2. 裏ビデオ

「おい、智人、起きろ、時間だぞ」



ぼうっとする気怠い頭を無理に起こす。眠くてしんどいし、まだまだ寝ていたいのに、その人は僕の名前を呼ぶと僕から布団を剥ぎ取って、横に腰を下ろした。ギシッとベッドのスプリングが鳴る。昨夜、あんなに乱れた表情を見せてくれたその人は、まるで昨日の事なんてなかったかのように、飄々と甘さの欠片もなかった。



「…何時ですか」



「10時だ」



「おはようございます」



欠伸をひとつして長谷部さんを見上げる。長谷部さんの切れ長の瞳は僕を捉えているが甘さは全くない。



「朝食はできてる、とっとと食え」



もう少し甘い朝を想像していたのにな。僕を急かす長谷部さんはまるで親だ。僕の親より親らしくて、今まで見てきたどんな大人より僕に愛情をくれる、…ような気がするのだけど、僕が一方的にそう願ってるだけで、この人の僕に対する感情というのは愛情ではないかもしれない。昨日のも、ただの処理だったのかもしれないなと僕は朝から溜息を漏らしそうになった。長谷部さんは僕が起きたのを見届けて、すぐに部屋を出しまった。


顔を洗おうとベッドから起き上がり、腰に鈍い痛みを感じながらゆっくり立ち上がる。その鈍い痛みが愛おしかった。だってあの長谷部さんとまぐわったからこそ鈍い痛みを伴ってるわけで、それはそれは愛おしく嬉しい痛みなのだ。長谷部さんにとっては処理かもしれないけれど、僕にとってはとても大切な初体験。そう考えると、なんだか嬉しかった。相手が長谷部さんで良かった。初体験があれほど過激で甘い時間になったのだから一生忘れる事はできない、と。


僕の頭はすっかり浮かれていた。シャワーを浴びて、歯を磨き、顔を洗って痛む腰に手をあてダイニングキッチンへ向かう。長谷部さんはコーヒーを飲みながら新聞を読んでいたが一瞬だけ僕を見て、また新聞へと視線を下す。


テーブルにはバターが程よく染み込んだトースト、プチトマトが一粒乗ったグリーンサラダ、カリッカリに焼かれたベーコン、ふわふわのスクランブルエッグ、それから即席のコーンスープ、そしてオレンジジュースが用意されていた。僕が昨日、作ったような朝食だと思った。わざと、だろうか。わざと、だろうな。でも、その事について何も触れてこない。何がともあれ僕のために朝食を作ってくれて僕はひとり舞い上がっている。



「腰、痛いのか?」



長谷部さんは腰をおさえながら席についた僕を心配してくれているようでいて、全くしていないらしく、目も合わせてくれない。もう少し、僕を見てくれても良いと思うけどな。



「少し」



「痛くても撮影はするからな」



「分かってます」



分かってますよ、ともう一度心の中で呟いて、トーストに齧りついた。やっぱり僕には興味ないのかな…。ひたすら食べ続けていると、長谷部さんは新聞を読み終えたらしく、綺麗にたたみ直してコーヒーをずずっと啜った。眠そうに欠伸をひとつだけして、僕の食べている姿をじっと見ている。ようやく見てくれてる。そう思うと胸が高鳴った。けれどそれはあまりにもずっとだった。なんでこうもじっと見られているのかは分からない。


長谷部さんは不思議な人で、僕には理解できない事がたくさんある。僕みたいなガキをここに置いて世話をしている事なんてまさにそう。僕をここに置くのは長谷部さんが処理をする為なんじゃないかって一瞬思ったが、昨日の態度からしてそうじゃなさそうだった。だって僕が誘ったからこの人は乗ったのだ。だとすると分からない。


多額の借金を背負った17歳のガキの面倒なんて、きっと誰もみたくない。あのボロアパートに放っておけば良かっただろう。いや、それだと逃げ出すと思ったのかな? だからこうして軟禁して仕事をさせる。でも拘束するとしても一緒に住まなくなって、僕のあのアパートに手下をひとり置いて監視させてとけば良いんじゃないのかな。そんな人件費はかけてられない、という事かな。だからこうして今日もまた、僕の世話を焼くのが最善だと? 長谷部さんにとって何のメリットがあるのだろう。僕は衣食住に困らないし、暴力も振るわれないし、それに昨日みたいに僕のワガママを聞いてくれて、あんな乱れた一面も見せてくれるのだからら、ここは楽園にすら思えてくるのに。


そう思い出すと途端に頬が熱くなって鼓動が速くなり、食欲がなくなる。トーストの最後の一口を無理に口に放り込んで、僕を凝視していた長谷部さんを見た。顔をあげた僕に長谷部さんは、「美味そうに飯を食うんだな」と微笑んだ。その微笑に僕の心臓が悲鳴を上げる。あまりに心臓の音が煩くて、心臓が痛くて、僕は少し落ち着こうと胸をトントンと叩いた。


心臓が跳ね上がるほど内心では舞い上がっているが、僕は冷静なふりして、「美味しいですから」と微笑み返す。けれどもちろん、本当はパニックになりそうなくらい浮かれて動揺している。長谷部さんは「そうか」と呟いて、またコーヒーを飲んだ。僕は食器を片付けて、迎えの時間までそわそわと待つことにした。


