4. かわたれ時

高校3年、受験、春。僕が長谷部さんと同居して1年と少し。僕は見事に志望校に合格した。僕は合格したら、ある事を長谷部さんと約束していた。それは、長谷部さんの背中に住み着いた華麗な鳳凰と龍を彫った彫り師に会わせてほしいという約束だった。僕もいつか、長谷部さんと同じ鳳凰と龍を手に入れたかったからだった。



「凛さん、急にすみません。用件は電話で話した通りなんですが、こいつが入れ墨のデザインを見たいって言うもんで」



長谷部さんに連れて来られた場所は、賑やかな繁華街の外れにあるビルの地下。一階には落ち着いたバーがある。凛さんと呼ばれたその人は、やっぱりあのビデオに映っていた人だった。長谷部さんと同じくらいの背の高さ、切れ長の瞳と小麦色の肌が印象的な人だった。黒い薄手の長袖とジーンズ姿で、アクセサリーは一切つけていないし、目に見えるところに入れ墨は入ってないらしく、ぱっと見、僕のイメージする彫り師のイメージとは全然違った。



「はじめまして、白川 智人です」



僕が頭を下げると、その人はすっと手を僕に出して、



「新堂 凛太朗です」



そう微笑んだ。僕はその大きな手を握りながら、怖そうな人じゃなくて良かったと思った。



「そこに掛けて座って。…虎太郎、コート、預かろうか?」



「あ、いえ、大丈夫です」



「それで、えっと…デザインを見たいって?」



「はい」



凛太朗さんは冷たいお茶を僕らに出すと、ファイルがずらりと並ぶ棚の元へと足を運んだ。この場所は僕にとっては異空間といっても過言ではない。テーブルと椅子が何脚かある待合室。でも壁には大きな龍の絵や何て読むのかわからない書体で書かれた習字が額に入れられて壁に掛かけられている。そして奥には施術室があるらしく、その手前の棚にはデザイン画がずらっと並んで仕舞われている。



「何のデザインを見たい?」



「えっとー、鳳凰と龍を」



「わかった」



凛太朗さんは棚から数冊のファイルを取り出して、僕の前にぽんっとそれらを置いた。



「自由に見て構わないよ」



僕はその言葉を聞いてから、一冊のファイルを手に取る。表紙には『鳳凰 1』と記されていた。中身はもちろん全て鳳凰のデザインがびっしりと描かれていた。どれも違った表情を持っていて、僕を魅了する。どれも美しい。ただその一言である。こんな繊細で美しい絵をこの人が描いているのか。僕は尊敬を抱かずにはいられなかった。



「…あ、これ」



パラパラとめくっていると、長谷部さんの背中にある鳳凰と似たものが出てきた。そっくりである。僕が長谷部さんを見ると、長谷部さんは「俺のに似てるな」と首を傾けた。



「虎太郎の鳳凰の元になってるデザインだよ。虎太郎のは特別なものだから、そっちのリストには入ってないんだ」



凛太朗さんは足を組みながら僕に言った。



「特別、ですか」



「他と被るのは絶対に嫌だろうし、それに義昭の要望が詰まったデザインなんだけど、単純に難しくてね。だから二度と彫りたくないって理由から、そっちには入れてない」



久しぶりに義昭さんの名前を聞いた。義昭さんの影を感じた。けれど長谷部さんは特に表情も変えず、「苦労させましたよね、すんません」と笑う。



「最高傑作だと僕は思ってるよ」



「ありがとうございます」



そう長谷部さんは嬉しそうに表情を緩める。



「智人くんは、虎太郎の背中、もう見てる?」



「…はい」



僕は凛太朗さんの質問にどきりとした。別にいやらしい意味は何ひとつないのだけど、長谷部さんの背中を見るときは、僕が長谷部さんを後ろからねじ込む時だから、なんだかちょっとだけ、想像してしまう。



「あれ見て、どう思った?」



「どう、ですか…? 豪快で神々しい強そうな迫力のある龍と、華麗で孤高な感じがする鳳凰と、同じ背中に絡むようにいて、なんというか、…正直、妖艶だなって思いました」



「妖艶だぁ?」



隣にいた長谷部さんはコップを握ったまま、僕を見下ろして驚いたように言う。


だってそう思ったのだから、仕方ないじゃない。長谷部さんの鳳凰は、曲線が美しい。だから妖艶な感じがするんだと、僕は心の中で言い訳をした。



「すっごく美しい、から…」



言葉を濁すと、凛太朗さんはハハッと笑った。



「素直な感想だね。それに間違いじゃないと思うよ。虎太郎には、その入れ墨のデザインについて一切言ってなかったろ? ただ、これを彫るって義昭に言われたろ?」



「え? あ、はい、そうですけど。何か、意味、あったんですか」



「もちろん、あるよ。まぁ、表向きは鳳凰って商売や幸福を象徴するって言うだろ? 龍同様、縁起が良いんだよ。お前は昔っから賢くて、金を稼ぐノウハウってのを知っていて、一目置かれてたろ。だから、あいつが鳳凰を選ぶのは納得だったね。んで、一緒に描かれてる龍。これももちろん縁起が良い。生命力、可能性、それに上昇。あいつがお前に背負わせたのはあいつにとっての希望なんだろうなって、すぐにわかる組み合わせだった」



「そう、だったんですか」



義昭さんが、この入れ墨を長谷部さんに。

だとするなら、そんな表向きの意味だけじゃないだろうな。龍と鳳凰、縁起が良いのは分かってる。でもそれだけじゃないだろうに。


あの義昭って人の考える事は、そんな簡単な理由じゃないだろうと僕は思った。


どう見たって、長谷部さんにひどく執着していたのだから。



「でもね、鳳凰と龍を一緒に描いたのはもっと他に意味があるんだよ」



凛太朗さんは、お茶を飲むとそう、続けた。

僕はやっぱりなと、少し居心地が悪くなる。



「義昭に口止めされてるから多くは言えないけど、智人くんが妖艶って思うのはけっこう鋭いな。まぁ、言える範囲で言うとね、艶やかで、逞しくて、賢い。それを、その鳳凰では表現してるんだ」



艶やかで、逞しくて、賢い。

つまり、それは、長谷部さんだ。


隣にいる長谷部さんはそれを気付いているのか、いないのか、「俺は何も知らなかったです」と眉間に溝を作っていた。


もし鳳凰が長谷部さんなら、龍は誰になるのだろうか。龍は上昇を意味するって、さっき言ってたが、上昇って言葉は、長谷部さんより、組の若頭である義昭さんの方がぴったりくる言葉だ。


だとするなら、龍は義昭さん。そうだろうな。


つまり義昭さんの影は、長谷部さんの体に蝕むように居座っているって事だ。まるで他人のモノにさせまいとする、傲慢な意志の表れであり、支配欲だ。


僕は心の中で舌打ちをした。



「さてさて、話が脱線してしまったね。鳳凰と龍が好きな智人くんがお気に召したデザインはあったかな?」



「どれも素敵で、迷ってしまいます」



ファイルに一通り目を通したが、頭は義昭さんの影がちらついて、うざったくて集中できない。僕は、自分の背中に入れるためのデザインを見たかったのに、龍は、僕の敵だとわかった今、背中に背負う気はさらさらない。



