔き上げた。



「背も伸びたよな?」



「うん、まだ、ギリギリ成長期だね」



「羨ましいな」



「ハハ、でも辰也も十分でかいでしょ? ついこの前まで、辰也のが大きかったんだから、羨む必要なんてないよ」



シロはそう言うと、窓の外に広がる庭園を見ながら、頭にタオルを乗せる。俺はその隣で、シロの逞しい胸板や、平行で美しい鎖骨、盛り上がる肩、形の良い唇、通った鼻筋、儚げな瞳を見た。


シロを見ていると、俺はつい、好きだと口走りそうになる。厄介な感情を押し殺して我慢し、言葉を飲み込み、無口になる俺にシロは口を開いた。



「…ねぇ、辰也って、やっぱり入れ墨入れるの?」



「入れようと思ってる、けど」



「けど…?」



「デザインとか一切決まってないから、いつになるかは分からない」



「そっか。決めるの難しいよね、一生体に残るんだから」



「お前は入れるのか?」



「うん、近いうちに入れようと思ってる」



正直驚いた。

驚きすぎて、一瞬何をどう返していいのか分からなくなったほどだ。



「…いつ? てか、何、入れんの?」



あのシロが、入れ墨を入れたいだなんて初めて聞いた。



「ハタチになったら入れるつもり。背中に大きな鳳凰を入れる。艶やかで、逞しくて、賢い、鳳凰を入れる」



シロはどこか嬉しそうな、でも、少し悲し気な目をした。そんな顔をする理由も、いつものように聞きたかった。


けど、聞いてはいけない気がした。

こいつを壊してしまう気がした。



「…鳳凰か。お前の背中に映えそうだな」



だからそう言って、俺はほんの少しだけ口角を上げる事しか出来なかった。


シロがどんどん遠くなる感じがして、俺は言いようのない寂しさにため息が漏れた。そんな俺の気持ちなんて全く知らないシロは、いつも通りの穏やかな表情で、相変わらず空を眺めている。


俺には違う顔を見せてくれてもいいのにな。


そう思いながら、そのまま大きく深呼吸をして、息を止め、ぶくぶくと沈んでみる。頭まで浸かるとまた、顔を上げる。呼吸を整えて、髪を搔き上げ、笑って見ているシロを見上げた。



「小学生の時さ、よく、ここで潜ったよね。どっちが長く潜ってられるかって。そんで、二人揃ってのぼせて、諏訪さんに怒られた」



「あったなー、そんなこと。諏訪、怒ると超怖いんだよな」



「怖い怖い。もうなんか、ヤクザ丸出しなんだよね。ねぇ、諏訪さんっていくつになったの?」



「たぶん、五十ちょっと?」



「変わんないよね」



「あいつは変わんねぇな。ずーっと老け顔だからね。キングオブ歳取らない人間だわ」



「ハハハ、それね」



楽しそうに話すシロのちょっとした笑顔や、仕草に、いちいち俺の心臓はキュッと苦しくなる。俺はシロと一緒にいる事が出来るのであれば、正直何でも良かった。こうして風呂に入る事ができれば尚のこと最高。


とはいえ、本音を言えばそれ以上のことを望んでるけど。


そしてそれ以上に、俺はシロの全てを知りたくて、支配したくて堪らないのだけど。


でも、そんな事を口に出したら、シロは俺の手の中から逃げ出して、二度と戻らない気がした。


だから、俺は何も聞けないし、何もできない。


シロが自ら語ってくれない限り、俺はただの友人。横にいるだけのただの友人だ。


唯一の“友人”を失うのが何よりも怖い俺は、これ以上、問い詰める事も出来やしない。


なんて、思っていたのに、俺がシロを問い詰める事になったのは、それから間もないことだった。



「諏訪ぁー、どこだー? おーい、諏訪ぁー、出てこいよー」



昼食のあとすぐ、俺は諏訪を探して庭を歩き回っていた。なかなか見つからず、離れにある茶室のある小屋へ行ってみると、中から喘ぎ声がだだ漏れていた。


こんな真昼間から、お盛んすぎんだろ。なんて呆れる一方で、 好奇心ってのも芽生えてしまう。俺はあの諏訪が誰かとヤってるんじゃないかと、弱みを握ってやろうと思いながら、ドアの前に立ち、相手が誰かと聞き耳を立てた。


けれど俺はすぐその声に違和感を覚えた。

なぜならその声が男同士だったから。


それも、複数。

ひとりの男を、何人もの男が姦してるらしい。


いくらなんでも俺の家でそんな事をするなと、止めに入るべきだと、俺は咄嗟に思った。



「やめて、ください…いやだっ! …もうっ…うぅ…んっ」



けれど、俺の足はぴたりと止まってしまった。

泣きながら、気持ち良さそうによがっている声は、シロの声だったから。


俺の背筋は凍りつき、頭が真っ白になる。


意味がわからない。

どういうことなのか、何が起きているのか、まったく分からない。


一体、何がどうなってる?

あいつは何をしてんだよ。


俺の頭は混乱した。ドアを開けて中へ入ったものの、その勢いはシロの声によって何処かへいってしまう。


シロの声は嫌がってない。なぜ?

