3. 愛する人

「…いえ、そういうわけじゃ、ないんです」



「えー、またまたぁ、コタちゃんは嘘をつくのが下手だなぁ」



「その呼び方、いい加減やめてください。それに、俺が何をしようと関係のない事でしょう」



「冷たいなぁ、久々の再会じゃないかよ。ちったぁ喜べよ」



「…喜んでますよ、顔に出ないだけで」



遠くから長谷部さんと誰かの声が聞こえた。僕は寝起きのぼうっとした頭でその会話を聞く。ベッドは広すぎて、冷たくて、長谷部さんはきっとかなり前にこのベッドからいなくなってしまったようだ。


長谷部さんは誰と話しているのだろう。

何の、話をしてるのだろう。

今、リビングへ出たら、僕はきっと邪魔かな。


仕方なしに、僕は入れ墨の本を取って、ベッドに転がった。



「あ、ねぇ、コタちゃん。プレゼントのビデオ、いい加減見た?」



あ。

もしかして、長谷部さんと話してる人、義昭って人だろうか。僕は本をそのままに、開いてる寝室のドアへゆっくりと歩き、リビングの方へ耳を傾けた。意識をそっちへ集中させ、会話を聞く。



「見ずに捨てました」



「えー! 嘘だろー? …嘘だ? コタちゃん、俺には嘘つけないよ?」



「…あんなもの送ってどうする気だったんですか」



「あ、やっぱ見たんだ? なぁに、ただのプレゼントじゃないか。そんな怖い顔するかね」



「プレゼント、…義昭さん、いい加減にして下さい」



やっぱり、そうだ。

長谷部さんに酷いことした人。

長谷部さんの組の若頭。

そして、長谷部さんと親密な関係の人。



「怖い顔だなー」



義昭さんの言葉のあと、しばらく静かになった。僕は気になって、仕方なくなって、一歩リビングの方へ近寄る。部屋を出て、ほんの少し開いていたリビングのドアからそっと、中を覗いた。ふたりはテーブルを挟んで向かいあって座っていた。


義昭さんという人は、濃い灰色のストライプ入りのスーツを着ている。ジャケットの中にベストを着ていて、深い茶色のネクタイを締めていた。タバコを吸っていて、ここからだとよく顔が見えないが、雰囲気では笑っているようだった。



「義昭さん、」



沈黙を破ったのは、固い表情を見せる長谷部さんだった。



「んー?」



「…もう帰った方がいいかと思いますが」



「久しぶりに会えたのに?」



「そうですが、帰った方がいい。俺にも予定があるんです。急に連絡なしで来るなんて、困ります」



「組の若頭にスウェット姿で話すやつ、お前くらいしかいないわな」



「…すみません。って、そうじゃなくて、帰った方が良い…若衆が、心配しますから」



「あ? なんでよ」



義昭さんはふぅーっとタバコの煙を誰もいない方へ向いて吐き、また長谷部さんを見る。足を組み直し、タバコを挟んだ方の手で気だるそうに頭を支え、その肘をソファの背もたれにかけた。長谷部さんは顔をあげないまま、言葉だけを発している。



「それは…その、」



「本当は若衆じゃねぇだろ? お前の頭にあんの」



「…玲子さん、待ってると思います。また、婚約破棄なんてことになったら、おやっさんに顔向けできません」



玲子さん、婚約破棄、つまり長谷部さんが義昭さんの愛人だと言われる理由はその女性の存在があるから、ってことだろうか。正妻と愛人。本当に長谷部さんとこの人は関係があるんだろうな。


噂なんかじゃないんだな。


僕はその結論にたどり着くと、どうしようもない悔しさと苛立ちが湧き上がった。しかし、だからといって、その苛立ちを行動に移すこともできず、ただじっと息を潜めて2人を盗み見する。



「この世界は、古い考えがこびりついていて、男は良い女を嫁さんにもらって、子供を持って、それでこそ男だっていう考えが強いでしょう? 男が男を恋愛感情として好きになるなんて、言語道断、口に出せることじゃない。義昭さん、あんたが一番わかってるはずだ…」



「だから、さっさと結婚しろって?」



「…はい」



義昭さんの声のトーンがさっきよりも低くなり、長谷部さんは義昭さんを見ようとはしない。義昭さんはどうやら結婚する気はないらしいが、長谷部さんは結婚を後押しするつもりなんだろう。



「コタちゃんからそんな事言われると思ってなかったわ」



「それだけじゃない、他の幹部からの目もあります。あんたは俺を簡単に昇格させて、側近に置いて、満足かもしれないけど、他の幹部からすれば不満でしかない。なのに、また、のこのことこうして現れて…」



「俺はねぇ、コタちゃん。お前の頭脳を買ってんだ。頭がキレて、肝も座ってて、おまけに容姿端麗ときたら文句ないじゃない。俺はお前に心底惚れてんだぜ? 昔っから、誰でもなく、お前をさ」



あぁ、これって、ちょっと聞きたくなかった言葉だった。それに、すごく邪魔したくなる。心底惚れてると言っているこの人は、長谷部さんをあれほどまでに殴った。部下にも殴らせ、暴力を振るった。撮影までして、嫌がらせのように、そのビデオを送りつけた。そんな人に長谷部さんを取られると思うと、腸が煮えくり返る気持ちだった。あんな酷い人間に、長谷部さんを取られたくない。



「話しを逸らさないでくれ」



「逸らしてないさ」



「仕事は今まで通りする、だけど、…わかってますよね。親父の体調だってよくない、余命は2年って言われてる。そうなったら跡目を決めることになります。色恋で側近を決める義昭さんの評価はどんどん下がってます。そろそろ身ィ固めて、もっと頭っぽくしてくれないと…」



「前田ンとこと、派閥争いになるかもなぁ?」



くすくすっと、義昭さんは笑った。

なぜ、笑えるのだろうか。

争いって、そんな笑みを浮かべるような事?