「…凛太朗さん、手洗い、借ります」



長谷部さんがそう言って席を立ち、姿を消した。凛太朗さんはファイルに目を落としていた僕に、「智人くん」と僕の名前を呼んだ。



「はい」



「もしかして、背中に入れようと思ってる?」



「え?」



僕は何も伝えていないのに。

凛太朗さんは、無表情に、静かに僕のしたいことを見抜いた。



「虎太郎と同じように鳳凰と龍を背中に、そうだね?」



「…はい」



「君、いくつ?」



「18です」



「ハタチになったら背中にでも、どこにでも入れてあげよう。でも、それまではダメだ。若気の至りなんかで入れて後悔してほしくないからね。それと、全く同じデザインは彫ってあげられないから、勘弁してね」



「それは、あのデザインが、義昭さんと長谷部さんのモノだからですか?」



僕は、同じデザインなんて望んでない。話しを聞くまで、危うく鳳凰と龍を一緒に入れるところだったが、今はもうそんな気持ちはない。


凛太朗さんは「勘がいいんだな」と笑った。



「義昭に会ったことは?」



「あります」



「嫌な奴だと思ったかい?」



「はい」



「だろうね。…あいつは、虎太郎にひどく執着してるからな。君に虎太郎を取られて、ますます暴力的になったかな」



「…よく、わかりません。一度しか会ったことがありませんから。それに長谷部さんから、義昭さんの話しも聞きませんし。ただ、長谷部さんを殴るような人は許せないです」



僕があの人を直接見たのはたったの一度だけ。長谷部さんを殴り、蹴り、踏みつけた、あの一度だけ。許すことなんて到底できない。



「君は虎太郎を慕っているんだね。だから鳳凰と龍。そっか。そうなんだね。…まぁ、同じデザインを入れる事ができない、っていうのがわかってくるならいいよ」



「はい。鳳凰だけにしようかなと思います」



「そう? そっか」



僕は長谷部さんのためなら何だってできる。

何だってしたい。

僕は長谷部さんのものだから。今も、これからも、ずっと。


でも長谷部さんは…?



「智人くん」



「はい」



凛太朗さんに名前を呼ばれ、顔を上げると、凛太朗さんは優しい顔で微笑んでいた。



「もし、君が望むのであれば、君のためにデザインを考えてあげようか」



「え、……良いんですか?」



僕の中で、僕のために何かしてくれる大人ってのが珍しい生き物だった。長谷部さんの他にも、何かしてくれる人がいる。


僕は嬉しさのあまり少し動揺してしまった。


凛太朗さんはそんな僕を見て、「もちろん」と頷く。



「ありがとうございます。嬉しいです」



「ふふ。ま、入れるのはハタチになってからだけどな」



「はい」



この人は優しい人。

僕はこの人のことが、一瞬でとても好きになった。人として、好きになった。この人はきっと、心の綺麗な人なんだろう。優しい人なんだろう。僕はそう確信した。


手洗いから戻ってきた長谷部さんに、もう用は済んだ事を伝え、凛太朗さんの元を後にする。車中、長谷部さんは、僕が何しにそこへ行きたがっていたのかを聞いた。僕は何ひとつ説明していなかったから、長谷部さんの目を見ながら、「ハタチになったら背中に入れ墨いれます」と断言をする。


長谷部さんは案の定驚いたが、僕が「きっと鳳凰を入れる」と伝えると、表情を緩めた。



「そうか」



「うん」



「お前は俺と会った時から、鳳凰に拘っていたもんな。かっこいいのが入るといいな」



「うん、今からすでにワクワクしてます」



「アハハ、そうか。凛太朗さんに任せておけば、間違いはないと思うぞ。期待しておけ」



「はい」



僕達はそのまま家へ戻った。

僕は合格祝いの褒美ふたつめを長谷部さんに強請った。それは、一日中、長谷部さんといることである。もちろん、ヤることは込み。長谷部さんはここ最近多忙で、なかなか一日中休みという日がなかった。忙しい時期というのはわかっていた。長谷部さんが、おやっさんと呼ぶ、組長の容態がすこぶる悪く、派閥争いが激化していたからだ。


それを理解はしていた。

若頭の補佐として、側近として、長谷部さんが組に時間を割かなければならないことも理解はしている。でも僕は合格祝いに、長谷部さんとの濃厚な一日という記憶が欲しかったのである。



「明日の午後まででいいから! 明日の午後には、仕事戻っていいですから、ね?」



お願い!と手を合わせると、長谷部さんは困った顔をして、「お前ねぇ…」とタバコに火をつけた。



「忙しいのは十分わかってます。そうなんですけど、でも、最近なかなか一緒にいてくれないし」



僕は必死だった。

なぜ、ここまで必死なのかはわからない。


でも、今過ごさないと、後々絶対に後悔すると思った。長谷部さんはタバコの煙をもくもくと口から出し、何かを考えている。気だるそうに頭を傾け、ソファの背に肘を乗せて頭を重そうに支えた。



「ダメ、ですか?」



やっぱり、この時期はダメだろうか。

僕は口を一文字に閉じて、じっと長谷部さんの返答を待つ。長谷部さんはそんな僕を見下ろした。



「…風呂、久しぶりに一緒に入るか?」



その一言で、僕は、長谷部さんが大切な一日を僕にくれるのだと理解した。呼吸が止まってしまうのではないかと思うほど嬉しくなった。


こんなに嬉しい事ったらない。

どうしよう。最高に楽しくて、舞い上がってしまう。



「入る! 風呂、入れてきます!」



嬉しい、という感情は顔に出るものだ。もし僕が犬なら、尻尾をちぎれんばかりに振っていることだろう。


パタパタと風呂場へ走り、浴槽を洗うと湯を張った。長谷部さんとの久しぶりの風呂は、心臓がドキドキしてなかなか気が休まらない。


まるで、初めて一緒に風呂に入るみたい。



「背中、洗ってあげる」



「あぁ、頼む」



僕は洗いながら改めて鳳凰と龍を眺めた。鳳凰は龍より高い位置にいて、龍は鳳凰を見上げ口を大きく開けている。鳳凰の体に、龍は自分を巻きつけ、支配しようとしているように見えた。でも鳳凰は、長くて美しい尾を遠くまで流し、瞳をこちらに向けて、その支配なんて気にも留めていないような表情だった。その流された尾は、長谷部さんの骨盤をなぞって、下腹部にある。


鳳凰が長谷部さんなら、龍は義昭さん。

でも、鳳凰は誰のものでもない。

龍なんかに支配されない。


僕は鳳凰の尾を指で辿り、長谷部さんの肩に甘く噛み付いた。歯型を残すように、そこへ、噛み付く。



「…どうした」



僕はまだ高校生だ。

大人の世界ってのは、やっぱりよくわからない。大人びて見られるけど、僕にはわからない事だらけだ。我慢すべきところとか、理解すべきところとか、うまくコントロールってのができない。


早く大人になりたいのにな。



「長谷部さんを、手離したくない」



僕は下腹部に彫られていた尾を指でなぞり、さらに下へと指を這わせる。



「…そうか」



長谷部さんはそう呟くと、後ろから抱きつく僕に片手を回し、僕の頭に手を添えた。そして鋭い目で僕を見ると、僕はいてもたってもいられなくなる。長谷部さんの柔らかな唇に噛み付くように唇を寄せ、歯列をなぞって舌で舌に触れる。