レイプだろ。なのに何故、よがってるんだ。


俺は怖くなった。

知らないシロを知ってしまうようで、足がなかなか前に踏み出せなかった。


しかしここまで来てしまった俺に、引き返すという手段はなく、玄関から音のする方へと静かに歩いた。


角を曲がり、シロをレイプする男を見た。


そして俺はあぁ、と世界が崩れていくのをひたと感じている。


レイプは、今現実に起きている事ではなかった。


スーツを着た諏訪と2人の部下が、部屋へ入ってきた俺を見つめる。


シロはテレビ画面の向こうにいた。



「辰也さん」



諏訪のまずい、と言う顔は見てすぐにわかった。そこには、大きな画面いっぱいに、男同士のセックスが生々しく映し出されている。



「あぁっ…やめて、ください、あっ…だめぇっ、イクっ…!」



焦ったように部下のひとりが停止ボタンを押し、俺は状況を飲み込めずに画面を凝視していた。そこには、歳の離れた汚ねぇ数人のオヤジにぶち込まれ、涙を流しイきまくる友人の姿があった。


誰のかもわからない性器を握り、体に白濁の液体を受けているあいつがいた。



「諏訪、…これ」



俺にとってそれはあまりにも衝撃が強すぎて、何を言うべきか、何を問うべきかわからず、ただその場で立ち尽くしていた。そんな俺に諏訪がため息をついてから口を開いた。



「裏ビデオだよ、マニア向けのな。ホンモノの高校生で、このルックスで、相当良い値がついてる。裏では相当話題だったらしいが俺もさっき知ったんだ。…元を辿ったらこの前壊滅した華谷組が浮かび上がった」



諏訪はそう言うと、ビデオテープをデッキから出し、箱に入れた。



「どうやら智人くん、この1年間、華谷組で借金を返済してたらしい。彼の親父さんが失踪したのも、それくらいだったろ? けどなぁ、まさかあそこにいたなんて、全く知らなかった」



諏訪は淡々とそう言った。

一見冷静に見えるけど、諏訪は苛立つと、奥歯を噛みしめる癖がある。俺はその癖を見ながら、そんな事、シロは一言も言ってなかったなと、どうして、俺に隠すんだろうなと、答えのない疑問を自分に問うだけだった。



「辰也さん、これは、見て見ぬふりをした方がいいかもしれない。彼が隠しているんだったら、もう、過去を詮索しない方がいい」



無言でいる俺に諏訪はそう声を掛けた。俺はショックな事があると、どうやら何も言えないような男らしい。もう少し、感情をコントロールできると思っていたのにな。


俺にはシロという男が、とうとう分からなくなった。



「華谷組ンとこもなくなって、彼の借金も帳消しだ。彼のとった手段が最善だったとは言わないが、決して、責めないでやってくれ。辰也さんも、この世界を見てきた人間なら、彼がどれだけ追い込まれていたかわかるだろ?」



あぁ、だから、嫌なんだ。

俺はあいつが追い込まれて苦しい時に、何ひとつ気づいてやれなかった。こんな裏ビデオが流されていたのに、俺は呑気に生活していたんだ。


そんな自分が反吐がでるほど嫌いだ。



「…諏訪」



「はい」



俺はビデオを握りしめて立つ諏訪に、静かに、圧をかけるように言葉を並べた。



「シロのビデオ、全部回収してくれ。回収したら燃やして、二度と誰の目にも触れないように処分してくれ」



今、俺にできることは、裏の世界からあいつを消すこと。あいつはこんな腐った世界にいるべき人間じゃない。


こんな世界とは、縁もゆかりもない、普通の人間なんだ。


そうあるべきなんだ。



「あぁ、わかった」



諏訪は静かに答え、俺は「ありがとう」 と礼を言ってその場を後にした。


頭がまだ衝撃についていけてないみたいだった。


シロのことは、本当にわからない。

本人はいつか、この話を打ち明けるのだろうか。

あんな風によがっていたことを、打ち明けるのだろうか。


俺は自分の部屋へと戻り、窓を開け、ベッドに倒れ込み、涼しい風を浴びた。


シロはまだ帰ってこない。



「辰也さん」



それからしばらくして、諏訪が入り口に立って名前を呼んだ。のそのそとデカイ体で畳の上を歩き、座っていた俺の目の前で立ち止まる。



「智人くんの裏ビデオ、全部で15本あるらしい。そのうちの4本はここにある。どうする? 見ておくか? 智人くんの事は全て知りたいんだろ?」



諏訪は4本のビデオを目の前に置いた。こいつは俺が、シロをそういう目で見ている事を知っている。



「諏訪って、意地悪いよな。…どんな、だった? お前はもう確認済みなんだろ?」



俺は外を眺めながら諏訪に聞いた。知りたくないはずなのに、どうして聞いてしまったのだろう。


あいつが純粋無垢な存在じゃないことは遠の昔に分かってたくせに。


それとも、初体験は自分と、だなんて思ってた?