辰也が言っていた。この世界は簡単に人が死ぬと。跡目を継ぐために、何人かの人間が犠牲になる事はある、と。なのに、この義昭という人は、余裕そうに笑っている。


この人こそ、ロクでもない人間だ。



「義昭さん、俺はあんたのそういうとこ、昔っから嫌いです。争い事を避けようとしないとこ、自分勝手すぎるとこ。あんたはいつもいつも、無鉄砲すぎます」



「おうおうそうかい、そんな口きくようになったか。ったく、どいつもこいつも、うるせぇのなぁ。ここにいんのも疲れたわ。参るね、まったく」



義昭さんは灰皿にタバコを押し付けると、その場に立ち上がり、長谷部さんを見下ろした。長谷部さんは義昭さんを見上げるが、その瞳はどこか辛そうに、涙を堪えているように見えた。



「…あーあ、年増ってのも良いと思うんだけどなぁ?」



「義昭さ…」



「ガキ好きのテメェなんざ、もう、どーでもいいわ。じゃぁな、しっかり稼げよ、コタロウくん」



義昭さんは呆れた顔をこちらに見せた。つり眉に垂れ目で、いかつい顔立ちをした人。あのビデオに映っていた男だ。苛立ったように頭を掻きながら、どんどんこっちへ向かってくる。やばい、これじゃぁ盗み聞きしてたのバレてしまうなと、僕は焦って寝室へ戻ろうとした。



「ちょっと、義昭さん、…俺はただあんたの事が心配で」



けれど寝室へ隠れようとした僕の足を止めたのは、長谷部さんの聞いたことのない声だった。長谷部さんは義昭さんの腕を掴み、不安そうに顔を歪めた。それはまるで、子供が母親を離すまいとするような、そんな甘えから出るような不安な顔。



「コタちゃん、お前はどうなりたいのよ。お前の中ではもう結論、出てんだろ? ん? だからね、おしまいよ。今から俺はお前のただのカシラ、お前はただの補佐だ」



「…っ」



意地の悪い言い方をする義昭さんに、長谷部さんは言葉を詰まらせ、義昭さんの腕を掴んだまま、悔しそうに、苦しそうに、あの冷たい瞳を歪ませていた。



「立場、わきまえろよ? もう、情夫なんて上等なモンじゃねぇんだ」



「情夫の、どこが…どこが上等なんですか」



「……お前、正妻になんてなるつもりないくせに。俺の昇進や周りを気にして、何もできないくせにな? 一丁前に、口答えはすんのな。俺はね、コタちゃん。玲子と付き合うつもりさらさらなかったんだぜ? 前の女もそう。お前が仕向けたことだろうが。頭脳派のお前が、俺を上に立たせるために仕組んだ事だろうが。知ってんのよ、ぜーんぶ」



義昭さんは下を向く長谷部さんの頬をぐっと掴むと、淡々と、調子を崩さず言葉を続けた。



「お前がおやっさんに何を言われたかは知らねぇけどな、お前は俺を裏切ったんだ。俺から離れようとしてンだよ。未練残さず離れてやっからよ、そう、まとわりつくなよ。もうただの部下なんだからよ」



長谷部さんは何も言えなかった。口を一文字に結び、目をきつくして義昭さんを見上げている。



「…その怒った時の目ぇ、本当好きだわ。つい、泣かせたくなるよなァ」



義昭さんの冷たい言葉が宙を舞ったと同時に、義昭さんは拳を振り上げ、勢いよく、長谷部さんの顔面を殴りつけた。


僕はあまりの突然のことに愕然としてしまった。驚き、目を見開き、その場に立ち尽くす。


長谷部さんはバランスを崩し、殴られた衝撃でテーブルに頭を打ち付けて、その場にうずくまった。僕は、人の恐ろしさを、また、見ている。



「俺の心配なんかしてんなよぉ、コタちゃんさぁ。お前はただ、金を稼いでくれりゃぁいいわけよ。そんで、俺が求めた時にはシッポ振って俺の言う通りに動いてくれりゃぁいい、それで、いいんだよぉ、なぁ? なのに、跡目争いを避けるために俺に結婚しろだぁ? でなんだ、自分にはこれっきり近づくなって? ふざけんなよなぁ、あぁ? その間にてめぇは、ガキにハメられてよがってんだろ? えぇ? 俺の昇進を良いように使って、俺から離れてぇだけだろうが。ガキとデキあがってんだろ、 あぁ?」



「違う…」



「何が違うんだ、言ってみろよ」



顔を上げた長谷部さんの顔は、テーブルの角に頭のどこかを強く打ち、切ったせいで血で濡れ、眼鏡もどこかへ吹っ飛んでしまっていた。義昭さんは長谷部さんの頬をもう一度鷲掴むと、「言ってみろ」と静かに繰り返した。