でも本当は長谷部さんに話しかけたくて仕方なかった。長谷部さんはゆったりと自分の時間を過ごしていて、邪魔をしたら怒られそうだから、なかなか声を掛けられない。聞きたいことはたくさんある。好きな食べ物は? 好きな音楽は? 好きな映画は? 休日何してるの? 過去についても聞きたい。どうしてヤクザになったの? なんでこんな所にいるの? あとは、朝食だ。どうして、僕の朝食を真似たの? 会話したい。長谷部さんとただ単純に話したい。僕は頬杖をつきながら、タバコに火を点けた長谷部さんを眺めていた。


こっち向け。何か用か、とか、何で眺めてるんだ、とか、何でもいいから聞いてくれよ。そう念じているが、なかなか僕が思うように事は進まない。そのまま時間は過ぎ、僕はすっかり長谷部さんの視界には入れないのだと諦めた。諦めて目を伏せた瞬間、「お前、かれこれ10分くらいはこっちを見てるな」と鋭い目を向けられた。


気付かれていた。僕は咄嗟に何かを答えようと頭をフル回転させるが、何を聞けば良いのかなんて、すぐには出てこない。聞きたい事はたくさんあって用意していたはずだけど。いざ、そう聞かれると困ってしまう。好きな食べ物なに? なんて子供っぽい。なんで僕をここに置いてるんですか? なんてしつこい質問だ。答えはわかりきってる。金のためだ。さてどう返事すべきかな。



「初めて長谷部さんを見たとき、綺麗な顔したヤクザだなって思ったんです。昔は超がつくほどモテたんだろうなって。今も、すごく、綺麗ですけど」



焦って出た僕の言葉は本音だった。人は焦るとつい本当の事を漏らしてしまうらしい。



「…なに、お前、目覚めちゃった?」



「え?」



「男に。ホモになっちまったか?」



「んー? あー…うん?」



そう、ではない気がする。僕は男が好きになった、というよりは長谷部さんを好きになったのだ。



「そういう事じゃ、ないかも」



「じゃぁ、どういう事だ…」



その時、タイミング悪くピンポーンとチャイムが鳴った。僕は長谷部さんに返事を聞かせる前にインターフォンを押して、「はーい」と返事した。



「あ、おはよーございまーす! 長谷部さーん、田畑ですー! 迎えに来たんすけどー!」



金髪のお兄さんがカメラの前に立って手を振っていた。僕が長谷部さんの方を向くと、長谷部さんはコーヒーを片手に、インターフォンの画面を覗いていた僕の真横に横に来て、「上がってくれ」 と低い声で、金髪の青年に声をかけた。長谷部さんはエントランスのロックを解除して玄関の鍵を開けた。しばらくして、先ほどの金髪のお兄さんがドアの前でインターホンを押し、長谷部さんに招かれた。僕は長谷部さんの横に立っている。



「おはよございまーす」



田畑さんはそう言って頭を下げる。この人もヤクザなのだろうかと少し考えたが、服装や言葉遣いからして違う気がした。ヤクザではない気がするが、普通のお兄さん、ともなんかちょっと違う。だって眉にも唇にもピアスが刺さっているし、大きめな黒の革ジャンと黒いスキニーを履いていて、少しガラが悪そうな感じがした。そしてなんか、いけすかない。



「おう。…これがそのガキな」



そのガキと紹介された僕は「白川 智人です」と軽く自己紹介をする。金髪のお兄さんは、「田畑 晋吾っス、どーも!」とヘラヘラと笑った。 とーってもエセくさそうな人である。



「いやいや、17って聞いてたんで、もっと子供っぽい子が来るのかと思ったら意外とでけぇーし、大人っぽいっすね」



「…そうか?」



長谷部さんは僕を見下ろして首を傾げた。僕は確かに大きい方ではあったが、辰也や長谷部さんや、近くにいる人が僕よりも大きいから、自分の背の高さがあまり強調されない。



「でけぇーっすよ、自分で170センチなんすけどね、智人くんは、えっとー、180くらいある、よね?」



フラットな玄関だから段差は無く、僕の身長を手で測る田畑さんは僕にそう質問した。



「はい、180です」



「デケェーなー。脚も長いし、最近の子って感じっスね!」



田畑さんはひとりでケタケタと笑っている。



「そんで、の子を今日一日預かって良いんスよね?」



口角を上げたまま、田畑さんは長谷部さんにそう確認をする。



「あぁ。それでひとつ、言っておかなきゃならない事がある」



「はい、何すか?」



「こいつ、背中に根性焼きあってな、それがケロイドみたいに何個もあんだ。どうにかなるか?」



「あー、全然! そんくらい、大丈夫っスよ! 勃たないとかの方がよっぽど困るんで!」



田畑さんはそう言った後でハッとしたように、「あ、すんません!」と謝ったが、僕にはイマイチなんで謝ったのか分からなかった。 長谷部さんはその言葉に一瞬、きょとんとしたように目を見開いたが、すぐに「あぁ、」と弱々しく笑った。



「ユキトのことか? あれは酷かったな、迷惑かけた」



長谷部さんの言葉で、そうか、ユキトさんの事を言ってたのかと理解する。田畑さんは「いやいや、まぁ、でも、大変したね」と癖のようにヘラヘラとまた笑っている。



「まぁ、宜しく頼むわ。迎えに行けそうなら行くが、難しいかもしれない。そん時は事務所に運んでおいてくれ。また連絡する」



「了解っス」



長谷部さんに迎えに来て欲しいな。そんでお疲れって抱き締めてほしいな。ってのは欲張りすぎか。しばらく長谷部さんとお別れの僕は玄関で靴を履いて、幼稚園で母から離れる小さな子供のように長谷部さんを名残惜しそうに見上げた。