傲慢だな。

傲慢すぎる。



「エロエロだったよ。辰也さんの好きそうなね」



「俺の好きそうな、ね。諏訪はそれ見て、エロい気分になったのかよ」



「あれがボンの友人で、ガキの頃だって知ってるのに、かーなり興奮したな。部下がいたから必死になって我慢したさ」



諏訪はクスッと笑って、眉間にシワを寄せた俺を揶揄うような目で見下ろし、言葉を続けた。



「…なんてな、そんな目でなんて見てないし、そもそも男でなんて勃たねぇよ。でも、これ見りゃわかるけど、嫌々やらされてるとは思えないんだ。あなたが悲しむ顔は見たくないし、あなたが悲しむ必要はこれっぽっちもないから、自分を責めすぎない方がいい」



諏訪はそういう人間だ。

本当は、シロがあんな事になって、責任を感じてるのだろうが、俺にはそんな姿を見せまいと、冗談で包んで俺を責めるなと笑うのだ。


諏訪という親父の側近は、昔からそういう男だ。



「諏訪って意地悪だけど、基本優しいよね」



風がとても涼しい。心地よくなって、眠くなる。諏訪は呆れたように笑った。



「辰也さんの事だから、なんで気付いてやれなかったんだ、とか思ってんだろうなーと思ってね。でもそれは違うと言いに来たんだ。そしたら案の定、落ち込みまくってんだもんな」



「そりゃぁ、…落ち込むだろ」



「でもなぁ、もしかしたら智人くん、あの状況をあまり苦に思ってなかったかもしれないぞ。借金して体を無理に売ってるやつの顔じゃない」



「…何それ。無理に体売ってるやつの顔じゃない、って何。だったらあいつは自分から売ったと…そう、言いてぇのかよ」



「簡単に言うと、そうだな。無理矢理やらされてるわけじゃないと思うね。部下の手前、智人くんが好きでヤってるかもしれない、男同士の性行為は苦じゃない、なんて事は言えやしないだろ? 今の暮らしを奪うことは、あの子にとってとても過酷なことだ。けどな、本気で嫌がるやつと、演じてるやつくらい見分けつく。辰也さん、あの子はあなたが思うような人間じゃない。あなたが知らない間にあの子はもう、随分と色んなことを経験したんだ。わかってやんな」



諏訪はそう言ってビデオを置くと、俺の頭をポンポンと叩いた。まるで子供に言い聞かせるように。



「…経験ね」



諏訪の言った事は、きっと、本当だ。シロが嫌々体を売ったのではない、ということ。いや、最初は嫌々だったのかもしれない。けど、どこかであいつは踏ん切りをつけた。生きて行くために。


それはそれで楽しんでいたように思える。


俺は窓に肘をかけて腕を窓枠に沿って流し、頭をそこへ支えるようにして乗せて外を眺めた。雲が形を変えながら、ゆっくりと、ゆっくりと流れてゆく。


温かな日差しと、透き通る青い空と、儚い白い雲。


シロはきっと、白い雲。淡々と流れに身を任せることのできる白い雲。形を簡単に変えてしまう白い雲。


あいつはそういう人間だ。



「他人の人生だと割り切れよ」



「知らないことばっかだな」



「当たり前だろ。親友だから、近い存在だから隠すものもある。何も智人くんを諦めろとは言ってないんだ。ガキの頃からの片想い、諦めたくないなら、智人くんの隠したいものをせっつかない事だな」



こいつはなんでも知ってて嫌だな。俺は諏訪を睨むように見上げ、ふてくされながら「本当、お前何でも知ってて腹が立つ」そうつぶやくと、諏訪はベッドの端に腰を下ろし、俺に目線を合わせた。



「ボンの事ならなんーでも知ってる。あなたが生まれた時からここにいるんだから」



「…厄介なやつ」



俺の言葉に、諏訪は目を細めて笑った。



「バレンタインに高級チョコレートをあげた事もね、なーんでも知ってる」



「はー、タチ悪いな」



「まぁ、あんま落ち込むな。落ち込んでも良いことないだろ。過去は過去だ。あまり縛られすぎんなよ」



諏訪はそう言って立ち上がると、一緒に空を眺めた。青い、透き通る空。雲が太陽を横切った。



「いい天気だな。…さて、私は部屋に戻るかな」



「…なぁ、諏訪、部屋貸せ」



俺は空から諏訪へと視線を移した。

諏訪は俺が言いたいことを理解して、優しく微笑んだ。



「あぁ、おいで」



シロはまだまだ帰って来ない。

あいつはもう俺の知ってるシロじゃない。別の人間になってしまったのかもしれない。俺がいくらあいつの事を知りたくても、あいつは俺に何も教えてはくれない。


あいつの事はきっと、分からないままなのかもしれない。



「あぁっ…先生、…先生の、大きいっ…」



テレビの向こう側にいるシロは、紺色のブレザーを着ていた。ネクタイは赤で、パンツは赤チェック。可愛らしい男子高生だった。優等生らしかった。そいつはハゲデブオヤジの性器を丁寧にしゃぶり、潤んだ瞳で見上げている。