「違う、…俺はただ、あんたが心配で…。派閥争いになったら、真っ先に狙われるのはあんただからだ。最有力候補なのは、昔っから目に見えてる、でも、結婚もしないで、ふらふらして、俺のとこに来てたら、心象が悪いから…」



「心象だぁ? そんなもん、気にしたことねぇよ、このボンクラが。とうとう脳が腐ったか? 借金苦にしたガキに孕まされて、とうとうオカシくなったか、あぁ? 成果上げてんのはこの組だ。勝手になぁ、心象悪いから羽石さん嫌いですぅーなんて手ぇ引くバカいねぇんだよ。この世の中、損得で動くんだよ。テメェは、この世界の仕組みを忘れたのか? あぁ? 平和ボケしてんなぁ、コタちゃん。今のお前みてっと、反吐が出るわ」



振り上げられた拳は長谷部さんの頬骨を砕き、僕の背筋は凍りついた。僕の、長谷部さんが、見るも無残になっていく。



「お前は他の男といちゃこらこいて、俺には身を固めろってか、笑わせるねぇ、本当」



義昭さんは長谷部さんの胸ぐらを掴み、馬乗りになった。長谷部さんは鼻を折ったらしく、鼻血を出し、口の端を切り、よれよれの雑巾のような顔で口を開いた。



「笑わせるのは、あんたの方だよ、義昭さん。…内部でも、前田さんとこに移ろうとしてる動きがある。派閥争いはもうとっくに始まってて、その発端は、俺だ。俺より長くあんたに貢献してきた古株が、もう我慢の限界なんだよ。いくら俺が大金を稼いだって、俺なんかよりずっと長くあんたの下にいたやつらは、俺を嫌い、消えてほしいと願ってる。そりゃそうだろうな、だってあんたは俺を若頭補佐にして、次期若頭は俺だ。どんなに稼いだって、貢献したって…あの人達は俺を認めない! 未だにだ! 挙句の果てに、あんたを裏切って前田さんンとこに寝返るつもりだ。あんたが、…あんたが、玲子さん捨てて俺ンとこに来てみろ、人が多く死ぬことになるんだ」



「……そうかい」



義昭さんは、そう静かにつぶやくと、長谷部さんを離した。血で濡れた拳をハンカチで拭くと、「だったら俺はそれくらいの男だったってことだろうよ」と言葉を続ける。



「お前ごときで右往左往、前田んとこに寝返ろうとする阿呆がいるなら、俺の信頼も尊敬もそんなもんだったってことだろうが。俺は政略結婚みたいなバカなマネはしたくねぇんでね」



「……あんた、死ぬぞ」



「死ぬのが怖くてこの稼業つとまっかよ。お前、今まで俺の何を見てきたんだ?」



長谷部さんはふらふらと上体を起こし、義昭さんを見上げずにいた。乱れた髪もそのまま、白いTシャツは血まみれ、義昭さんに投げられたハンカチで鼻を抑え、何も言わなかった。



「今日は事務所来んな。ここで頭冷やせ」



義昭さんのドスの効いた声のせいで、僕はその場から動けず、義昭さんはすたすたとこちらへまた向かって来てしまう。


やばい、戻らないと、今度こそ戻らないと、そう思ったが、長谷部さんの声で、僕はまた、動くことをやめた。



「俺と、義昭さんは、ただのカシラと部下ですか」



長谷部さんの、重く、苦しそうな声に、僕は言いようのない感情を抱えた。辛くて、痛い。嫌だなと、僕は眉間にシワを寄せる。


義昭さんはタバコに火をつけ、それを咥えると、「若頭と、若頭補佐だ」そう呟いてドアを開けてリビングを出た。


途端、僕は逃げるチャンスをなくし、義昭さんはしゃごみこんでいた僕と完全に目があった。僕の顔にはきっと、しまった…、と書いてあることだろう。



「ボウズ、盗み聞きはいかんねぇ、実にいかん」



その人は高い位置から僕を見下ろし、その鋭い目で僕を威圧した。殺される。そう思うほどに。


でも僕は驚きよりも苛立ちがまた沸々と湧き上がっていて、拳を握りしめながら、その人を睨みつけるように見上げた。


義昭さんはきっと僕の感情を理解し、ふっと小馬鹿にしたよう笑う。



「お前にアレ、やるわ。使えねぇから、やるわ。夜の相手なら喜んでしてくれると思うぜ? あ、もうしたか? もうしたよなぁ? コタちゃん、手が早ぇ淫乱野郎だからなぁ? だから、やるよ、お前に。好きなんじゃねぇーの、その顔はさぁ?」



僕をからかうような腹の立つ目、そして長谷部さんを汚す言葉。僕はこの人が、とてもとても、嫌いだ。こんなクズのために、今まで長谷部さんは頑張ってきたと言うのか。


潰したい。


こんな大人、潰してやりたい。



「ガキの怒った目も良いねぇ。なーんにも、できないくせになぁ? どーせお前、借金のせいで男のチンポ咥えてんだろ? コタちゃんにそっくりなわけだ、怖いねぇ」



俺は目の前の人を殴ろうと思った。

ここまで人に憤りを感じることも珍しく、ぎりっと奥歯を噛み締め、殴ろうとした。でも、奥で、長谷部さんが静かに言葉を発する。



「義昭さん、やめてください。…その子は関係ない」



「おうおう、お前ら、出来上がってんだった」



「そう解釈してくれていいよ」



長谷部さんは笑った。

血だらけのドロドロの顔で笑った。

そう解釈していい、と笑ったのだ。


義昭さんは無表情に長谷部さんに近付くと、「ここまでお前に腹が立つことも珍しいわ」そう呟いて、義昭さんを見上げていた長谷部さんの顔面を蹴り倒し、踏みつけ、唾を吐く。