「じゃ、お邪魔しましたー!」



テンションの高い田畑さんの横で、僕は「いってきます」と離れる寂しさを堪えながら部屋を出た。長谷部さんは「おう」の一言だけだった。いってらっしゃい、でも、また後でな、でもなく、おう、の一言だけ。それも悲しい。ドアが閉まって僕は長谷部さんと離れると、無性に長谷部さんが恋しくなった。



「はぁー緊張したぁー」



エレベーターに乗り込むと、田畑さんは大きな溜息と共に疲れ切った顔を見せる。



「緊張、ですか?」



「いやー、長谷部さん怖いんだよなぁ。何回来ても慣れないわ」



そうか、やっぱり、長谷部さんは怖いのか。



「怖いですよね。あの人」



「怖い怖い。パッと見はさぁ、ほら、あんな感じで綺麗な顔してるし、インテリ感すごいけど、ヤクザはヤクザなんだよなー。あの人やってることはそこら辺のヤクザより怖いから…って、ごめん! 気が緩んでつい…忘れてね、忘れて忘れて! 君、今日もあそこに帰るのにね?」



田畑さんは目を丸くして自分の言ってしまった事に焦りを見せるが、僕は「大丈夫です」と一言だけ言ってエントランスを出た。そこら辺のヤクザより怖いなんて、長谷部さんは何をしてるのだろうか。僕の知らない長谷部さんを知りたい。田畑さんの車はマンションの前に停めてあり、僕は後部座席へと座らされた。助手席には大量の書類と僕の横には段ボールが一箱ある。散らかった車内だ。



「借金、どれくらいしてんのー?」



僕が外を眺めていると田畑さんはタバコに火を点けながらそう尋ねた。



「1000万です」



田畑さんは「多っ!」とバックミラー越しに叫んだ。誰が聞いても多いと驚く額だよなと、僕は外の流れる景色を見ながら思った。



「お父さん、蒸発しちゃったんだって?」



「はい」



「ひどい父親だなぁ、まったく。1000万って子供が返せる額じゃないよなぁ。大人だってその金額は苦労するよ?」



「そう、ですよね」



「…あーでもね、智人くん、この仕事わりと楽っていうか、本当にビデオに映ってるだけでお金発生するし、結構周りの人もわいわい賑やかだし、楽しいし、肩の力抜いて、ね? これ選んで良かったと思うよ、返済の手段に。レイプものだってさ、本当にレイプしてるわけじゃないしさ、もう、カメラの外になると、みんな仲良く喋ってたりするし」



「そう、なんですね」



田畑さんは僕を励まそうとしてくれているらしかった。けれど僕の頭の中では、ひとつの妄想が沸き上がっていた。借金を返せなくなったあのクソ親父を、長谷部さんがヤクザらしく殴り殺してしまう妄想。あの顔で、ひたすらに殴り続けて、殺してしまう。勝手に妄想してゾッとした。やっぱり長谷部さんは人を簡単に殺してしまうのかな。ヤクザってやっぱり、銃とか持ってて、何の躊躇いもなく人の命を奪ってしまうのかな。もしかしたら僕はそんな怖い人と一緒にいるのかもしれないよね。もし親父がのこのこ現れたら、長谷部さんは本当に殺しちゃうかな?


ふふ。それはそれで、良いかもな。



「田畑さん、」



「なに?」



「長谷部さんって、どんな人なんですか?」



僕の知ってる長谷部さんは、きっと、田畑さんの知ってる長谷部さんとはまた違う。僕は長谷部さんの全てを知りたい。全てだ、全て。



「長谷部さん、ねぇ。俺もそんなに知らないけどさ、色々と言われてるよ、色々。噂はよく聞くねぇ」



「色々って?」



「賢い人だからその分冷酷で、若い時なんて人を騙すのも陥れるのも殺すのも朝飯前だって噂があった、なーんて聞いた事あるなぁ」



「殺すのも朝飯前、なんですか」



「アハハハ、噂よ噂。あの顔だけど、やっぱりヤクザだからやる事はやってると思うよ」



「そうなんですね」



やることはやってる、よね。そりゃそうか。それが仕事なんだもんな。



「肝も座ってるし、頭もよくキレる。投資とか株とか、俺には未知なんだけど、そういうので金儲けしてるらしいからね。だからその才を羽石(ウセキ)さんに、つまり、あそこの若頭に相当買われててずっと側近らしいのよ。若いのに若頭補佐にすぐなってさ、羽石さんに可愛がられてるから、それを面白く思わない古参は結構いるみたいよ」



へぇ。やっぱり頭良いんだなぁ。あー、てか、その若頭って義昭って人の事だよなぁ。あのビデオの、長谷部さんにとても酷いことした人。羽石 義昭っていうんだ。へぇ。



「長谷部さんって、そんなに怖い人なんですかね」



「まぁ、そうだねー。うーん、君には絶対暴力は振るわないだろうし、怖い事はしないと思うよ。だって君はほら、商品なわけだから。でも長谷部さんは、羽石さんの命令なら何でもするって話。いやね、俺の幼馴染があそこの組員だからさ、色々話聞いてるんだけど、羽石さんに殺せ、って言われたら、何の躊躇もなく人を殺した、って言っててさ。あいつ話を盛る癖あるからどこまで本当かは分からないけど、それでも長谷部さんはやっぱり怖い人だと思うよ」