長谷部さんは甘い言葉を吐かない。

好きだとか、愛してるとか、言ったことがない。僕が言っても今みたいに、そうか、と言うだけ。そうか、と言葉を吐いて、僕に体を託すだけ。


甘い言葉は、きっと口にしないのだろう。


でももし、僕が、義昭さんだったら、長谷部さんは甘い言葉を吐くのだろうか。


もし、僕が、義昭さんだったら、長谷部さんはどんな愛情表現をするのだろうか。



「…おい」



僕は長谷部さんの頬に片方の手を寄せ、その手をするりと頭へ回す。後頭部へ回すと、濡れた真っ黒な髪に指を絡め、無理矢理に上を向かせる。


蒸し暑い室内。シャワーの音が響く。


半開きの口に視線を落とす。

その唇を甘噛みするように、唇を寄せ、舌で舐める。



「…何をそんなに、焦ってんだよ」



どうしてかな。

僕は、ある想像をしてしまう。

そしてその想像は僕を壊してしまう。



『義昭さんっ…! 義昭さん、もっと、…もっと、』



長谷部さんは、きっと、義昭さんのモノかもしれない。



「智人…っ」



こうして、僕は長谷部さんを抱いてるのにな。

どうして、僕は、そんなつまらない想像をしてしまうのかな。長谷部さんの呼ぶ名前は、僕なのに。



「おい、智人…っ!」



僕は鳳凰と龍を見ながら、長谷部さんの喉元に手を寄せた。喉仏が荒い呼吸と共に上下している。少し絞めると、同時に、長谷部さんの中も締まっていく。


このまま絞め続けたら、長谷部さん、死んじゃうかな。



「……お、いっ…」



僕は勘違いをしているかもしれない。


大学へ行って、卒業して、就職して、立派な大人になって、長谷部さんにした借金をチャラにしたら、きちんと告白して、対等になれると思ってたけど、それは勘違いかもしれない。


この人は、僕を、恋人としては見ないのかもしれない。


一生、見ることはないのかもしれない。


僕は、想像ができなかった。

長谷部さんが、僕に「愛してる」と愛を表現することが。


でも義昭さんには、「愛してます」と泣きじゃくる姿が想像できてしまう。


ただの若頭と側近なんかじゃない。


義昭さんの、匂いがする。

義昭さんの、影が見える。

義昭さんの、形だ。


長谷部さんは、僕に、支配などさせてくれない。


全ては勘違いだ。



「智人…っ!」



長谷部さんの大きな手が、長谷部さんの首に掛けられていた僕の手に重なる。苦しさから、僕の手を外そうと、必死になっていた。



「僕も」



欲はドロドロと溢れた。溢れ出た欲望はシャワーと共に排水口へ流れて行く。長谷部さんは僕に噛まれた肩に手を寄せながら、ぜぇ、はぁ、と肩で息をしている。


僕はその瞳にキスを落とした。長谷部さんは暫くその場で息を整えていた。僕から視線を外し、シャワーで体を流すと湯船につかった。僕は湯船の縁に腰を下ろして、長谷部さんの形のいい唇を親指でなぞる。長谷部さんの怪訝な目。何かを言おうとした口。



「長谷部さん、好きです」



だけど僕はそう言って甘え、長谷部さんの言葉を封じた。


長谷部さんは何も言わなかった。僕は同じ湯船に入ると、長谷部さんの胸に埋もれた。長谷部さんの鼓動が聞こえる。長谷部さんの背中から龍が去って行かないかぎり、この人は僕のモノにはならない。長谷部さんは僕の頭をぽんぽんと優しく撫でた。


風呂から上がると一本の映画を観た。長谷部さんの好きなアメリカのモノクロ映画。静かに時間が流れていく映画だった。



「長谷部さん、古いアメリカ映画好きだよね」



「夢があるからな」



「夢、ですか」



長谷部さんはアメリカ映画がとても好き。理由はカッコつけてるから、だった。なんだそれ、と僕は思った。でも、そんな時間も全てが幸せで、他の事はどうでもよかった。


僕と長谷部さんは映画を見終えると、寝室へ移動した。でも僕は寝たくなかった。だから長谷部さんに甘えるだけ甘えた。


何度も何度も。

長谷部さんの全てを支配したくて、マーキングするみたいに噛み付いた。



「お前、今日は体力あるんだな」



日が昇りはじめる頃、長谷部さんは僕の上で僕をからかった。僕は長谷部さんの下腹部に下ろされた尾を指で触れながら、長谷部さんの瞳を見上げる。



「今日一日は頑張るって決めましたから。嬉しい?」



長谷部さんは「あぁ、嬉しいね」と小さく笑った。僕はこの人のことが大好きである。こんなに人を想ったのは初めてで、苦しいほど、大好きである。


事が終わる頃、部屋は太陽の明かりでほんの少し明るくなっていた。かわたれ時の空は、涼やかに明るくなりはじめ、空は二色に分かれている。そんな時間に、僕は長谷部さんの胸で眠るのが好きだ。



「長谷部さん、何時に起きますか?」



「そうだな、1時頃でいいかな」



「タイマーセットしておきますね」



「あぁ」



この時間が好きだ。

さんざん、やりまくった後の時間。

安堵と、開放感と、甘い疲労に満ちた時間。


少しの沈黙の後、長谷部さんは抱きついていた僕に静かに口を開いた。



「今日のお前、お前らしくなかったな」



「…そう、ですか?」



僕は知らん顔する。 本当は、嫉妬に狂っていたとしても、それをいつものように隠し、表には出さない。



「あぁ」



「気持ち良くなかった?」



「気持ちは良いが、そうじゃなくて、なんというか、荒々しい、というか」



「そうだったかな?」



首を傾げた僕に、長谷部さんはふっと笑う。

何が面白かったのかとその顔を見ると、長谷部さんは甘い瞳で僕を見つめた。



「ふふ、風呂場の時のお前には心底ゾクッとした。…このまま首絞められて殺されるんじゃないか、って。けどそんな風に欲をぶつけられるのも、悪くないって思ったな」



長谷部さんはタバコの煙を宙に吐きながら、そう何の躊躇いもなく言葉を吐いた。その表情は嘘偽りなさそうに僕には見えた。僕はいつでも冷静沈着に考えられるはずなのに、何を言うべきか、一瞬にしてわからなくなった。


何かを言いたいのに、何も言えない。



「智人、もし、俺が死んだら、凛太朗さんのとこに行けよ」



「…何、言ってんの」



どきりする。すごく怖くなる。



「もしも、の話だ」



その、もしも、の話は、もしも、では済まない気がした。直感、というのだろうか。僕はひどく嫌な胸騒ぎを起こす。



「嫌です、長谷部さん。絶対に嫌だ…。死ぬなんて許しませんから。僕は、あなたなしで、どう生きれば良いんですか」



「だからもしも、の話しさ。そんなパニックにさせるつもりはなかったんだ。ただ、戦争になっちまったからなぁ、お前にも覚悟ってのはしてほしい」



「そんなの…嫌に決まってるでしょう」



「お前、月曜日、卒業式だろ? 何時に家出る?」



「今、関係ない…」



「送ってやるよ、学校まで」



「なんで急にそんな事すんの」



「俺は一応、お前の保護者だぞ。何時に出る?」



長谷部さんは僕を一瞬だけ見て、口角を上げて笑った。



「…8時だけど」



「わかった」



そう言うとタバコを灰皿に押し付けて、僕の唇にそっとキスを落としてから、長谷部さんは眠りについた。僕は言いようのない不安で眠りにはつけなかった。


午後、長谷部さんはいつも通り仕事へ行った。

そして、いつも通り、帰ってくる。僕は安堵に胸を撫で下ろし、長谷部さんに抱きついた。



「おかえりなさい」



と、何度だって言いたいと心の中で願った。


月曜日の朝、普段は寝ている長谷部さんは起きていて、僕に朝食を作っていた。それは僕が来た当初作ってくれた朝食であった。バターが塗られたトースト、プチトマトの乗ったサラダ、ふわふわのスクランブルエッグとカリカリのベーコン。