この野郎。


僕はもう我慢ができなかった。

こいつ、殺してやろう。


僕は気付けば義昭さんを殴ろうと、義昭さんに向かって拳を振り上げていた。



「やんちゃボウズめ」



でも僕の拳をあっさりと捕まえ、僕を静止させる。そして片眉をくいっと上げると、ふっと、僕に笑った。



「コタちゃんは、殴られ蹴られて勃起すんだよ。これもプレイのひとつだ、ボウズ。覚えておけ」



この人の長谷部さんに対する侮辱は止まらず、僕は悔しくなった。僕がもっと、もっともっと強くて賢かったら、こんなクソ人間を打ちのめせるのに。



「智人、大丈夫だ…、この人に手を出すな」



長谷部さんは顔を踏まれたまま、静かにそう言った。僕は怒りをコントロールしようと必死になりながら、義昭さんから離れる。長谷部さんが言うのだから、従わないと。


でも怒りはそう簡単に収まってはくれない。僕は、義昭さんのけらけらと無神経に笑う顔を睨みつけながら、手を震わせていた。


そして義昭さんは長谷部さんを虫螻のように扱うとその場を立ち去った。振り返ることはなかった。


その人が消えたことを確認して、僕は長谷部さんに駆け寄った。見るも無残にボロボロになった目の前の人は、僕の知っている男の影をどこかへやってしまったようだ。



「長谷部さん、…大丈夫ですか」



「あぁ、騒がせたな」



「いえ…」



長谷部さんの顔は血まみれだった。

血と、涙で、ぐちゃぐちゃだった。


僕はその姿に呆気に取られ、哀れに思った。けれど何故だろう、僕はふと冷静さを取り戻していて、頭の中では、淡々と、この人を支配することを考えている。


弱った今なら、簡単に仕留めることができるなと。



「悪い、氷嚢を作ってきてくれないか…」



「あ、はい」



僕はキッチンに走り、ビニール袋に大量の氷と水を入れ、口をきつく縛って渡した。長谷部さんはそれで頬や鼻を冷やしながら、ソファに座る。義昭さんから投げられたハンカチを握ったまま、弱々しく「悪いな」と笑った。



「あの、病院、行った方が良いんじゃないですか?」



僕は散らかったその場所を元に戻すべく、片付けをしながら長谷部さんに声を掛ける。長谷部さんはまだ、少し、ぼうっとしている。



「…何が、いけなかったんだろうな」



「え?」



「何が」



長谷部さんの声は聞いたことのないくらい弱々しい。その美しい顔を血で染め、腫らせ、困ったように笑う。



「男か? 今に始まったことじゃないだろ、そんな事。年増は良いとか、結婚を押し付けるなとか、…義昭さんはわからない。俺は、あの人に死んでほしくないんだ。上に立ってほしい。あの人が組のトップに立つべき男だから。…ただ、それだけなのにね。良い噂のない俺を補佐なんかにしてさ、どんなに金稼いでも、まわりは俺とあの人がデキてて、俺があの人を言いくるめて上に上がったと思ってる。ふふ、実際、義昭さんがどう思ってるかなんて知らないけど。…けど、そのせいで、あの人の立場が危うくなるなんてさ。死ぬのが怖くてこの稼業つとまるかって、言いやがって。いつの時代のヤクザだよ」



だったらもう、離れてしまえ。

20年の付き合いか、何か、知らないが、だったらもう、離れて忘れてしまえ。あんな酷い人なんて、忘れてしまえよ。



「長谷部さん、…さっきの人、義昭さんの事、好きなんですね」



僕の質問に、長谷部さんは表情を変えず、何も言わなかった。


たぶん、いや、きっと、義昭さんは長谷部さんに対してとてつもない執着心を持ってる。言葉の全てにそれが読み取れた。嫉妬や憎しみ、そして強い愛情がドロドロと混ざっていた。それが暴力として表れ、長谷部さんを傷つけた。


そんな方法しか取れないなら、僕が、長谷部さんを奪ってやろう。



「長谷部さん、もう良いと思います。苦しまなくても」



僕の言葉に、長谷部さんは首を少し傾げて僕を見上げた。



「ただの側近、それで良いじゃないですか。そうすれば、向こうも結婚して、めでたしめでたし、なんでしょう? だったらもう深く考えないで、側、離れましょうよ。義昭さんの事を考えるなら、それが良いんじゃないですか? 仕事の人って割り切ってしまえば、楽になりませんか? 確かに割り切るって大変なんだろうけど…」