「へぇー。羽石さんって人、なんか好かないですね」



「アハハハ。まぁ、あそこの若頭だしね。長谷部さんの扱いはあまり良くないかもしれない。でも長谷部さんってさぁ、ほら、アレだから。羽石さんとほら、…うん、まぁいいや。だから、たぶん、ね、そういう事よ」



田畑さんは苦笑いし、話を有耶無耶にする。その笑みが気になって、「何かあるんですか」と訊ねると、「いやぁ…」と濁された。



「長谷部さんとその羽石さんって何かあるんですか?」



僕は確信犯だ。何かある事は十分知っている。だってあのビデオを観てしまったのだから。田畑さんは片眉を上げて少し驚いた様子を見せた。



「えー…なんか智人くんって、本当に子供ぽくないなー。けっこう詰め寄るねぇー」



話しを逸らす気かな。気まずそうにする田畑さんを、さらに追い込むために、「田畑さんが言ったんですよ、だから全て教えて下さい」そう語気を強めると、田畑さんはあちゃーと嘆いた。



「いやー俺もあんまよく知らないんだよ? 本当に」



「はい」



もう前置きは良いよと更に詰め寄りそうになったが、ぐっと堪える。



「あのねー、うーん、俺が言ったって言わないでよ? 長谷部さんは羽石さんの情夫、えーっと愛人って噂があるんだ」



やっぱり、そういう事か。関係は決して浅くないとは思ったけど、あんなヤツの愛人呼ばわりはどうなんだろう。長谷部さんは自分から望んで関係を持ってるのかな。それともあの義昭って人が無理矢理、長谷部さんを側に置いているのかな。



「長谷部さんってさ、かなり稼ぐみたいでさ。羽石さんが手離せないのは分かるよ、それにあの見た目だし。愛人だの情夫だの、言われるような関係なのは、俺もこの業界にいるから否定はしないさ。けど、極道社会じゃぁーご法度じゃないのー? ってね。そりゃぁ他の幹部連中が長谷部さんを嫌うわけだよ。それに長谷部さんの噂って本当にエゲツなくてさぁ、あの人、誰とでもヤるらしいのよ。借金した君みたいな子を家に置くのも、ソレ目的だって言うしさ。だから気をつけてね。あの人、お堅そうに見えて、アッチの方は相当エロエロらしいから」



「へぇ、じゃぁ、頼めばヤらせてくれるんですかねー」



僕は適当にそんな事を言って、ただ外を眺めている。田畑さんは僕の言葉に眉間にシワを寄せ、それから気まずそうに笑った。



「あ、なに、君ゲイだった? だからゲイビ? まぁ、そうだとしても長谷部さんはやめときなー。あの人ロクじゃなさそうだから、それに若頭の色よ、色。やめとけやめとけ、君がゲイならなおさらね」



なんかすごく勘違いされたけど、僕は訂正するのも面倒で、「ですね、やめておきます」と口を閉じた。長谷部さんのアッチの方は相当エロエロ、だって田畑さん言っただけど、本当にびっくりするくらいエロかったよな。普段、あんなに澄ましているのに。冷たそうな怖い顔しているのに。あのギャップ、堪らないよなぁ。


でも、そんな長谷部さんは義昭さんの情夫。僕は若頭だろうが何だろうが、あの義昭ってのが心底嫌いである。それはきっと、長谷部さんがどこか義昭さんを慕ってると分かるから、かな。それに愛人、って事は義昭さんには他に大切な人がいるって事なんじゃないのかな。それでも長谷部さんは良いのかな。側にいたいのかな。やっぱり何をどう考えても、あの義昭って人を好きになる要素がゼロだ。



「あ、てか、これ、絶対誰にも言わないでね!」



「はい、もちろんです」



誰にどう言うんだよ、こんな内容。



「でもまぁ、俺もちょっと君が心配でさ。君の同居人っていうか監視役っていうか、保護者は本当に怖い人だから。ヤクザに見えないルックスだけど、一応ね、長谷部さんってあー見えてヤバイって事は伝えておかなくちゃってね」



「そんなこと言ったら、住みにくくなってしまいますよ」



僕は表情を変えずにそう言うと、田畑さんは「ごめんごめん! 逆効果だな!」と笑った後で、何も言わなくなった。それから十数分ほど車を走らせ、オフィス街の端にあるビルに着いた。白い外壁にはヒビが入っていて、古そうなビルだった。入口のポストには305号室 レインボー企画 と会社名が貼ってあり、田畑さんはココねと指をさした。階段で3階まで上がり、305号室のドアを開ける。表札にはレインボー企画 事務所とある。



「ただいま戻りましたー」



田畑さんがそう言って部屋の中へズカズカと入っていく。1Kのその部屋にはパソコンが数台設置され、テレビや編集機器、撮影用のカメラや、マイク、照明器具、それからエロ本にエロビデオが無数にあった。どの本もビデオも男ばかりでゲイビの事務所という感じがすごくする。


男の人が3人、パソコンに向かってカタカタと何か忙しなく作業をしていた。奥にあるローテーブルを囲ったソファには寛ぐ男が3人、タバコを吸いながら談笑していた。キッチンで話す男がふたり、コーヒーを飲みながら台本を持って話している。