僕は新聞を読んでいた長谷部さんを見ながらトーストにかじりついた。



「長谷部さん」



「ん?」



「長谷部さんって、この組み合わせ好きですよね」



「お前が好きかと思ってね」



新聞を広げたまま、長谷部さんは言った。



「どういうこと?」



「…ここに来た時、俺に朝飯を作ったろ。人に作るのは自分が好きなモノかと思ったんだがな。違ったか?」



僕は覚えていた。

僕が長谷部さんに朝食を作った次の日の朝、長谷部さんは僕が作った朝食と同じものを出してきた。わざとだとは思ったが、そうか、そういうことだったんだ。



「うん、好きです、この組み合わせ」



長谷部さんはまた、そうか、とだけ言ってコーヒーを飲む。僕のことは見ず、ずっと新聞を読んでいた。



「長谷部さんに想ってもらってるなんて、思わなかったんですけど、意外と想われてたってことですかね」



僕はなんだか長谷部さんとの会話を止めたくなかった。ずっと話していたかった。長谷部さんの事を知りたくて、仕方がなくて、どこにも行ってほしくなかった。



「そうだな」



長谷部さんはようやく僕見た。優しく、ちょっとだけ口角を上げて微笑んだ。



「長谷部さん、」



「なんだ?」



「僕のこと、好きですか?」



長谷部さんは一瞬、困ったように見えた。でも、すぐに表情を緩め、甘い目をする。それはとても優しくて温かい。



「あぁ、好きだよ」



僕は、口の中で砕いたプチトマトを飲み込めなかった。拍子抜け、とはまさにこの事だ。心臓が苦しい。一瞬止まったようだった。そうして気付くと、心臓の鼓動が煩いほど早くなり、食欲を奪われる。


長谷部さんが、好き、って言った……。



「そんなことより、お前、時間いいのか?」



「…あ」



時間は止まってなどくれない。僕は朝食を急いで平らげ、歯を磨き、楽しそうに笑ってる長谷部さんを横目に身支度を済ませた。


長谷部さんは髪を下ろしたまま、シャツとスーツパンツだけを履き、車の鍵を握り、「送って行こう」と微笑む。



「うん、お願いします」



車の中では、僕にはあまり馴染みのない音楽が流れていた。熱のこもった歌声、ドラムとベースギターが一定のリズムを刻んでいて、ハーモニカがかっこよかった。そういえば長谷部さんがどういう音楽を聴くのか、好むのか、僕は知らない。



「長谷部さんて、こういう音楽聴くんですね」



「ん? そうだな」



「こーいうの、なんていうんですか」



「ブルース」



ブルース。そうか、これがブルースか。

僕はブルースという音楽を初めてちゃんと聴いた。長谷部さんらしい音楽だなと思った。渋い、っていうか、大人っていうか。


僕もこれからブルースを聴こう。



「長谷部さん」



「ん?」



「あとどれくらいで仕事落ち着くんですか」



「そうだなぁ、…もうすぐかな」



「本当に?」



「あぁ」



「その仕事が無事に終わったら、長谷部さん、ずっと僕といてくれますか」



僕は長谷部さんの横顔を見上げた。



「あぁ」



長谷部さんが肯定してくれた事が何よりも嬉しかった。嬉しくてたまらなかった。もう、この人は、死ぬかもしれない、なんて言わない。この人は、義昭さんのモノでもない。僕のそんな子供っぽい嫉妬は彼方へ消えてゆくんだ。


車を走らせると学校近くで、辰也がひとりで歩いているのが見えた。珍しい。車の送迎が当たり前のあの辰也がひとりで歩いてる。



「あ、辰也だ…」



そう、僕が驚いてぼそっと呟くと、長谷部さんは「友達か?」と尋ねる。



「うん、友達」



「そうか、なら、ここで降ろしてやるから一緒に行け」



「え? なんで!」



「お前の友達、リュックが全開だ」



「あ、本当だ」



「言ってやれ。友達を大切にしろよ」



「してますよ」



僕がハハっと困ったように笑うと、長谷部さんは車を停め、僕の顔をまじまじと見て、クスっと軽く笑った。その笑顔は、こっちが照れるほど、なんだか素直で優しいだけの笑みだった。だから僕はバカみたいに、「長谷部さん、将来、結婚してください」と真面目にプロポーズをした。



「日本じゃできねぇよ」



僕はただ、一生を、この人といたかっただけだ。



「じゃぁアメリカ行こう。アメリカなら出来ないかな? ねぇ、長谷部さん、」



僕のモノになってくれるんでしょ?

そう聞きたかった。でも聞けなかった。長谷部さんの長い腕がするりと伸びてきて、柔らかい唇が重なったから。


呆気に取られる僕に、長谷部さんは「学校行ってこい」と優しく笑う。「…いってきます」僕は、長谷部さんが死ぬほど好きで、異常なほど依存していたのは、きっと、長谷部さんが僕にとって理想の大人だからだ。



「あ、智人、そういやお前の親父の借金、この前のビデオで完済だ」



「えぇ? 本当に言ってるんですか?」



「あぁ」



僕が驚いたのは、早過ぎると言えるほど完済が早かったから。完済はまだまだ遠い未来の話だと思ってたからだ。



「お疲れさま」



長谷部さんの鉄仮面のような怖い顔が、愛らしく緩まるその瞬間が、無性に好きだ。



「うん、お疲れさま」



後で計算し直そう。僕はそう思いながら車を降りた。



「気を付けろよ。いってらしゃい」



「うん、いってきます。長谷部さんも、気を付けてね。またあとでね!」



僕は車のドアを閉めた。


走り去って行く長谷部さんの車を見送って、僕はのろのろと歩く辰也の元へと走った。



「辰也、おはよう」



「おーシロ、おはよー!」



嬉しそうに満面の笑みを浮かべる辰也に、僕はちょっとだけ癒された。そんなに嬉しい顔するんだなと思うと、僕もつい嬉しくなってしまう。



「カバン、全開だよ」



「げっ! まじかよ! 恥ずかしすぎる。この状態で家から来たのによ。誰も言ってくんなかったぞ」



「それは、辰也の見た目が怖いからだね」



「え、なにそれ、ひどい」



「てか、車で来てないの、珍しいじゃん」



「いや、なんか、ひとりで来たい気分だったから」



「いいのかよ、それで」



「いーのいーの。あそこのやつら、みんな俺を子供扱いするし」



「ケンカしたんだ?」



「んー、ちょっとした。諏訪(スワ)が悪い」



「ハハハ、諏訪さんも大変そうだね。辰也の子守なんて」



「お前もそんなこと言うのかよ!」



僕は辰也と会話しながら、頭の中はやっぱり長谷部さんのことを考えていた。今日の長谷部さんはやけに素直で可愛かったな、と。結婚できたらどれほど幸せだろうかと。まぁ、そんなこと、できないけど。


あと少し。あと少しで、仕事が片付くのだろう。

だからそれまでの辛抱。


もし、この仕事が終わったら、死ぬ心配もしなくていいし、僕の側にいてくれるのだろうな。

早く、仕事なんて、終わっちまえ。


僕の頭は今朝の長谷部さんの言葉でホワホワと熱していた。『好きだよ』という甘い言葉。あれは僕に向けられていたんだ。他の誰でもない僕に。嬉しくて、どうしようもない。


僕は卒業式を無事に終え、早めに帰宅し、長谷部さんの帰りを待った。今日からは長谷部さんに時間を合わせて、たくさん愛し合って、もっと、たくさん、長谷部さんのことを知りたい。


僕の青春は、これから。

まだまだ、これから。


そうして胸を躍らせつつも疲れていたらしい僕は、長谷部さんの帰りを待っている間に寝てしまっていたらしい。朝方、はっと目を覚ました。長谷部さんはまだ帰っていない。


何時に帰ってくるのだろう?