長谷部さんの目は僕を見ている。

切れ長の美しい目で、僕を見ている。



「僕が長谷部さんの側にいます。ずっと。だから、こんなガキと思わず、側に置いて下さい。頼り甲斐のある大人になると思うなぁ、僕」



僕の言葉に長谷部さんは、ふっと、笑みを浮かべた。



「…あっちの棚にある、ウィスキーのボトルとグラスを持って来てくれ。それを飲んだら、病院に行く。…ついて来てくれるか? 智人」



あぁ、どうしようもなく、この人のことが好きだ。


僕を離したくない、そう思わせたいな。

僕からはどうしたって離れられない、って思ってもらえるまで、どれほどの時間がかかるのかな。


どれくらい掛かってもいいや。

長谷部さんにとっての1番になれるなら、時間なんてどれほど費やしても構わない。


僕は少しずつ、長谷部さんから義昭さんを取り除ける気がした。



「もちろん」



この人を、僕に依存させたい。

グズグズに溺れさせたい。


僕ならこの人を幸せにできるのに。


僕は口角を上げ、微笑んだ。ウィスキーボトルを棚から取り出し、グラスにトクトクと心地良い軽い音を立てながら注ぐ。それを長谷部さんに渡すと、長谷部さん一口飲んで、痛そうに顔をしかめた。



「痛みますか?」



「少しな」



長谷部さんの顔はボロボロである。唇の端も切れている。しかし、それでも鳳凰のように美しく飄々としていた。この人は何をしたって、ずっと美しい人なんだな。


僕は隣でじっと長谷部さんを見ていた。



「……悪いな」



「え?」



「こんなゴタゴタに巻き込んじまって」



長谷部さんの弱々しい笑みに、僕の心臓はぎゅっと握り潰されそうだった。今のこの人の中身はまるで兎のようだった。寂しさに潰れそうで、誰かに頼りたくて、体を交えていたくて、…とても扱いやすそうだ。



「いえ。…長谷部さん、僕はまだ子供だけど、僕にできる事は全てするよ。だから、頼って下さい」



長谷部さんは何も言わず、少し口角を上げて、ウィスキーを飲み干した。僕はタクシーを手配し、指定された病院へと向かう。


組のお抱えの小さな病院。

肌寒く消毒液の匂いがする古びた待合室で、僕は、長谷部さんをじっと待っている。


長谷部さんの左の頬骨にはヒビが入り、鼻は折れていた。鼻は手術だなんて大きな事になり、僕は心臓を吐き出しそうなくらい心配だった。無事に手術も終わり、本人は相変わらずツンと澄ました顔だった、のだが、その顔は腫れていたから、僕はつい笑ってしまう。


僕が笑うと、長谷部さんは「笑うな」と痛む顔を緩めた。


顔の腫れが引いたのは、それから約1週間後のこと。前と変わらない、冷たい見た目をした、美しく、飄々とした人間へと戻った。


長谷部さんは前と何一つ変わらない。ただ、長谷部さんから義昭さんの影が、一切消えたように思えた。



「智人、お前、もうそろそろ学校戻れ」



「長谷部さんと一緒にいますよ。あ、それに学費だって、僕払えませんし」



「そういう事はお前が心配することじゃない。学校行け。携帯どこやったよ? お前、ここ来る時持ってたよな?」



「あーうん、でも、必要ないから部屋のどこかにあるはずです。てかね、料金払えてないから、もう携帯の意味ないと思うんです」



「明日払っておくから月曜から学校行ってこい。何か学校から言われたら声掛けろ」



「えー! 長谷部さん、学校来んの?」



「必要なら、だ。保護者、必要だろうが」



僕が大きな声を出して驚いているのに、この人は相変わらず冷静で、僕をちらっとだけ見ると、また新聞に目を通している。



「そうだけど。まぁーでも長谷部さん、あまりヤクザっぽくないもんね。何かあったら言いますね」



「あぁ」



「でもさ、学費って、長谷部さん払ってくれるんですか? 利子とかすごく高そうじゃないですか」



「無利子の出世払いだ、将来立派な大人になって金返せよ? それまではしっかり学べ、少年」



この人は何を思って、突然学校に行けだなんて言い出したのかな。僕は少しふてくされながらも、ソファでくつろぐ長谷部さんの横に腰を下ろし、新聞を取り上げて長谷部さんをじっと見上げる。



「わかりました、行きますよ、学校。学校行くからさ、ご褒美下さい」



僕の誘いに、長谷部さんは眼鏡をくっと上げると、僕の手から新聞を取り戻す。



「お前ね、褒美っていうのはきちんと仕事を終えた後に貰えるものなんだぞ。事後だ、事後」



「いいじゃないですか、しましょうよ、長谷部さん」



「これから仕事だ。盛るな」



「だって僕は思春期真っ只中ですから」



長谷部さんと体を交えることは、ごく当たり前になっていて、僕のしたいことは全て叶えてくれる。結局、長谷部さんは良い人だ。めんどくさそうにしながらも優しい表情の長谷部さんを見ていると、絶対に手離したくないと、心の底から思った。


早く、大人になりたくて、早く、この人を守りたい。


さてさて、僕らの関係は、一体どんな言葉で表せるのだろうか。


知人? 友人? 恋人?


いや、保護者と子供?