「えーっと、白川 智人くんでーす」



田畑さんはそう部屋の中央で僕を紹介した。



「はじめまして」



僕が頭を下げると、キッチンでコーヒーを飲んでいた男のひとり、シルバーアクセサリーに固められ、派手なシャツを着たロン毛の下品な見た目の細身の男が、僕の前ににこやかに登場する。



「おー来たか来たか新人! 長谷部さんとこのだよな? いやー若いのに宜しくねー! 俺は監督のアンディー松村ね、いやー宜しく宜しく」



笑うと金歯が見えるアンディーさんは僕に握手すると、キッチンにいたもう一人を指さして、「カメラマンの亀井ちゃん」とスキンヘッドにアロハシャツの怖そうな人を紹介した。僕は頭を下げて、アンディーさんに奥へと誘導される。



「ここにいる疲れ切った男3人が編集スタッフの、シンジロウとユースケとマリモね。んで、こっちこっち、えーっと、ここの男優で、今日は共演してもらう服部さん、モンちゃん、キッシーね」



誰が誰だか名前は右から入って左へと流れていった。僕はただ、はじめまして、と言い続ける。共演する3人は僕より年上で、この世界は長そうだ。



「まぁまぁ、じゃぁ、一応説明するからそこ座ってて。今、亀井と打ち合わせ終わったら説明するから、自己紹介なりなんなり、だべっててよ」



僕は服部さんと呼ばれる普通のサラリーマンぽいお兄さんの横に座らされ、「あと、宜しくね」と去って行くアンディーさんの後ろ姿を見た。



「田畑ぁー、智人くんに茶ァ出したら、撮影機材をバンに積んでおけよ。あと、いま大澤が買い出しに行ってるから、帰って来たら一緒に準備しとけよ」



「うぃっす」



僕はただ宙を舞うタバコの煙を眺めていた。隣の服部さんはタバコを吸いながら、少し、気まずそうに僕を何度かちらちらと見ている。その隣のソファに座るモンちゃんと呼ばれていた男の人は、組んだ足の上に台本を置き、僕をじっと見ている。この人はこの中では一番僕と年が近そうだが、体格が良くて顔が厳ついから少し怖い。そして、対面のソファに座っているキッシーさんは、眼鏡越しに僕を凝視していた。 僕は、何か、言った方が良いのだろうか。妙な緊張感のある空気に僕は少しだけ狼狽えているだろう。田畑さんが冷たい麦茶を持って現れ、僕はそれを受け取って、また何事もなかったかのように宙を眺める。



「智人くん、って言ったっけ?」



そう質問してきた眼鏡のキッシーさんは、白いシャツの胸元をはだかせた冴えない中年男性である。



「はい」



返事をすると「長谷部さんのとこの、だね?」と確認される。それに対しても「はい」と答えると、キッシーさんは「それは大変だね」と同情を見せるようだった。



「まだ若そうだけど、いくつ?」



「17です」



僕の言葉に、「わっか!」と驚いたのは隣にいた服部さんだった。「若ぇな、すげぇな」と苦笑いを浮かべたのはモンちゃんさん。



「きっと高い値が付くんだろうねぇ、ホンモノの高校生ってさ」



「裏ビデオって感じしますよねー」



「ねぇ、本当に17なの?」



服部さんの質問に僕は「はい」と頷くと、「なんでそんなどっしり構えてられるのかな?」と困ったような顔で疑問を投げられた。けれどその質問に答えたのは俺ではなくてキッシーさんだった。



「服部さーん、緊張だよ、緊張! こんなとこに高校生が連れてこられてさぁ、マトモな精神保つのが難しいって、ねぇ?」



「そう、ですね」



僕は会話が面倒で肯定した。どの人もみな、長谷部さんのような逞しくて妖艶な美しさがない。僕は心の底から、昨日、長谷部さんとしてきて良かったと思っていた。だってこの人達とセックスする時、長谷部さんとのあの過激な時間を思い出せば、僕はいつだってイけそうだから。長谷部さんは今頃、何してんだろ。



「つーか、ルックス良いっすねぇ」



モンちゃんさんは白い歯を剥き出して驚いたように笑った。どうやら褒めてくれているらしい。



「あ、ありがとうございます」



「背も高いし、意外とがっしりして筋肉ありそうだし、顔なんて普通にイケメンじゃないっすか。目鼻立ち良くて綺麗な顔して、…なんか今日、テンション上がっちゃうなぁ」



テンションを勝手にあげないでくれと僕は内心思った。



「そうだよね、すごい子が来ちゃったって感じがする」



服部さんはタバコの灰をぽんと灰皿に落とした。僕が無言でどう返せば良いのかと考えていると、キッシーさんが「長谷部さんのとこだからね」と笑う。



「服部さんと、モンちゃんは、ユキト君とは一度も共演してないかな?」



ユキト。やっぱりその人の名前出てくるんだ。長谷部さんが寝言で名前を呼んだ人で、色白で華奢で綺麗な、中性的な顔をした人。 長谷部さんと、たぶん、関係を持ってた人。



「ないっすね」



「僕は一度だけあるな。すっごいニュートラルな綺麗な子だよね? 一瞬、女の子かと思うくらい可愛らしい子」



「そうそう、ユキト君も長谷部さんとこの借金抱えて飛ばされちゃった子なんだよ。でもあそこから来る子、みーんな容姿がびっくりするほど良くてさぁ、だから俺なんて、長谷部さんとこの子が来るって聞くとワクワクしちゃうんだわ」