遅くなるのかな。


僕は長谷部さんのベッドでゴロゴロと横になっていた。妙に冴えてしまった目は、二度寝をさせてくれず、僕はただぼうっとしている。


時刻は朝の5時だ。


その時、ピンポーンとチャイムが鳴った。こんな時間に訪問なんて、とインターホンの前へ立つと、そこには西嶋さんがいた。



「…西嶋さん?」



僕はインターホン越しに眉間に皺を寄せると、「智人くん、ここを開けてほしい」、ただならぬ予感がした。僕はエントランスのドアを開け、玄関で西嶋さんを待った。西嶋さんは僕の前に来ると、「身支度をしてきてくれ」と静かに、低い声で言った。



「君の身も危ない。すぐにここを出たい」



君の身も、ということは、つまり、長谷部さんの身に何か起きてしまった、という事だ。


僕は急に怖くなった。

頭を無理に回転させて、着替えを済ませ、携帯をポケットに突っ込んだ。ここへ来た時に持ってきたモノをカバンに詰めながら、僕はふと思った。もしかしたら、もう、ここには、戻って来られないのかもしれないのだと。


だから僕は、長谷部さんの部屋のクローゼットから長谷部さんのシャツを引きずり出して、西嶋さんの元へと駆け寄った。



「行こうか」



西嶋さんの顔は、辛そうな、悔しそうな、なんとも言えない深刻な顔だった。でもそれを必死で隠そうとしていた。車に乗ると、運転席には一年前に僕を長谷部さんの元へと放り投げたスキンヘッドのいかつい男がいた。


僕が乗り込むと、その人は急発進させ、スピードを出して朝の街を抜ける。



「つけられてる」



「わかってる。巻く」



「修吾、そこを右だ」



「は?」



「いいから曲がって」



修吾と呼ばれたいかつい人は、西嶋さんに言われた通り右へと曲がり、細い路地を抜けて、大通りへと出た。後ろからついてきた黒い車は、僕達の車を見失ったようだった。



「そのまま、凛太朗さんのところへ」



「わかってるよ」



凛太朗さんのところへ僕を連れて行く。それは何を意味しているのか、僕は知りたくない。現実というものを、知りたくなかった。


死んだら、凛太朗さんのところへ。


無言でいた僕に、西嶋さんは「智人くん」と、僕を見た。



「落ち着いて聞いてくれ」



その言葉を聞いて落ち着ける人はいるのだろうか。それでも、前置きというのは必要なのだろう。つまりそれは、覚悟をしてくれと言うことだ。これから言う悲劇を、覚悟して受け取ってくれ、ということだ。僕は頷き、シャツを握った。嫌だ、とワガママを言えば、聞かずに済むかもしれないのに、どうして頷いたんだろう。どうして、大丈夫なふりなんてするのかな。


大人になりたいからかな。



「長谷部さんは、たぶん、もう、帰ってこない」



大人ってのは、我慢強いから。



「そう、なんですか」



車内は静かだった。

車の走る音だけが聞こえている。



「もう、帰って来ないんですか」



「…長谷部さん、派閥争いしてる組織に乗り込んだんだ。ある男がね、カシラの側近で、親しかったはずなのに裏切った。持ってた情報も、やろうとしてた事も、すべて筒抜けになって、かなりヤバイ事になった。それで、俺らの組が壊滅免れたいなら、若頭と若頭補佐、つまり長谷部さんを差出せって。使った金も命も、無駄にしたくないなら、って。…そんなの飲むわけにはいかなかったんだけど、だけど、…長谷部さんはひとりで乗り込んだ。カシラを守るためにも、この組守るためにも、そうひとりで乗り込んじまった…」



義昭さんを守るために。

その言葉が、僕の、全てを崩し、乱し、破壊していく。


僕は何も言えなかった。


長谷部さんは、義昭さんを選んだのだ。僕ではなく、義昭さんを。これが仕事だから? これが側近としての務めだから? ふざけるな。笑わせるな。やめてくれ。



「でも、たぶん…、もうダメなんだ」



西嶋さんが悔しそうに目を赤くした。拳を握り、歯をくいしばる。



「カシラも、殺される。あいつらは、俺たちのシマを奪いたいから、奪って、次の組長になるために、俺たちの組が邪魔だから、根こそぎ壊滅させる気なんだよ。長谷部さんは、犬死にだ!」



なぜ、そんな道を選んだの。

義昭さんのため、彼を守るため。

そうなの? 長谷部さん。



「長谷部さんが命捨てたところで、あいつらは、手を止めない! 俺たちも殺されるんだ! もう、おしまいなんだ…。どうにも、できやしない!」



西嶋さんは悔しそうに涙をボロボロと流す。僕も、西嶋さんみたいに感情が表に出てくれるなら、楽になれるだろうか。



「長谷部さんに君の事を頼まれた。その時に、僕らに遠くへ逃げるよう大金をよこした。でも、僕らは、あの人と心中する気だったのに、なのに…、絶対に死ぬなと、足洗って田舎帰れって。たくさんの命を失いすぎだから、お前らだけでも生き残れって、ありえないような金よこして、行っちまった。…許してくれ」



西嶋さんは涙を取り留めなく流して、僕に頭を下げた。僕はこの時、大人が、こんなに感情的に、人の為に泣いた姿をはじめて見た。



「君の大切な人を、守れなかった…。すまない、本当に、すまない」



「西嶋さんのせいじゃないですよ。きっと、長谷部さんは最後まで義昭さんを守りたかったんだと思います。それが犬死にだとしても、そういう姿勢を見せたかった。自分はずっと、義昭さんのために生きてるって、そういう一面を見せたかった、そういう事じゃないんですかね」



僕は、自分が思ってる以上に感情を殺すのが上手いのかもしれない。



「だから、死ぬのは自分だけで良いと、犬死だと分かっていたからこそ、西嶋さんを逃したんじゃないでしょうか」



長谷部さんは、たくさんの人に愛されていたのだと思った。慕われ尊敬されていたのだと。隣で顔を伏せ、「すまない」と言った西嶋さんも、きっと、長谷部さんを慕った人の一人で、運転している修吾さんもそうだろう。修吾さんは、タバコに火をつけるその手が、少し、震えていた。


僕は無事に凛太朗さんの元へ届けられ、二人は凛太朗さんに一礼すると、すぐにその場を離れた。



「中に入って。ひとまず休もうか」



凛太朗さんは優しい声で僕にそう言って、温かいココアを差し出してくれた。僕はそれを両手で包み、その温もりを手のひらで感じ取る。



「僕は、まだ信じることが出来ません」



凛太朗さんは僕の向かいに座ると、僕の話しをじっと聞く。何も言わず、ただ聞いていた。



「長谷部さんが死んだってこと、信じられません。ただ、敵のところに乗り込んだだけで、死んだとは思えない。西嶋さんや修吾さんは、現実を見ていて、僕は見ていないだけなんでしょうけど。長谷部さんが生きてると、心のどこかで信じているんです」