それは罪深いね。


きっと今の僕らの関係を的確に表せる言葉はないのかもしれない。


それでも良い。今は仕方がない。

でもいつかは、長谷部さんが僕を頼って、甘えてくれる日が来ると良い。そうなれば、立場は対等になって、恋人だと断言できるようになるのかな。


そんな事を思いながら、僕は時間を潰した。長谷部さんが仕事に行ったあと、僕は久しぶりに携帯に触れた。死んだ携帯はもはや何の役にも立たないのだけど。


次の日になると、その携帯は復活して、長谷部さんは僕に学校へ行けよと念を押す。僕は、はいはいとどこか上の空で聞きながら、携帯を確認した。携帯には数十件のメールと着信があって、それらは全て辰也からだった。辰也は僕をひどく心配していた。それはもう、僕が恋人かのような心配のしようで、僕はつい笑ってしまった。


『いつでもいい、すぐに連絡をくれ。心配だ。』


という最後のメールを読み終え、僕は電話をしようと決めた。けれど長谷部さんはソファで、うとうとと眠そうにしていたから、僕は自分の部屋に戻って電話をかける。



「もしもし! シロ!? 生きてんの!?」



今にも泣きそうな声で辰也は叫んだ。そんなに日にちは経ってないのに、と僕は笑った。心配性の寂しがり屋。彼はいつもそうだ。



「生きてる生きてる、ごめんね、連絡できなくて」



「お前ー! 死ぬほど、死ぬほど、心配したんだぞ!」



「でも最後に会った日から、まだそんなに日にち経ってないじゃない」



「二週間も音信不通とか、…お前はさぁ…」



「ごめんって」



「父さん、失踪したんだろ?」



「なに、連絡いってんの?」



「親父が言ってた。先生も、きっと事情知ってるっぽいけど、家庭の事情でしばらくお前は学校に来られないって、知り合いの人の家に世話になるからって事を伝えてたけど。でも、落ち着けば戻れるとも言ってた。…なぁ、シロぉ、お前、俺には嘘つくなよなぁ、何が入院費稼ぐだよ!」



「ごめんごめん。ってか、学校に連絡いってるの、ほんと?」



「ほんと。お前、親戚ン家とかにいんの? 誰かが連絡したっぽいけど。でもお前、親戚なんて近くにいたのかよ」



「あー……いや、遠方にね、いるんだけど。だから一旦、町、離れてて、…でも、そうか、連絡いってるんだね」



「おう」



どういうことだ? なんで、学校に連絡がいってるのだろうか。僕は少し混乱し、頭を整理した。


もしかして、長谷部さんが連絡を入れた?


それだ、それしかない。

だから、来週から行けだなんて言ったんだ。



「つーか、お前、いつから学校来るんだよ」



「来週の月曜日から、かな?」



「おぉー!まじかよー!」



なんだよそのはしゃぎっぷりは。

小学生の夏休みかよ。


僕は「会えるね」と、ふふっと笑う。

辰也とはそれからしばらく話した。学校は相変わらずつまらないとか、飼ってる柴犬の三郎が逃げ出したとか、進路どうするとか、今面白い漫画とか。久しぶりに話すと話しはつきなくて、あっという間に時間は経った。1時間半ほど話しまくったあとで、「やっべぇ、父さん帰ってきた!」という焦った声と共に、「ごめん!月曜日な!」と電話を切られた。


辰也はなんだかんだで元気そうだった。


それにしても、進路は問題である。僕はもう、進路について考えなければならない時期になっているらしい。適当に就職して、長谷部さんに金を返して、立派な大人になったと認めてもらわなければならない。


僕はそんな事を考えながら、また長谷部さんのいるリビングへ戻った。しかし、さきいたはずの長谷部さんはソファにはおらず、部屋のどこを探しても見当たらない。


僕が話し込んでる間に、長谷部さんは外へ出てしまったらしい。


一声くらいかけてくれればいいのに。


そして長谷部さんが帰って来たのは朝方だった。長谷部さんのベッドで寝るのが日課になっていた僕は、すやすやと、長谷部さんが横で眠るのを待つ。長谷部さんは寝るとき、僕の頬に優しくキスを落とす。僕はそれを知らないふりをする。


長谷部さんの広い背中に抱きつきながら眠るのが最高に幸せで、僕は寝返りをうつふりをして、長谷部さんにくっついてまわった。


僕はそんな幸せな日々を送っている。長谷部さんは、僕の愛情を受け入れてくれている。


僕らの関係を的確に表す言葉は確かにないけれど、僕は別にそれで良かった。長谷部さんは他のどんな大人より僕を愛してくれるわけだから、僕はこの人の望むことなら何だってしたい。それで良いじゃないか。そんな関係で。


僕が高校を卒業して、就職したら、長谷部さんに告白しよう。大人の男として、対等に見てもらえるように。それまでは、ワガママは言わない。僕は我慢できるから。


僕はそう決断し、長谷部さんと曖昧な関係のまま日々を過ごした。


長谷部さんは、表向きでは父親の知り合いで、金融コンサルタントの仕事をしてる、エリートな男前のおじさん、ってことになっていた。辰也にもそういう風に伝えている。学校に通いだし、長谷部さんとはなかなか時間が合わなくなったけど、寂しくはなかった。いるだけで良かったし、朝飯や晩飯は必ず用意してくれて、弁当だってたまに作ってくれる。


本当に、本当にそれだけで良いと思った。


休日は、しばしばゲイビに出て長谷部さんに借金を返した。僕の借金は少しずつ減っていく。長谷部さんは褒めてくれる。勉強だってした。学年では必ずトップ10に入っていた。