「へぇーそうだったんすね」



僕はモンちゃんさんと同じように、へぇー、と思った。同時に長谷部さんは借金抱えたどの人ともまぐわってたのかと疑問に思った。田畑さんが言ってた言葉が、頭の中に繰り返される。あの人は誰とでもヤる、長谷部さんは本当に望まれれば誰にでも従うのかな。晩飯や朝食まで作って世話を焼いてたのかな。



「智人君、まぁ、そんな感じで俺らはとってもワクワクしてるわけでさぁ、宜しくね、本番」



「はい、宜しくお願いします」



何を宜しくするのだろう。僕はただ彼らのオモチャになって喘いでいれば良いんだろ? つまらないな。とってもつまらない。


けれどこれは長谷部さんのため、そう思うと何だって出来る気がした。会話をしている間にアンディーさんが戻ってきて、一通りの説明を受けた。



「…で、もう、最後はザーメンでドロドロで、それでも乱れちゃってね。最初はあまり、顔にかけないでね、最後はみんな顔でいいから」



無修正の裏ビデオかぁ。一生もんだよね。とはいえ、一般には流通しないゲイビデオ。何処の誰がこの裏ビデオで抜くんだろうな。本物のレイプものだと思って興奮しちゃうのかなぁ。僕はアンディーさんの話しを半分聞き、半分聞いていなかった。内容を理解してる風にしているだけ。さっさと終わらないかなぁ。帰って、長谷部さんとしたいなぁ。僕の頭の中は、相変わらず長谷部さんでいっぱいだった。


撮影現場は、その事務所から1時間ほど車を走らせた場所であった。その間に僕は台本を読み込み、内容を頭に叩き込む。内容は笑ってしまうほどチープだが、一応ちゃんとストーリーや設定があった。現場に着いて服を脱いでいた僕に、アンディーさんが声を掛ける。



「意外とガタイいいんだね」



そう苦笑いを浮かべて僕の体を眺めている。ケロイドの痕はドーランを塗りたくり、どうにかなったが体型は変えられない。アンディーさんの予想では、僕はもう少し細身だったらしい。僕は年齢を偽って肉体労働系のバイトをよくしていたから、ある程度の筋肉はあり、それがアンディーさんのイメージする高校生像とは違うらしい。



「運動は、よく、してたので…」



「そっか、そっかぁ」



少しの気まずさがあった。それでも今更何が変わるわけでもなく、ことは進む。しばらくして田畑さんが僕のところに走って来て2錠の薬を渡された。



「智人君、はい、これ飲んでおいてね」



「なんですか、これ」



「媚薬だよ。たくさんイケるようにね」



なるほど。僕はそれをまとめて水で流し込んだ。効き目が出るのに30分ほどと言われていたが、確かに30分経った頃、誰でも良いから無性にヤりたかった。体が火照るような、下腹部がジンジンと熱くなる感覚に襲われ、息が熱くなる。今この状態で長谷部さんで妄想をしたら、あっという間に果ててしまいそうだ。なるべく長谷部さんの事を考えず、撮影にだけ集中しなければならない。考えちゃダメ。考えちゃ。



「お前、童貞なんだろ? だったらしーっかり優しくしてやらないとな。ほら、ほぐしてやるから、力抜けって」



嫌よ嫌よも好きのうち、って展開は好まれるらしい。僕は散々嫌がって痛みに呻いた。本当は別に痛くもなんともない。そりゃそうだ、昨日、長谷部さんとヤったんだから。でも僕は嫌がり痛がり涙して、しばらくして少しずつ気持ちよくなってきたように体をよじらせ、呼吸を荒くする。嫌だ、やめて、頼む、その言葉を何度も繰り返し、嫌がる清純な高校生を演じてみせた。


乱暴にキスをされ、舌が絡み、唾液が溢れる。卑猥な音が部屋中に響いていた。硬いそれを突っ込まれると、僕は短い悲鳴をあげた。本当は痛くもないのだがこれはレイプだから。



「んぅ…痛い…、やめてくれ…おね、がい…」



えーんえーん。やめてよーう。なんて本当はこれっぽちも思ってない。もっと激しくたって良いけれど、というより、僕があんたの役をやりたい。その方が僕のテンションは上がるのに。そうは思っても、そんな事は望まれていない。誰かが中に挿れ、僕は誰かのをしゃぶり、誰かが僕のをしゃぶってる。あーあ、つまんない。全然美しくないんだもんなぁ。



「あぁっ…はぁっ…」



薬のお陰で無事に何度かイき、しばらくして誰かが僕の頭を掴み乱暴にしゃぶらせた。喉の奥を突かれて、咳込みそうになる。まるで、ビデオに映っていた長谷部さんみたい。あんなに顔をぐちゃぐちゃにしちゃってさぁ。苦しいはずなのに、あの時の長谷部さんさなんで少し気持ち良さそうな顔してたんだろ。



「んんんっ!」



「またイッたの? ダメじゃないか、ちゃんと言わないと…」



長谷部さんのことを考えたら簡単にイケてしまう。僕は少し疲れ、「ごめんなさい、次はちゃんと言う、から…」そう甘えたような口調でセリフを言いながら、またしゃぶり出し、ふと、カメラの後ろ側へと視線を走らせた。そっち側には時計があり、時刻を確認したかったからだ。もう夜中は過ぎているだろう。