これはもう、俺の知らない人間だ。



「諏訪ぁ」



「はい」



「過激だな、裏ビデオって。無修正って、ヤバイね」



「裏だからな、過激さで金を取ってるようなもんだから」



「…こいつ、何考えてんだろ」



年季の入った黒革のソファの上で、諏訪の膝に頭を乗せながら、その過激な映像を見続ける。諏訪はタバコをふかし、片手はソファの背の裏に投げ出していた。ちらりと諏訪を見上げると、諏訪は「邪魔なら部屋でるぞ」とイタズラな笑みを浮かべた。



「別に、…衝撃すぎて勃たねぇよ」



「そうか」



「…んっ、…先生、の精液美味しいです。もっと、…僕にください…」



シロは甘えたように笑った。

そんな顔、今まで見た事がなかった。


本当にこいつは誰なんだ。

これは、俺の知ってるシロじゃない。

白川 智人じゃない。

俺の惚れてる男じゃない。


好きな男で勃たないなんて事あるんだな。



「なぁ、諏訪」



「何だ?」



「なんで結婚しないの?」



過激な裏ビデオを見ながら、俺は諏訪に突拍子もない質問を浴びせた。諏訪の吐いた煙が、俺の頭上を舞って、ゆらゆらと上へ上へと消えていく。



「あの人に預けた命だからだよ。新次郎さん守るのに、結婚は邪魔だろ。いつでも身軽でいたいんでね」



諏訪は冷静で、いつものトーンでそう言った。でもそれは、俺の父さんに対する尊敬と愛情とが混ざってる。俺にはちっとも理解できない理由だ。



「諏訪って、親父の側近何年やってんの?」



「側近になったのはもう、23年くらいになるかな? でも、それよりも前からずっと友人として側にいたからなぁ。何年になるんだろうな」



「諏訪ってさ、親父の事すげぇ好きだよな。甘やかしてんもんな、いーっつも」



「好きじゃなきゃ、命かけられないだろ。…ていうか、甘やかしてはないぞ。ダメな事はダメだと言ってるだろ」



「えー、そうか? この前だって、親父に甘い物食わしてたろ? 血糖値上がるって心配してる割に、親父が食べたいって言ったら、すぐあげちゃうんだもんなー」



「…すぐにはあげてないだろう」



「あげてたね。まぁ、とにかく、親父のこと甘やかしすぎなの、お前は」



「そんなつもり、ないんだけどなぁ…」



諏訪は困った顔丸出しだった。



「なぁ、諏訪」



「ん?」



「…諏訪ってさぁ、女に興味ないの?」



「あ? お前、ふざけてんのか。友人の裏ビデオに頭やられたか?」



俺は諏訪を見上げた。諏訪はタバコを咥えたまま、俺を見下ろしている。眉間にシワを寄せて、ちょっと怖い表情だった。



「じゃぁ、さぁ、…諏訪って、性欲とかどうやって晴らしてんの。女がいたって噂聞いた事ないんだけど」



「そんなこと聞いてどうする」



「ここの人達ってさ、親父とか、俺とかに簡単に命かけちゃうじゃん。間違えて恋焦がれたりしないのかなーって。守ってるうにに、ヤバイ!これは恋だ!みたいなの」



「…お前ねぇ、どこのホモ話しだよ。他のやつに口が裂けても言うなよ、そういうの。お前の信頼が下がる」



「男臭い社会だよなー。ゲイってだけで低く見られるっつーか、男は挿れる側で男を保つって思ってるっつーか、なんか、俺には合わねぇんだよなぁ」



ため息混じりに言うと、諏訪は煙を天井に向かって吐いたあと、眉間のシワをさらに深くした。


俺は前々からそれが疑問だった。

諏訪だったら答えをくれると思った。


男なら挿れる側、なんて凝り固まった考え、俺はどうしても腑に落ちない。でも、それはなんでかな。


ずーっと分からなかった。



「お前ねぇ、それ、つまり智人くんにハメてもらいてぇって思ってるってことだろ?」



あ。そうか、と俺は素直にその言葉を受け入れ、今までの疑問が解けたような気がした。


男はこうあるべき、っていう凝り固まった考えの世界に埋もれていた俺にとって、経験豊富であろう目の前の男の言葉は、とてもとても刺激的だった。


怪訝な顔をしてる諏訪を目の前に、俺は、自分の欲望というものを見つけた。だから、この裏ビデオで勃たないんだ。シロが、色んな野郎にハメられてるから。シロは、あの優しい顔の裏で、本当はとても過激な事を考えるやつなんだ。苦しい事をたくさん考えて、経験してたりする。そんなやつに、俺は従いたいのかな。