そんなある土曜日、僕は、進路調査用紙を宙ぶらりんにしていた。何を書けばいいのかわからないからだ。



「何してんだ?」



リビングで鉛筆を握ったまま、ソファで寝そべっていた僕に、長谷部さんは不思議そうに言う。片手にはコーヒー、髪は風呂上がりのため濡れていて、黒いTシャツにパーカー、そして緩めなスウェット姿なのに相変わらずの男前である。



「進路をねー、決めなきゃならないのですよ」



「そうか、そんな時期なのか」



「うん。でも、何て書けば良いのかなぁって。ねぇ、長谷部さんの金融会社って名前何? 第一希望にしておくよ」



ソファに座る長谷部さんを見上げて言うと、長谷部さんは眉間にシワを寄せて「ヤクザになってどーすんだよ」と低い声で言った。



「そしたらずっと一緒にいれますからねー」



「いやいや、お前ねぇ…」



「第二希望は、レインボー企画にしてさぁ」



長谷部さんはぶっとコーヒーを吹き出してむせた。そのコーヒーはあわや僕の進路調査用紙を汚すところで、僕は「ちょっとー!」と声を荒げながらティッシュでテーブルを拭く。長谷部さんは悪いと言いながら、コーヒーを一旦テーブルに置いて、クスクスと笑いを堪えきれずに僕を見下ろしていた。そしてソファに腰を下ろし、僕はソファから床へ座った。



「お前は本当に…。頭良いんだから大学行けよ」



「えーやだよ!」



そうなると、僕の卒業後のシナリオが崩れてしまうわけだ。長谷部さんに告白して、ちゃんと恋人同士になる、というシナリオが。



「なんで嫌なんだよ」



「いや、だって…ほら、お金ないですし」



「出世払いで良いって言ってるだろ。大学へ入れる頭があるんなら、出ておけ。将来のためだろーが」



「だって稼ぎたいですから、ほら、一刻も早く借金を返したいので」



「稼ぐのなんて、誰でもできる。ただなぁ、社会で上の立場として稼ぐのか、下の立場として稼ぐのとじゃぁまるで違う。支配する人間とされる人間と、お前はどっちになりたい?」



「そんなの、する側だよ」



「だったらなおさら大学へ行け。知識をクソほどつけて、大学出たら活かせ。知識は武器だ」



ヤクザの長谷部さんから、そんな言葉を聞くとは思わなかった。僕は鉛筆を握ったまま、さらに悩むハメになってしまった。



「長谷部さんって、大学出てんでしょ? 何大?」



インテリだし、賢いし、いいとこの大学出てるんだろうなと僕は思いながら、長谷部さんを見上げた。



「慶北大の経済学部の出だ」



名門で難関大学のひとつが出てくるとは、予想していなかった。この人は本当に頭が良いらしい。



「すごいね…」



「凄いことはないだろ。お前だって行ける。いや、お前ならもっと上に行けるだろ」



「なんか、塾講師みたい」



僕がそう言うと、長谷部さんはハハっと笑って、僕の頭をポンポンと叩いた。



「進路がちゃーんと決まったらご褒美やるから、頑張って考えろ」



なんと! 僕の頭はすごく単純で、長谷部さんの言うご褒美というのがとてもとても大好きだから、僕は「わかった」と素直に頷き、ご褒美を貰うべく、それはものすごく真剣に考えた。


長谷部さんはその間ソファで横になりながら本を読み、僕は必死になって情報収集に努める。約1時間半、僕は大学の資料を読み漁り、第3希望までをしっかりと完成させた。



「長谷部さん、できました」



「どれどれ」と長谷部さんは眼鏡越しに難しい目をしていた。ざっと読み、「おい」と静かに僕を見る。理由はわかっていたけど、僕は知らん顔で、「なに?」と返事して長谷部さんを見上げた。


床に座ったまま、僕はソファで横になっている長谷部さんの顔色を伺う。



「第一希望より、第二、第三のが偏差値高いっていうのはどういうことなんだ?」



僕は第一希望に長谷部さんの出身校を書いていた。学部学科も、長谷部さんのと同じ。第二と第三なんて、正直どうでもよくて、名門国公立大の名前を書いた。



「別に偏差値高いから良い大学ってわけじゃないですよね? 長谷部さんの大学は、僕のやりたいことがギュッと詰まってるんですよ。この蒼沢教授って人の会社経営の授業とか魅力的でね、フィールドワーク多いし、色んな会社の社長からも話し聞けるって! でも一番の決め手は学費の安さかなー。こんなに内容濃い私立大学なのに、奨学金とか援助金もわりとしっかりしてるからね。それをトータルで考えたら、国公立と変わらないんだよ」



ね? 僕は真剣に考えたんだから。ご褒美下さい。


長谷部さんは少し困った顔をして、それから「わかったよ」と眉間のシワを解いた。そして起き上がると、「何が欲しい?」と甘い顔して質問した。


そんなの決まってる。わかってるくせに。



「なんでも良いんですよね?」



「あぁ、なんでも」



「じゃぁ、長谷部さんをご褒美に下さい」



僕はソファの上で上半身を起こし、床に座る僕を見下ろす長谷部さんに、甘えるようにねだってみせた。長谷部さんはふっと笑った。「クセェな、このくだり」そう言って、立ち上がると、「久しぶりなんだ、寝室行こう」そう顎で寝室をさして、僕を誘った。