僕は長谷部さんのシャツを膝に置いたまま、ココアを飲んで、凛太朗さんを見た。凛太朗さんは、僕の隣に腰を下ろすと、ただ、ぎゅっと強く強く僕を抱きしめた。



「時間が全てを解決してくれるよ。だから、焦らずに彼を待とう。生死は、そのうちわかる。虎太郎が生きているにせよ、死んだにせよ、君は君を大切にしなくちゃならないよ」



僕は僕を大切にできるだろうか。

僕はただ、凛太朗さんの腕の中で、自分の中にある喪失感を消そうと、現実を避けようと必死になった。明日、長谷部さんは帰ってくるのだと、また、ぎゅっと抱き締めてくれるのだと。義昭さんなんかより、僕の元へ来てくれると。


その日、僕は、凛太朗さんと店で寝ることになった。凛太朗さんは結婚していて、一児の父だという。写真を見せてくれたが、その子は凛太朗さんに似た切れ長の瞳を持った愛らしい子だった。小学校に入ったばかりの可愛い子だった。



「智人くん、しばらくはここにいなさい」



凛太朗さんは僕に寝巻きを渡して、そう言った。



「虎太郎から君を預かった以上、しっかりと守らなきゃならない。俺もここにいるから、しばらくは、ここにいなさいね? 嫌かもしれないけど、我慢してほしい」



「いや、でも…凛太朗さん、家、あるでしょ?」



まだ子供に手がかかる時期だろうに。可愛い子供から離れたくないだろうに。



「まぁ、そうなんだが…でも、君をひとりには絶対にできない」



凛太朗さんの不器用な優しさは十分に伝わっている。僕はそんな凛太朗さんが好きだ。やっぱり、人として、この人は良い人。温かくて、優しくて、大らかだ。



「住む場所なら、友達に頼んでみますよ。友達の家、お屋敷みたいなデカイ家だし、幼馴染で家族とも仲良いし、きっと泊めてくれると思うから。大丈夫ですよ、僕のことなら」



「わかった、ひとまず、落ち着いたらそうしよう。しかし今はまだ、外も物騒だし、しばらくは様子を見よう。もしそれで、落ち着きそうなら友達の家に行こう。けれど、行った後も、私は君の世話をするつもりだ。それが私の義務だからね。それは、わかっておいてくれ」



男らしい人だな、この人は。放っておいても良いのに。


優しい人ってのは、割と世の中に、たくさんいるものなのかもしれない。


僕は目の前の逞しい彫り師に、心底支えられた。長谷部さんはちゃんと分かっていた。自分がいなくなった時、僕には誰かが必要で、その誰かは半端な人間じゃ務まらないって。



「うん、わかりました」



「トイレもシャワールームも、小さいがキッチンもある。勝手に使っていい。でも、外に出る時は一緒に出るから声をかけてくれな?」



「はい」



凛太朗さんは僕の頭をぽんと叩くと、「何かあったら言ってくれ」そう、シャワールームへと消えていった。


落ち着いたら辰也に連絡しよう。

住む場所なくなった、って言って、助けてもらおう。


助けてくれるかな?

でも今、僕には辰也しか頼れる人がいないんだよな。

辰也は僕のこの状況、知らないんだよな。


どこまで分かってるのかな。

次に会った時、あいつはどこまで僕を問い詰めるのかな。


僕はどこまで、隠すのだろう……。


次の日、人の話し声で目が覚めた。

僕が寝ていたのは小さな畳の部屋で、凛太朗さんの布団は畳まれていた。奥にテーブルがあって、そこにはお茶とコンビニのおにぎりがふたつと、置き手紙があった。


『起きたら食べて顔を出しなさい』


それだけだった。僕は言われた通りにおにぎりを頬張った。無理矢理、口の中に入れた。食欲はどこかへ消えてしまい、僕はひとつを残すと、凛太朗さんがいるであろう、施術室のドアを開ける。男の人がひとり、椅子に座って肩を向けていた。凛太朗さんはマスクと薄手のゴム手袋をして、その人の肩に入れ墨を彫っていた。


僕は話しかけるべきか、否か、かわからず、その場に立ち尽くしていると、客である男の人が「あの…」と凛太朗さんに声をかけ、僕を指差した。



「おはよう、智人くん」



凛太朗さんはそれに気付くと、手を止めて、僕を見た。「おはようございます」と僕が言うと、「シャワールームに着替えとか歯ブラシとか必要なものは置いてあるから、適当に使ってね」と微笑まれる。


僕は、凛太朗さんと住むことになった。長谷部さんのいない世界で、僕はまだ生きている。


歯を磨いてシャワーを浴びていると、途端に、ひとりだということが浮き彫りになった。大丈夫、まだ死んでない。わからないじゃないか。不安になっていく気持ちを押さえつけるように、僕は、自分に言い聞かせた。


でも僕は最悪の事態を考えずにはいられない。人間ってのは、きっと防衛本能ってのが働いて、最悪な事態が起きた時、心に少しでもゆとりを持てるように、起きてもいないもっと酷い事態を想定するクセがあるのかもしれない。


そして起きてもない事に、僕は心底深い悲しみに突き落とされる。考えたくないのに。


長谷部さんの声が聞きたい。

あの瞳を覗きたい。

あの背中に触りたい。


神様、僕は神頼みなんて今までした事がないけど、今だけは、祈らせてほしい。長谷部さんは無事で、そして僕の元へ帰って来てくれると。


僕はひとりになると、長谷部さんを思い出し、苦しくなり、何度か吐き、胃が空になっても吐き続けた。空腹を感じない今、何かを食べるという事が何よりも面倒に感じ、僕はただその場に存在していた。


凛太朗さんはそんな僕を心配した。

凛太朗はなるべく僕の側にいて、色んな食べ物を買い与えた。凛太朗さんに心配は掛けたくなくて、少しだけ、食べるようにはするものの、ひとりになれば、また気分が悪くなる。


強くいようとするのに、僕は、長谷部さんのいない空虚な時間に耐えられなくなる。


そして、数日後。長谷部さんの遺体が見つかったと連絡があったのは、ある雨の日の午後だった。丸焦げになった遺体が発見され、焼け焦げた服の内ポケットから、長谷部さんの免許証が出てきたらしい。身元を特定できるのはそれくらいだったという。歯は全て抜かれ、殺された後に焼いて捨てられたらしい。長谷部さんは、さんざん痛めつけられ、拷問されてから死んだ、という事だった。


僕はその瞬間、現実逃避という手段をなくした。


警察からその電話があったすぐ後、僕と凛太朗さんは長谷部さんの遺体があるという警察署に向かい、包帯に巻かれた遺体を目の前にした。それが長谷部さんだとは到底思えないほど、変わり果てた姿だった。


遺留品を見せられ、真っ黒に焦げた財布の中身を見せられる。



「免許証と数枚のクレジットカードと名刺しか入ってなかった」



「そう、ですか」



「あいつ、身寄りなかったろ? 羽石も失踪して、組長さんも死んで、どうしようか迷ったんだがなぁ。組がない今となっちゃ、お前しかいねぇからさ」



白髪混じりで、いかつい刑事はどうやら長谷部さんのことも、義昭さんのことも、凛太朗さんのことも知っているらしい。



「派閥争いにもとうとう決着ついちまったなぁ? こっちは組同士の抗争で片がつきそうだが、なんていうかなぁ、知ってる分、いたたまれねぇわなぁ」



「そうですね」



凛太朗さんは表情を全く変えなかった。



「ま、遺骨のこともあるから、追って連絡するけどよ。…さっきから気になってたんだが、そのガキ、お前のガキか?」



そう刑事に見下ろされ、僕は急に居心地が悪くなった。


凛太朗さん、なんて言うのだろう。

正直に言うのかな?