スタッフが数名いるテーブルに、デジタル時計が置かれている。案の定、時刻は12時13分。もう、あっという間に夜中だった。休憩は挟んでいたが、長い。疲れた。もうやめたい。そう思っていた矢先だった。奥のドアが開いて、スーツを着た見慣れた顔の男がのそっと入ってきた。僕の心臓は跳ね上がった。脈が速くなり、僕の集中力はどこかへ吹っ飛んだ。それを察知したように、キッシーさんが僕の髪を鷲掴み、「サボっちゃダメだろ」と笑う。


田畑さんが入ってきた男の人に声を掛け、少し会話をすると、また定位置である監督の横へと戻った。男は出て行く気配はなく、僕のことをじっと見つめている。するどくて、冷たい瞳で、じっと。腕を組みながら静かに見ていた。少し乱れた髪をいつも通り軽く後ろに撫でつけると、眼鏡をくいっとあげる。長谷部さん。僕は心の中で名前を呼んだ。


その人は僕は目を離せなかった。長谷部さんは僕と目が合うと、ふっと笑った。その揶揄うような視線を感じながら、僕は自分の欲を呆気なく吐き出した。



「もう、許して下さい…も、やだぁ…イキたくない…んっ…」



それが合図だった。他の演者はその合図を受け取り、僕を仰向けにすると、キッシーさんは中に、服部さんとモンちゃんさんは僕の顔に出した。ゆっくりとカメラがアップになる。僕の醜態が晒される。僕は肩で息をしながら目を瞑った。



「はい! オッケー!」



アンディーさんの叫び声に僕はハッとさせられる。



「お疲れ様でーす、シャワー浴びて下さいねー! あ、何か飲みますかー?」



田畑さんは僕らにタオル地のガウンをかけると、そう言って回っていた。僕は重い腰に手を当ててその場に立ち上がり、そのガウン片手にシャワールームへと向かった。僕は長谷部さんとは目を合わせなかった。



「お前、すげぇなぁ」



シャワーを浴びていたモンちゃんさんにそう声をかけられ、僕は「ありがとうございます」とだけ言って大量のシャンプーで髪を洗う。ギトギトと白い液体は髪に絡みつき、僕は少し苛立った。中を掻き出すのも一苦労。後から入ってきた服部さんは、「お疲れ様だねー」と微笑み、キッシーさんには、「いやー楽しませてもらったよ」と尻を触られる。早く帰りたい。頭の中は帰ることばかり。



「いやー新人とは思えない肝の座り方だよね? もしかして、ビデオ初じゃないの?」



半笑いのモンちゃんさんはそう訊ねる。僕は大量のボディーソープを手に取りながら、「初ですよ」と愛想よく笑ってみせる。



「男同士の経験はあったでしょ? 妙に慣れてたもんね。本当は初セックスじゃないよね?」



モンちゃんさんの質問に他の2人も興味津々と言った顔で僕を見ている。そんなに僕は慣れて見えたのだろうか。



「いえ、本当に童貞でした。ついさっきまで」



その言葉に3人は眉間にぐっとシワを寄せるから、僕はつい可笑しくて笑ってしまう。



「っていうのは冗談です。経験はありました」



僕の白状に3人はだよねーと声を大きくして安堵した様子を見せ、また各々体を洗い始めた。



「もし君が本当に童貞君でビデオも初なら、とんだバケモノが来たと思ったよ」



「アハハ、じゃなきゃ、痛くて無理でしょう」



「ってことは、その感じでネコなのかぁ。いいねー」



「ネコ?」



「受け、って言えば良いかな。女役」



モンちゃんさんはそう言って僕に微笑むが、その笑みがどうも好きになれなかった。なぜかな、なんだか下心っていうか下品な欲望が見て取れたからかな。僕はさっさと泡を洗い流して「別にどっちでも良いんですけどね」とだけ言ってシャワーを止め、「無事に終わって良かったです、お疲れ様でした」と愛想笑いを残して、そそくさとシャワールームを出た。



「お疲れー」



僕は洗いすぎて少し赤くなった体で脱衣所へ戻った。タオルで体を丁寧に拭き、自分の服へ着替える。髪をドライヤーで軽く乾かして、また監督の元へ戻った。



「おー、智人くーん! 良かったよぉ、いやぁーすごく良かった! 演技経験とかあるの?」



「はい、これ、疲労回復のハーブティーだよー」



アンディーさんの横から出てきた田畑さんからハーブティーを受け取り、僕は「いいえ」と短い返事をした。早く長谷部さんの元へ戻りたい。早く時間よ過ぎてくれ。早くここから出してくれ。



「本当に? いっやー、すごいよすごい! みーんな、君に見惚れたわ! 本当にこっちまでムラっときたよー。いやいや、長谷部さん、今回もすんごい子連れてきたねぇ」



アンディーさんは、後ろでタバコを吸っていた長谷部さんにそう満面の笑みで伝える。



「ちゃんと最初から勃ったでしょう?」



「勃ったね! いやー、ユキトん時の初はどーなることかと思ったけど、この子は最初からコレだもんなぁ、売上すごそうだわ。期待してて下さいよー」



僕はユキトさんを超えただろうか。長谷部さんはユキトさんよりも僕を選ぶだろうか。寝言で僕の名前を呼んでくれるだろうか。長谷部さんの中で一番にならないと、意味がない。長谷部さんはふふっと笑うと、「もう帰ってもいいのか?」とアンディーさんに訊ねる。