僕の心臓は相変わらず長谷部さんの妖艶な美しさに慣れてくれない。これはとても困ったものだった。


寝室へ入ると僕は長谷部さんに食らいつくように唇を合わせ、そのままベッドへと押し倒した。



「そう焦んな」



そうは言われても、僕は思春期真っ只中の男子高生で、しばらく長谷部さんとできなかったわけだから、焦らずなんてことは無理である。


ベッドの上で長谷部さんの唇に噛みつき、耳を甘噛みする。眼鏡を取って棚の上に置き、Tシャツを半ば乱暴に脱がせて、首筋に舌を這わせる。彫刻のように整ったその肉体に指を這わせ、その厚い胸板に噛みついた。



「…おい、あまり、キスマークつけんなよ」



長谷部さんは首を少し傾けて、僕のする行為を眺めている。甘い甘い顔で、少し、息を短く吐いている。



「嫌です。だってこれはご褒美、なんですよね?」



「はは、…それも、そうだな」



長谷部さんは妖艶に笑う。その表情は本当に本当に、甘ったるくて美しくて、そして妖艶で、僕は興奮してばかりだ。


スウェットと下着を脱がせ、僕は長谷部さんのそれを咥えた。舌を這わし、執拗に刺激を与える。長谷部さんの表情が徐々に熱を帯びてきて、僕は快楽にキツく結ばれた唇に噛み付いてキスをする。長谷部さんはそれを返すように舌を絡めながら、僕を押し倒した。


それは激しいほどの甘美な時間で、何も考えられなくなるほどである。


長谷部さんはとてもキツそうで、「大丈夫ですか?」と聞くと、困ったように少し眉を下げ、口角を上げて笑みを浮かべた。全てが中に収まると、長谷部さんは一瞬、眉間にシワをよせ、シーツをぐっと握る。少しずつ慣れてくると、その表情はゆるゆると緩まり、熱い息を吐き、鋭くも甘い眼差しを僕に向けるのだ。


僕はそれだけで、イキそうになった。



「長谷部さん、…痛くないですか」



「あぁ。…挿れちまうと、頭、ショートしそうになるな」



まったく、この人はいやらしい。普段はあんな感じで、お高くとまっているくせに、どこにそのいやらしい性的な面を隠しているのだろうか。


けどまぁ、僕の前だとこの人はただ優しい人に成り下がる。


お高さなんて、これっぽっちもない。



「長谷部さん…」



「…ん?」



乾いた肌のぶつかる音、長谷部さんの乱れた髪、汗、熱。僕は長谷部さんの表情を下から見上げた。



「なんでもない」



「そうか」



「やっぱり言います。…長谷部さんってさぁ、なんで、そんなにエロエロなんですか」



「あぁ? …なんだそりゃ、バカに、してんのか?」



「バカにしてない。エロエロだから、僕だけで満足してくれてるのかなって、思ってるんです」



「俺を性欲のバケモノみたいに言うのやめてくれ。やってる最中だぞ。それに、最中によく喋る男はモテねぇぞ」



「…はーい。でも、僕別にモテなくていいですから、長谷部さんさえいればね」



長谷部さんは火照った頬を少し上げ、目を伏せた。ただ僕は、長谷部さんを他の誰にも触らせたくないのだ。義昭さんにはもちろんだけど、誰にも。絶対に触らせたくない。


長谷部さんは動きを止めると、僕の頬に手を寄せた。何をしたいのかなと僕が考えていると、「お前って、若ぇな」そう呟いた。


突然、なんだろうかと僕は思ったが、その顔がとても儚く見えたから、僕は上半身を起こして、そっと甘く唇を寄せた。



「最中にしゃべる男はモテませんよ」



「そうだったな」



「長谷部さん、後ろ、向いて下さい。今日はとことん付き合ってくださいね」



長谷部さんは汗ばんだ額を拭い、髪をかきあげると、「なら、うんと楽しませてくれよ」そう鳳凰と龍を僕に向けた。


僕は生唾を飲み込み、長谷部さんの鳳凰と龍が喘ぐ姿を見下ろす。うねうねと、その様は美しく、僕を飲み込んだ。僕の息の根を止めるのはきっと、この鳳凰に違いない。


僕、という人間を、早くこの人の体と記憶に刷り込ませたい。僕を手離せない体にしたい。長谷部さんが苦しそうな顔をして、肩で呼吸をする度に、僕はこの人を好きになり、依存していく。だってこれが、僕の、初恋なのだから。


体を交えて欲を吐き出しぶつけ合い、事が終わると僕は甘い疲労に酔っていた。長谷部さんは枕を背中に寄りかかり、タバコに火をつけると、隣で疲れてへばっている僕を見下ろしている。



「楽しませてくれると思ったんだけどな」



そう言って意地悪く笑っている。



「長谷部さん、体力ありすぎ」



「お前の体力がないだけだろ? 頑張れ、若者」



僕は体力に自信があった方なのだが、その自信はこの異常なほどに艶かしい男前に壊された。「がんばります」と僕は呟いて、体力の限界をさらけ出して眠りについた。


僕達の関係は、そんな風にゆるゆると、生ぬるくて曖昧で甘ったるい。


僕はただただ、この人の側にいることができれば良くて、長谷部さんはずっと僕の側にいるものだと思っていた。僕はそれを信じて疑わなかったし、長谷部さんだって、僕に支配させてくれていた。


でも、長谷部さんの考えていることは、何ひとつわからなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る