つまりそれは、ハメてもらいたいってことなのかな。


なんだろう、すごくしっくりきた。



「…長年の悩みが晴れたよ」



「なんだそれ」



諏訪は呆れた顔丸出しだったが、俺はとてもスッキリした気分だった。けれどこれ以上深く話を追求してほしくないから、俺はまたビデオを見ながら話題をころりと変える。



「諏訪はどうやって処理してんの」



「その、諏訪の場合は、みたいな感じで聞いてるけど、俺とあなたを一緒にすんなよ」



「風俗?」



「…若い時はそうだな」



「今は?」



「ボンに聞かせるような話しじゃございませんよ」



「ケチんぼ」



「はいはい。そんな事より、辰也さんはさっさと童貞卒業しなさい」



「えー!? なんで知ってんの?」



こいつの見透かしたような目にビビりながら俺は驚いていると、諏訪は、笑いを隠し切れないようにクスクスと口元を手で隠しながら笑った。



「なに、当たってた?」



「諏訪ちゃん、ひどい。そりゃぁ、当たってますよ。お前らが見張ってたらどこにも行けないし、やましいこと出来ないに決まってるじゃん。お前の責任でもあるんだからな」



そう、そういうこと。

幼馴染のシロが裏ビデオで散々喘ぎまくってる頃、俺は性行為に憧れというものを持ち続けていただけ。それは今でも。



「いや、こっちはやましいことするのは想定内だぞ。さっさと済ませて来いよ、本当かよー、辰也さん」



諏訪はタバコをふぅ、と吐くと、面白い生き物を見つけた、と言わんばかりの顔で俺を見つめている。



「だって、やっぱ、…初は好きな人と、だろ?」



「あーあーあー、誰に似たんだよ。淳子さんしかいねぇやな」



「えー母ちゃん?」



「淳子さんも相当純粋だったから」



俺は、母親というものを知らない。

俺が2歳の時に病気で死んでしまった。だから、母親という存在を知らない。そしてどんな女性だったのかも知らない。


けれど、諏訪が呆れるほど、俺の母親は純粋で、きっと心底親父を愛してたのだろう。


俺は口を尖らせ拗ねた表情を見せると、「頑張って、早く卒業してきなさい」と諏訪は面倒くさそうに言った。



「…なぁ、初体験ってどんな感じ? 最高?」



「上手くいかなくて死ぬほど後悔するかもな」



「痛い?」



「女はな、そうだろうな」



「諏訪は痛かった?」



「体は痛くないわ」



諏訪に意地悪するのは、とても愉快だ。いつもは俺が意地悪されるから、意地悪できると、なんとも楽しい。



「心は痛かったんだ?」



「そりゃぁな。下手!って言われりゃぁ、心はズタボロよ」



「下手なんだ」



「現在進行形みたいに言うな。経験は積んでんだぞ」



「ハハハ、そうよな」



俺はむくっと起き上がり、諏訪の横に腰を下ろした。諏訪は片眉を上げて俺を見ている。



「俺もさっさと卒業して、下手っ!って言われて心ズタボロにして、経験値増やしてくるわ」



「おう、いってこい」



諏訪はクスクスっと笑って手を振った。


シロと、したいなぁ。


そんな事をひたすらに考えながら、ギシギシと軋む古い階段を上がり、シロの部屋である広間のふすまをトントンとノックする。



「シロ、帰ってんのか?」



「帰ってるよ。…入っておいで」



シロのその招く言葉を聞いて、俺は部屋に入る。なんとも心地の良い日差しが部屋を満たしていて、一瞬、神秘的な気持ちになった。



「おかえり」



「ただいま」



呑気に微笑むその男は、窓枠に腰を下ろして、また遠くを見ている。


現実、この男を目の前にすると性欲に駆られようが何しようが、結局は怖気付き何もできない。



「何、見てんの」



ただ、つまらない会話をすることしかできない。



「あれ、あの雲。最初は蛇みたいな細長い雲だったんだけど、そのうち形を変えて、熊みたいな雲になった」



この男は、たくさんの男に姦され、喘ぎ、体を精液で汚していた。ハゲデブのチンポを嬉しそうに咥えていた。


静かな沈黙の中、俺はシロの足元に座り、窓枠に肘をかけて、一緒に外を眺めた。ここからの景色は、確かにとても美しい。突き抜けるような涼しげな空も、形を変えて風に流れる雲も、緑豊かな山も、下町の町並みも、全て見ることができる。足元には親父がこだわっている庭が広がっていた。ひょうたんの形をした池には、鯉が放たれ、夏にはカエルが鳴いている。