「僕の知り合いの子です。長谷部さんに可愛がってもらってて。連絡きた時一緒にいたので、連れて来たんです」



正直に、言えるわけないか。

相手、刑事だもんね。



「あんな丸焦げの遺体見て、顔色ひとつ変えないガキってーのは、大丈夫なのか? お前、まさか、長谷部の部下とか言うんじゃぁねぇよな? まだ若いだろうが」



刑事は僕を見下ろして眉間にシワを寄せた。僕はその目をからかうように困ったように笑ってみせた。



「僕はヤクザじゃないですよ。凛太朗さんを通して長谷部さんにはお世話になってて、その、和彫りの入れ墨を勉強してるので、何度か背中を見せてもらったことがあったんです」



「…ほーう」



僕の嘘は通じた、のだろうか。

刑事は僕の事を少し変なガキだと思っているのは丸わかりだったが、特に何も言わず、凛太朗さんに手続きを取るよう書類にサインを書かせた。


しばらくして、僕は凛太朗さんと共にその場所を後にした。店に着くと、凛太朗さんは僕をひどく心配してくれた。でも僕は平気ですと笑ってみせた。涙は出なかった。死んだとわかったのに、酷い遺体をあんな間近に見たのに、僕は長谷部さんの死をまだ、現実として受け入れられずにいた。



「…智人くん、これ渡しておくね」



そう言って凛太朗さんから渡された物は、通帳とカードと印鑑であった。



「君名義で作ったものだ。虎太郎が、もし自分が帰らなかったら、これを君にって。大学4年間は過ごせると思う。住む場所も、きっとまかなえるよ」



そこにあった金額に、僕は愕然とした。今まで見たことのない金が、そこには記帳されていて、僕はその時完全に、長谷部さんとの繋がりを断ち切られた感じがした。この金で大人になれ、俺はもう面倒は見てやれない、そう言われてる気がした。


僕は大学なんて辞める気だったのに。

働く気だったのに。


どうして、…どうして。

嫌だな、こんな金持って、どうしろって言うの。


僕はただ、あなたと過ごしたかっただけなのに。



「暗証番号は0315ね、この紙に一応書いてあるから、無くさないようにね」



僕が長谷部さんの家に転がり込んだのって、3月の半ば。もしかして15日だったりするかな。だとしたら、僕はきっと、暗証番号を打ち込む度に、長谷部さんとの出会いを思い出してしまうんだろうな。


僕はそれらを受け取って、「わかりました」と一言返事をしてカバンに詰め込んだ。


僕は、ひとりになった。

大金をもったガキになった。


長谷部さんが慕った義昭さんは失踪し、行方不明で、僕はこの金で義昭さんを見つけ出して殺してやろうかと、頭の片隅で思い描いた。


けれど、そんなことできるはずもない。


大学へも行く気がなくなった僕に、どうしろと言うのだろう。長谷部さんに認めて貰うための進学だったのに。僕はこれから、どうしよう。


……あぁ、生きてる意味、あるのかな。


僕はふっと、その瞬間、死にとり憑かれた。

死にたくて仕方なくなった。

死ぬということが、何よりも、幸せな気がした。


寂しさが、突然、僕に死という選択肢を突きつけた。



「智人くん、出前取るけど、何食べたい?」



「…あの、出前じゃなくて、僕、食べたい物があるんですけど、それじゃダメですか?」



たぶん、凛太朗さんは僕を一人にするのを避けたがっている。僕を一人にすると、何をするかわかったものではないからだろう。


でも僕は、一人になりたかった。

早く、人生を、終わらせたかった。


死は僕を楽にしてくれる。

死にたいという思いは僕をあっさり蝕んだ。



「何を食べたいの?」



凛太朗さんはソファに寄りかかりながら、首を傾げて僕を見た。



「そこのカレー屋さん、テイクアウトできるでしょ? すごく食べたかったら、もし、食べるならあのカレーがいいなぁって」



凛太朗さんはこの後にもひとり、客が来る。一緒に外食してしている時間はない。僕はそれを見越して言った。凛太朗さんにお願い、と手を合わせると、凛太朗さんは渋々「わかったよ」と頷いた。僕は凛太朗さんを見送った。


これで、最後だからだ。


迷惑かけることになるけど、ごめんなさい。

僕は長谷部さんのいない世界でなんて、生きていたくない。長谷部さんが死んでしまったのなら、僕も、死んでしまおう。


僕はカッターを握りしめて、シャワールームへと向かった。長谷部さんの匂いがするシャツを握りしめたまま、僕は、カッターの刃を出して、腕を捲った。


神様、今度こそ、僕の願いを叶えてほしいな。死んだら、長谷部さんに会わせて下さい。


手首を思いっきり切れば、きっと、後戻りなんて出来ないほど血が溢れるだろうな。痛いだろうな。

でも、そんな痛みなんて一瞬さ。


長谷部さんのところへ行くためだから。

痛みなんて、平気だよ。


僕は左手首にカッターの刃をあてた。

あとは、引くだけだ。

思いっきり、引くだけ。


僕は目をつぶって、刃を強く押し当てた。

その時だった。



「智人くん!」



悲鳴に近い声を上げた凛太朗さんが目の前にいた。僕が呆気に取られていると、凛太朗さんはカッターを奪い取り、僕の頬を両手で包むと、僕の目を見た。



「戻ってきて、良かった…。君が無事で、良かった…」



怒られるかと、思った。命を粗末にするな! と正論を掲げられ、怒鳴られるかと。


でも、凛太朗さんは違った。


少し焦っているようには見えたが、それでも落ち着いていた。



「…… 凛太朗、さん、どうして…」



凛太朗さんが戻って来た事に対して、何故戻って来てしまったのだろうと、死に急ぐ気持ちがあるのに、安堵する凛太朗さんの顔を見ると複雑だった。


凛太朗さんは一呼吸つくと、カッターの刃を中へ仕舞いながら口を開いた。



「君は虎太郎の死を受け入れたのか?」



「……」



受け入れたのか、とは、どういうことだろうか。

僕の頭は混乱した。眉間にシワを寄せて、凛太朗さんの言葉を待つ。



「俺は、あんな、包帯ぐるぐる巻きの遺体があいつだとは信じない」



「…でも、あれは長谷部さんだって、警察が…」



「警察が言ったから、全てを信じなければならない、ってわけじゃない。自分が何を信じたいのか、自分にとって真実は何か。全てを全て、信じる必要なんて、どこにもないと俺は思うんだ」



「…… 凛太朗さんは、あれは長谷部さんじゃないと思うんですか」



「わからない、わからないけど、都合よく免許証と名刺が出てきて、あれは虎太郎だなんて、信じられない。あんなの見せられて、これが虎太郎です、死にました、って言われても、受け入れられるわけがない。あいつの背中には俺が彫った鳳凰と龍がいた、それも今や確認できない。だから、俺は、信じない。信じるには何もかもが不足してるから」