「おー、いいですいいです。お疲れさま! 次は追って連絡しますわ、それじゃぁ、体休めてな、智人くん!」



僕の初ビデオはどうやら無事に終わったらしい。僕はお疲れ様でした、と頭を下げ、長谷部さんの後ろを歩いた。



「お疲れ」



「無事に終わりましたよ」



長谷部さんからは相変わらず優しい甘いお香の匂いがする。僕はその香りを嗅ぐとすっかり安心してしまうようになっていた。長谷部さんは車に乗り込むと運転手のスーツを着たお兄さんに自宅まで帰るよう伝えた。



「迎えに来てくれるとは思わなかったです」



静かな空間の中で、僕は沈黙を嫌うように言葉を投げた。ずっとずっと会いたかったのだから会話くらいしたい。ずっと、我慢してたのだから。ずっと、長谷部さんを想いながら仕事したのだから。



「遅くなるって田畑から連絡がきたんだ。だったら行ってみるかと思ってな」



「仕事終わりですか?」



「あぁ」



「そっか」



嬉しいですと、口をついて言いそうになった。けれどその言葉を飲み込んだ。きっと嬉しいなんか言ってしまったら、この人は僕と距離を空けてしまう気がした。僕はなるべく、この人を押さないように、でもじりじりと迫りたい。


でも本当は心底嬉しくて頬は緩みっぱなしだった。長谷部さんはそんな僕を見ると、いつものように口角を少し上げて、ふっと笑うと、その形の良い唇の間からタバコの煙をふぅと吐いた。もわもわとその煙は宙を漂った。



「ちゃーんと金になりそうだな?」



長谷部さんは意地の悪そうな、揶揄うような目を僕に向ける。そういえばさっきもそんな目をしていた。僕に、怪しく微笑んだときの目。僕を簡単に殺してしまう目だ。その目を向けられると僕の心臓はどきりとして停止してしまう。頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなる。僕を殺す目だ。



「頑張ったでしょ? 約束ですから」



「あぁ、そうだな」



長谷部さんは人を殺すのも朝飯前だと噂されると田畑さんは言っていた。それが本当だとしても、僕にとって長谷部さんは、この世でもっとも温かくて美しい存在に違いない。


気付けば僕は長谷部さんの隣で深い眠りについていた。長谷部さんの肩を借りて夢を見ていた。とても気持ちのいい夢である。長谷部さんは僕に肩を貸すことを許してくれたわけで、僕は遠慮なく、起こされるまで起きないだろう。


そして目が覚めたの時にはもう陽が高い位置まで昇ろうとしていた。僕は僕の寝室へ寝かされていた。いつのまにか深い眠りに落ちていたらしい。長谷部さんは僕を車から運んでくれたのだろう。起きろと怒鳴って起こす事も出来たのに、しないんだ。長谷部さんは自分の寝室で寝ているのだろうか。僕は眠い目を擦りながら体を起こして部屋を出た。長谷部さんはどこで、何をしてるのだろうか。歯を磨き、顔を洗いながら考えていた。物音はなにもしない。ということは長谷部さんはもう家を出てしまったのかもしれない。


リビングに行っても、長谷部さんの姿はなかった。一応長谷部さんの寝室を覗いてみようか。


長谷部さーん、起きてますかー?


僕はそう心の中で囁きながら、長谷部さんの部屋を開ける。部屋の中は遮光カーテンで閉め切られ、真っ暗だった。開けたドアから漏れる明かりが長谷部さんのベッドを照らし、そこに横たわる人が確認できた。なんだ、いるじゃないか。ベッドの上で横向きに寝ている大きな男は顔をこちらに向けていた。端正な顔は少し長めの前髪で隠れている。長い腕は布団から出され、長い足は布団の中でくの字に曲げられていた。


僕も隣で寝たら怒られるかな。僕はドアに寄りかかりながらない頭で考えた。隣で眠って、あわよくば、って事があるかもしれない。大丈夫、長谷部さんは怒ったりしない。だってこの人は、うんと優しい人だから。僕は静かに寝室に入り、長谷部さんの隣へ潜り込んだ。起こさないように、慎重に、静かに、ゆっくりと、僕は体を倒した。ギシッと軋むベッドの音に、長谷部さんは、「ん」と寝ぼけ眼に声を出した。ばっちり目が合い、僕は「おはようございます」と挨拶すると、長谷部さんは少し間を置いて「おはよう」と返す。



「まだ、寝ますか?」



「あー、今、何時だ?」



「11時過ぎです」



起きませんさー? 僕とイロイロ良いことしませんか。僕、昨日、頑張ったんだから。けど、この人はそう簡単に事を運ばせてはくれない。



「あー…悪いが、もう少し寝かせてくれ。寝たの6時過ぎなんだ」



「そうなんですね。…じゃぁ、僕も一緒に寝ようっと」



「…ん」



長谷部さんは何事もなかったように、目を閉じて、そのまますぐに寝息を立てた。長谷部さんの眠った顔は素晴らしく美しい。そっと頬に触れても、気付かれないだろうな。触ってしまおうかな、触ってしまえ。そう僕は長谷部さんの頬に触れ、起きない事を確認してキスしてやろうかと考えた。唇にキスを落としたいけど、それは少し体勢的に無理がある。だから僕は長谷部さんの目尻に甘く唇を寄せた。あまりやりすぎて迷惑がられるのは嫌だから、僕は目尻のキスだけで我慢した。横に体を倒して、僕も目を閉じた。


起きたら何をしようかな。楽しい事をいっぱいしたいなぁ。そんな事を考えながら心地のいい眠りについた。

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