「…なぁ、シロ、お前の初体験っていつ?」



「僕の?」



シロは俺を見た。突然の質問に、拍子抜けしたようだった。


そりゃそうだろうな。

急に俺がそんな質問するなんて思わないよな。



「お前の」



俺はシロを見ずにそう言った。



「…去年の春、だよ」



シロは少し間を空けて、そう静かに言った。まだじっと外を眺めている。その口角は優しく上がり、目尻を下げて、幸せそうな目をした。


去年の春、こいつに何があったのだろう。初体験をして、裏ビデオに映って、俺の知らないことだらけだ。


こいつの初体験の相手は誰なんだろう。

どんな奴だったんだろう。

そいつとは今でも繋がってるのだろうか。

それとも、もう別れたのだろうか。

そもそも、付き合っていたのだろうか。


高校でのこいつは見てきたが、そんな関係を持つような相手はいなかった。


きっと、俺の知らない人、なんだろうな。



「お前って、わりとやることやってんだな」



「ハハ、やることやってるつもりはなかったんだけどね。でも、そうなる、かな?」



「そいつ、良いやつ、なのか?」



そう聞くとシロはふっと笑って俺を見た。その笑みにどんな思いが込められているのか、俺には全くわからない。


小学生かよ、と小馬鹿にされたような気もするし、こいつ、僕のこと好きなのかな、なんて気付かれ、弄ぶような笑みのような気もする。



「君がそういう事を聞いてくるの、珍しいね?」



「さっき、諏訪とそんな話ししててさ」



「あの諏訪さんと?」



シロは意外だと言わんばかりだった。口元を手で隠しながら笑っている。俺は、ただ、シロの全てを知りたいのに、それだけなのに。


せっつくな、と諏訪には言われたけど、知りたいものは知りたい。



「シロ、」



でも、嫌われたくはない。



「ん?」



聞いていいものなのだろうか。

シロの初体験を。シロの一年を。シロの過去を。


いつか話す、と言われたソレを、こいつは何処まで隠し、何処まで言ってくれるのだろう。


俺はお前の全てが知りたくて、支配したくて堪らない。俺は昔からお前が好きだった。だから何だって、全てを受け入れるのに。


俺にまで、壁を作らないでくれよ、シロ。



「お前、この一年間、どこで何をやってた?」



「あはは、君が本当に知りたいのはそれか」



シロはその温厚な優しい目を細めた。俺はこいつを、ジリジリと追い詰めようとしている。傲慢なのはわかってる。


でももう、どうにもできやしない。

俺はこいつに分かってほしいだけなんだ。


何があっても側にいると。

俺はどんなお前でも受け入れると。


言いたくないのなら、聞かないでおこうか、それが出来れば苦労はしない。あんなビデオがある事を知ってしまった今となっては、俺は、お前を追い詰めてしまう。


シロ、ごめん。



「ビデオ、見ちまったんだ。お前の出てる、裏ビデオ」



驚くと思った。見てしまったのか、と動揺すると思った。


でもシロは表情ひとつ変えず、俺の目を見つめる。驚きもしなかった。シロはそういう人間だ。動揺するってことがない、飄々としていて、いつもどこか余裕に構えてる。


隠したかったはずのもの。

それがバレたのに、どうでも良い、って顔をする。



「そう、見たんだ」



「…金のため、だったんだろ?」



「まぁ、そんなとこかな」



シロはそう言うと、しばらく黙り、また外を眺める。なぜお前は辛い時に俺に何も言ってくれないんだと、急かすように出そうになった言葉を飲み込み、シロが何かを言うのをただ待った。


数秒が、永遠のように長く感じた。

そして、シロはようやく口を開いた。



「僕の話し、聞きたい?」



「あぁ…」



シロは窓枠から降りると、俺の横へと腰を下ろした。シロが俺に自分の事を話してくれる。それはとても、珍しい事だから、俺は異様な緊張に襲われた。



「一年前にさぁ、公園で偶然会ったの覚えてる? 僕がコンビニのおにぎり食べてて、君は自転車で現れた時のこと」



「あぁ。お前、俺があげたマフラーしてたろ?」



忘れるわけがない。好きなヤツが、寒空の下、自分があげたマフラーをして、ひとり公園で飯食ってるなんて、忘れられるわけがない。あの時に戻れるなら、無理にでも俺の家に引きずり込むべきだった。しかしそれはたらればで、ただワガママな俺の願いでしかない。



「そうそう、あの気持ちの良いマフラーね。それでさ、君に隠し事しないでくれって言われて。でも、実はね、その時すでに親父が失踪してて、取り立てに追われてたんだ。でも、君を巻き込むわけにはいかないって思ったから、何も言えなかった」



「…なんだよそれ。俺はお前になら、巻き込まれようが何されようが構わないのに」



「ふふ、うん、ありがとう。でも、だから君には言えなかった。君は僕に懐いてくれて、何するかわかったものじゃないもの。そこに君ンとこの組織じゃない、ヤクザが絡んでくる。そうなったら、君を巻き込めないって思ったんだ。君を巻き込んで、ゴタゴタにしたくなかった、それが本音。それにビデオの事も、僕は割と楽しんでたよ。だから、君は、後悔しないでね。あの日に戻れれば、なんて、思わないで。自分を責めないでね」



「なんだよ、それ…」



自分を責めるな、って、諏訪といい、こいつといい。好きなやつが苦しんでたのに、気付かなかった。責めないわけ、ねぇだろうが。


本人が後悔するな、と言っても、それは変わらない。



「辰也、そんな顔しないで?」



俺はどうやら、思っていた事が、顔に出ていたらしい。シロは不安そうな顔をして、俺を見ていた。


だから俺は溜息をついて、シロから視線を外す。



「俺には何も言わずにひとりで背負い込んで、体売って、…俺にもお前の痛みを分けろよ。巻き込みたくない、ってなんだよ」



そんな風にせっつけば嫌われる。わかってるのに。どうして口からそう、言葉が出てしまうんだろう。


悔しいから、だろうか。

自分が不甲斐ないから、だろうか。


嫌だな…。


シロは少し考えているようだった。そしてしばらくして、俺の顔を覗き込み、俺の頬に手を寄せる。優しく頬に添えられた掌は温かい。



「辰也、」



シロはその手に少し力を入れ、俺がシロの方を見るよう、誘導した。俺は悔しい表情を隠しきれないまま、シロの方を向くと、シロは口を開いた。



「辰也は僕に、嘘つくなって、いつも言うけど、僕は君に迷惑をかけたくないんだ。親父の借金の事まで、君の世話になるのは絶対に嫌だった。君は良いヤツだから僕のためにきっと、危ない橋をなんの躊躇もなく渡ってしまうだろ? それは避けたかったんだよ」