凛太朗さんの言葉はとても強い。意志がはっきりしていた。だからだろうか、僕は、あぁ、そうかと、首を傾けて考える。



「もし、あれが長谷部さんじゃないなら、長谷部さんは今、何処なんでしょうか…」



「さぁね。あの遺体はどこかの誰かだったとしても、あいつはもう君の側にいてやる事は出来なくなったんだろうな。でもね、智人くん。あいつは本当に君を大切に思ってた。愛していたし、君の将来も案じていた。だから、あいつがここにいなくても、君の側にいなくても、あいつが愛した君として生きていく事は出来ないのか?」



僕は、なんと答えるべきなのだろう。

目の前の悔しそうな顔をするこの人に、何と言えば良いのだろう。


いや、もう考えて物事を言うのはやめよう。


この人はきっと、何だって受け止めてくれる。


僕は自分の手首を見ながら、ゆっくりと口を開いた。



「僕にとってあの人は、全て、でした。長谷部さんさえいれば、何も要らなかった」



なのに、…なのに。

その人は急に、僕の前から消えた。



「僕は長谷部さんの側にいたい……、長谷部さんのいない世界で生きる事に、意味が見出せない…」



「そうか…」



凛太朗さんの声は落ち着いていた。僕を責めたりせず、ただ僕の側にいてくれる。



「あいつはそれほど君に愛されていたんだね」



僕は、長谷部さんに大切にされていた。

でも僕は、僕には、長谷部さんしかいない。


もう、僕を愛して側にいてくれる人はいない。


眠る時に僕にキスを落としてくれる人もいない。

ワガママを聞いてくれる人もいない。

美味いご飯を作って一緒に食べて、笑って。


思い出せば出すほど辛くなる。

綺麗すぎるほど、僕にとっては良い思い出しかない。


長谷部さんと過ごした日々は、毎日が、幸せだった。


気付くと、僕の目から涙が溢れていた。

泣くつもりはないのに、一筋の涙が頬を濡らし、握っていた長谷部さんのシャツにシミを作る。


凛太朗さんは僕の頭を優しく撫で続け、僕に胸を貸してくれている。



「こんな結末になってすまない、ってあいつはきっと思ってるんだろうな、…でも、どうにもできなかったんだろうな。あれは、あぁ見えて、とても不器用な男だから」



「………長谷部さんに会いたい…」



どうしようもなく、長谷部さんに会いたい。

また、抱き締めてほしい。触れてほしい。


長谷部さんの事、もっと、もっと、たくさん、知りたかった…。


こんな突然の別れなんて、受け入れられるわけがない。


耐えられるわけがない。



「智人くん、死んじゃ、ダメだよ。…君は、死んじゃ、ダメだ」



凛太朗さんは僕の頭を撫で、優しい声でそう言った。



「あいつは君の死を許さない。虎太郎は本当に君を愛していたから、だから君の死は許さない」



「でも……でも、苦しい…苦しいんです…」



涙が止まらない。何故かな。

悲しいから涙が出るのは当たり前?


悲しくて、辛くて、苦しくて、泣くだなんて、初めてだ。泣く事自体、僕にとっては珍しいのだから。僕にとって泣くという事は、感情のコントロールが全く出来ていない証拠で。今まで経験した事がなかったから、どうして良いのか全く分からなかった。


泣きたいわけじゃないのに。涙が次から次へと流れて来る。


そんな僕を、凛太朗さんは静かに包み込んでは、頭を撫で、僕から死を遠ざけようと、穏やかに言葉を紡ぐ。



「智人くん、虎太郎に愛されていた君として、生きなさい」



長谷部さんに愛されていた僕として生きる。胸にぽっかりと空いた大きな穴は、埋まりそうにもないけれど、僕は、凛太朗さんの温もりに、言葉に、優しさに、少しずつ死を遠ざけていける気がした。



「俺に、君の時間を少しくれないか?」



しばらくして、凛太朗さんは突然、僕にそう言った。僕を抱きしめながら、時間を少しくれないか、と。僕の時間が欲しいとは、どういう事なのだろう。


凛太朗さんは僕から体を少し離すと、眉間に軽くシワを寄せた僕を見て、その眉間のシワを人差し指で解きながら、首を傾けて僕の顔を覗いた。



「入れ墨について、勉強してみないか」



「…え?」



入れ墨について、勉強をする。僕はそんな提案をされるとは思っておらず、ただ目を開いて驚いていた。



「虎太郎が背負っていた鳳凰と龍。もちろんそれだけじゃないけど、色んなデザインについて、俺の助手として勉強してみないかい?」



長谷部さんを知れる気がした。

またひとつ、長谷部さんの事を。


だから僕は素直に嬉しかった。



「……はい、勉強してみたい、です」



「君はあいつの鳳凰と龍を近くで見てきた。だから君は良い目を持ってるはずだよ。俺が側にいるから、一緒にやってみよう」



そうか、長谷部さんに愛された僕として生きるんだ。


僕は凛太朗さんの言葉に頷き、またその胸に体を預けた。凛太朗さんは大きな手で、僕の髪を優しく触れてくれる。


僕はすっかり落ち着いていた。


僕は完全に死を遠ざけたわけではないけれど、でも、今少しだけ、ほんの少しだけ生きる希望を得た気がした。


長谷部さんの背中に羽ばたいていた鳳凰と泳いでいた龍のような彫り物を、僕も彫りたい。この人の側で、僕は長谷部さんの面影に触れられる。そんな気がしたからだった。



「凛太朗さん…」



「ん?」



「生きていたら、またいつか、長谷部さんに会えると思いますか」



「会えると、いいな」



長谷部さんは、どこかで、生きているのかな。


あの人はどこかで、鳳凰と龍を背負って、生きているのかな。


確かに、長谷部さんは僕の目の前から消えた。それには変わりない。でも、生きているのなら、僕はまだ希望を持って、この先の人生も生きていける。


だって、きっと長谷部さんは。


僕は、あぁ、そうなのかもしれないと、気が付いた。


僕の中の点と点が繋がった。義昭さんは失踪し、長谷部さんの遺体が別人だと仮定するならば、これは仕組まれていた事。


あの日の夜、風呂場で長谷部さんと体を合わせた時、僕は長谷部さんの体の異変に気付いていた。長谷部さんの体は、僕のモノではなくて、他人のモノのように感じていた。考えられるのは義昭さんしかいなかった。


長谷部さんを遠く感じていたのは、もうすでにあの時、長谷部さんはこの世界から抜け出そうとしていたからだ。


艶やかで、逞しくて、賢い鳳凰に、僕はしてやられたのだ。


そういう事なのかもしれない。


僕にとって鳳凰は絶対的で、尊くて、けれどもう、きっと、会う事はできないのかもしれない。生きていたとしても、僕に微笑んでくれる事はないのかもしれない。


だって、鳳凰は結局、龍の側にいることを望んだのだから。きっと、鳳凰は、龍の側を離れたくないのだろう。だって龍はきっと、全てを投げ出して、鳳凰を守ったのだから。鳳凰だけを守ったのだから。


死んだことにして、全てを壊して捨てても、鳳凰が壊される事を恐れ、この世界から抜け出した。


側にいるもの、僕にとって龍の入れ墨は、その人を守ってくれる入れ墨になるのかな。長谷部さんの背中に絡みつくようにいる龍は、長谷部さんをきっと、ずっと、守ってくれる。



彼は今きっと、自由だし、幸せだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る