シロはそう、少し困ったように眉を下げる。俺はその言葉に何も言えなかった。こいつは俺よりも、俺のことを分かっている。


たしかに、俺は何よりもこいつを優先するだろう。きっと、組のことなんて頭になくて、何がなんでも助けようとする。



「辰也は、そのうち、この組を背負う存在になるんだよね? だから、僕なんかで君の将来に傷をつけたくなかった。変に楯突いただの、何だのって、組同士の争いになったら、僕は後悔してもしきれない。だから、何も言えなくてごめん、…でも、辰也が頼りないとか、そういうんじゃないんだ、わかってくれるね?」



シロは弱々しく微笑む。


あぁ、俺は、本当に不甲斐ない。

俺がヤクザじゃなけりゃぁ、こいつは俺に相談してたのかもしれない。痛みを分けてたのかもしれない。一緒に金を返す手段を考えてたかもしれない。


裏ビデオなんて、撮られなくて、済んだのかもしれない。



「………わかりたくねぇ。けど、わかったよ、お前の気持ち。言いたい事。わかったよ」



俺は無愛想に答えると、シロは俺から手を離し、「ありがとう」と呟くように返した。



「…今、出回ってる裏ビデオ、全部、この世から消し去りてぇ」



「アハハハ、裏だからねぇ。難しいかな? でもさ、あんなの、本当にレイプされてるわけでもないし、みんな和気あいあいとやってるし、楽といえば楽だったんだよ。変なオヤジの妾になるわけでもないしさ、わりとね、良い暮らし送ってたんだよ」



俺はその言葉に、何も返せなった。返したくなかった。良い暮らし、だなんて、言ってほしくなかった。裏ビデオ、と呼ばれる違法ポルノに出て、あんな破廉恥な、過激なビデオに出て、こいつは楽だったと言う。俺に心配させないためか、それとも本音か、俺にはよく分からない。


こいつの考えてる事なんて、分かったためしがないのだから。



「そう、かよ…」



「うん。僕は後悔してないよ。僕の世話を焼いてくれた人、心底、優しい人だったから。あの人に出会えただけでも、僕は生きる事が楽しいって思えたんだもん。儲け物よ」



シロのその表情は今まで見た事がなかった。

嬉しそうで、笑みが溢れる。でも、悲しそうで、泣きそうだった。



「あの人、」



シロがそんな風に話すのは初めてだった。

誰か、他人の話を恋しそうに話す姿は見たことがなかった。シロは、恋をしていたのだろう。いや、それは現在進行形なのかな。だから、初体験も捧げたのではないだろうか。


痛い。痛ぇなぁ。


胸がズキズキと、ひどく、痛んだ。



「うん、良い人だった」



「なぁ、シロ。それ、ヤクザじゃないだろうな」



そうだと、嫌だな。そう思ったが、こいつの言った事を紐解けば、どうしたって、その世話を焼いてたヤツが取り立てと関係している、ようにしか聞こえなかった。



「おー、さすが辰也! ご名答」



嫌な予感は的中するもので、



「笑えねぇぞ、それ」



俺がまた溜息をつくと、シロはふふっと甘く笑っている。



「ふふ、…でも、良い人だったんだよ。優しい人だった。僕のワガママ、たくさん聞いてくれた」



シロは思い返すように、一呼吸おいて、畳についたタバコの焦げ跡を触る。



「よく、タバコを吸う人だった。背中に大きな鳳凰と龍を飼ってて、いかにもインテリって感じのルックスで、ヤクザらしくなかった。整った顔でさ、背も高くて、そこら辺にいたら目立つような雰囲気のある人だった。いつもお香のいい香りがしてたな。…あの人が、僕に住む家をくれて、帰る場所を作ってくれて、僕にとってあの人は初めての大人で、なんていうのかな、僕に暴力を振るわない大人だった。見た目はたしかに、冷たくて、あまり表情を崩さない感じとか、怖くて、近寄りがたかったけど、話せば話すほど、関われば関わるほど、優しい人だってのはすぐに分かった。僕は、ただただ、心酔してたんだよ、どうしようもないくらいに」



心酔してた。この言葉に、俺は、敵わないと正直思った。シロの言うあの人に、俺はきっと敵わないのだと。これは、失恋だろう。


初恋は実らないと、よく、言ったものだ。


なんだか空虚というか、ぽっかりと穴が空いたような感じがした。


もう、これ以上、聞きたくない… 。

シロが誰かを好きだなんて、到底喜べない。


俺は俯き、なるべく感情を見せないようした。

シロは、また一呼吸おいて、俺を見た。



「でもその人、そこの若頭の側近で、組が壊滅する時にその人守って死んだんだ」



「…え?」



あぁ、そうか、華谷組だった。

シロがいたのは、派閥争いで破滅した華谷組。寝返ったやつがいて、そのせいでたくさんの組員が死んだらしい。俺も、一度会ったことがあるんじゃないだろうかと、止まりかけていた思考を一気に巡らせる。


家に、若頭とその側近が来たことがあった。プライベートだと言ってた。仕事ではないのだと。親父に用事があった彼らは、確かに雰囲気のある人達だった。そこの若頭はよく笑う人で、その人を見守るように側にいた人は、鋭い目つきをした、綺麗な男の人だったのを覚えてる。


親父が言ってた。華谷組の側近は食えないやつだが、同業者としては、嫉妬を抱くほど才能もあるし、若いのに度胸も根性もあると。


そうか、その人たち、死んだのか。

知っている人の死、ほんの少ししか知らない人の死なのに、俺は急に死というものを近くに感じた。



「…遺体を見たんだ」



シロはそう口調も温厚な表情も変えずに続けた。



「殺された後、火をつけて、焼かれたらしい。警察が、包帯を巻かれた人の形をしたそれを、その人だと、言った。でも、僕は、その遺体がその人だと信じるのをやめた。だからね、正確には、その人は死んだ事になってるけど死んだ事の証明はできてない、って事なんだけど、でももう、その人は僕の前には現れない。元には戻らないんだって、終わりを告げられたの。まぁ、それでね、」



そう言ってシロは、吹っ切れたように少し笑ってみせ、言葉を続ける。



「いなくなった人を恋しく思うけど、辛くて、痛かったけど、僕は僕の人生を歩まなければならないわけでね、僕はある彫り師に支えられて、今を生きてるの。その彫り師、あの人の背中に鳳凰と龍を彫った人だから。だから、今、僕は少しずつ入れ墨を勉強してんの。なんかちょっと、あの人の事が分かるような気がして。ほぼ毎日、そこに通ってるんだ。それが、僕の過ごした一年間だよ。噓偽りない、一年だ。…君に隠し事はないよ? 辰也」



「…そう、か」



気のせいだろうか。

シロの目は少し潤んで見えた。この男はいつも飄々と強く生きている。でも、こいつもただの人間。本当は涙を流すほど、痛かった。苦しかった。


そうなんだろうな。


時に涙は衝撃が強すぎると、すぐには流れてくれない。悲しみはふとした時に、心の隙間に入り込んで、支配して、自分をどん底へと突き落とすのだ。


その喪失感を改めて知った時、涙は溢れてしまうのかもしれない。


俺は腕を伸ばし、シロの体をすっぽりと埋めた。何を言っていいのか、分からなかった。そしてこいつは俺に、泣き顔を見せたくないだろうと思った。


この何を考えているのか分からない男は、超えさせない壁を作って、いつも自分はその壁の向こう側にいる。自分の事は話さず、俺には何も触れさせてくれなくて、それでも、俺は側にいたかった。


でも今ようやく、その壁が少し、壊れた気がした。



「辰也、君はいなくならないでね」



「いなくなるかよ、バカ。突然、いなくなったのはお前の方だろうが」



「ふふ、それもそうだ。…辰也、」



「ん?」



「僕は君が側にいてくれて良かったって、心の底から思ってるよ」



「……おう」



悔しかったのに、今はただ、シロの言葉に安堵し、後悔が薄れていくのが嫌だった。でも、過去はどうしたって変える事はできない。だから、今の俺に出来ることは、何があっても、こいつの側でこいつを支える事なのかもしれない。


色んな事を、経験したこいつを。


シロは俺の首に顔を埋めた。シロを抱きしめながら、シロの温もりを感じていた。こいつは今、泣きそうな顔で笑っているのだろう。



「ふふ、辰也」



「あぁ?」



「耳、めっちゃ赤くなってる」



「…嬉しいからな」



「辰也って、本当、そういうとこ可愛いな。…体大きくて、強面でヤンキー丸出しなのに、本当に意外」



「可愛いって言うなよ。それに、体はもうお前の方がデケェだろうが。悔しいけど」



「辰也のが大きかったのにねー」



「ま、そのうち超すかもしれねぇけどな」



「ふふ、どうだろうね」



「なんだよ、その自信。腹立つな」



「えへへ、少し嬉しいのかな。辰也のが小さいって事がさ」



「…数センチだろうが」



「ねぇ、辰也」



「なんだよ」



「ありがとう」



楽しそうな、嬉しそうなシロの言葉。



「……ん」



けれどシロは、あの人に強く惹かれていて、今でもまだ、その想いを持ち続けている。


シロが自ら俺を必要として、欲しいと思う日は来ないのかもしれない。それでも俺は、こいつにとっての支えになれりゃぁ、それで良い。


これは、俺にとって、罪滅ぼし。

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